作品タイトル不明
第123話 源助のメタ認知
源助は遠くから聞こえてくる女たちの楽しそうな笑い声で目を覚ました。
襖の向こうから「まあ!」「いやですわ!」と賑やかな声が響いてくる。
ここは朝比奈家の屋敷の一室だ。三日前、意識を失ったまま運び込まれた源助は、今もそこで傷の手当てを受けながら静養していた。
寝床の上でゆっくりと身体を起こし、自分の左足へ目を落とす。続いて左目の周囲にもそっと触れてみた。
まだ痛みは残っているが、三日前のような熱を持った腫れは感じない。熱も引いていた。傷だけではない。身体の奥にこびりついていた熱気や倦怠感もかなり薄れている。
どうやら自分は生き延びたらしい。そう思うと、自然と息が漏れた。
源助は三河国宝飯郡牛窪の土豪の四男として生まれた。
四男である以上、家督とは無縁だったが、幸い父方の親族である大林貞次に子がなかったため、その養子に迎えられた。
幼い頃はこれで自分の行く末も定まったのだと思ったものだ。
しかし世の中は思うようにはいかない。源助を養子に迎えた後になって、貞次に実子が生まれたのである。
それで全てが変わった。
養子より実子が優先されるのは当然だった。恨みはなかったが、居場所もなくなった。結局、源助は家を出て浪人となり、その後は諸国を巡る生活を続けていた。
そんな旅の途中だった。
伊賀峠で一組の母子に出会ったのである。
難儀している様子だったため助けた。その夜、母親は礼をしたいと言い、自ら源助に身を預けた。旅をしていれば珍しい話ではない。源助も深く考えなかった。
翌日、その女が父の家へ帰るというので同行した。所詮はあてのない旅なのだ。
そして村へ入った瞬間だった。
十人を超える男たちに囲まれたのである。母子も仲間だった。全て仕組まれていたのだ。
源助は苦笑する。
この時代、そうした話は決して珍しくない。飢えた村が旅人を襲うこともあれば、少しでも楽な暮らしを求めて村ぐるみで盗賊まがいのことをする場合もある。昼は百姓、夜は山賊という者も少なくない。
源助自身、そのことは旅の中で何度も見聞きしていた。
それでも騙された。情を交わしたことで警戒心が鈍ったのである。
結果として源助は身包みを剥がされた。
何人かには傷を負わせたものの、多勢に無勢だった。命からがら逃げ出した時には、自分も左目の周囲と左の太腿に深い傷を負っていた。
傷の痛みよりも、騙されたことの方が堪えた。知らなかった訳ではない。
旅人を食い物にする村など、諸国を巡るうち何度も耳にしてきた。
それでも引っ掛かった。結局、自分も大した男ではなかったのである。
実家へ戻る気はなかった。大林家へ戻る気もない。今さら戻ったところで居場所などないのだから。ならば前へ進むしかなかった。
源助は志摩までなんとか辿り着き、鳥羽湊で船の手伝いをしながら路銀を稼ぎ、ようやく船で清水湊へ渡った。
その頃には傷も悪化し始めていた。左足は熱を持ち、歩くたびに鈍い痛みが走る。左目も腫れ上がり、視界は日に日に狭くなっていた。
それでも駿府を目指した。東海において今川の名は大きい。
三河にいた頃から何度も耳にしてきた名門である。もちろん仕官など簡単に叶う話ではない。
そんなことは源助自身が一番よく分かっていた。だが他に行く当てもなかった。
どうせ行く当てもないならば、今川を頼ってみよう。運が良ければ仕官できるかもしれない。
運が悪ければ、それまでのことだ。その程度の気持ちだった。
正直なところ、半ば自棄になっていたのかもしれない。養子先を追われ、諸国を流れ歩き、そして情を交わした女には騙された。
必死に剣を学び、兵法を学び、諸国を巡った。その果てが、足を引きずりながら駿府を目指す浪人である。
源助は小さく笑った。――まあ、こんなものか。
傷の具合を考えれば、この先まともに歩けなくなる可能性すらある。
今川へ辿り着けたとしても仕官できる保証などない。もし駄目だったなら、その時はその時だ。
不思議と諦めに似た気持ちがあった。そんな状態で歩いていたあの日だった。
林の先に商人の一行を見つけたのである。同時に、その周囲へ潜む山賊たちの姿も見えた。
源助は反射的に身を伏せた。木々の陰へ隠れ、息を殺す。
その直後だった。自分の行動が可笑しくなったのだ。誰もいない林の中で、一人小さく笑ってしまったのである。
つい先ほどまで、自分の人生など、どうでもいいと思っていたではないか。
今川へ仕官できなければ終わりだ。その程度にしか考えていなかった。
それなのに山賊を見た瞬間、身体は勝手に身を隠していた。
死にたくないのだ。口では諦めたつもりでも、身体はまだ生きることを望んでいた。
源助は木にもたれながら小さく息を吐く。
「……未練がましいことだ」呟いてみる。だが不思議と嫌な気分ではなかった。
まだ自分は生きたいらしい。そして改めて山賊たちへ視線を向ける。
すると今度は別の違和感が目についた。数が多い。しかも装備が妙に整っている。
山賊を装ってはいるが、刀も身なりも思った以上に良い。駿河のように今川の支配が行き届いた土地で、これほど大規模な山賊が堂々と狼藉を働いているのも不自然だった。
(武田の息が掛かっている連中かもしれんな)そう考えながら様子を窺っていた。
正直、人助けをする気はなかった。伊賀峠で懲りていたからだ。あれも罠かもしれない。
そう思った時だった。背後から馬の足音が聞こえたのである。
振り返ると、身なりの良い武士と供回り、それに一人の童がいた。
源助は即座に手で制した。「隠れろ」
もし山賊に見つかれば面倒になる。武士たちは怪訝そうな顔をしたが従った。
源助は改めて山賊を観察した。頭目らしき男は体格も良く、なかなかの使い手に見える。
すると武士が商人たちを助けようと前へ出ようとした。
源助は小声で言った。
「待て。まだだ。襲わせた後だ。気が緩んだところを叩く」
だが武士は納得していない様子だった。
そんな時だった。それまでぼんやり山賊を眺めていた童が口を開いた。
「試したいことがある」
童は馬の腰に括り付けられていた小壺を取らせると、中へ枯れ草を詰め始めた。
鼻を掠める独特の臭い。燃える水だった。越後で見た記憶がある。
源助は少し感心した。なるほどな。上手くいけば混乱は起こせるかもしれない。
童は火をつけた壺を供回りへ渡し、「山賊の真ん中へ投げて」と指示を出した。
源助は面白いと思った。正面から戦うことばかり考える武人とは違う。
争いは避ける。だが成果は得る。その考え方は源助自身に近かった。
しかし結果は失敗だった。
壺は山賊の中心へ飛んだものの、思ったほど燃え広がらなかったのだ。
誰もが唖然とした。だが当の童だけは違った。
「……こんなもんなんだな……」
それだけだった。焦りも落胆もない。ただ結果を受け入れている。
源助は思わず笑いそうになった。普通ならもっと慌てるだろうに、この童は違う。
そう思った矢先だった。
危険を感じたのだろう。武士が童を馬へ乗せて逃がそうとした。
ところが童は何かを叫ぶと、そのまま馬ごと山賊の群れへ突っ込んでいったのである。
源助は目を見開いた。武士も供回りも同じだった。なぜそんなことをするのか誰にも分からない。
だが源助は思った。死なせるには惜しい童だ、と。
武士も何かを叫んでいたようだったが、気付けば源助は足の痛みも忘れて飛び出していた。
次の瞬間、童の馬が山賊のど真ん中で高く前脚を上げた。そして直後、白い粉が空中へ舞い上がる。
風に乗った粉が辺り一面へ広がり、山賊たちは悲鳴を上げながら目を押さえ始めた。
源助はそこで理解した。先ほどの火壺は本命ではない。
目を押さえて転げ回る山賊たちを見て、源助は笑った。
勝てる、そう確信した。あとは頭を落とせば終わる。あとは烏合の衆だ。
源助は足の痛みに耐えながら刀を振るった。下っ端を数人斬り伏せた頃には、あの武士が頭目らしき男を見事な一刀で斬り捨てていた。
勝負は決した。統率を失った山賊たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
源助は刀を下ろした。助かった。そう思った瞬間だった。
今まで押し込めていた痛みが一気に全身を駆け巡る。
視界が揺れた。足から力が抜ける。
最後に見えたのは、白い粉まみれになりながら満足そうに頷いている、あの妙な童の姿だった。
そして源助の意識は、そのまま闇へ沈んでいったのである。