作品タイトル不明
第21話 陶の瓶と手擦れた冊子
そして――ふと思い立ったように、元伯は懐へと手を差し入れた。
取り出されたのは、小ぶりな陶の瓶と、手擦れた冊子である。長旅を経たのだろう、瓶の表面には細かな傷が走り、冊子の角は丸く潰れていた。
一度だけ慶久へ視線をやり、それから何かを思いついたように、口元にかすかな笑みを浮かべると、そのまま貴丸へと差し出した。
「これが、祖父からの土産じゃ」
軽く鼻を鳴らす。
「あれだけ銭をふんだくられておいて、さらに土産まで渡すというのも、なんとも納得はいかんがのう」
そう言いながらも、その声音にはどこか楽しげな響きが混じっていた。
貴丸は気負いもなくそれを受け取り、まずは瓶を手の中で軽く振ってみる。
――カサ、カサ。
乾いた、軽い音が内側から返ってくる。
中身を確かめるように耳を寄せ、それから顔を上げた。
「じいさん、これは何?」
問われた元伯は、ゆるりと顎を撫でながら答える。
「知っておるかは分からぬがな……高山国で手に入れたものよ」
指折り数えるように、ゆっくりと言葉を重ねる。
「この地で育つかはわからんがな、いろんな植物の種を持って帰ってきたのじゃ」
そこで一度、間を置く。
そして今度は、油紙に丁寧に包まれたものを広げた。中から現れたのは、見慣れぬ線と文字がびっしりと描かれた紙束と、もう一冊の冊子である。
「それと……西洋の船の設計図と、養蜂譜じゃ」
紙束を軽く叩き、続ける。
「西洋の船の設計図は、何語で書かれておるかさっぱり分からん。そしてこれだ。明の国ではな、蜂を山から奪うのではなく――囲って飼うのだそうだ」
ゆるりと顎を撫でる。
「巣を壊して終わりではない。逃がさず、また蜜を持たせ、繰り返し取る」
わずかに笑う。
「面白いことを考えるものよ」
冊子を指で叩く。
「で、そのやり方が、これに書いてあるらしい。ま、漢文で書かれておるがな」
静かに言い終えると、部屋の空気が一拍だけ緩む。
だがそのまま、元伯は視線を落とし、少し遠くを見るように目を細めた。
「なぜ……儂が、なぜ早々に隠居して、諸国を巡ったか――分かるか」
誰にともなく投げた問いだった。
慶久は静かに首を横に振った。
応じる者はいない。
その答えが落ちた瞬間――
貴丸はというと、すでに話に飽きたのか、指先では器用に何かを丸めている。
くるり、くるりと。
鼻くそだった。
丸め終えると、ちらりと横を見やる。真隣では敦丸が背筋を伸ばし、元伯の言葉を一語一句逃すまいと、真剣な面持ちで耳を傾けている。
貴丸の口元が、ゆっくりと歪んだ。
次の瞬間――ぺしっ、と軽い音がした。
弾かれたそれは、見事な軌道を描いて敦丸の頬へと張り付き、ぽつんと黒い点を作る。
まるで、最初からそこにあったかのように。
敦丸は気づかない。真剣な顔のまま、元伯の話にこくりと頷いている。
貴丸はそれを見て、声も立てずに肩を揺らした。にやにやと、ひどく満足げに。
その横で、慶久はすべてを見ていた。
しばしの沈黙ののち――深く、長いため息が落ちる。
「……はぁ」重く、諦めを含んだ息だった。
元伯はその気配に気づきながらも、あえて何も言わず、ただ一度だけ貴丸へ視線を送り――その奥に潜むものを測るように、静かに目を細めた。
元伯は小さく息を吐く。言葉は静かだが、重みがあった。
「この地の領主だった頃はな――」
元伯は、どこか遠くを見るように視線を落とした。囲炉裏の火がぱちりと小さく弾け、その赤い揺らぎが、刻まれた皺の奥に影を落とす。
「毎日、戦に明け暮れておった」
声は静かだったが、軽さはない。思い出話というより、噛み締めるような響きだった。
「朝に兵を出し、昼に斬り合い、夜に戻ればまた次の戦支度じゃ。誰が死んだか、誰が残ったか……それを数える暇もない」
一度、言葉を切り、わずかに息を吐いた。
「……おかげでな……慶久の母が亡くなったときも、儂は戦場におった」
部屋の空気が、ほんのわずかに沈む。
「知らせは受けておった。だが戻れなんだ。戻れるような戦ではなかったからな」
囲炉裏の火が揺れる。元伯は、そこで初めて苦く笑った。
「一月後に帰ってみれば――もう葬式も終わっておったわ」
その笑みは、笑いと呼ぶにはあまりに乾いていた。
「位牌だけが、ぽつんと残っておった」
誰も言葉を挟まない。貴丸ですら、珍しく口を閉じている。そして元伯はゆっくりと顔を上げる。
「そこで悟ったのだ。戦に明け暮れても、幸せにはならぬ」
言い切る。
「自分も、家族も、領民もな」
その言葉は、武功を誇る者のものではなかった。失った者の、静かな断定だった。
ゆっくりと視線を上げる。
「それにの、作ろうにも、この地の気候は厳しい。米は思うように実らぬ。豊かになろうとしても、土も天もそれを許さぬのだ」
低く、しかし確かに滲む実感。
「それに嫌気がさしてのう」
そこで、わずかに肩の力を抜いた。
「この日の本に、それを救う何か道はないのかと考えたのだ。民をどう幸せに導くか、武士をどう在らしめるか――この国にとって、何が幸せなのかをな」
静かに言葉を紡ぐ。
「だから、見て回った。各地をな。関東も、都も、西の国も、その先の……果ては高山国までな」
そして、ゆっくりと慶久へ視線を向ける。
「だがな……関東からこの地へ戻ってから、ふと兆しのようなものを感じたのだ」
その言葉に、慶久がわずかに姿勢を正す。
「慶久よ。この地では、米を減らし、稗や粟、蕎麦、麦を増やしたと聞いた」
問いかけるように続ける。
「先年、陸奥一帯が凶作に見舞われた折、関東にもその影響があったのだ。しかし、この地は逃散も餓死も最も少なかったと――そういう噂を耳にしたが」
元伯の声音は、先ほどまでの回想とは違い、わずかに現実へと戻った重みを帯びていた。囲炉裏の火が静かに揺れ、灰の中で赤い芯が息づいている。
慶久は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置き、それから小さく頷く。
「……そのように、言われております」
過不足のない答えだった。だが、その裏にあるものを測るように、元伯はゆっくりともう一度頷いた。
やがて、視線がすっと横へ流れる。
そこには、場の緊張とは無縁の空気をまとった貴丸が、いつも通りの気の抜けた姿で座っていた。
元伯は低く言う。
「道すがら、こやつの話を聞いたのだが、あの米の減産――貴丸が主導したのか?」
囲炉裏の火が、ぱちりと弾ける。
慶久は、今度は迷いなく、はっきりと頷いた。
「はい」
短く、それだけだった。
元伯の目が、わずかに細まる。小さく呟き、それから静かに言葉を続ける。
「……やはりか。儂はな、この陸奥を救う術を求めて、この国の果てまで歩いた」
「だが――」
一度、言葉を切る。
「ひょっとすると、その答えは、遠くにあったのではなく……この地に、すでに芽吹いておったのやもしれぬ」
部屋の空気が、ぴたりと静まる。穏やかな声だった。
「儂の余命も、そう長くはあるまい。それに右腕がこのありさまじゃ。ならば――この地に留まり、お前たちを助けたいと思う」
まっすぐに慶久を見る。
「どうだ」
その問いに、慶久は一瞬も迷わなかった。
力強く、深く頷く。
その元伯の視線が貴丸にも向く。
その様子を横目に、貴丸は顎に手を当て、ほんのわずかに考える仕草を見せた。
そして――
「……では、一つだけお願いがあります」
年に似合わぬ落ち着いた声で言う。
慶久が顔をしかめるが、元伯は楽しげに笑った。
「ほう、言うてみよ」
貴丸は、さらりと告げる。
「私が縁側でごろごろしていても、叱らないでいただきたい」
一瞬――時が止まったように静まる。
次の瞬間。
「がははははははっ!」
元伯の豪快な笑いが、部屋いっぱいに響き渡った。
「よかろう! それくらい、いくらでも許してやるわ!」
腹を抱えて笑い続ける。
一方で、慶久をはじめ、その場の者たちは、あまりにも不精極まりない願いに、言葉を失っていた。
元伯の話が一段落し、座の空気がゆるやかに解けると、一同はそれぞれ腰を上げ、居間を後にした。廊下には傾きかけた光が差し込んでいる。
そのときだった。
ふと、琴の視線が敦丸の顔に止まる。
「あら――敦丸」
歩み寄り、首をかしげる。
「あなた、こんなところに黒子なんて……ありましたかしら」
敦丸はきょとんとした顔で瞬きをする。
「え……?」
自分の頬に触れようとするが、琴の方が先に手を伸ばした。指先で、そっとその“黒い点”に触れる。
――ぽろり。
あっけないほど簡単に、それは剥がれ落ちた。
畳に落ちたそれを見て、ほんの一瞬、場が静止する。
次の瞬間――「……あっ、それは……」
慶久が、思わず声を上げた。
だが、続かない。
言葉が喉で止まり、顔だけがわずかに引きつる。
敦丸はますます不思議そうに、床と父とを見比べている。
琴は、落ちたそれを見下ろし、ゆっくりと顔を上げた。
「……これは、なんですの?」
声音は静かだが、逃げ場がない。
慶久は視線を逸らし、口を開きかけて――閉じる。
もう一度開きかけて――やはり閉じた。
その数分後。
屋敷の奥から、澄み切った声が――いや、明らかに怒気を帯びた声が響き渡る。
「貴丸!!」
廊下の空気がびりりと震える。
「今日という今日は――許しませんよ!!」
ぱしん、と乾いた音がどこかで鳴った。
廊下の陰でそれを聞いていた慶久は、静かに目を閉じる。
「……平和だな」
ぽつりと呟く。
一方、敦丸はまだ事情を飲み込めていない顔で、自分の頬をぺたぺたと触っていた。
希丸はそんな様子を見て、腹を抱えて笑っている。
屋敷にはまた、いつもの騒がしさが戻っていた。