軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第33話 相馬盛胤との対面04

その貴丸に激昂した彦法師丸は、ほとんど反射のように立ち上がった。

畳を踏み鳴らす音が荒く、座敷に張り詰めていた空気を一気に掻き乱す。

脇に控えていた太刀持ちへと詰め寄ると、躊躇なく柄に手をかけ、そのまま奪い取るように刀を引き寄せた。

鞘の内で刃がわずかに鳴る――その乾いた気配が、静まりかえった場に鋭く走る。

だが――

「やめい!」

腹の底から叩きつけるような一声が、座敷を震わせた。

それは叱責というより、斬りつけるに等しい圧だった。

長年この地を守り抜き、血と土とを踏み締めてきた者だけが持つ、剥き出しの殺気が声に宿っている。

空気が一瞬で重く沈み込み、この場に座す者すべての呼吸が止まる。

彦法師丸はびくりと体を強張らせ、喉の奥で唸りを漏らした。

次の瞬間、握っていた刀を取り落とす。硬質な音が畳に響き、その余韻がやけに長く残った。

しかし盛胤は、微動だにしない。

その視線はただ一人――貴丸に据えられたままであった。

周囲では、いまの怒号に驚き、互いに顔を見合わせる者もいる。

だが、その中心にいる貴丸だけが、まるで別に置かれているかのように変わらぬ顔をしていた。

瞼は半ば落ち、気だるげなまま、先ほどと同じ姿勢で座している。

騒ぎも怒気も、どこか遠い出来事のように受け流している。

その落差に、盛胤の内で何かが静かに切り替わった。

――この子は、異質だ。

先ほどの受け答えが脳裏によみがえる。言葉の選び、間の取り方、視線の置き方。

そのいずれもが、十の童のものではない。

武を誇るでもなく、恐れを見せるでもなく、ただ状況を測り、利を積み上げるために必要最小限の言葉だけを冷徹に選び取っていた。

それは武人の思考ではない。

上に立つ者の視点――しかも、それをすでに使いこなしている者のそれだった。

盛胤自身、その域に至るまでには幾多の戦を要した。

血に濡れた地面に立ち、重臣を失い、味方を失い、自らも幾度となく死の縁を覗き込んだ末に、ようやく辿り着いた視座である。

この年頃の子供であれば、まず己の力を誇る。斬れるか、勝てるか、それがすべてだと思い込む。

彦法師丸もまた、その例に漏れぬ。だがそれは誤りではない。この歳では、それが自然なのだ。

だが――

戦とは、備えで決まる。

兵は腹が減れば動かぬ。米が尽きれば、どれほどの勇も無に帰す。

人を動かすにも、道を通すにも、すべては積み重ねた備えの上にある。

誰がどこに配されるのか、どれほどの兵が動くのか、兵糧はどれほどか――内情を知るほど、勝ちは近づく。

その理を、理屈ではなく感覚として掴んでいる。

まだ戦場に立ったことすらないはずのこの子が。

異様だった。

相馬の重臣の中でさえ、その域に至る者は多くはない。

兵糧など前線に届いて当然としか考えぬ者がどれほどいるか。

自分とて理解しているつもりでも、いざ戦場に立てば疎かになる。そのたびに岡田に指摘されてきた。

静かな興奮と、わずかな警戒が胸に満ちる。

盛胤は、ゆっくりと口を開いた。

「兵糧や内情の重要性を、その年で知っているとは驚いたぞ。どこで知ったのだ? 慶虎殿か、慶久殿の薫陶か」

問われて、貴丸はほんのわずかに視線を上げる。

少しだけ考える素振りを見せ――内心では、そんなものは前世では当たり前に思いつくことだと流しながら――言葉を選ぶ。

「うちの領にいる僧に教わりました。孫子の兵法を中心に」

さらりと、何の重みも持たせぬ調子で答えた。

盛胤は「ほう」と低く喉を鳴らし、そのまま問いを重ねる。

「先ほどの見立ては、その孫子のどのあたりを拠り所としたのだ?」

座敷の空気が、音もなく張り詰める。

貴丸は視線を落とし、畳の目をぼんやりとなぞるように見やった。

わずかな間を置き、やがて息をするように口を開く。

「軍に輜重なければ則ち亡び、糧食なければ則ち亡び、委積なければ則ち亡びる」

抑揚のない声が、静かに落ちる。

「彼を知り己を知れば、百戦して殆からず」

衣擦れの音すら消える。

「先知なる者は、必ず人に取りて知るものなり」

息を呑む気配が、場の端で微かに揺れた。

そして――

「……風林火山陰雷霆」

一息を吐く。

「其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し」

言い終えても、貴丸の顔色は変わらない。眠たげな瞼のまま、ただそこに在る。

ざわり、と空気が波立つ。

押し殺していた声が、遅れて滲み出すように広がっていく。

彦法師丸は唇を噛みしめた。自分は武も学も同輩より上だと信じていた。

だが今、目の前で語られたそれは、ただの暗誦ではない。意味を理解し、場に即して引き出している。

その事実が、胸の奥で静かに何かを砕いた。

言葉にできぬ違和と、否応なく突きつけられた差。

拳を握り締めたまま、ただ黙るしかなかった。

盛胤は、その様子すら視界の端に追いやりながら、なお貴丸を見据えている。

この子は、偶然ではない。

その確信が、背筋を冷たく撫でた。

ふと、脳裏に焼き付いていた光景がよみがえる。

――富岡の城と、米蔵。

炎が裂き、積み上げられた米が音を立てて崩れ落ちていく光景。

貴丸は、あれは焚き火が引火しただけの偶然だと言った。

その言葉に、周囲の家臣たちは失笑していた。運の良かった童の戯言だと。

だが。

いま、目の前で孫子を誦じるこの子を見て、盛胤は理解する。

あれは、偶然ではない。

狙い、入り込み、火を放ち、そして引いた。

すべてが、意図されたものだ。

それを、十にも満たぬ子がやったというのか。

静かに、しかし確かに。

冷たい汗が、背を伝った。