作品タイトル不明
第九話 王家儀礼局に、私の机はありました
王家儀礼局へ初めて正式に入る朝、私は少しだけ早く王宮へ着いた。
まだ回廊の窓から差し込む光も薄く、女官たちの靴音もまばらだ。
夜会や園遊会のある日は、王宮は朝から華やかに目を覚ます。
けれど今日の北棟は静かだった。
紙と帳面と名簿と、そういうものを相手にする部署らしい静けさだと思う。
案内された部屋の扉を開けると、真っ先に目に入ったのは机だった。
新しく運び込まれたのだろう、窓際の一番奥。
天板の木目がまだ明るく、引き出しには小さな鍵がかかっている。
机の端には木札が一つ。
黒い墨で、癖のない字が書かれていた。
王家儀礼局補佐官 エルシェナ・リューネ
私は扉の内側でしばらく足を止めてしまった。
たかが木札だ。
でも、たかが木札ではなかった。
婚約者の席でも、臨時の代役でもなく、最初から私の名前だけが書かれた机だったからだ。
「気に入らないか」
後ろから低い声がして振り返る。
レオンハルト殿下が、灰色の外套を肩へ掛けたまま立っていた。
「いいえ」
私は慌てて一礼した。
「少し驚いただけです」
「机くらいで驚くな」
そう言いながらも、殿下の目は少しだけ柔らかかった。
「今日から、そこがあなたの席だ」
そう言われると、また少しだけ胸の奥が熱くなる。
私は木札へ視線を戻し、ようやく頷いた。
「……はい」
「喜んでいるようで何よりだ」
さらりと言われて、私は少しだけ困った。
この人はたまに、必要最小限の言葉でずいぶん深いところを突いてくる。
でも、嫌ではない。
部屋にはすでに二人、人がいた。
一人は以前も顔を合わせたマルタ女官。
もう一人は、濃紺のドレスをきっちり着こなした、年の頃三十ほどの女性だ。
髪は一糸乱れずまとめられ、書類の束を抱えた姿勢まで無駄がない。
彼女の視線はまっすぐこちらへ向けられていたが、歓迎というよりは測っている目に近かった。
「紹介しよう」
レオンハルト殿下が言った。
「王家儀礼局次席儀礼官、クラウディア・ベルム」
女性は一歩だけ前へ出て、簡潔に頭を下げる。
「次席儀礼官を務めております」
それだけだった。
声は低く、乾いている。
私を婚約破棄された令嬢として慰めるつもりも、王弟殿下の新しい気まぐれとして流すつもりもなさそうだった。
それは、むしろありがたい。
「エルシェナ・リューネでございます」
私も一礼を返す。
「本日より、補佐官として務めさせていただきます」
クラウディア次席儀礼官は、私の顔ではなく、木札の置かれた机を一度だけ見た。
それから、再び私へ視線を戻す。
「実力で座る席なら結構です」
言い方は冷たいが、正しいと思った。
だから私は少しだけ口元を緩める。
「そのつもりです」
すると、彼女の眉がほんの少しだけ動いた。
たぶん、もう少し萎縮した返事を予想していたのだろう。
「結構」
クラウディア次席儀礼官は短く言った。
「では、さっそく働いていただきます」
その即座さに、私はむしろ少し安心する。
仕事は早いほうがいい。
気まずさを温めても何も良いことはない。
「最初の案件は、王女殿下の婚約披露式典です」
机の上へ、ひと抱えもある箱が置かれた。
古い札、客名簿、過去の献立、招待先一覧、舞台図、動線図。
見ただけで頭が冴える。
私はそれを隠さなかったらしい。
マルタ女官が少しだけ楽しそうに目を細めた。
「好きそうな顔をしましたね」
「ええ、少し」
正直に答えると、レオンハルト殿下の口元がまたわずかに動いた。
王女殿下の婚約披露式典。
園遊会や晩餐会よりも格が高い。
王族だけでなく、婚約相手側の家、外国からの使節、王妃宮付き女官、護衛、楽団、神殿側の立会人まで絡む。
席次ひとつ、入退場順ひとつで、後から十年は語られる類いの催しだ。
「準備期間は?」
私はすぐに訊いた。
「十二日」
クラウディア次席儀礼官が答える。
「短いですね」
「短いわ」
彼女はあっさり言った。
「しかも前任の整理が甘い」
「整理が甘い、だけですか」
思わずそう訊いてしまった。
クラウディア次席儀礼官が、少しだけ目を細める。
「どういう意味」
「王宮の行事記録は、基本的に一か所だけには置かないはずです」
私は箱の封札を見た。
「儀礼局の本帳、王妃宮の控え、外務卿室か神殿側の写し。少なくとも三つのどこかには残る。ですから、完全に消えるほうが不自然です」
「ええ」
クラウディア次席儀礼官は短く頷いた。
「だから、整理が甘いと言ったの」
「なら、これは《《失われた記録》》ではなく、《《戻っていない記録》》ですね」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
抜けている。
それは怠慢にも見える。
けれど、戻っていない。
そう言い換えた瞬間、これは探すべき場所と、確認すべき相手がある話になる。
私は箱を開けた。
最初に目についたのは、去年の王妃主催晩餐会の客名簿だった。
次に、三年前の使節歓迎式の動線図。
そしてその下にあるはずの、昨年の王女殿下出席行事の席次束がなかった。
私は箱の中身をもう一度ざっと見渡す。
「……抜けていますね」
私が言うと、クラウディア次席儀礼官は腕を組んだ。
「何が」
「王女殿下関連の昨年度分です。舞踏会、春の音楽会、夏の神殿奉納式。その三つが見当たりません」
エミル書記官が慌てて紙束を見直し始める。
マルタ女官も箱の底まで手を入れた。
けれど、やはりない。
「本当にないわね」
マルタ女官が言う。
「なぜ分かったの」
クラウディア次席儀礼官の問いは短かった。
疑っているというより、確認している響きだった。
「王女殿下の行事だけ、札の色分けが違うからです」
私は箱の中の札束を指した。
「王妃宮主催は青札、外務絡みは赤札、王女殿下が主席の行事は薄金の札で揃えてあるでしょう?」
エミルがはっとしたように札の縁を見た。
たしかに、箱の中の金札は数が足りない。
「それに」
私は続ける。
「王女殿下関連の過去記録が抜けているのは不自然です。婚約披露式典で一番参照すべきなのは、王女殿下の動線と、どの家をどこまで近づけて良いかの前例ですから」
「……抜けていますね」
クラウディア次席儀礼官が、同じ言葉を低く繰り返した。
私は頷く。
「ただ、王宮全体から消えたわけではないはずです」
箱の底に残った札の色を見る。
「本帳にはありません。でも王妃宮の控えか、神殿奉納式なら神殿側の写しに残っているはずです」
「つまり」
レオンハルト殿下が短く言う。
「本帳だけが空いている」
「はい」
私は頷いた。
「本帳だけが空いているなら、王宮が記録を失ったのではありません。誰かが《《ここだけ空けた》》ということです」
マルタ女官の顔が少し険しくなる。
エミル書記官は、箱の横に置かれた持ち出し札へ視線を落とした。
「持ち出し控えを見ますか」
「お願いします」
私は答えた。
「薄金札の持ち出しと返却印だけで構いません」
「近衛にも照合させる」
レオンハルト殿下が言った。
「戻っていない記録なら、戻さなかった手がある」
クラウディア次席儀礼官が、ほんの少しだけ目を細めた。
「悪くない」
褒め言葉というよりは、中間判定みたいな言い方だった。
でも、それで十分だった。
最初から歓迎される必要はない。
仕事が通じるならそれでいい。
「抜けた記録は探します。ですが、探し終わるまで全体像を止める必要はありません」
私は机へ座った。
紙を広げ、まずは空の席次図を引き始める。
「王妃宮と神殿側の写しで骨組みは復元できます。本帳が戻っていない理由は、別に追えばいい」
「同時にやるのね」
クラウディア次席儀礼官が言う。
「はい」
私は頷いた。
「式典の準備と、記録欠落の確認は別の仕事です。混ぜると、どちらも遅れます」
王女殿下。
婚約相手の公子。
王妃殿下。
国王陛下。
レオンハルト殿下。
婚約相手側の父母。
神殿側。
外務卿。
それから各家の序列。
「王女殿下は、緊張すると入場速度が少し速くなります」
私がそう言うと、マルタ女官がすぐに顔を上げた。
「知っているの?」
「以前、春の音楽会で裾を踏みかけていらしたので」
あのときは、誰にも見えないよう女官がうまく支えた。
でも、私は見ていた。
そういう小さなことほど、席次や動線には大事だ。
「なら入場口の段差を一段減らす必要があるわね」
マルタ女官がメモを取る。
クラウディア次席儀礼官も何も言わずに頷いた。
「それから」
私は紙の上へ印をつける。
「婚約相手側の叔母君と、神殿側の立会司祭の導線は重ねないほうがいいです」
「理由は」
今度はクラウディア次席儀礼官がすぐに訊いた。
「去年の夏の神殿奉納式で、祝詞の順番をめぐって一度揉めています」
彼女が眉をひそめる。
たぶん、その記録も箱から抜けているのだろう。
つまり誰かは、この式典の準備を《《前例の少ない綺麗な紙》》から始めさせたかったのだ。
悪意か、怠慢か、その両方か。
どちらにせよ、やることは同じだった。
「それと、北部公爵夫人の甥君は夫人方の視線から少し外します」
「そこも理由があるのね」
マルタ女官が言う。
「ええ」
私は頷いた。
「あの方を《《見合いの札》》として使いたがる家が多すぎます。王女殿下の婚約披露式典で、別の縁談の場を作る必要はありません」
エミル書記官が、あからさまに嫌そうな顔をした。
「婚約披露式典なのに、別の縁談ですか」
「そういう場ほど、皆さまよく動くの」
私は紙の端へ小さく印をつける。
「だから、最初から動けない位置へ置きます」
レオンハルト殿下がわずかに目を細めた。
「そこまで読むか」
「読めます」
私は言い切る。
「前例を消したいなら、そこには消したい理由があります。人を動かしたいなら、そこには動かしたい欲があります」
部屋が一瞬だけ静まった。
クラウディア次席儀礼官が、初めてはっきりと私を見た気がした。
王弟殿下に気に入られた婚約破棄令嬢、ではなく、仕事をする人間を見る目だった。
「いいでしょう」
彼女は言った。
「まずは三日で仮案を。見せていただきます」
「承知しました」
私は頷く。
「ただし、抜けた記録の代わりに、王妃宮と神殿側の古い控えが必要です」
エミルが慌てて紙束を持ち上げる。
「ええと、それは」
「私が取る」
レオンハルト殿下が短く言った。
「必要なものを書け」
私はすぐに紙へ書き出す。
過去三年分の王女殿下出席行事一覧。
神殿側の随行序列。
婚約相手側家門の近親席配置。
王妃宮の控え女官動線。
それに、神殿奉納式の補注と、薄金札の持ち出し控え。
こういうとき、ほしいものをすぐ言葉にできる自分でよかったと思う。
「これだけで足りるか」
「今は」
私は答える。
「まずは骨組みを組みたいので」
骨組み。
そう口にした瞬間、少しだけ心が落ち着いた。
園遊会の崩壊のあと、私はようやく自分の仕事場へ来たのだ。
なら、やることは前と同じ。
相手が違っても、立場が変わっても、まずは崩れない骨組みを作るだけだ。
机の上の紙に、最初の線を引く。
王女殿下の席。
その前後の距離。
人と人との間に必要な呼吸。
それを決めるたび、頭の中がきれいに澄んでいく。
ここは、やはり私の席なのだと思えた。
それから半刻ほどして、扉口に小さなノックが響いた。
女官が一人、少しだけ青ざめた顔で封書を持っている。
「レオンハルト殿下」
「何だ」
「神殿側より、王女殿下の婚約披露式典に関して、正式な書状が」
私は思わず目を細めた。
来たか、と思う。
しかも早い。
過去記録を抜いた人間と、こういう揺さぶりはたいてい同じ時期に動く。
面倒だけれど、逆に言えば分かりやすい。
「拝見しても?」
私が訊くと、レオンハルト殿下は封書をそのまま私へ差し出した。
私は文面を読む。
祝詞の順。
誓約文の位置。
婚約相手側の家門紹介。
それらが神殿側の立会より先に置かれるなら、立会印の扱いを再確認する、と書いてある。
要するに、神殿を《《飾りの証人》》のように扱うなということだ。
「どうする」
殿下の問いに、私は封書を静かに畳んだ。
「祝詞の順は下げません」
そう答えた瞬間、クラウディア次席儀礼官の目が、少しだけ面白そうに細まった。