作品タイトル不明
第21話 主役がいないと、正義は焦る
「王都、空回りしてますよ。主役がいないから」
リュシエンヌは商会の扉を押し開けるなり、そう言った。
息も整えずに言うあたり、彼女にしては珍しく落ち着きがない。
私は椅子に座ったまま、指先でお茶の湯気を追った。
湯気は逃げ道の形をしている。上へ、外へ、勝手に抜けていく。
「主役がいない……」
口にした瞬間、背中がひやりとした。
主役がいないというのは、舞台が成立しないということ。成立しないなら、誰かが焦って“代わり”を用意し始める。
ノエルが隣で短く言う。
「代役探しです」
短い。刺さる。
リュシエンヌは腕を組み、顎を上げた。
「そう。王都ってね、舞台が空くと黙ってられないのよ。空いた席があると、そこに誰か座らせたくなる」
言い方は乱暴だけれど、正しい。
空いた席に誰かが座った瞬間、物語は回り始める。回り始めたら、止まらない。
「どんな噂?」
私が尋ねると、リュシエンヌは指を折りながら言った。
「まずね。学園で“泣く役”が増えてる」
「泣く役……?」
「うん。ちょっとした言い争いが大事件になって、誰かが泣く。泣くとどうなる?」
ノエルが答える。
「取り巻きが増えます」
「そうそれ!」
リュシエンヌが指を鳴らした。
「泣く人が増えると、心配するふりの人が増える。心配するふりの人が増えると、話が増える。話が増えると、噂が増える。噂が増えると――」
「パンより早く揉めます」
ノエルが淡々と続ける。
リュシエンヌは笑った。
「あなた、話が早いわ」
「短いほうが通ります」
ノエルは真顔だ。
笑いが混ざると、胸が少し軽くなる。笑えるだけで、まだ大丈夫だと思える。
けれど、噂の中身は軽くない。
「でね、取り巻きが増えると、今度は“正しい側に立ちたい人”が増えるの」
リュシエンヌが続ける。
「正しい側に立ちたい人が増えると、何が起きる?」
私は答えた。
「……誰かを悪い側に置きたくなる」
「そう。で、今ね、悪い側が足りない」
リュシエンヌは言い切った。
その言葉が、胸の奥に冷たい針を落とす。
悪い側が足りない。
つまり、探している。
ノエルが小さく言った。
「代役悪役」
『代役悪役』。その言葉が、部屋の温度を下げる。
私は息を吸って吐いた。
息を整える。ここは王都じゃない。ここは生活の場所だ。
「ほかには?」
リュシエンヌは肩をすくめた。
「王太子殿下もね、焦ってるみたい」
「殿下が……?」
直接は見ていない。見た人からの話。けれど噂というものは、こういう“匂い”の方が当たる。
「公開の場で『秩序』だの『民のため』だの言って、判断が雑になってるって」
雑。
その言葉が怖い。
雑な判断は、誰かの人生を簡単に削る。
正義の顔をして削る。削ったあとで理由が付く。順番が逆になる。
ノエルが言った。
「後から証拠が付きます」
私は頷いた。
それは王都のいつものやり方だ。
「聞いた話だとね」
リュシエンヌが声を落とす。
「殿下が皆の前で『これは正しい』って決めたことがあるらしいの。ちゃんと話を聞かずに」
背中が冷えた。
“正しい”と決める。舞台の照明を強くする合図だ。
リュシエンヌは、わざと明るい声に戻した。
「まあでも、王都の正義は焦げやすいのよ。火が強いから」
「焦げやすい……」
「ええ。だから今日は煮込みの話をしましょう。弱火で、じっくり。焦げない」
噂を料理の話にすり替える。
さすがだ。生活で上書きするコツを知っている。
ノエルが真顔で言う。
「煮込みは、砂糖が要ります」
「そこ?!」
リュシエンヌが吹き出した。
「あなた、やっぱり怖いわ」
「正確です」
ノエルは揺るがない。
私は笑いそうになって、お茶を一口飲んだ。甘いものが足りないなら、笑いを足す。
――けれど、笑いの奥で私は整理していた。
主役がいない。
舞台が成立しない。
成立させたい人たちが焦る。
焦りは“代役”を探す。
代役は、誰だ?
領地の誰か。
娘の周辺の誰か。
そして、母である私。
私は背筋を伸ばした。
ここで焦らない。焦りは向こうの燃料だ。
⸻
商会から戻る道すがら、ノエルが隣を歩いた。
彼女の歩幅はいつも一定で、迷いがない。
「奥さま」
「なに?」
「王都が焦ると、言葉が強くなります」
「……分かってる」
「強い言葉は、逃げ道を減らします」
逃げ道。
私たちが守ってきたもの。
私は頷いた。
「だから、逃げ道を増やす」
ノエルがこちらを見る。
ほんの少しだけ安心した目。ほんの少しだけ。
「奥さまが決めたことなら」
その言い方が妙に頼もしい。
この人は、私の決めた順番を信じてくれる。だからこそ、辛口でも揺れない。
別邸に着くと、居間からクラリスの声が聞こえた。
お茶の時間らしい。生活の音が先にあると、胸が少し軽くなる。
けれど噂は、生活に混ざって入ってくる。
扉の隙間から、軽い顔をして。
居間に入ると、クラリスがぬいぐるみを抱えたままこちらを見た。
目が少し硬い。何か聞いた目だ。
「お母さま……」
「どうしたの?」
クラリスは言葉を探し、短く言った。
「……王都、揉めてるって」
聞こえた。
使用人の小声。あるいは私たちの会話の端。噂はそうやって入ってくる。
私は息を吸って吐いた。
ここで否定しても、怖さは消えない。
怖さを言葉にして、小さくする。
「うん。揉めてるみたい」
クラリスの指がぬいぐるみの耳を強く握った。
肩が少し上がる。
「……わたし、また……」
言葉が途切れる。
“あそこ”と言わなくても分かる。舞台の光。大人の目。正しい台詞。
クラリスの手が、私の袖をぎゅっと掴んだ。
合図。
私はすぐに握り返す。手の温度で「今ここ」を渡す。
「大丈夫」
短く。通る言葉で。
そして、合言葉を置く。
「ここは生活。窓がある。出ていい」
クラリスがその言葉を聞き、息を一つ吐いた。
呼吸が少しだけ深くなる。
「……出ていい」
小さく復唱する。
復唱できるなら戻れる。
私は頷いた。
「そう。怖くなったら、出ていい。休んでいい。やめていい」
クラリスがもう一度息を吐き、頷く。
目の硬さが少し溶けた。
ノエルが机に果物を置きながら言う。
「噂は軽いです。軽いものほど、こちらへ飛びます」
「うん」
私は頷き、クラリスの髪を撫でた。
「だから、生活を重くする。重いって悪い意味じゃないの。動かないって意味」
クラリスが首を傾げる。
「……動かない?」
「安心が動かない。ここにある」
クラリスは少し考えてから頷いた。
「……ここにある」
その言葉が胸に落ちた。
合言葉は、ちゃんと効く。
⸻
夕方、アデルが応接へ入ってきた。
旅の泥は落ちたが、目の下の影はまだ残っている。
彼はまずクラリスの方を見て、すぐに視線を逸らした。
近づきすぎない。娘の距離を尊重する。昨日の練習が生きている。
「今日、少し話していいか」
私に向けた言葉。娘に向けてではない。
私は頷いた。
「クラリスは、ノエルとお茶の続きにしよう」
クラリスは小さく頷き、ノエルの方へ寄った。
選ぶ距離がある。選ぶのは娘。私は急かさず、見守る。
隣室の扉が閉まり、応接に残ったのは私とアデルだけ。
アデルは椅子に座らず、窓の方へ一歩歩いてから止まった。
公爵の癖だ。動きながら考える。
「王都は……荒れている」
「リュシエンヌから聞いた」
アデルは頷いた。
「学園が荒れているのは、主役がいないからだ」
その言い方が胸に刺さる。
「舞台が成立しないと、正義は焦る」
アデルの低い声は、公爵の分析であり、父親の恐れでもある。
「焦った正義は雑になる。誰かを悪い側に置けば、話が早いからだ」
私は息を吸って吐いた。
雑な正義。最悪の組み合わせ。
「だからこそ」
アデルが続ける。
「王都の圧は、俺が受け止める。公爵として受け止める」
昨日の約束の続きだ。
「娘には近づけない。近づけさせない」
私は頷いた。
その言葉は、父の盾になる。
「必要なら、王都へ戻る」
アデルの指が椅子の背を握る。決意はある。けれど怖さもある。
私は短く言った。
「焦らない」
アデルが苦く笑う。
「……焦らないようにする。練習だな」
「ええ。練習」
謝罪だけじゃない。守り方も練習だ。
そのとき、ノックが入った。
ノエルの声がする。
「奥さま。封が届きました」
封。
その一語で、背中が冷える。
「入って」
ノエルが入ってきて、封筒を差し出した。
厚い紙。硬い封。神殿の紋。前より“正式”だ。拒否しづらい顔をしている。
アデルの表情が固まった。
私は封を切る前に息を吸って吐いた。
焦らない。順番。短い言葉。
封を開ける。
中の文面は、優しいふりをやめていた。
確認ではない。
検査でもない。
儀式。
清め。
立ち会い。
言葉が強い。
強い言葉は、逃げ道を減らす。
ノエルが短く言った。
「来ました」
アデルが低い声で言う。
「……招請だ」
私は紙を伏せた。
見えるけれど、まだ触れない距離に置く。
この家の空気を、紙に飲まれたくない。
私はアデルを見て、短く言った。
「順番を決める」
アデルが頷いた。
「場所を選ぶ」
「人の目を使う」
「密室にしない」
言葉が、私たちの間で揃う。
揃うと、少しだけ怖さが薄まる。
隣室から、クラリスの笑い声が聞こえた。
お茶の時間の笑い。生活の音。
それは舞台の拍手じゃない。生きている家の音だ。
私はその音を胸に入れてから、もう一度紙の方へ視線を戻した。
主役がいないと、正義は焦る。
焦った正義は、言葉を強くする。
なら、こちらは生活を強くする。
怒鳴らない。殴らない。
逃げ道を増やす。順番を決める。
そして、娘の呼吸を守る。
次は、その番だ。