作品タイトル不明
53. 君がいない世界
「私に、婚約者様が?」
帰ってきてから三日間、レティはずっと家の中にいた。部屋の窓際の椅子に座り、ぼぅっとしていて、心配したヤミーが庭に連れ出したりしていた。でもそんな庭でも、シルを撫でるか庭を眺めるか。模擬戦をしたり何かを破壊したりしないレティを、家族は不思議に思っていた。
母と次兄は、レティが奇跡を起こしたのだと考察した。殿下は一度死んで生き返り、その代償としてレティは記憶を失ったのではないかと。
事実、聖典の記述では神域と人の世の時間の流れは違うとされていた。
「……会って、みる?」
「その人は、私に記憶がなくても大丈夫なの?」
「わからないわ。でも、あなたがいなくなって一番酷く憔悴していた人よ」
侯爵令嬢だった自分の婚約者が、王太子殿下だと聞いた時、レティの体がぴくりと反応した。今すぐ逢いたいような、顔を背けたいような。相反する想いがあった。
「会ってみるわ」
短い時間で会うこと。隣室にいるから、何かあったらすぐ呼ぶこと。レティは応接間の大きな窓から、外を見る。風に吹かれて、庭の花々が美しく散っていた。
三回のノックと共に、ガチャリとドアが開く。
「レティ?」
そこにいたのは、艶のない黒髪に、濁った紫色の瞳の、深い隈のある男だった。王太子とはとても思えない。それでも、その所作は高貴なる人だった。
その人は一歩、また一歩と近づいてくる。まるで足元の危うい場所かのように。確かめて。そうして、レティの頬に触れた。
「これは、また夢かい?」
吐息を溢すように、掠れた声で囁く。
「あ、あの」
その手の冷たさに、レティは驚いた。ガサガサで、細くて、大きな手だった。
「はは、もう勘弁してくれ。これで五十三回目だろ」
殿下はずっと夢を見ていた。いつものように明るく、突然帰ってくる夢。静かにそっといつの間にか側に帰ってくる夢。自分の元へ走ってきてくれる夢。何度も何度も、狂ったように見ていた。
「その」
「うんざりなんだ。目が醒めて、絶望するのは」
たとえ寝なくても、朝はやってくる。フッと意識を失ってしまえば、また夢を見る。でも夢は、いつか醒めてしまう。何度も死のうと思った。その度に、夢のレティは帰ってきた。期待と絶望の狭間で、殿下の精神は擦り切れた。
「殿下!」
レティの口からするりと、その呼び方が出る。
人は声から忘れるという。たった二ヶ月。それでも、夢では既に失われた色だった。
「……もう一度」
ずっと聞いていたい音に、すがりつく。
「殿下?」
レティは首を傾げながらも、言われた通りにもう一度呼ぶ。
「もういっかい」
頬に添えられた手が、震えている。
「殿下」
口元に触れる。おそらく、何度も呼んだのだと、レティはなんとなく理解していた。
「君、なのかい。レティ」
「わ、私は記憶がありませんの。でも、生身でここにいるレティシア・オベールですわ」
貴方が恋焦がれているレティではないかもしれない。でも、きっとこの器は、そうなのだと思う。そんな答えだった。
「それでもいい。……ねぇ、レティシア。僕は、君がいない世界なんかに生きる意味はないんだよ」
ずるずると崩れ落ちて、縋り付いて。殿下は、生まれて初めて泣いた。春の窓辺の陽だまりの中で、年幼い子供のように。レティはただ黙って、その後ろ髪を撫でていた。
「君だけが、僕の世界で色付いている」
自分の婚約者。つまり恋人。未来の旦那様。
そのはずなのになんだかしっくり来なくて、レティはただ撫でることしかできなかった。膝をついていては痛いだろうからとソファに移動すれば、殿下は膝の上で眠ってしまった。
「……恋って、何かしら」
物音ひとつ立たなくなったのを心配して、母が隣室からやってくる。ひとりごとは、母に拾われてしまった。
「何事もないようでよかったわ……」
母は安堵の息を吐く。殿下の憔悴具合では、もうどこにもいけなくしてしまおうとしても、おかしくはなかった。
無事を確認したところで、内緒だとでもいうように口の前に指を置いて、お茶目に微笑む。
「明日にでも、昔話をしましょう」
侯爵令息の英雄と貧乏な子爵令嬢の聖女が結婚するまでに、結婚してからも。恋がずっと側にいた。