石橋を叩いて渡って、追いかけて
作者: 立花 みどり
本文
本来は昔から、石橋をしっかりと叩いて渡る性格だ。
職場を選ぶときには時間をかけて下調べをしたし、新しいお店に行くときはできる限り事前に評判を調べる。すこし遠出するときには、行き先の予定を晴れの日と雨の日の両方の場合で立てる。買い物は慎重に。あれこれと買わない。野菜や肉や魚も決まったものばかりを買う。
それくらい冒険はしない。
しないけれど、数年に一度だけ行動力のタガが外れる時がある。
一度目は均等に姉弟で分けたはずの母の形見を姉に全て奪われた時。
どんなに抗議しても返してくれなかった上に、父が姉に甘くて全然頼りにならなかった。 だから腹が立って姉の宝石箱と宝石箱が仕舞われている引き出しを接着剤と板で固めて取り出せないようにした。
奪って返さないのなら二度と拝ませてたまるかという思いだった。
姉は泣き暴れ騒ぎまくった。
家の外だろうが内側だろうが関係無しに私について回って泣きわめき暴れるので、隣人たちが仲裁に入り、詳細を聞いて形見を私のもとへ返してくれた。
姉と父は隣人たちにかなり白い目で見られた。本人たちがそれを気にするかはわからないけど。
二度目は姉が私のお金を奪った時。
掛け持ちで仕事をしてこつこつ貯めていたお金が奪われた。部屋の鍵をこじ開けて金庫も破壊して。まるで強盗のように。
奪った理由はパーティに必要なドレスを買うためだった。⋯⋯親が買えよ。
その上、婚約者探しのためにパーティに参加して、誰ともうまくいかず帰ってきた。人の金を奪ったのだからせめて誰か引っ掛けてきてほしかった。あわよくば姉の手綱を引ける人。そんな人いるわけないけど。
流石にお金を奪う姉とそれを責めない父と暮らしていける気がせず、銀行に預けていた貯金を下ろして、ろくに荷物も持たずに家を飛び出した。
そして三度目がまさに今である。
勢いで家を飛び出しそのまま王都に流れ着いた。努力といくつかの幸運のお陰で王城の隅で事務の仕事につくことができた。
勤務して七年。真面目に働いて、周りからそれなりに評価も貰っている。一人暮らしだってできているし、弟の通学の支援もできた。この仕事にそれなりに誇りもある。
⋯⋯でも限界だ。
「明日、仕事やめよう」
そして、とりあえずどこか遠くへ行こう。
***
私が勤務している場所は王城の西奥にある小さな建物だ。
主な業務は騎士団に関する書類の作成や申請の処理。
備品を確認して足りないものを発注したり、騎士たちから要望を受けて代理で購入も行う。遠征に必要なものを準備したり、会議に参加して議事録を取ったり、王城の文官たちとのやり取りを仲介したり。
まあとにかく、雑に言えば事務全般である。
騎士というのは女性たちに人気なもので、この職場には騎士目当ての職員が多い。
女性比率も高めで、彼女たちは騎士を前にすると闘志に燃え目がギラギラしている。その熱意の一割でも良いから、仕事に向けてほしいと思う。
若い女性職員の騎士目当て問題で、このところ職場の空気は悪い。
私が勤め始めた当初はそんなことなかった。圧倒的に男性職員のほうが多かったのだ。
特に、事務への態度が悪い騎士たちにガツンと言えるような男性職員が多かった。
時にはきつく言い過ぎて、雰囲気がぴりぴりすることもあったけど。そんなときには当時の上司が騎士と事務員を飲みに誘い、仲を取り持っていた。
騎士たちも疲れていたり、時には誤解があるから態度が悪いだけで、酒をともにすれば次の日には和解していた。
男所帯だけれど絆があるような、そんな職場だった。当時は唯一の若い女性職員だった私はそのノリについていけないときもあったけど、とてもいい環境だった。
仕事はフォローし合うし、足の引っ張り合いはないし。いがみ合いもなかったし⋯⋯。なのに今は⋯⋯。ここも一つの戦場と化している。
一年前に、大きな人事異動があった。
前の上司であるルアさんは王城勤務になり、別の上司がやってきた。この新たな上司、ハンクさんが諸悪の根源である。⋯⋯と私は思っている。
ハンクさんはもともとは地方都市の騎士団の事務を担当していたらしい。ルアさんが昇進して王城勤務となったため、空いたポストに飛び込んできた。
ハンクさんの前の職場も男性ばかりだったそうだ。地方は王都よりもやや人手不足気味で、事務員と言えど力仕事も多く、それゆえに採用は男性中心らしい。そこまでは別に良い。地方のよくある話である。
問題はここからだ。
ハンクさんは大の女好きだった。しかも若い女の子が大好きだ。
そして王城の騎士団事務員には力仕事が必要なく、男女どちらも募集している。
するとどうなるだろう。
ハンクさんは自分の職権を利用して、女性職員ばかりを採用した。職歴や経歴を多少無視して若い女の子ばかりを採用してしまったのだ。
騎士は人気だ。女性の応募はとても多い。
職場にはあっという間に女性が増えた。
彼女たちは完全にハンクさんの好みで採用されたために、事務が殆どできない。その上仕事を教えても真面目に学んでくれない。
それはそうだ。
彼女たちは本気で騎士と結婚するためにここに来ている。
若い美貌を武器にして、騎士と結婚し、結婚したらすぐにここを辞めようと思っている。そのつもりで入ってくる。仕事にやる気を出すわけがない。騎士と仲良くなることに全力を注いでいる。
そうなるとどうなるか。
私を含め、一部の真面目な職員や古参の職員の仕事が増える。彼女たちが仕事をしないだけなら良い。中途半端に手を出してミスしたまま進めるから増えるのだ。
当然ハンクさんに苦情を出した。受け入れられなかった。
若い女性への僻み妬みとして扱われた。最悪である。
彼女たちも馬鹿ではないので、ハンクさんが若い女性が好きなことを理解している。仕事はしないが、ハンクさんへのフォローはしっかりしている。
本当に最悪である。
職場の空気は徐々に悪くなっていった。
昔からいる職員たちは裏で団結して頑張ってきた。残業しながら愚痴を吐き合ったり飲みに出かけたりして支え合ってきた。
仲間がいるから、次の人事異動まで耐えようと思っていた。ハンクさんさえどこかへ行けば元の形に戻るだろうと思っていた。
でもとあるきっかけで私のほうが先に折れてしまった。
それはもうポッキリと。
ヘイン・アルベール。
騎士団の中でもとびきり顔が良く、地位もあり、強くて出世株である。
騎士の人気に興味がない私でもその存在を知っているくらいには人気だ。王城に務める事務員や使用人だけでなく貴族の女性たちからも人気らしい。
そんな彼が、あろうことか私に興味を持ってしまった。
なぜ、どうして。意味がわからない。
書類申請は必ず名指しで私を指名し、彼の視界に入れば呼び止めて話しかけられ、食事にまで誘われる。
彼のような存在が自分を好きになるはずがないというのはわかっているけれど、それだけを理由に断るのも難しい。
そうするとどうなるだろうか。
当然女性たちから目の敵にされる。都会の女性のいじめというのはまあまあ陰湿でしつこく悪質なのだな、と学んだ。
***
最初のきっかけは何だったんだろう。
きっかけとかそもそもあったのか。
「マエラさん!経費の書類確認お願いします」
気づけば書類を提出する時必ず私を名指しするようになっていた。
騎士の中でも背が高く、輝く金髪に整った顔はこの職場ではよく目立つ。彼がこの部屋に入ってくれば女性社員はみんな横目で彼を見る。
何をしに来たのか、誰と何の話をするのか。精一杯関心のないふりをしながら、常に視界の端で彼を捉えて耳を澄ませている。
だから彼が来ると妙な緊張感がある。名指しされた私も巻き込まれる。
特に彼に関心があるわけではないのに、周りの神経がこちらに集中するので常に居心地が悪かった。彼は悪くない。彼が美しいのが悪いのだ。彼が指名するのが悪い。あれ、彼が悪いのか?
「わかりました。確認するのでちょっとそこで待っててもらえますか。修正があればここで直してもらったほうが早いので」
「はーい」
彼に名指しされた時点で時既に遅いのだが、それ以上の火種を増やさないように極力事務的に対応する。
受付の横には待機用の椅子があり、彼がそこに座る。座ると何人かの女性職員が彼に話しかける。私はなるべく話を耳に入れずに書類に集中する。
仕事が早くて正確だと先輩に聞いたから、という理由で私を指名するようになったらしいが、その割に毎回書類にはほとんど不備がない。
騎士の割にはきれいな字を書くし、伝えたいことも簡潔に書かれている。
「ヘインさん、よかったら今度私と食事に行きませんか?」
「ごめんね、俺、あんまり話したことない人と食事に行くの苦手なんだ。もう少し仲良くなったら誘ってよ」
聞き飽きた断り文句。この人は毎回これで食事の誘いも断っているし、デートのお誘いも断っている。
相手が貴族であろうとこれだ。本人はそれなりの貴族らしい。だからご令嬢のお誘いも突っぱねている。公爵とか侯爵とかそこらへんの人らしい。身分の詳細を聞くと今後接しづらそうな気がするので敢えて詳細は耳に入れていない。
「書類、問題ありません。最後にここにサインだけお願いします」
「ありがとう、マエラさん!」
話の切れ目を見計らって声をかけたのに、この男が私の名前を呼ぶものだから女性に睨まれた。頼むから私以外の職員の名前も覚えてあげて。願わくば呼んであげてほしい。
「あ、そうだ。今度防具の検査があるので同席してほしいです」
「いつですか」
「三日後」
「その日は私は会議で埋まっているので、別の誰かに、」
「マエラさんが空いてないなら次の日で」
「⋯⋯はい」
この調子なので困る。
しかも本人はあくまで仕事の効率を考えて私に頼んでいるから、断れなくて困るのだ。
騎士団では定期的に武器と防具の点検がある。壊れたものがないか、壊れそうなものがないか騎士がチェックする。
事務員が同席し、廃棄する数と新しく発注する数を記入していく。暗く埃っぽい倉庫、汗の染みた防具の匂いで少し独特な匂いもするので、女性職員からは嫌煙される仕事でもある。
ヘインと一緒の作業であってもこの備品庫への立ち入りは嫌らしい。ヘインと二人きりになる仕事だから変わってくれって言われるかと思えば誰も何も言ってこなかった。
そんなに臭いかな、ここ。
長年居ると慣れきって、嫌がる理由もよくわからなくなる。
「マエラさんは週末何をして過ごすんですか?」
ヘインが検品して、私が記載していく作業。
慣れれば簡単なのでこうして毎回雑談を振ってくる。
「特に何も。掃除をしたり洗濯をしたり、平日分の作り置きをしたり」
「出かけないんですか」
「うーん、用事がないかな。基本家にいる」
「余った時間、家で何をするんですか」
「寝てるよ。というかそもそも起きるのが夕方だから」
「へえ、意外です。週末も早朝に起きるタイプかと思ってました」
「平日の睡眠の負債を週末に払ってるの」
こういう時、この男がもっと嫌味なやつだったらよかったのにと思う。
もっと権力を笠に着て、顔がいいことに胡座を掻いて、私のことを揶揄ってやろうくらいに接してきてくれればいいのにと思う。
会話するとしっかり楽しくて困る。邪険にできない理由の一つ。
「マエラさんと週末会ってみたいです」
「え、会わないよ」
「そこをなんとか」
「どうしてもって言うなら、私が外出する一瞬を捕まえてちょうだい」
個別に会ったらきっと大変なことになる。せめて百歩譲って偶然会ったことにしたい。それでも彼女たちからしてみればアウトな気がするけど。
もしも職場が今みたいな状況じゃなくて、ただの一人と一人だったら。
⋯⋯私は誘いを断らなかっただろうと思う。
でもそうではないし。だから会わない。
***
「マエラさん」
「げ」
「げってなんですか、こんな顔の良い男を前にして」
「顔がいいからだよ」
優秀な騎士の優秀さはこんなところにも出るのか。
週末捕まえてみろ、と言ってすぐに捕まってしまった。
おかしい。
週末外に出なくても良いように、買い物は概ね金曜の夜に済ませておいた。
ほんの、ほんの一瞬だけ。石鹸を買い忘れたことに気づいて外に出ただけなのに。
「捕まえました」
「⋯⋯はあ。捕まったね」
「食事に行きませんか」
「いかない。もう夕飯は作ってあるから。無駄になるからいかない」
「じゃあ家に行きたいです」
じゃあってなんだ。脈絡が無いだろう。
断ろうと思った。というか一度断った。でも食い下がられた。商店街でもこの顔面は目立つ。あまり問答を続ければ、それだけ視線を集めた。
次第に集まる視線を感じて、諦めてヘインを連れて帰った。
一応顔面に布を被せたけど、どれほど意味があるかはわからない。既に顔を見られすぎたし、背が高すぎる。
誰も入れたことのない家にヘインを入れる。
狭くてもいいから安くて職場に近い場所で探したから、部屋の中に一人増えるとすごく窮屈に感じる。変な感じだ。
とりあえず椅子に座らせて、私は夕飯の準備に取り掛かる。この流れだとこの人も一緒に食事を食べるよな⋯⋯。一人分しか用意がない。
どうしようかと思ってヘインをちらりと見ると、意図を汲み取ったのか、手に持った袋から惣菜をあれこれ取り出した。聞けば夕飯を買いに外に出たタイミングだったらしい。
いつもの店で持ち帰りを買った後、帰り際に私を見かけて声をかけたんだそうな。
自分の分があるなら、私もまあそこまで気を使わなくていいか。
予定通り作っておいた食事を温めることにした。
キッチンに立つ私にヘインが話しかけてくる。
「マエラさんのこと、とても尊敬してるんです」
「ありがとう」
「あの、本当に好きなんです」
「⋯⋯」
「あ、聞こえなかったことにしてるでしょ!」
「⋯⋯バレた」
「本気で好きなのに!」
「ありがとう」
どこまで本気かわからないけど。好きと言うならそれは確かにありがとう。
⋯⋯でも、ご飯の準備しながら言うことかな。
作っておいたご飯を並べてもらう。スープは量に余裕があるのでヘインにもよそって渡した。渡すと大げさに感動されてしまった。大したものではないのでやめてほしい。
準備が終わり、ヘインの正面に私が座る。
この家で、食事中に誰かが目の前に居るなんて初めて見る。家に人を入れるのはあまり好きじゃなかったけど悪くない。
⋯⋯顔がいいからだろうか。
誰もが憧れる地位と実力、そして容姿を持つ男がこの狭い部屋の中で熱く自分を見つめていることに現実感が沸かない。
「マエラさんと本気で結婚したいです」
「⋯⋯急だね?」
「もちろん付き合いたいですが。マエラさんは今まで誰とも付き合ってこなかったと聞いてます。もしかして婚約者がいますか?それとも好きな人が?もしかして男が苦手とか」
「多い多い。まあ色々あるのよ。色々」
適当にはぐらかしてみるけど、目の前の男は逃さないとばかりにじっと見てくるので、観念してため息を吐く。
「言わなきゃだめ?」
「激しいトラウマなどなければ聞きたいです」
「ないよ、そんなの。誰とも付き合ってないのは、そんな暇がなかったからってだけ。最近まで仕事掛け持ちしてたんだよ」
「掛け持ち⋯⋯?昼は働いているから夜ってことですか!?ど、どこで!?」
ガタッと音を立てて立ち上がる。焦りすぎなので落ち着いてほしい。
「落ち着いて。別に変な店とかじゃないから。前の上司のルアさん覚えてる?」
「覚えています。怖くて厳しいけどちゃんとしてる人ですよね」
確かに見た目は怖いおじさんではある。
王城に異動してしまった上司。
「あの人のお子さんの家庭教師してたの。三人分。平日の夜は予習して、週末は勉強を教えに行ってたから人と付き合う余裕なんてなかっただけ」
「あの、⋯⋯なぜ掛け持ちを?」
「うーん。話すのは良いんだけど、別に不幸とは思ってないから気軽に聞いてほしいんだけど」
と前置きをすると、ヘインはカトラリーを置いた。そんなに真面目に聞かなくて良い。食べながらでいいよ、と言えば渋々食事を再開する。
全力で傾聴されると逆に話しづらい。
「うちは母が小さい頃に亡くなってて、父と姉がカスなんだよね。で、弟はすごく真面目でいい子なの」
「カス⋯⋯」
「そう。カス。カスだから昔から貧乏で。弟は頭が良くてさ、学園に進学してきて。でも父と姉が資金援助なんてするわけがないから、私がお金を出してたの。そのための掛け持ち。弟は去年無事に卒業したし、ルアさんのお子さんも無事学園に入学したから今はやってないんだけど」
「学校って王都の学校ですか?」
「うん。一応弟は特待生として入学したから金額はそこまでじゃないよ。教科書代とか、文具とか、制服とかそういう経費を出してただけなんだけど」
「それでも、貴族向けだから平民からしたら結構な金額ですよ⋯⋯」
「あ、ごめん、私一応貴族」
今、訂正するところじゃない気がしたけれど。
「貴族といっても、前述の通り親がカスだから本当にギリギリ貴族なんだけど。まあ弟が卒業したから今後に期待だな⋯⋯」
「家名をお伺いしても?」
「ワース子爵家」
「もしかして弟さんは、ジョセフ・ワースですか?」
「知ってるの?」
「頭脳明晰、中性的な顔立ちに優しく謙虚、おまけに第三王子の友人として有名ですよ」
「へえ、そうなんだ⋯⋯?」
姉弟の評判を他人から聞くと変な感じだ。
確かに姉弟の中でも顔立ちはすごくきれいな子だった。昔から弁が立ち、顔がきれいだから父と姉も弟に言われると何も言い返せない。
学園でもうまくやっていると手紙に書かれていたから心配はしていなかったけど、本当にうまくやっているとは。うまくやっている中でも想像を超えている。流石だ。
「というか、詳しいね」
「妹が学園にいまして、ゴシップ好きだったので」
「なるほど」
「弟さんは今は実家に?」
「そうだね。家を整理するってさ。カス二人と、その二人が作った負債とか色々あるから」
「マエラさんもいつか家に帰るですか?」
「いや、帰らない」
断言する私にヘインは首を傾げる。ちょっと口調が強すぎたかもしれない。
「私は家出した身なんだよね。だから帰らないよ。弟も今更帰ってきても困るでしょ」
「マエラさんが帰ってきたら大喜びしますけど、俺が」
「なにそれ」
変なの、と笑うとヘインは驚いた顔をした。
笑うのは久しぶりかもしれない。
「ねえ、本気で好きです。結婚を前提に付き合ってください」
「⋯⋯話聞いてた? 私はそのうち貴族ですらなくなると思うよ」
弟には、二人を整理するついでに私の籍も抜いてしまって構わないと伝えてある。
「話は聞いてました、もっと好きになりました。好きです」
「うーん」
「なんで悩んでいるんですか」
「考えたこともなかったから」
「じゃあ、考えてください。俺、もうすぐしばらく遠征に出るんです」
「うん」
知ってるよ。そのために備品確認したものね。
「帰ってきたら、その時返事を聞かせてください。でも承諾する以外の返事は聞くつもり無いです」
「なんだそれ」
考える時間与える意味ある?
そう思うと、また笑ってしまった。
***
ヘインは食後に少し会話して、健全な時間に帰っていった。「好きだけど手を出すのは絶対に違うから、何もしませんけど、好きだから何もしないだけですからね」と五回くらい言っていた。
必死過ぎてまた笑ってしまった。
こんなに笑うのは随分久しぶりだ。
思ったよりも悪くない時間を過ごしてしまった。
「⋯⋯結婚ねえ」
正直、近頃はもう諦めていてそれについて何も考えていなかった。
弟が無事に卒業したら、なんだか達成感に包まれて、次に何かをしようという気が起きなかった。
弟からは、これからは自分のためにお金を使ってほしいとか、家の整理が終わったらお礼をさせてほしいから会いたいとか、手紙でいろいろと言われた。
家を飛び出してから、実は弟とは一度も会っていない。
勝手に家族に耐えられなくなって、まだ幼い弟を置いて家を飛び出してしまったから。罪悪感で会えないままでいる。
学費を援助するときも手紙でしかやり取りをしていない。何度か会いたいと言われたけど、その都度はぐらかしてきた。
弟が家に戻って暫く経つけど、まだ籍を抜いたという報告は貰ってない。
数年以内に抜いておいてくれればいいと思う。
仮に子爵家に席をおいたとして、貴族として結婚するには随分年を取ってしまっている。政略結婚の足しにもならないだろう。
平民になったとしても、恋愛する気が起きない。誰かと始めましての状態から、少しずつ会話を重ねて、両思いになって結婚する。
そんな複雑な手順を踏める気がしない。
だったら一人で良いかなと思っていた。
今のところ一人で不便はない。快適なくらいだ。歳を取ったら一人で居ることに困るだろうか。そしたらその時考えれば良い。適当に死んだって良いと思っていた。
そんなところに騎士団の人気株からの告白。
冗談だろうと笑い飛ばすにはいささか瞳が真っ直ぐすぎた。
遠征は三ヶ月。
三ヶ月後自分はどうなっているだろうか。ヘインと隣に並ぶ姿を頑張って想像してみる。
一瞬二人は並んで街を歩いたけれど、すぐに男の姿は消えて、独り身の女だけが残った。これが今までの私の姿。
私はこれしか想像ができない。
***
二ヶ月後。
「退職します。これは退職届です。今までありがとうございました。あとお忙しい所すみませんが、今すぐ紹介状だけ書いていただけますか。今すぐ」
ヘインの告白に思いを馳せるどころか、私は退職しようとしていた。もう吹っ切れてしまったので目の前の上司に圧をかけて紹介状を書かせる。
お前のせいで辞めるのだからお前は紹介状を書くべきだという圧をかける。この圧は正確に本人にも伝わったようで、冷や汗をかきながら紹介状を書いてくれた。
ありがとうは言わない。言ってたまるかクソ野郎。
荷物を回収し、今まで私を庇って時には一緒に戦ってくれた同僚たちに挨拶と別れの品をプレゼントする。お互い手紙のやり取りをすることを約束して、私は長年働いた王城を後にした。
ヘイン、ごめん。本当にごめん。ちょっと限界だった。すまん。
ヘインに聞かれたら辞めた経緯を話してくれて構わないと同僚には伝えておいた。将来有望な男だから、居なくなった年上の女のことは忘れて、いい子と一緒になってくれることを願う。
あれから二か月の間、何があったかというと、端的に言えば職場の女性陣からめちゃくちゃにいじめられた。
町中でヘインと出会ったところを誰かに見られていたらしい。
次の日には職場の全員が知っていた。たまたま出会っただけだと弁明しても、職場以外で親しくしたら彼女たち的にはもうだめらしい。
もう片方の当事者であるヘインは遠征に出ており、自分で弁明するしか無いのだけど、この場合私の主張を誰が信じるだろうか。
昔からの同僚たちは、私のことを理解してくれているし、そもそも仕事にそういった私情は持ち込まないので大丈夫だったけど。いかんせん女性たちの怒りは凄まじかった。
というか上司が止めないのだから悪い。
あからさまに無視されたり、私の使っているものを壊されたり、デスクをめちゃくちゃにされたり、すれ違いざまにつねられたり、よくそんなに思いつくなと感心するくらい色々やられた。
お陰で会社に置いていた私物は全て持って帰ることになった。備品以外は壊されたり盗まれるから。通勤の荷物が増えて面倒だった。
自分の精神はそんなに弱い方ではないけれど、別に強くもない。強かったら弟を置いて家を飛び出したりしていない。
二か月の間に順調に私の忍耐力は削られていった。ごりごりと。勢いよく。
なんとか彼女たちの無視にも慣れ、攻撃を躱し、仕事は毎朝散らかされたものを片付けることから始め、憂鬱な気持ちをなんとか励まし続けて二か月が経とうという頃、
会議で席を外している間にデスクが水浸しになっていた。
王城の文官たちとの打ち合わせには、私を含め古株のほとんどが参加している。だから職場に残されたのは彼女たちとなんの抑止力にもならない上司だけ。
デスクには私物を盗まれないように鍵をかけていたのだけど、隙間から水を流し込まれてしまい、すべてが水浸しになった。
攻撃力として、そこまで強いかと言われると微妙だとは思う。でもそれまでに積み重ねられた精神攻撃の負債により、そこで心がポキンと折れてしまった。
「明日、仕事やめよう」
思わず呟いた。
多分隣にいた同僚にも聞こえていた。でも彼は何も言わずに私の背中をぽん、とだけ叩いて片付けを手伝ってくれた。
次の日、私は同僚に配る焼き菓子だけを持って出勤した。一度行動すると決めると何故か強気になるクセが有る。何も怖いものはないと上司に詰め寄り、その日仕事を辞めた。有給が残っているから正確に席がなくなるのは来月になるけど。
前の上司であるルアさんにも挨拶をした。急な退職になって申し訳ない、今まで面倒をたくさん見てもらったのに耐えられなくて申し訳ないと伝えた。
ルアさんはむしろ気づかなくてすまない。こうなるまで何もできなくてすまない、と謝ってくれた。相変わらず顔はいかついのに優しい人だ。
今後どうするんだ、と聞かれとりあえず旅行でもしながら気に入った土地が見つかったら引っ越そうかと思うと伝えると、おすすめの旅先を色々と教えてくれた。
土地が決まったら必ず手紙を書いてほしいと言われた。みんな思ったよりも私との交流を続けようとしてくれてすごく嬉しかった。
身一つで王都に来たけれど、大事なものをたくさん作れたんだなあと思う。
退職宣言をした次の日、私は馬車に乗って南部を目指していた。私の実家は北部寄りだから北以外の場所に行こう、ということだけは決めていた。
南部は海があるから見てみると良いと言われた。
海、というものは本で見たことがあるけど、実際に見たことがない。すごくたくさんの水があって、波があって、しょっぱいらしい。楽しみだ。
途中の大きな街を経由しながらのんびりと目指した。
弟の学費支援をしながらこつこつ自分の貯金も貯めてきた。家を飛び出してから、誰にも奪われる心配もなく貯金できると思うと楽しかった。お陰で一年くらいはのんびりしても問題ないくらいの貯金がある。
今まで稼ぐことを目的に生活していたから、日を跨ぐような旅行なんてしたことがなかった。
一人で旅行しても仕方ないかなと思っていたフシもある。なんとなく旅行というのは家族や恋人とするものだという思い込みがあった。
実際やってみると全然そんなことはない。一人でも楽しい。
大きな街道沿いを昼間に進めば女性でも安全に移動できる。馬車には私と同じく一人の女性も何人かいた。
移動距離が長いときは出会った人とおしゃべりしながら、気が合えば街で一緒に夕飯を食べたり、故郷について教えてもらったりした。
騎士たちが色んな場所に遠征するから、なんとなく国内の主要都市の位置と行き方は頭に入っている。
道中で出会う彼らの故郷はもっと小さな町や村で、初めて聞くような話がたくさんあった。自分の知らない場所の話を聞くのは楽しい。
特に自分は土地が貧しい地域出身で、地元には作物の育ちにくい畑と寒さの厳しい山しかない。
だから、大型の動物が出るほどに深い森だとか、人魚が出ると噂の湖だとか、かつて竜が住んでたと言われる山だとか、そういう話は新鮮だった。
気になって道中の書店で各地の伝承を集めた本を買ったくらいだ。
北部地域には魔物の噂があるだけで、人魚だとか妖精だとか竜だとか、そんなキラキラした噂はなかった。だから興味が湧いてすぐに読んでしまった。
実際に見た人が居るわけじゃないから、かつて、いたとされる、レベルの物語ばかりだったけど、それでも旅のお供としては十分だった。
そんなこんなで数週間。
「おお、海だあ」
ついに南部にたどり着いた。
第一印象は快活。
海産物が多く取れる上に、国外への船が出入りしているから商業が発展している。市場は大きくて見たことのない食材がたくさん並んでいるし、どれも美味しそうだ。異国の布や雑貨や本もあって見ていて飽きない。市場をのんびりと歩いていると大体話しかけられて、引っ越し先を探して旅行していると言えば、地元民おすすめのお店や観光地をあれやこれやと教えてもらえた。
一度には覚えられないのでメモを取り、一つずつ回っていき、回った先で話しかけられてさらにおすすめされる、という奇妙なイベントをこなしていた。
船で色んな国の人が入ってくるからなのか、全体的にみんな気さくでよく声をかけられた。
三人の子どものお母さんにやたらと心配されて夕飯に招かれたこともあった。気さくすぎて笑ってしまったけれど、後々聞くところによれば、海沿いということもあり若い女性が失恋の末に身投げしに来ることがあるらしい。
「あなたは悲壮感がなかったから大丈夫だとは思ったんだけど、一応ね」と自殺防止のために声をかけて夕飯に招いてくれたらしかった。
ああ、だからみんな声をかけてはいろんなおすすめとか明日はこれをすると良いって言ってくれたのか、と腹落ちすると同時に街全体で自殺防止されてたのかと思うと、不謹慎かもしれないけど笑ってしまった。全然死ぬ気ないのに。
そんな親切な雰囲気が気に入って、この街に住むことにした。何よりご飯が美味しい。ご飯が美味しいと元気が出る。
この街なら、きっと陰湿ないじめが発生しても親切な誰かが大声を上げて助けてくれそうな気がした。
***
「マエラさん、この書類のチェックお願いします」
「はい」
仕事は呆気ないほどすぐに見つかった。脅して書かせた紹介状は出る幕がなかった。
仕事を探し始めた頃、求人票の掲示板前でたまたま夕飯に誘ってくれたお母さんーーエリーさんと再会したのだ。求人を出す側と働きたい人を繋ぐお仕事をしているらしい。いわゆる職業紹介所というもの。
私の姿を見つけてすぐに声をかけてくれた。
別室に通され、王都でしていた仕事、辞めた経緯、できること、できないことなどを話すと、領主さまの屋敷の仕事を紹介された。
領主さまはすごくいい人で、南部の良いところを伸ばしてくれる人だけれど、当主になる際に身内でいざこざがあり、屋敷に信用できる人がいないらしい。
南部に親戚がおらず細かい書類作業に向いている人を探してるのだとか。
確かに長年事務をやってはいたけれど、領主の仕事なんてやったことはないしどうせ落ちるだろうと思いつつ、エリーさんの熱意に負けてダメ元で領主と面会した。
そしたらその日に採用が決まってしまった。ちょっと話しただけなのに。
展開に一番ついていけなかったのは私だ。
宿に泊まっていて、まだ家もないのだと言えば、ちょっと偉い立場の使用人が管理する賃貸を紹介してもらえた。その上、王都でまだ契約が続いている部屋の解約と引越の手続きまで代行してもらえた。
こんな幸運があっても良いんだろうか。
王都で仕事を見つけたときもそうだけれど、仕事を見つけるときの運だけは我ながらすごい。
借りた部屋は王都の時よりも賃料が安くてずっと広い。
引っ越しで荷物をすべて持ってきたけど、家が広いから物が少なく感じる。何か家具でも買い足したほうが良いかしら。いや、でも家に人を呼ばないしな⋯⋯一旦保留にしよう。
旅の道中で気に入った各地の伝承の本を集めて、寝室の本棚へ並べた。現実味のない物語は眠る前に読むのにちょうどいい。
新しい職場は領主さまと補佐、古くからお仕えしている事務員ばかりだ。若い人は男も女も居ない。王都での経験が思ったよりも心の傷になっているのか、その事実に安心している自分がいる。
領主さまは公平で、優しい人で、職場環境にも常に気を使ってくれる。外部から来た新米の私の精神面にも特に。
もしかしたらエリーさんから色々聞いているのかもしれない。
この街でならば、長くやっていけそうだ、
なにか問題が起きても、誰かがきっと助けてくれる、そんな確信もあった。
私はすっかりこの南部の街を気に入っていた。
⋯⋯気に入りすぎて、新しい生活に馴染むのに必死で、王都に置いてきた問題を一つ、完全に忘れていた。
いや、これに関して言うと忘れていたというか王都を出るときに終わったと思っていたんだよ。
だってヘインは実は婚約者がいるんだとか、帰ってきたら付き合う予定の人がいるんだとか、毎日のように言われて、お前みたいな年上と付き合うわけ無いとか言われたらそりゃそうか、ってなっちゃったんだよ。
あの日の会話も日にちが経つにつれ、もしかして気の所為だったかもって気がしてきちゃったんだよ。
気の所為じゃなくても、私が居なくなったらそれはそれで受け入れてきっと新しい誰かを好きになるだろうって思っちゃったんだよ。
だからさあ。
「マエラさん、見ーつけた」
まさか領主さまのところに私を探しに来るなんて思わないじゃない。
しっかり追いかけてきて、壁際に追い込まれるとは思わないじゃない。
今日はお客様が来ると聞いていたから、執務室で作業に没頭していたはずで。
何なら今も仕事中で、過去の災害対応時の記録を確認したくて、執務室内の本棚を漁っていたところだったのに。
執務室の扉が開く音がしたから、領主様か使用人の誰かが来たんだなって思ってた。
まさか背後からそんな言葉をかけられ追い込まれるとは。
悲鳴をあげなかった自分を褒めたいくらいだ。
後ろを振り返ると思ったよりも至近距離にヘインが居た。相変わらず顔がいい。約半年ぶりくらいだろうか。
騎士姿ではなく、貴族の格好をしているから新鮮だ。顔がいいからキラキラして見える。そうだ、この人は確かどこかの貴族の令息と言われていたな。
今日は令息として領主様に会いに来たんだろうか。何かつながりのあるお家なのかな。
見上げるとにっこりと微笑まれた。
でも、この状況でのその笑顔はいい意味ではないんだろうな。
「どうも、⋯⋯ご、ご無沙汰してます」
「うん。ご無沙汰してますね」
「⋯⋯」
「⋯⋯」
だれかこういう状況での適切な話題を教えてほしい。とても気まずい。なんと話すべきだろうか。
冷や汗が背中をたらりと流れていった。
「えっと、」
「マエラさん」
「うん」
「抱きしめてもいいですか」
「⋯⋯え??あ、はい」
攻めるような言葉が来るかと思ったら、言われた言葉は予想外で思わず承諾してしまう。返事をするとすぐに長い腕がぐるりと自分の体に巻き付き、思い切り目の前の身体に引き寄せられた。
勢いが強くて、胸にぶつかり「うぇ」と変な声が漏れる。
でもそれを気にする様子もなく、ただじっと抱きしめられた。
「⋯⋯もしかして、私のこと探した??」
「当たり前です」
「⋯⋯ごめん」
「いえ、俺のせいみたいなところもあるので、謝らないでください。あー、会えた。よかったぁ。ほんとにいたぁ⋯⋯」
「誰かから聞いてきたの?」
「マエラさんの同僚と元上司に毎日頭を下げてなんとかヒントを貰って来ました」
「あ、なるほど」
「辞めた理由も聞いてます。すみません、俺が軽率でした」
「や、君は悪くないでしょ」
「いえ、もっと色々できることがあったはずなので」
「それで言えば、別に私も最善を尽くし続けたわけじゃないから」
本気であの職場に残り続けたいと思ったなら、諦めずに戦ったと思う。大変ではあるけど、証拠を集めて、上司よりも上の人に訴えて、騎士団の人にも協力してもらって、それなりの貴族にも相談して、みたいなことは頑張ればできた。
でもそれをせずに辞めることを選んだのは私だ。
「もう、会えなかったらどうしようかと」
「大げさな」
「大げさじゃないですよ。もし誰も居場所を知らなかったら、家の力を使って国中を探すつもりでした」
「えぇ⋯⋯?本気じゃん」
「本気ですよ。騎士団も辞めてきました」
「⋯⋯えっ!?」
ここで初めて大きな声が出る。
騎士団を辞めた!?
「もともと数年で辞める予定でした。実績を得るためにいただけなので。騎士団に在籍したままではマエラさんのこと探しづらいし、あいつらを粛清しづらいしってことで、一旦辞めて、今は家の、侯爵家の騎士団に居ます」
「えぇ⋯⋯?」
「マエラさんを追い詰めた人たちはもう王城にはいません。もっと早く辞めて追い出しとけばよかった⋯⋯。そうすればマエラさんは仕事を辞めずに済んだのに」
「それはいいって。今の生活気に入ってるから」
「本当ですか」
「うん、今まで王都と北部しか知らなかったから。ここまで来る道中も楽しかったし、この街に来てからも楽しくやっているから。あんまり自分を責めないでいいよ」
「マエラさん」
「はい」
「⋯⋯結婚しましょう」
「⋯⋯今言うこと??」
「今というか、常に言いたいです」
「んふ、どういうこと」
ーーガチャ
「おい、そこのデカブツ、うちの使用人を離せ」
「ちっ、なんだチビスケ、もう少し空気読んで来いよ」
「空気読んだから早く来たんだろ。マエラさん、大丈夫ですか」
「あえ、大丈夫です」
領主様は部屋に入ってくるなり私たちのところへ近づいてきて、べり、とヘインを剥がす。この無遠慮さ、先程の会話から察するに二人は知り合いなのかな。
「ああ、えっと、俺達は学園で同級生だったんです」
「なるほど。だから仲良しなんですね」
「仲は良くないですよ」
「仲良く無いと無遠慮な物言いはできないですよ」
そう言うと二人ともなんとも言えない表情を浮かべる。初めて見る表情だ。
「マエラさん、ヘインをストーカーとして遠ざけることもできますが」
「いえ、大丈夫です」
「こいつ、学生時代からあなたのこと追いかけてますけど」
「おい、余計なことを言うな」
⋯⋯学生時代から???
本当に?という意味を込めて見上げれば、ものすごく気まずそうな顔で「後で話します」と言われた。後で会話する約束ができてしまった。
「マエラさん、今日はもう上がっていいですよ」
「え、」
「そいつと話をしてあげてください。でも少しでも嫌なことをされたら、すぐに屋敷に避難してきてくださいね」
「あ、はい」
手元に持っていた資料ファイルを領主様が取り上げる。今やっている作業の軽い共有だけを済ませて、退勤することになった。
横には当然のようにヘインがいる。
この人、どういう手順を踏んで、誰に根回ししてここまで来たんだろう。
謎すぎる。
当の本人は上機嫌に私の手を握った。
「マエラさん、行きましょう」
いや、どこに。
心の中で突っ込んだだけだったけど、握った手を通して伝わったらしい。俺が泊まってる宿です、と言われた。
そして何もしませんから、とご丁寧に付け加えられた。
言われなくとも君が無体を働くなんて思ってないよ。
黙って腕を惹かれて宿まで歩く。
この街でもヘインは目立つらしい、道中色んな人から見られた。でも王都とは違って、もう顔を隠してしまおうとは思わなかった。
この街では誰もヘインを知らないし、誰も私を妬みはしない。むしろ腕を惹かれている私を心配するような視線すらある。この街の人達は正しくおせっかいだ。
だから誤解されないように、私もしっかりとヘインの手を握り返すことにした。掴まれていた手を腕から離し、改めて指を絡める。
ヘインは一瞬こわばったけれど、私を受け入れた。
これで誤解は防げるだろう。
街で一番豪華な宿に連れて行かれる。部屋は当然広くて豪華だ。当然なれなくて、とりあえずソファの隅に座る。
なんとなく成り行きでついてきたけど、これ以上何を話せば良いんだろうか。ここに来た経緯をヘインは知っているし、お互いの謝罪は先程済ませた。
だとすれば、何を話せば良いのか。わからなくて、とりあえず沈黙を選ぶ。
「マエラさん、慎重派でしょ」
「え?」
急に、なに。
「何かを選ぶときは、いつも選んでいるものを選ぶ。新しい選択肢が出てきたときは、ものすごく念入りに調べる」
急に自分の性格を言い当てられる。
「そうだね」
「だからきっと俺の結婚に対しても慎重だ」
「⋯⋯そうだね。今まで選択肢になかったし」
「結婚が?俺が?」
「どっちも」
どっちも考えてなかった。というか結婚について考えていなければ、ヘインのことなんてまず考えない。
「どれくらいでさ、マエラさんの中の審査通りますか?どれくらい待てば結婚してもいいって思ってもらえる?」
「⋯⋯ど、れくらい、だろう」
「俺は待ちたい。審査落ちたら、再申請もしたい」
「通るまで?」
「通るまで。前も言ったけど、俺はもうマエラさんと結婚するって決めてるから」
「⋯⋯学生の頃から?」
聞けば顔を赤くしてそらした。
いつだってまっすぐ見つめてくる彼にしては珍しい反応だ。
「ごめん、どこかで会ったことある?」
「いや、んー、俺が騎士団の見習い試験を受ける時、マエラさんが試験官の一人でした」
「結構前だね?」
「覚えていますか?」
「どうかなぁ、試験官に指名されたのは突然で実は緊張してて記憶が曖昧なんだ。記録見れば思い出しそうだけど」
「マエラさんは変わらないんですよ」
「どういうこと?」
あの頃はたくさんの騎士になりたい子を面接していて、そのうちの一人と言われても正直思い出せるか怪しい。
王都に置いてきた記録を読みたい。あれがないと思い出せない。
「⋯⋯俺は侯爵家の生まれで、姉弟の中でも顔の作りが良くて、加えて頭も悪くなければ運動の才能もありました」
「うん」
うんうんと必死に思い出そうともがく中、ヘインの過去が始まる。
「幼い頃から男も女も寄ってきました。別に嫌になるほどってわけじゃないけど、こいつは下心があって俺に近づいているなって分かるようになりました」
想像もできないけど、これほど才能に恵まれたらきっとそうなんだろう。
弟にも昔はよく人が群がっていた。
悪意のある人から守るのは、いつも私の役目だった。
「貴族社会は、特に王都の貴族社会は、広いように見えて狭いです。俺が侯爵家の子供で、顔も良ければ才能もあるというのは、みんなが知っていました。するとどうでしょう。みんな始めから先入観を持って接します。優秀なんだろうな、とか、こいつと仲良くしておくと得だろうな、とか、嫡男ではないが血縁を大事にする家門だから結婚して損はないだろうな、とか。そういう前情報を持って、しかもそれを信じて俺に近づいてくるんですよ」
「そうなんだ」
「自分を紹介する必要がなくなるので、楽といえば楽です。でも、すごく疑心暗鬼になります。俺の持っている何かが欲しくて近づいてくる人がほとんどでしたから。まあ貴族はそんなもんだと言われていたので、いじけるほどじゃなかったですけど」
「うん」
「純粋に、立場や才能を抜きにして俺と仲良くしたいと思う人はいませんでした。それが少し寂しかった」
そう語るヘインの横顔が本当に寂しそうで。思わず手を握る。
ヘインは私の手をさらにもう片方の手で握り、微笑んだ。
「でも、そんな中でマエラさんに会いました。学生のうちから見習いとして騎士団に入ることにしたんです。学園での生活が正直、うーん、鬱陶しくて」
「鬱陶しい?」
「はい。同じ学年に王族はいましたけど、ほとんど学園に来ないから、実質学園で気軽に捕まえられる高位の令息が俺だけだったんです。だからみんなが寄ってきて。まあ恩を売ろうとみんな親切にしてくれるからいいんですけど、全然一人になれないんですよ。それでちょっと暑苦しいなと思って、別の世界を持ちたくて騎士団へ」
「なるほど」
「騎士団は年上の人が多いし、地位と言うよりは強さが優先されるから、あの頃の俺にはちょうどよかったんです。⋯⋯で、面接でマエラさんと出会いました。マエラさん以外は俺がどこの誰か知ってたんですよ。特に実技の方は。一応テストは受けましたけど、最初からお前なら大丈夫だろって感じで。ここでも俺は事前に知られてて、俺自身を披露する機会がないなって思ってたんですが、マエラさんが、すごく、俺を疑ってたんですよ」
「え???」
「俺のことを知らないから、こんなに若いのにどうして騎士団に入るのかとか、実際に戦ったことはあるのか、とか、痛いことや苦しいことがあるけど本当に耐えられるか、とか、身体動かす以外にも地味なこともたくさんあるけど大丈夫か、とか。本当に騎士団に入って耐えられるのか、ものすごく疑った表情をしてました」
「⋯⋯」
覚えていない過去の自分の話を聞くのは少し気まずい。そんなことしてたんだ。
あぁ、話を聞いていたら少し思い出してきた。
そもそも私は面接担当なんかじゃなかった。
その当時、入団したての騎士たちが立て続けに「思っていたのと違う」と言って辞めていくという事象が起きていた。
原因を話し合ううちに面接で見抜けないのが悪いんじゃないかということになって、一時的に面接官の入れ替えが行われたのだ。
だから面接を担当している間は、この人は本当に大丈夫なのかすごく疑っていたんだと思う。
⋯⋯でも面接受けた側の話を聞くと、すごく無礼な試験官に聞こえるな。
「マエラさんは俺が本当に騎士団に耐えられるか心配してました。確かに今よりももっと身体は細かったし背も低かったですから。他の大人の騎士に比べれば貧弱に見えたと思います」
「確かに、それは心配かも」
騎士たちは優しいけど、荒っぽいところもあるから。
「そうやって僕の立場が何であるかを知らないまま、僕を疑い、心配する姿に惹かれました」
「⋯⋯変わった理由だね?」
「きっかけは確かに変わってるかもしれませんね」
でも、とヘインは続ける。
「マエラさんは俺が貴族の出身だと知っても態度を変えませんでした。相変わらず後輩扱いだし、敬語は使わないし、媚びてくるようなこともしなかった。仕事で二人きりになっても全然僕の見た目に興味がなくて、でも俺との雑談には付き合ってくれる。そんな、普通の人みたいな付き合い方は初めてでした。すごく楽しかった。相手の下心を感じずに会話できるのが嬉しかったです」
「⋯⋯うん」
「どんどん好きになって、食事に誘ったりしても全然乗ってくれなくて、それでまた好きになって大変でした」
「うん」
「俺、遠征から帰ってきたら本気で攻めるつもりだったんです。なりふり構わず、マエラさんの好きなもの、嫌いなもの、全部調べて、囲ってしまおうって思ってました」
「⋯⋯おぉ」
侯爵家の人が言うとなんとなく洒落にならない規模感のような気がする。囲うってなに。一体何をしようとしたんだ。
「でも遠征から戻ったらマエラさんは居なくなってて、親しい人に聞いても教えてもらえなくて、お前のせいでもあるとも言われて」
「それは、」
「とりあえずどこかで元気で暮らしているということだけを教えてもらって、じゃあ時間をかけてでも絶対見つけるって思いながら、騎士団を辞めて、侯爵家に戻って、騎士団の現状を修正して、マエラさんにひどいことをした人たちに忠告をして、毎日同僚とルアさんに頭を下げて、そしてやっと居場所を教えてもらえました」
「色々させちゃったね⋯⋯」
面倒になって出ていって楽しく過ごしていただけなのに、ヘインが必死に探してくれたのか。少し申し訳ない。
ごめんね、と謝ればそのまま引き寄せられて抱きしめられた。
「⋯⋯結婚してください。本気で好きです」
「⋯⋯こ、恋人からかな?」
慎重な私は、ここまで熱烈に告白されても「はい」とは言えなかった。
でもそれでも十分らしい。
ヘインは私を抱えると、そのままぐるぐると部屋を回って喜んだ。
***
その後、どうなったかと言えば。
最終的には結婚した。
領主様と侯爵家の領地は隣同士らしい。お互いの職場の中間地点に住めばギリギリ職場に通えないことはない、という距離だったので家を借りて一緒に住み始めた。
一緒に住み始めてようやく、こいつは私のことが本当に好きなんだ、と信じることができた。
四六時中私にくっつき、世話を焼き、手伝い、甘やかし、甘えてくる。そこまでやられたら流石に信じざるを得なかった。
加えて常に私の慎重さを尊重してくれる。
一緒に住み始めて一年後、お互いの家へ挨拶をした。侯爵家への挨拶はそれはそれは緊張した。でもすごく歓迎された。
どうやら出会ってから今まで私に関する相談やのろけを全て手紙に書いて送っていたらしい。会ったのに初めてな気がしないと言われた。私からしてみれば全員はじめてなのに。
それから。弟にも会った。
ヘインが調べてくれたことによれば、実は私はまだ子爵家に席をおいたままだというので、ものすごく勇気を出して二人で私の実家へ行った。
事前に手紙を出せば、弟から屋敷の場所が変わったと言われた。手紙にはカス二人のことは書かれていなかったのでドキドキした。
正直、弟は自分に対して良い感情を持っていないと思っていた。
小さい頃はよく面倒を見ていたけれど、突然家出して帰ってこないかと思えば、急に連絡してくて学費を出すとか言い出す姉なんて。王都にいた頃は会いたいと言われても会わなかったのに急に帰ってくるし。
我ながら結構勝手だと思う。
当然会えば籍を抜く方向に話が行くと思っていた。
「姉さん!!!」
だから会った瞬間走り寄ってきて抱きついてくるのは完全に予想外なわけで。
受け身も取れずに後ろに倒れようというところで、ヘインが支えてくれた。さすが騎士、成人二人が倒れてきてもびくともしない。
弟はというと、⋯⋯泣いていた。
ええ、な、なんで。
「ジョセフ、なんで泣いてるの」
「泣かないわけないじゃないですか。お元気でしたか。学園を卒業してからはろくに連絡もなく、ようやくカスを片付けたから姉上にご挨拶に行ったら王都にはもう居ないとか言われた僕の気持ちがわかりますか。姉さまだけが唯一の家族なのに!」
「ご、ごめん⋯⋯」
自分が思っていた温度感と違う。
なんかもっとこう、「僕を捨て置いたくせになんで今更帰ってきた!」みたいな感じを想像していた。想定外過ぎて素直に謝ってしまう。
「⋯⋯家を、飛び出したから、私もカスだろうと思って。ジョセフからしてみれば」
「姉上が家を飛び出したのは仕方のないことです。むしろ僕のためにずっと居残ってくださってたんじゃないかと、縛り付けていたんじゃないかと思っていました」
「それはないよ」
「姉上自信も頭が良いのに、勉強できる環境は全部僕に譲って、カスと戦って、家を飛び出したときは、僕は少し安心したんです。ようやく姉上が姉上の人生を歩めるかと思って」
「でもジョセフはまだあの時子供だった」
「それで言えば姉上だって幼く、守られるべきでした。なのに、どこからか聞きつけて、僕の学費を突然工面して⋯⋯」
「特待生で入学したのに働くわけにもいかないでしょ」
「適当にどうにかするつもりでした」
「ジョセフは意外と計画なしなところがあるよね」
私とは違う。意外と行動力がある。だから王都の学園の受験もできる。お金がないから諦めた私とは違う。強い子だ。
ジョセフが学園に入学したのは、家庭教師をしていたルアさんから聞いて知った。
「お前の弟が学園に入ったんだって?俺の子どもたちも行きたがっていて、少し勉強を見てやってくれないか?」
と。すごく唐突に。
ルアさんに色々聞きながら弟の状況を調べた。
特待生とは言え費用がかかることを知り、家庭教師を引き受けた。実家経由だと手紙は届かないだろうから、同僚の子供になんとかお願いして手紙を渡してもらって。
そうやって一度切れた縁を繋いだ。
私の自己満足だと思っていたけれど、弟はそう思っていなかったのか。
私の記憶の中のジョセフは、私よりもまだ背が低くて声も高かった気がするのに、今や頭は私よりもずっと高い位置にある。声も低い。
でも、こうやって抱きついてべそべそ泣いているところは変わってないな。
「ごめんごめん、悪かった」
「本当に悪いと思っていますか。というか、なんでアルベール侯爵令息といっしょにいらっしゃるんですか」
ここに来てようやくヘインの存在を思い出したらしい。
紹介しなくても知っているのはさすがだな。
「結婚、しようと思って」
「えっ」
「色々あって結婚しようと思って、で、私がまだ子爵令嬢のままだからお前と話さなきゃなと思って会いに来た」
賢いジョセフのことだから男女二人で来たら察しているかと思ったら、予想外だったらしい。もう一度ぶわりと泣きだしてしまった。
今度は泣いた上に何も言わなくなってしまって困った。
しばらくすると執事長が迎えに来た。おお、知らない執事長だ。
すごく仕事ができそうなオジサマだった。父と姉が居た頃は使用人はほとんど居なかったから、本当にここが自分の家族で新たな実家なのか不思議な気持ちだ。
執事長に連れられて、屋敷の中へ入る。
ジョセフが落ち着くまで待ち、落ち着いたら色々と。それはまあ色々と話した。
ジョセフはジョセフで、学園を卒業してから私のことを探していたらしい。
父と姉を追放し、学生時代から始めていた事業で家の借金を整理し、きちんとした屋敷に引っ越し使用人も雇った。
弟が当主になるまでの間に積み重なったいろんな負債を整理しながら、いつか出ていった姉を連れ戻してこの屋敷で再び一緒に暮らそうと思っていた。らしい。
でもなかなか見つからず。ヤキモキしていたところに私が自ら帰ってきた。やっと一緒に暮らせると思ったらまさかの結婚の報告で、一緒に暮らせない!とショックを受けて泣いたらしい。
そんなに暮らしたかったのかと問えば、出ていった姉が安心して戻ってこれる家を目標に頑張ってきたから、と言われた。
なんだかものすごく悪いことをしてしまった気持ちだ。
その日はとりあえず私とヘインで泊まらせてもらった。
見慣れない天井を見上げながら一晩、色々考えた。
弟は可愛い。昔から可愛い。できれば願望を叶えてあげたいと思う。でも結婚は諦められない。ではどうしたらいいだろうかと考えた。
隣には私をじっと眺める男がいる。多分。私が結論を出すのを待っている。そしてその結論に対して絶対に「いいよ」と言うつもりだろう。
そういう優しさがあるんだ。だから好きなんだけど。
「結婚はするからずっとは暮らせない。でもお前の夢を壊すのも良心が痛むので結婚式までの間滞在させてもらう、というのはどうだろう」
次の日、そう提案すると弟はまた泣いた。
よく泣くなあ。
ヘインには事前に承諾を得た。まあ結婚までの数ヶ月間離れ離れにはなるので、ちょっと不服そうだったけど。
でも二人ともこの弟の泣く様を見たらそうせざるを得なかった。
父と姉が放り出された今、私と弟はそれぞれが唯一の肉親なのだ。そう思うとたいへん離れがたかった。
そんなわけでしばらくの間、慣れない実家で弟と暮らし、ヘインとはまるで付き合いたての恋人のように手紙を出しあい、贈り物を送り合い、休みのときには会いに行ったりした。
一緒に住めないことを悲しむ彼には申し訳ないけど、これはこれで結構楽しかった。
ジョセフとは離れている間にお互いがどう過ごしていたかを共有し合った。そう言えばヘインが私のところに来たときもこういう回があったな、となんとなくデジャヴだった。
弟は私の仕送りを無駄にしてはいけないと、学園で大変努力したらしい。
その甲斐あって第三王子と友だちになったとか。頭が良すぎると王族から声がかけられるのか、と思うと不思議な世界だ。
王子とは今でも交流があるらしい。姉探しも最終的には王子を頼ろうかと思っていたと言われた。王族の手を煩わせる前に帰ってきて良かった。
それから、父と姉はどこに居るのか、一応聞いておいた。
父は借金の返済に失敗して、お金を借りた貴族のもとで労働しているらしい。酒でくたくたになったあの体で労働できるだろうか。足手まといになりそうである。
一生働いても返しきれる金額ではないから、きっと会うことはもうないだろう。それを悲しいとも思わない。
姉は監獄のような修道院に送られたらしい。政略結婚でもさせて追い出したと思っていたら修道院行きで驚いた。
姉の夢は昔から「お嫁さん」だった。
多分昔近くに住んでいた若い夫婦が原因だと思う。旦那さんはいつだって奥さんにメロメロで、いつも甘やかして、願いを常に叶えていた。奥さんは可愛らしい人で、クッキーをすごく上手に焼く。そして怒るとめちゃくちゃ怖い。
いつ見ても仲良さそうで素敵な夫婦だ。姉は小さい頃からあんな風になりたいと言っていた。
だから行けそうなパーティがあれば全てに行っていたのに。結局誰も捕まえることはできなかったのか。私は貯金まで取られたのに。実は未だにあの時のことをちょっと根に持っている。
姉は家で常にお姫様だった。
母が亡くなって父が甘やかしまくったので仕方がない。姉が結婚できないのは父の責任も大きいと思う。
父にも姉にも、幼い頃から苦労させられてきたので労働に行こうが修道院に行こうが特に心は傷まない。
ただこれがカスの結末か、とだけ思った。
もしも自分たちに子供ができたならば、できる限り正しい道を歩んでほしい。
最後に。
弟からの話で一番驚いたのは、弟に婚約者ができたことだ。伯爵家のご令嬢らしい。少し前まで借金まみれだったギリギリの子爵家によく嫁ぐ決意をしてくれたな⋯!と本気で感動してしまった。
私でも聞いたことのある大きな商会を持つ伯爵家の三女。そんな女の子をお嫁さんに、なんて弟は優秀すぎるんじゃなかろうか。いや、幸運というべきか?
そうやって褒めれば、「姉上の教育のおかげです」なんて褒め返してくるから本当に優秀だ。学園に通っている間におべっかも覚えたのか。
弟と毎日楽しく過ごしていると数ヶ月というのはあっという間で、すぐにヘインの元に嫁ぐ日がやってきてしまった。
「何かあったら帰ってきても良い?」
とジョセフに聞けば
「いつでも大歓迎です!」
と言われた。
ヘインはそんな気を起こさせる予定はない、と言いながらも「そしたら今度は探す手間が省けるな」等と言っていた。
この男はこの男で、私が王都からいなくなっていたことをやや根に持っている。根に持っていると言うかトラウマになっている。申し訳ない。
結婚式は侯爵家の領地内でささやかに行われた。
弟はもちろん、かつての職場の同僚たちが来てくれた。とてもいい式だった。ヘインの元同僚たちもたくさん来ていた。私とも顔見知りが多くて懐かしい気持ちになった。
「結婚してくれてありがとう。夢が叶った」
初夜にはそう言いながら泣きそうな顔をしていた。その表情を見たら私も胸が一杯になった。美しい顔が自分だけを見つめて、きれいに歪んでいる。いい景色だった。
きっとこれからもなにかの拍子に、思い切ってとんでもない行動をする時があるかもしれない。もしかしたら誤解やすれ違いが生じて、再び家を飛び出すなんてこともあるかもしれない。
そういう事があっても、一緒に時間をかけて解決したいと思う。
「きっと俺とマエラさんがすれ違うとしたら、絶対に俺が悪いと思うからそのときは家出していいよ。でも護衛はつけて行って。それから行き先は子爵家にして。俺がすぐに迎えに行くから」
そう言われた。
それって家出の意味あるのかな?
おかしくて笑ってしまったけど、きっと私たちはそうやってずっと一緒に生きていくんだろうなと確信した。