作品タイトル不明
第122話 夜狼衆芸務
今川家もまた上洛の使者を立てることになり、その準備のため、忠家・元伯一行はしばらく駿府に留まることになった。
本来ならば、貴丸は今川家が用意した寺へ戻るはずだった。
だが――。
「寺、暇なんだよなぁ」その一言から全てが始まった。
あの日の謁見を終えた帰り道、貴丸は何食わぬ顔で泰能の隣へ並び、上洛のことや京のことを真面目に相談するような顔で話を続けていた。
気付けば泰能の家で夕餉を食べていた。気付けば風呂に入っていた。気付けば布団が敷かれていた。そして気付けば朝になっていた。
翌日になっても帰らない。その翌日になっても帰らない。
結果として今日で三日目である。
泰能が遠回しに、「寺の方も心配しておるのではないか」と言えば、「朝に顔だけ出してきた」と返す。
「そろそろ戻った方がよいのではないか」と言えば、「まだ相談したいことあるし」と返す。
恐ろしいことに本人には一切悪気がない(本当?)。
少なくとも本人はそう思っている。結果として、完全に居座っていた。
初日の午前中はまだ大人しかったらしい。
縁側で寝転がりながら庭を眺め、菓子を食べ、猫のように日向ぼっこをしていただけだった。
ところが夕方になると様子が変わった。
泰能が務めを終えて帰宅すると、妻の部屋から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「まあ!」「そんなことございますの?」「いやだわ!」「ふふふっ!」
若い娘たちの弾んだ声である。不思議に思った泰能が襖を開ける。
そこでは貴丸が堂々と座り、その周囲を侍女たちと妻の菫が取り囲んでいた。
菫は京育ちの公家の姫である。年はまだ十六、七。
輿入れして間もなく、駿河での暮らしにもようやく慣れ始めた頃だった。
そして当の菫は、普段の落ち着いた姿が嘘のように楽しそうに笑っている。
貴丸はそんな菫を見ながら、しきりに頷いていた。
「いやいや、菫ちゃんは本当に可愛らしいよ」
「そんなことございませんわ」
菫が照れたように袖で口元を隠す。
「あるよ。菫の花が菫ちゃんを見たら、自分の名前を返してほしいって言うくらいだよ」
「まあ」
「きっと自信なくしちゃう」
侍女たちからくすくすと笑いが漏れる。
貴丸はなおも感心したように菫を見た。
「というか菫ちゃん、なんでそんなに肌が綺麗なの?」
「えっ?」
「月が夜空で光ってるのも、菫ちゃんに対抗してるだけなんじゃないかな」
「いやだわ」
菫が肩を震わせる。
「朝起きて鏡を見たら大変だよ」
「何がですの?」
「鏡の方が逃げ出す」
「鏡が?」
「うん。『こんな綺麗な人を映す役目は荷が重うございます』って」
その瞬間だった。菫が吹き出した。
「おほほほほっ!」
侍女たちも一斉に笑い始める。
貴丸は満足そうに頷いた。
「ほらね」
「ほらね、ではありませんわ!」
「それに声も良いし」
「声ですの?」
「うん。鶯が聞いたら仕事がなくなるかもって焦ると思う」
「そこまでですの!?」
「たぶん山へ帰る」
「ふふっ」
「いや、きっと帰るね」
「なぜ言い切りますの!」
部屋中にまた笑いが広がる。
貴丸は真顔で続けた。
「美人は三日で飽きるって言うけど、菫ちゃんは春夏冬美人だね」
「春夏冬?」
「絶対にアキが来ない美人さん」
意味を理解した菫が再び吹き出す。
「いやだわ!」
「それに二升美人だし」
「何ですのそれ?」
「ますます美人」
「そんな言葉ありませんわ」
「今できた」
菫は腹を抱えて笑った。侍女たちも耐え切れない。
そして貴丸は最後に大きく頷く。
「結論」
「けつろん?」
「朝は朝で可愛いし、昼は昼で可愛いし、夕方は夕方で可愛い」
「そんなことありません!」
「だから一日三回得してるよ」
「誰がですの?」
「俺」
「貴ちゃんだけではありませんか!」
「いや侍女の皆さんも」
侍女たちが笑う。貴丸はさらに言った。
「今の笑顔だけで米俵三俵くらいの価値あると思う」
「米俵ですの!?」
「いや五俵かな」
「増えております!」
「七俵」
「もっと増えておりますわ!」
部屋中が笑いに包まれた。
泰能は無言だった。
なぜだろう。言っている内容は滅茶苦茶である。
だが菫は心の底から楽しそうだった。普段の菫は穏やかで上品だ。
もちろん笑う。だが今のように声を上げて笑うことは珍しい。
その原因が目の前の十歳児なのである。
さらに問題なのは――。
「貴ちゃんは本当に面白いですわ」
「いやいや、菫ちゃんの方が面白い、いや、綺麗だよ」
「そんなことありません」
「あるよ」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
泰能はそこで気付く。いつの間にか、「貴ちゃん」「菫ちゃん」と呼び合っている。
三日前まで赤の他人だったはずである。
泰能は何とも言えない顔になった。相手は十歳の童だ。嫉妬するのも大人気ない。
だが。
「ほら菫ちゃん、その手」
「手ですの?」
「うん。綺麗な手だね」
「そんなことは」
「いや本当に。京の姫様って感じがする」
菫はまた嬉しそうに笑う。
泰能の眉がぴくりと動いた。(なぜ私より褒めておるのだ)
しかも次から次へと言葉が出てくる。褒め言葉に淀みがない。考えている様子すらない。
相手を喜ばせるためなら、まるで息をするように言葉が出てくる。
そして菫は、そのたびに楽しそうに笑う。泰能はその光景を眺めながら、ようやく理解した。
――この童は。
戦場よりも女御の御殿へ放り込んだ方が危険なのではないか。
そんなことを本気で考えてしまうのだった。
泰能はこれからのことを考えると、どうにも嫌な予感がしていた。
三日前に転がり込んできた十歳児は、ただ居候しているだけではない。人を巻き込む。しかも本人にその自覚がない。それが何より厄介だった。
そして、その予感は正しかった。
その日も今川館での務めを終えた泰能は、夕刻になって屋敷へ戻ってきた。だが門をくぐった瞬間、違和感を覚える。
侍女の出迎えがない。
いつもなら菫も顔を見せる。ところが今日は誰もいない。
静かなはずの屋敷の奥から、代わりに騒がしい声だけが響いていた。
「違いますわ! あなたが夜狼衆です!」
「違います!」
「怪しいですわ!」
「私は村人です!」
「菫様、本日だけで五人も亡き者にしております!」
「まあ!」
「貴ちゃんも四人ほど追放しておりますわ!」
「それは必要な犠牲!」
「必要ではありません!」
何を言っているのか分からない。だが聞こえてくる単語だけはやたらと物騒だった。
亡き者。追放。夜狼衆?。裏切り。
怪しい。怪しすぎる。泰能の顔色が変わる。
まさか本当に何かあったのか。足早に廊下を進み、勢いよく襖を開けた。
「何をやっておる!」
部屋の中では紙が何枚も並べられ、菫と侍女たち、それに貴丸が輪になって座っていた。
全員が真剣な顔をしている。そのくせ妙に楽しそうでもある。
菫がぱっと振り返った。
「あら、お前様。お帰りなさいませ」
「何事だ」
「夜狼衆芸夢ですわ」
菫は嬉しそうに答えた。
「なんだそれは」
「貴ちゃんが教えてくださいましたの」
「朝からずっとやっておりますのよ」
侍女までもが楽しそうに言う。
泰能はゆっくりと貴丸へ視線を向けた。貴丸は悪びれる様子もなく笑う。
「面白いよ? 弥太さんもやる?」
「そういう話ではない」
夜狼衆芸夢。貴丸が考えたという遊戯らしい。
村人の中へ紛れ込んだ夜狼衆――すなわち裏切り者や間者を見つけ出す遊びだという。
昼には議論を行い。夜になると夜狼衆が密かに人を消す。
目付は正体を探り。狩人は仲間を守り。陰陽師は消えた者の素性を調べる。
互いの言葉や態度を読み合いながら進める駆け引きの遊戯だった。
泰能には何が面白いのか分からない。だが菫は違った。
「お前様も一度だけ、いかがです?」
そう言って少し首を傾げる。目は期待に輝いていた。その可憐な顔で見上げられた瞬間。
泰能の敗北は決まった。
「……一度だけだぞ」そう言って輪の中へ座る。
そして。
気付けば日が沈んでいた。
気付けば夜になっていた。
気付けば侍女がおにぎりを握っていた。
気付けば皆がおにぎりを食べながら議論していた。
気付けば深夜だった。
気付けば夜明けが近付いていた。
そして。
気付けば朝だった。
部屋の隅では貴丸がいつの間にか丸くなって寝ている。
侍女たちは死人のような顔をしていた。
泰能も頭が働かない。昨夜握ったおにぎりはすっかりカピカピだ。
それを無言で齧りながら出仕の支度を整える。
(何をしているのだ私は)心の底からそう思った。
だがもっと恐ろしいものがあった。
部屋の中央。菫だけは元気だった。
目を輝かせ。頬をほんのり紅潮させ。
まるで祭りの日を迎えた子供のような顔をしている。
「では皆様」
菫がにこりと微笑んだ。
侍女たちが嫌な予感を覚えた顔になる。
「次の夜狼衆芸夢を始めましょう」
部屋の空気が凍った。
「ちなみにこれで二十五回目ですわ」
一人の侍女が静かに天を仰いだ。
もう一人は畳へ額を押し付けた。
さらに一人は魂が抜けかけている。
それでも菫だけは楽しそうだった。
そして。
当の発案者である貴丸は。
「ふぁぁ……」
大きな欠伸をしながらようやく起き上がり、「朝ご飯ある?」と聞いた。
泰能は無言で拳を握った。
本気で一度殴ってやろうかと思った。
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そして、現代。
初夏の陽光が降り注ぐ三嶋大社。
朱塗りの社殿の周囲には無数の幟が立ち並び、人々が境内を埋め尽くしていた。
老若男女。国内だけではない。英語、中国語、フランス語、スペイン語。
様々な言葉が飛び交っている。境内中央には巨大な特設会場。
その上には大きく掲げられた文字。
――第七十二期夜狼衆名人位決定戦。
会場の熱気は尋常ではない。
数百年前に一人の女性、朝比奈童(当時)が考えたと言われる遊戯は、今や世界で数億人が親しむ競技へと変貌していた。
大型映像モニタには対局室の様子が映し出されている。
緊張した表情の挑戦者達。腕を組み沈思する現名人。
静寂。そして歓声。
全国へ生中継される放送席では実況が興奮気味に語っていた。
「さあ皆様、こちら静岡・三嶋大社では歴史ある、第七十二期夜狼衆名人位決定戦が行われております!」
実況席の背後にも観客が溢れている。
「解説には夜狼衆・朝比奈流宗家二十一代目、朝比奈胡蝶先生をお迎えしております。本日はよろしくお願いいたします」
上品な和装姿の女性が微笑んだ。
「よろしくお願いいたします」
「今や世界百十六カ国で競技人口を持つ夜狼衆芸夢ですが、先生はどのようなお気持ちですか?」
胡蝶は少しだけ空を見上げる。
「そうですね。初代朝比奈菫見院様の頃から続く遊戯ですので、それが世界中の方々に楽しまれていると思うと感慨深いものがあります」
実況も頷いた。
「夜狼衆史を紐解きますと、始まりは戦国時代。駿河へ嫁いだ菫見院様が侍女たちと遊ばれていたものが原型だと伝わっていますね」
「はい」
「しかも当時の記録によりますと、その遊戯を持ち込んだのは、朝比奈家へ遊びに来ていた一人の子供だったとか」
胡蝶が苦笑する。
「そう伝わっております」
「近年では、その人物こそ今話題の『戦国不精』ではないかという説も有力ですね」
会場のあちこちから笑いが漏れた。
胡蝶もまた笑みを浮かべる。
「ええ。初代菫見院様の日記や書状には頻繁に登場しておりますので」
「どのような関係だったのでしょうか」
「今で言うなら年齢差のある親友でしょうか」
大型映像モニタには古文書の映像が映し出される。
『貴ちゃん、本日も夜狼衆芸夢にて大暴れなり』
『貴ちゃん、夜狼衆となれば必ず嘘を申すゆゑ、かへって分かりやすし』
『貴ちゃん、途中にて眠り給ひぬれば、本日の芸夢これにて仕舞なり』
会場から笑いが起こる。
実況も思わず吹き出した。
「五百年前の日記とは思えませんね」
「朝比奈家では有名なお話です」
胡蝶は微笑む。
「なお、初代菫見院様は晩年まで夜狼衆芸夢を楽しまれ、記録によれば一日に二十六局行ったこともございます」
「二十六局!?」
「侍女たちは大変だったそうです」
会場から再び笑いが起こった。
その時だった。
実況の声が一段高くなる。
「おっと!」
会場全体がざわめく。
大型映像モニタへ視線が集中した。
対局室。現名人が静かに顔を上げる。
そして卓上の札へ手を伸ばした。
胡蝶の表情が変わる。
「これは……」
実況も息を呑む。
「出ました!」
現名人が札を表へ返す。
観客席から大歓声が湧き上がった。
「現名人、ここで切り札の『放浪僧』を公開!」
「決まりましたね」
胡蝶が静かに頷く。
「これは初代菫見院様が考案した伝説の定石――『貴ちゃん殺し』です」
実況が目を丸くする。
胡蝶は当然のように答えた。
「もっとも、初代の名前は『貴ちゃん黙らせの手』だったそうですが」
場内が爆笑に包まれた。
五百年前。
駿河の一室で始まった暇つぶしの遊びは。
当の発案者すら知らぬまま。
今なお世界中の人々を熱狂させていた。