軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第121話 白粉

先ほどの竜王丸への処方については、まず試してみるということになった。

薬が効くかどうかは誰にも分からない。だが、何もしなければ良くなる見込みもない。氏親も桂殿も、その一点については同じ考えだった。

ひとまず話がまとまり、座敷に少し落ち着いた空気が流れる。

その中で、氏親は腕を組みながら何かを考え込んでいた。

やがてふと顔を上げると、元伯へ視線を向ける。

「桑折殿と元伯殿とで、相馬と大和田の名代として上洛し、帝へ献上するのであったな」

「左様にございます」元伯が静かに頭を下げた。

氏親はふむ、と顎髭を撫でる。

「では、この今川もひと口乗らせてもらおうかの」

その言葉に、貴丸も泰能も桂殿も思わず目を見開いた。

今川が加わる。それは心強い話ではある。

しかし同時に、今川ほどの大勢力が前へ出れば、どうしても人々の目はそちらへ向く。それは相馬と大和田の働きが霞んでしまうことも意味していた。

氏親はその空気を察したのか、小さく笑う。

「案ずるな。今川が前へ出れば、相馬殿や大和田殿の功を奪うやもしれぬ。うちは少々大きすぎるのでな」

どこか自嘲めいた言い方だったが、それは紛れもない事実だった。

駿河・遠江を治める今川家は、ただの戦国大名ではない。足利将軍家と同じ源氏の流れを汲む名門中の名門であり、代々守護として国を治めてきた家柄である。

奥州で勢力を誇る相馬家とて有力者ではあるのだろうが、家格だけを比べれば隔たりは大きいのだ。氏親が何気なく口にした言葉一つにも、それだけの重みがあった。

それもあって、京の公家たちも、まず今川に目を向けるのだろう。

「故に今回は脇を固めるのみじゃ。主役は相馬と大和田。それで良い」

氏親はそう言い切った。その言葉には大名としての余裕があった。

功を奪う必要がない。だからこそ譲れる。それが今川家当主としての器でもあった。

そして氏親は不意に泰能へ顔を向けた。

「ちょうど良い。泰能。そなた、まだ義父の中御門殿へは対面しておらなんだな」

泰能はわずかに眉を動かした。

「はい。書状のやり取りはございましたが、お顔を拝したことはございませぬ」

「そうであったな」

氏親は頷く。泰能の正室は中御門宣秀の娘である。

婚姻は成立しているものの、当人同士が直接顔を合わせたことはない。距離を考えれば、それ自体は珍しいことではなかった。

氏親は続けた。

「ならば良い機会じゃ。そなたも上洛せよ。中御門殿に挨拶し、今川からもささやかな献上を行うが良い」

「はっ」

「ただし忘れるな」

氏親の声が少しだけ厳しくなる。

「此度の主は相馬と大和田じゃ。今川は脇を固めればそれで良い」

「承知いたしました」泰能は深く頭を下げた。

しかし顔を上げた瞬間、その視線が一度だけ貴丸へ向けられる。

ほんの一瞬。だが、何とも言えぬ苦い表情だった。

京へ行けば、またこの妙な童と長旅を共にすることになる。しかも献上品にはまず間違いなく、貴丸が持ち込んだ品々も含まれるのだろう。

泰能としては複雑である。

当の貴丸はそんなことなど露ほども気付いていなかった。貴丸にとって京とは、帝がおり、公家がおり、都人が行き交う都だ。

前世では歴史の本や映像で見たことがあり、修学旅行で数日訪れた記憶もある。だが、この時代の京はまったく別物である。

戦乱の世を生きる人々が集い、帝と公家が実際に暮らし、日々人が行き交う都なのだ。

そんな貴丸を見て、泰能は小さくため息を吐いた。(道中、何も起きねば良いのだがな……)

だが、その願いはあまりにも切実で、そしてあまりにも望み薄だった。貴丸が大人しくしていた試しなどない。

少なくとも貴丸を知る者たちは、胸の内に同じ不安を抱いていた。

――嫌な予感しかしなかったのである。

その場の空気が少し落ち着いた頃、貴丸が、どこか言いづらそうに口を開いた。

「あの……桂様。今、お腹にややこがいますよね……その……白粉は、なるべく控えた方がいいと思うんだけど…」

一瞬、座敷の空気が止まった。

氏親の目がすっと細くなる。

「……その理由を申してみよ」低く、探るような声だった。

貴丸は一度言い淀み、それでも言葉を続けた。

「白粉には、鉛が含まれていることが多いんで」

その言葉に、泰能がわずかに身を動かす。

貴丸は続けた。

「普通の毒は、時間が経てば体の外に出ていくの。便や尿としてね。でも鉛は違う。体の外に出にくくて、少しずつ体の中に溜まっていく」

座敷の誰も口を挟まない。

「それが溜まると、肌荒れや腹の不調、それから手足の痺れが出ることがあるって。さらに進むと、指先が痛むようになることもあるんだって」

貴丸はそこで一度言葉を切り、周囲を見回した。

「そうなった人、公家の人とか、白粉を長く使っている女房衆に、多くない?」

静寂が一段深くなる。

「それと……できれば妊娠中は、胡粉とか米粉、白土、貝殻の粉末みたいな、そういう鉛の入っていない白粉の方がいいと、唐土の医書で見たことがあるんだよね……鉛はやや子が流れやすくなるって…」

最後に、少しだけ言い訳のように付け加えた。

「たしか……そんな記述があったと思う」

その瞬間、桂殿の顔色がわずかに変わる。氏親もまた、わずかに眉を動かした。

泰能に至っては、表情を硬くしたまま黙り込んでいる。泰能の妻もまた公家の出で、白粉とは縁が深い。

氏親は短く息を吐いた。「泰能。医師を呼べ」

すぐに命が飛び、ほどなくして先日呼ばれた医師、林宗閑が座敷へと通された。

宗閑は深く頭を下げる。

氏親は単刀直入に問うた。

「鉛の毒が体に悪いと聞いたが、どうであるか」

貴丸も補足するように口を開く。

「白粉を使う者に、肌荒れや腹の不調、手足の痺れが多いのではないかと……そういう話なんだけど」

宗閑は一度、静かに目を閉じた。

「少なくとも、医の現場ではそのような“鉛”という因果は聞いたことがございませぬ」

その言葉に、座敷の空気がわずかに緩む。氏親も桂殿も、ひとまず息を吐いた。

だが宗閑は続けた。少し考える間があった。

「ただし……経験として申しますれば、公家の方や、白粉を多く用いる奥方衆には、確かに肌荒れ、腹の緩み、手足の痺れを訴える者が多いようにも思われます。年を重ねるにつれ、指先の痛みを言う者もおりますな」

その一言で、空気が再び重く沈む。

「……ほう」氏親の声が低くなる。

桂殿は、無意識に自らの手を見下ろした。

泰能は顔をこわばらせたまま俯いた。

貴丸は慌てて首を振った。

「俺の知識も、そんなに有名な本ではなかったから、……確かなことは言えないんだけど。ただ、頭の片隅にでも心に留めておいてもらえれば」

そう言って、深く頭を下げた。

しばしの沈黙ののち、氏親が静かに言った。

「うむ……助言、かたじけない。心の片隅に留めておこう」

そう言いながらも、その顔にはわずかな思案の影が残っていた。

桂殿はその後も、何度か自らの手を見つめ、何かを確かめるように黙り込んでいたのだった。

そして、貴丸と元伯、宗閑が退出した。

襖が閉まると、座敷にはしばし静寂が落ちる。氏親は肘掛けに腕を置き、考え込むように視線を落としていた。

やがて隣へ目を向ける。

「桂、貴丸殿をどう見る」

桂はすぐには答えなかった。先ほどまでのやり取りを思い返すように、静かに目を伏せる。

「ただ者ではございませぬな」

短い言葉だった。だが、それだけでは終わらない。

「お前様の言った通り、礼を知り、学を知り、人の機微も知っておりまする。あの年頃の童ならば、褒められれば舞い上がり、叱られれば膨れるもの。されど貴丸殿には、それがございませぬ」

氏親も黙って聞いている。

桂は続けた。

「竜王丸への進言も、白粉の件も、ただの思いつきではございますまい。何かしら理があって申しておるのでしょう」

そして僅かに首を傾げた。

「されど、不思議な童にございます。学のある童ならば他にもおりまする。利発な童もおりまする。しかし、あの童は少々異なります」

桂は言葉を探した。

「一歩も二歩も先から物事を見ておるような……」

氏親の口元が緩む。まさしく自分も抱いた感想だったからだ。

桂は静かに結んだ。

「味方であれば心強くございましょう。されど敵に回れば厄介にございます。何より恐ろしいのは、自らを不精者と申して、誰もが笑うことでございましょう」

氏親の眉がわずかに動く。

「先ほども、あれほどの手柄を語りながら、最後には怠け者だから務まらぬと笑わせておりました。人は、ああして笑わされれば警戒を解きまする。あれが計らいであるならば、末恐ろしき童にございましょう」

氏親は小さく息を吐いた。「左様よな」

そして閉じた障子へ目を向ける。

「わしも同じことを思うた。あれがただ利発なだけの童とは思えぬ」

そして小さく息を吐いた。

氏親の視線は閉じられた障子へ向く。

「あれがただの利発な童ならばよい。されど、あまりにも出来過ぎておる」

そう言って苦笑した。

「物の怪であると言われても驚かぬし、神仏の寵を受けた童であると言われても否定できぬ」

座敷が静かになる。

やがて氏親は泰能へ目を向けた。

「泰能、お前は誰よりも長く貴丸殿とおったな。どう見るのだ?」

泰能は言葉を選んで告げる。

「普段は不精者にございます。放っておけば昼まで寝ておるような童にございます」

その言葉に氏親と桂が微かに笑う。泰能も苦笑した。だが、その表情がすぐに引き締まる。

「しかし――、私には、あの童が私たちと同じ景色を見ておるようには思えませぬ」

氏親の眉が僅かに動く。

「申してみよ」

「病を語れば、まるで以前より知っておったかのように申しまする。人のことを語れば、その者が何を望むかを知っておるように動きまする」

泰能は静かに続けた。

「お方様の言う通り、私どもが山を歩いておるなら、あの童だけは空の上から山全体を眺めておるような……そのような薄気味悪さがございます」

桂が小さく目を細めた。

泰能はさらに言う。

「されど、今のところは悪しき童には見えませぬ」

「ほう」氏親が僅かに笑った。

実に泰能らしい答えだった。

「将来、竜王丸様と誼を結ばせ、それを絶やさぬこと。それが今川のためとなりましょう」

氏親は腕を組む。

しばらく考えた後、静かに言った。

「泰能、お前はこれより貴丸殿と京へ向かう。ならば見極めよ」

氏親の声から笑みが消えた。

「才ある者か、それとも災いを呼ぶ者か」

座敷の空気が重くなる。

氏親は真っ直ぐ泰能を見た。

「もし今川に仇なすと見れば斬れ」

泰能の目が僅かに見開かれる。

「されど、もし我らの及ばぬ大器であるならば、その目で見届けよ」

本気だった。だからこそ泰能も余計な言葉を挟まない。

静かに頭を下げる。

「承知仕りました」

氏親は小さく頷いた。

だがその目には、どこか期待する色も混じっていた。

氏親は障子へ目を向けた。

あの童が何者なのか。それはまだ分からぬ。

ただ――あれを敵に回すのは避けたい。

そう思った。