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「お姉さまだけが家族の肖像画にいらっしゃらないのね」と嬉しそうな妹が笑っていられるのは今のうちだけ。

作者: 空丘ジル

本文

「この肖像画、本当に素敵だわ。あら、でも……家族全員が揃っているものと思っておりましたけれど、お姉さまだけがいらっしゃらないのね。私、今の今まで気付きませんでしたわ」

妹のグルジアが、嫌味な笑みを貼り付けた顔でわざとらしく呟く。

その執拗な当て擦りを耳にするのは、もう何度目になるだろう。

我がトルエン侯爵家では、数年置きに家族の肖像を画家に描かせるのが常であった。

しかし、今広間に掲げられている絵には、祖父母と両親、そしてグルジアの姿しかない。

一番最近の肖像画を描かせた折、長子である私、セシルは初めての領地視察を命じられ、邸を不在にしていた。

後日、街で偶然行き遭った画家は、私を見るなり恐縮の極みといった風に頭を下げた。

「当初は別の日取りで承っていたのです。しかし、グルジアお嬢様がわざわざ私のアトリエまで足を運ばれ、日付を無理に変更なさいました。……後日、セシルお嬢様を描き足す心積もりで、その分の空間はあらかじめ空けておいたのですが」

「……」

「グルジアお嬢様から、一刻も早く手元に置きたいゆえそのままで構わない、と」

「……そう。報せてくれて感謝します」

絵に走る違和感の正体はそれだった。背景の絵の具だけが無機質に塗られた、不自然な空白。

グルジアの仕掛ける陰険な嫌がらせなど、数え上げれば切りがない。

普段であれば、このような稚拙な企みに傷つくような私ではなかった。

ただ、喪失感だけが昏く胸に沈殿している。この絵が仕上がって間もなく、母は病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。私たちが「家族」としてひとつの絵に収まる機会は、永遠に失われたのだ。

妹が口を開けば必ず棘のある言葉を吐き出すようになったのは、一体いつからだったろうか。

もはや記憶の輪郭すら朧気な、ごく幼い時分から、その兆候はすでに現れていた。

「お姉さまは本当に感心なことですわ。そのような頭ばかりが大きく、みっともないお姿でありながら、毎日健気に学園へ通っていらっしゃるのですもの」

それが私が学園の幼等部へ籍を置いた頃の嫌味であったから、当時の妹はまだ六歳に満たぬほどだったはずだ。

彼女の悪意は、それほどまでに年季が入っている。

そして、妹は極めて狡猾であった。

自身が逆立ちしても私に敵わぬ領域――すなわち、学業の成績や武芸の類については、頑なに口にしようとはしない。彼女は常に、私の急所となり得る痛点だけを正確に見つけ出し、針を突き立てるように執拗に刺してくるのだ。

私はそのすべてを黙殺し、ただ、己に課せられた次期侯爵という厳然たる身分に恥じぬ人間となるべく、自己研鑽の日々に身を投じるのみであった。

そうして時は流れ、ある日突然、父が病に倒れた。侍医の見立ては冷酷だった。余命は、もういくばくもないという。

病床の父はすでに、自らの足で歩むことも、言葉を紡ぐことも叶わぬ身となっていた。わずかに動かせるのは、震える腕と、微かな首の傾げ。それだけが、外の世界へ向けられた父の唯一の窓口であった。

私は可能な限りの時間を父の枕元で過ごし、その痩せ細った手をそっと握り締めては、静かに語りかけた。幼き日の幸福な記憶。厳しくも温かかった父への、尽きせぬ感謝。そして、この家も領地も、我が全身全霊を賭して守り抜くという誓い。

それを遮るように、妹が気まぐれな足取りで病室へ現れたのは、そんな折のことだった。「お姉さまは夜通しこの部屋にへばりついていらっしゃるのだから、少しは 退(ど) いてくださる? 目障りですわ」 そう言って、彼女は私を布張りの豪奢な安楽椅子から立ち上がらせると、自らはその場にどっかりと腰を据え、父に向かって一方的に話し始めるのだった。

「今日、刺繍の指南役にいたく褒められましたの。何とも見事な大輪の薔薇ですこと、と。それに引き換え、お姉さまの針仕事は随分と独創的でいらっしゃること。一体何を 象(かたど) ったものか見当すらつかないのですもの」

「……」

「それから、本日は第二王子殿下から直々にお声を掛けていただきましたわ。殿下が私を気にかけておいでなのは疑いようもありません。もし、第二王子妃にと乞われたなら、私はどう応じるべきかしら。お姉さまの身の上であれば、天地が覆っても有り得ぬお話ですけれど」

「……」

「けれど、お父さまのことですもの。きっと私を次期侯爵に指名するお心積もりでいらっしゃるのでしょう? 分かっておりますわ。お姉さまのような無骨な方に、この家を委ねられるはずがありませんものね」

「……」

「あら、お父さまの御爪がずいぶんと伸びていらっしゃること。お姉さまったら、四六時中この部屋にへばりついているくせに、何て気の利かないことかしら。お姉さま、早く爪切りのハサミを持ってきてくださらない?」

手出しをするには危うい、お止めなさい、と私が制するのも聞かず、妹は「まあ、煩わしい」と不快げに顔を 顰(しか) め、父の従者へ直ちに道具を持参するよう命じた。

そうして手に入れたハサミを、見るからに危なっかしい手つきで握り締めると、横たわる父の指先へあてがう。

そのような真似は看病人に委ねなさい、と重ねて言葉を放つ私を、妹は「煩いわね、私の邪魔をしないで頂戴!」と金切り声で一喝した。

――その直後、一条の鮮血が室内に飛び散った。

妹は弾かれたように立ち上がると、「お姉さまが横から邪魔をなさるせいですわ!」と、吐き捨てるように言い残して部屋を去って行った。

私は慄然としながらも、すぐさま父の指の手当てに取り掛かった。

血を拭い、傷口を処置し終えた後、私はたまらず父の枕元に突っ伏した。堰を切ったように、微かな呟きが漏れ出す。

「お父様、お願いです、どうか逝かないで……。あの子と二人きりで、この家を背負っていくなど、私には……」

その時であった。父の、大きく骨張った掌が、私の頭の頂へそっと乗せられたのは。

父は、私の髪を慈しむように、静かに撫でてくれたのだ。

私は息を呑み、弾かれたように父の顔を仰ぎ見た。

父の口元は、微かに、本当に微かに緩んでおり、私を見つめるその瞳が、深く深く頷いたように見えた。

父がこの世を去ったのは、その夜のことであった。

厳かに執り行われた葬儀の場でも、妹はまるで自身が厳然たる喪主であるかのように尊大に振る舞った。その不遜な態度を見かねた執事が静かに苦言を呈すると、妹は「黙りなさい、使用人風情が」と、衆目の前で声を荒らげた。

私が一歩前に進み出、「貴女に、喪主としての然るべき挨拶の用意があっての所行ですか?」と問いかけると、妹は毒気を抜かれたかのように、すごすごと私の背後へ退いた。

数日後、司法省から遺言執行人が当家を訪れた。

彼は厳粛な面持ちで、父が遺した最後の意思を読み上げる。

『トルエン侯爵家の爵位、領地、および一切の財産を、長子セシルへと譲渡する。

次子グルジアについては、本日を以てトルエン侯爵家より廃籍とし、本人の私物以外の資産の持ち出しを厳に禁ずる。直ちに当館より退去させ、以後、二度と門をくぐることを許してはならない』

「狂言だわ!」

妹は、執行人と私を交互に激しい眼差しで睨みつけた。

「狂言ではございません。私自らがこのお邸へ参上し、生前のトルエン侯爵閣下より直接手渡された正真正銘の遺言書でございます」

執行人が淡々と応じるも、妹の気色は変わらない。

「信じるものですか、でっち上げよ! お姉さまと裏で手を組んだに違いないわ!」

「私がしかと見届けております。旦那様が遺言をしたため、署名なさるその瞬間まで、私はその傍らに仕えておりました」 執事が進み出、厳かにその事実を明言した。

それでもなお、妹は「そんなはずはないわ! お父様が愛していらしたのは、私だけよ!」と狂ったように暴れた。執行人は一瞥をくれると、同行させていた騎士に命じ、暴れる妹を拘束して何処かへと連れ去らせた。

静寂が戻った室内で、彼は「……まだ、続きがございます」と告げ、再び書面に目を落とした。

『愛する娘、セシル。

君が女侯爵として、この家を立派に切り盛りしていく器量を持っていることを、私は微塵も疑ってはいない。

しかし、貴族社会とは陰湿な嫌味と当てこすりが渦巻く伏魔殿だ。そのような泥濘へ、無垢なままの君を放り込むことだけが、私の懸念であった。

だが、我が家にあの娘が生まれた。これまでグルジアの悪意に満ちた言動に耐え、よくぞ気高く生きてくれたね。父は君を心から誇りに思う。

そして、理不尽から庇ってやれなかったことを、深く詫びたい。しかし、あの陰湿で執拗な嫌味を受け流し続けた今の君ならば、社交界のいかなる毒に満ちた言葉も、軽く笑い飛ばせるはずだ。

セシル。愛する我が娘よ。

君のこれからの躍進を、私は天より信じている』

父が遺したあまりにも深い真意を知り、私の目からは静かに涙が零れ落ちた。

「妹君の常軌を逸した凶暴性を鑑み、当面の間、この邸には司法省より警護の兵を配置いたします」

執行人はそう言い残し、慇懃に一礼して去っていった。

私は、傍らに控える執事に静かに問いかけた。

「あの娘が、外で我が家の不名誉な噂を流しはしないかしら」

「貴族籍を剥奪され、泥に塗れた者の戯言など、一体どこの誰が耳を貸しましょう。もとより、あの者の本性を知る真っ当な貴族であれば、相手にすることすらいたしますまい」

その後、私は若き女侯爵として、領地経営と社交界の荒波にその身を捧げた。

いかなる貴族の嫌がらせも、父の言う通り、私の心を掠めることすら出来なかった。

今、私の傍らには、すべてを支え、優しく微笑んでくれる夫――かつて第二王子と呼ばれた人の姿がある。

のちに、我がトルエン侯爵邸に火薬を投げ込もうとした、頭の狂った不審な女が捕縛され、即座に処刑されたという噂を耳にした。だが、それが誰であったのか、私はその詳細を敢えて知ろうとは思わなかった。

そして、私は、あの不完全な肖像画を静かに見上げる。

きっと近いうちに、同じ画家の手によって描き直してもらうことになるだろう。

やがて生まれくる我が子が、かつて母の代わりにそこを陣取り、不遜に笑っていた何者かの影を――その忌まわしい記憶の破片すら、目にすることがないように。