作品タイトル不明
最終話 補佐官エルシェナ・リューネとして、そしてあなたが選んだ人間として
夜会の翌朝、王宮はまた、何事もなかったような顔をしていた。
大広間の灯りは落とされ、贈答箱は片づけられ、会談卓の名札もすでに書記室へ戻されている。
廊下を歩く女官たちの足音は、いつも通りに整っていた。
昨夜、王妃不在の大使会議と夜会がどれほど細い線の上で成立していたかなど、知らない人には分からない。
成功した催しは、いつもそうだ。
無事に終わった瞬間から、まるで最初から何も危うくなかったような顔をする。
私は王家儀礼局の書記室へ入り、自分の机の前で足を止めた。
木札は、今日もそこにある。
王家儀礼局補佐官 エルシェナ・リューネ
昨日と同じ文字。
昨日と同じ机。
でも、私だけが少し違っていた。
昨夜、私はレオンハルト様へ答えを返した。
働いたまま、あなたの隣に立ちたい。
その言葉を口にしてしまったあとでも、この机は同じ場所にある。
それが、いちばん嬉しかった。
「おはようございます、リューネ補佐官」
クラウディア次席儀礼官が、いつものように紙束を抱えて近づいてきた。
顔はいつも通り。
声もいつも通り。
けれど、眼鏡の奥の目だけが、ほんの少しだけ面白がっているように見えた。
「おはようございます」
私は一礼する。
「昨夜の最終控えでしょうか」
「ええ」
彼女は紙束を机へ置いた。
「昼の大使会議、夕方の小宴、夜の会談兼夜会。すべて記録へ入れます」
「承知しました」
「それから」
クラウディア次席儀礼官は、少しだけ間を置いた。
「もう一つ、別の取扱も必要になるでしょう」
私は一瞬だけ黙った。
どの話か、分からないわけがなかった。
頬が熱くなりそうになるのを、どうにか仕事の顔で押さえる。
「……別の取扱、ですか」
「ええ」
彼女は淡々と言った。
「王弟殿下と王家儀礼局補佐官の私的関係が、局内の指揮命令と混ざらないようにするための取扱です」
「そこまで、もう」
「昨夜の大広間で、あなたが殿下を《《レオンハルト様》》と呼んだのを、聞いていない人間のほうが少ないわ」
私は机の端へ指を置いた。
そうだった。
大広間は静かだった。
人が減っていたとはいえ、完全に二人きりではなかった。
まして王宮で、王弟殿下の名を親しげに呼べば、それはもう十分に意味を持つ。
「申し訳ございません」
「謝る必要はありません」
クラウディア次席儀礼官は即座に言った。
「必要なのは謝罪ではなく、手順です」
「……はい」
「あなた、恋愛まで手順へ落とす顔をしましたね」
「混ざると、次に誰かが困りますから」
言ってから、自分でも少しだけ笑ってしまった。
クラウディア次席儀礼官も、ほんのわずかに口元を動かす。
「その答えなら結構です」
彼女は、黒表紙の薄い帳面を一冊、私の机へ置いた。
「では、まずは昨日の夜会の記録から始めましょう。私的なことは、そのあとです」
「承知しました」
私は椅子へ座り、ペンを取った。
その動作が、昨日と同じであることに安堵する。
答えを返したからといって、私の仕事は消えない。
恋を選んだからといって、机が遠ざかるわけではない。
その当たり前を、一つずつ形にしていく。
たぶん、それが今日の仕事なのだ。
最初にまとめたのは、夜会の流れだった。
王妃代理席を置かなかったこと。
主催者席の隣を空席のまま扱ったこと。
会談卓と贈答箱へ視線の中心を移したこと。
王妃宮付き女官、王家儀礼局、外務卿室、ヴァルブルク公爵令嬢が、それぞれ役目を分けて持ったこと。
一人の女性を王妃の代わりへ据えなかったこと。
それらを、結果ではなく手順として残す。
昨夜うまくいったから終わり、ではない。
次にまた誰かが不在になったとき、誰か一人を代用品として置かないために残すのだ。
「ここ」
クラウディア次席儀礼官が、私の文面を指した。
「《《空席に意味を置かない》》は、少し詩的すぎます」
「では」
「《《主催者席隣席は設置するが、役目を付与しない》》で」
「味気ないですね」
「記録ですから」
「そうですね」
私は素直に書き直した。
味気ない。
けれど、こういう味気なさが人を守ることもある。
詩的な言葉は、人の心には残る。
でも手順は動かせない。
動かすためには、味気ない言葉が必要なのだ。
エミルは、昨夜の発言順の揺れを外務卿室の控えと照合していた。
ロッテは、王妃宮付き女官たちの動きと白札の受け渡しを整理している。
マルタ女官は、夫人方の列で実際に起きた小さな視線の移動まで書き込んでいた。
フロレンティア様は、北列で受けた夫人方の噂と、その切り方を紙に落としている。
皆が、それぞれの机で昨日を残している。
その光景を見て、胸の奥が静かに満ちた。
私はもう、一人で全部を抱えていない。
そして、私がいなくても回る形へ少しずつ近づいている。
それは、自分が不要になることではない。
自分がした仕事が、誰かへ渡ることだ。
その違いを、今の私はもう知っている。
昼前、王妃宮から使いが来た。
王妃殿下が、南方の療養地から戻られたという。
予定より半日早い帰宮だった。
無理をなさったのではないかと一瞬だけ心配になったけれど、使いの女官は「ご機嫌はたいへんよろしいです」とだけ告げた。
その言い方で、何となく分かった。
王妃殿下は、昨日の報告を待っていたのだろう。
「リューネ補佐官」
女官が一礼する。
「王妃殿下が、王家儀礼局の記録を持って参るようにと」
「承知しました」
私は立ち上がり、昨夜の最終控えと、今朝まとめた取扱案を揃えた。
クラウディア次席儀礼官がそれを見て、頷く。
「一人で行ってかまいません」
「はい」
「ただし、恋愛の話をされても、職務の話を先に出しなさい」
「……はい」
「顔が赤い」
「気のせいです」
「なら、気のせいとして記録しません」
そんな冗談を言う人だっただろうかと思いながら、私は書記室を出た。
王宮の回廊は、昨日より少し明るく見える。
大使会議が終わったからだろうか。
それとも、私の心が昨日より少し軽いからだろうか。
王妃宮へ入ると、王妃殿下はいつもの長椅子に座っていらした。
顔色はまだ少し淡い。
でも、目はいつも通り澄んでいる。
扇の持ち方も、姿勢も、何一つ崩れていない。
この方は本当に、王妃という仕事を身体の中まで染み込ませている人なのだと思う。
「来たわね、エルシェナ」
「お戻りと伺いました」
私は深く一礼する。
「昨夜の記録をお持ちしました」
「ええ。まず、それを見せてちょうだい」
まず仕事。
その順番に、少しだけ安心した。
王妃殿下は、私とレオンハルト様のことをおそらくもう知っている。
それでも最初に求めたのは、昨夜の記録だった。
私を一人の女性として見る前に、補佐官として扱ってくださっている。
私は紙束を差し出した。
王妃殿下は一枚ずつ静かに読み進める。
時折、扇の先で文の端を軽く押さえ、ところどころで目を細めた。
「王妃代理席を置かなかったのね」
「はい」
「わたくしの席を、誰にも渡さなかった」
「はい」
私は少しだけ息を整えた。
「ただし、王妃殿下のご不在を欠落として見せないよう、王妃宮付き女官、贈答箱、会談卓の中心、夫人方の迎え列へ役目を分けました」
「よろしい」
王妃殿下は短く言った。
「誰か一人がわたくしの代わりになる形にしていたら、あとで叱るつもりでした」
「……それは、怖いですね」
「そうよ」
王妃殿下は少しだけ笑う。
「でもあなたなら、そうしないと思っていたわ」
胸の奥が、また少し熱くなる。
信頼されていた。
任されていた。
そして、それに応えられた。
その事実だけで、昨日の疲れが少し報われる。
「それから」
王妃殿下は、次の紙へ目を落とした。
「王弟殿下とリューネ補佐官の私的関係に関する取扱案」
「……はい」
「仕事が早いわね」
「混ざると困りますので」
「その通り」
王妃殿下は、扇を閉じた。
「恋愛は、王宮ではすぐ人事に変えられるの。誰が誰の隣に立つか。誰の名で席が動くか。誰が仕事を失うか。そういう話にされてしまう」
「はい」
「だから、先に紙にするのは良い判断です」
王妃殿下は取扱案を読み上げるように、静かに言った。
「リューネ補佐官は、婚約内定後も王家儀礼局補佐官の職を継続する」
「はい」
「王弟宮の私的補佐職へ移さない」
「はい」
「王弟殿下からの儀礼局案件の指示は、原則として次席儀礼官経由とし、私的関係を理由に命令系統を省略しない」
「はい」
「俸給、机、補助書記、記録権限を維持する」
「はい」
読み上げられるたびに、胸の奥が確かになる。
仕事を持ったまま、隣に立つ。
その言葉が、ただの願いではなく、形になっていく。
「よろしい」
王妃殿下は紙を閉じた。
「これを基に、国王陛下とわたくしの承認文を作ります」
「承認文……」
「婚約を認めるなら、先に条件を整えるのが当然でしょう?」
私は思わず顔を上げた。
王妃殿下は、まるで当然のような顔をしている。
「殿下から、もうお聞きに」
「聞いているわ」
あっさりした返答だった。
「昨夜のうちに、レオンハルトが報告に来ました」
「昨夜のうちに」
「ええ」
王妃殿下は、ほんの少しだけ目を細める。
「《《エルシェナが答えた》》と、ずいぶん短く」
「……殿下らしいですね」
「本当に、あの子は肝心なところほど言葉が少ないの」
私は少しだけ笑ってしまった。
王妃殿下も、同じように小さく笑う。
その笑いの中に、義姉としての親しさと、王妃としての冷静さが両方あった。
「エルシェナ」
「はい」
「あなたは、王弟殿下の婚約者になることを望みますか」
改めて問われると、胸が少しだけ早くなる。
でも、もう迷いはなかった。
「はい」
私は答えた。
「ただし、補佐官としての仕事を失わない形で」
「そうでしょうね」
王妃殿下は頷いた。
「それでいいのです」
一拍置く。
「恋を選んで仕事を失う女を、わたくしは何人も見てきました。逆に、仕事を守るために誰かを選ばない女も」
扇が静かに膝の上へ置かれる。
「でも本来、どちらかだけを選べと言われること自体がおかしいのよ」
「王妃殿下」
「あなたは、どちらも持ちなさい」
その言葉は、ひどく静かだった。
でも、今までいただいたどの言葉よりも強く胸へ入った。
「仕事も、名前も、選んだ人も」
王妃殿下は言う。
「ただし、全部持つなら、全部に責任を持ちなさい」
「はい」
私は深く頷いた。
「そのつもりです」
「なら結構」
王妃殿下は、机の上の小さな鈴を鳴らした。
女官が一人、控えの間から入ってくる。
「国王陛下へ。王弟レオンハルトと、王家儀礼局補佐官エルシェナ・リューネの婚約内定に関する承認文を。条件はこの取扱案の通り」
「承知いたしました」
女官が紙を受け取る。
私はその横で、少しだけ息を止めていた。
婚約内定。
その言葉が、初めて公的な形で置かれた。
でも、それ以上に私の耳に残ったのは、その前の言葉だった。
王家儀礼局補佐官エルシェナ・リューネ。
王弟殿下の相手としてだけではなく、補佐官として名を呼ばれた。
それが、何より大きかった。
王妃殿下は、そんな私を見て少しだけ目元を和らげる。
「机は下げません」
「……はい」
「あなたの木札も、そのままです」
「はい」
「でも、少しだけ忙しくはなるでしょうね」
「でしょうね」
私は、ようやく笑えた。
「それは覚悟しております」
「よろしい」
王妃殿下は扇を開いた。
「では、戻って働きなさい。婚約内定の承認文が整ったら、また呼びます」
「承知いたしました」
私は一礼し、王妃宮を出た。
回廊へ戻ると、胸の中がまだ少し熱かった。
けれど足元は、不思議なくらい落ち着いている。
私は浮かれて走り出すのではなく、自分の机へ戻りたいと思っていた。
たぶん、それでいいのだ。
午後、王家儀礼局の書記室には、少し妙な緊張が流れていた。
理由は分かっている。
王妃宮から承認文が届くことを、全員が何となく察しているからだ。
エミルは紙を落としそうになり、ロッテは妙に姿勢が正しく、マルタ女官は笑いを堪えているような顔をしていた。
クラウディア次席儀礼官だけが、いつも通りに見える。
けれど、彼女の机の端にはすでに新しい取扱帳面が用意されていた。
「皆さん」
私は、思い切って声をかけた。
「仕事をしましょう」
「しています」
エミルが慌てて答える。
その慌て方があまりに分かりやすくて、ロッテが小さく吹き出した。
私も少し笑ってしまう。
「噂より記録です」
「それは、補佐官殿が今一番言ってはいけない言葉では」
「どうしてかしら」
「ご自分が、今日一番の噂の中心だからです」
エミルが言ってから、自分で言いすぎたと気づいたように口を閉じる。
私は少しだけ首を傾げた。
「なら、なおさら記録です」
部屋が一瞬だけ静まり、それからマルタ女官が笑った。
「いいわね。噂より記録」
「それも貼りますか」
「局の入口が言葉だらけになるわ」
そんなやり取りをしていると、扉が叩かれた。
入ってきたのは、王弟宮の近衛だった。
彼は一礼し、王家の赤封がついた文書を差し出す。
「王妃宮ならびに国王陛下より、王家儀礼局へ通達です」
書記室の空気が、すっと整った。
クラウディア次席儀礼官が前へ出る。
「読み上げを」
「はい」
近衛は文書を開いた。
声はよく通った。
「王弟レオンハルト殿下と、王家儀礼局補佐官エルシェナ・リューネ嬢との婚約を内定とする」
胸が、静かに鳴った。
でも、文はそこで終わらなかった。
「リューネ補佐官は、婚約内定後も王家儀礼局補佐官の職を継続する」
「補佐官職に伴う俸給、机、補助書記、記録権限は維持される」
「王弟殿下の私的関係を理由として、王家儀礼局内の指揮命令系統を省略しない」
「婚姻後の職務継続については、本人の意志と王家儀礼局の必要に基づき、別途正式に定める」
「本件に関する問い合わせ、祝意、面会希望は、王弟宮または王家儀礼局外取次を通すこと」
「私的関係を理由とした儀礼局案件への干渉は認めない」
最後の一文まで読み上げられた瞬間、私は少しだけ目を閉じた。
欲しかったものが、全部そこにあった。
婚約。
補佐官職の継続。
机。
記録権限。
命令系統の保護。
私的関係を、仕事の便利な抜け道にしないこと。
私は、仕事を失わずに、レオンハルト様の隣に立つことを許されたのだ。
「リューネ補佐官」
クラウディア次席儀礼官が呼んだ。
私は顔を上げる。
「はい」
「承認しますか」
それは、形式上の確認だった。
けれど、とても大事な確認だった。
王家が認めたからではなく、私自身がそれを受け取るのか。
それを、ここで問うてくれる。
「承認いたします」
私は答えた。
「補佐官エルシェナ・リューネとして」
「結構」
クラウディア次席儀礼官は頷く。
「では、記録へ入れます」
ペンの音がした。
正式記録へ、文字が入る音。
婚約の記録であり、職務継続の記録でもある。
その両方が、同じ紙の上へ並んだ。
私はその音を聞きながら、胸の奥で小さく息を吐いた。
これでようやく、言葉が形になった。
ほどなくして、レオンハルト様が書記室へ入ってきた。
今日の彼は、王弟殿下としての顔をしていた。
公的な通達が出た直後だからだろう。
姿勢も、視線も、いつもより少しだけ硬い。
でも、私を見る目だけは柔らかかった。
「リューネ補佐官」
「はい」
私は立ち上がる。
彼は書記室の皆へ一度視線を向け、それから私へ戻した。
「通達の通りだ」
「はい」
「あなたの机は、そのままにする」
「はい」
「あなたの仕事も、そのままだ」
「はい」
「その上で」
ほんの少しだけ、声が低くなる。
「改めて、婚約者として迎えたい」
書記室は静まり返っていた。
これは、私的な言葉でありながら、公的な場での確認でもあった。
だから私は、逃げずに受け止める。
「お受けいたします」
私は一礼した。
「補佐官としての職を続けたまま、あなたの婚約者となることを」
レオンハルト様の目が、静かにやわらいだ。
次の瞬間、マルタ女官が小さく息を吐いた。
ロッテは目を潤ませ、エミルはなぜかものすごく真面目な顔でペンを握っている。
クラウディア次席儀礼官は、いつもの冷静な顔で言った。
「では、祝いは終業後に」
「今ではないのですか」
エミルが思わず訊いた。
彼女は即座に答える。
「今は勤務中です」
「ですよね」
「ただし、今日は終業後に茶を出します」
その一言で、書記室の空気がふっとほどけた。
私も笑ってしまった。
これでいい。
今は勤務中。
祝いは終業後。
あまりにもこの書記室らしい。
レオンハルト様も、ほんの少しだけ口元を動かした。
「では、終業後に」
「はい」
私は答える。
「終業後に」
そう言えることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
恋を選んでも、仕事の時間は仕事の時間として残る。
祝いも、私情も、終業後にちゃんと来る。
その順番が、今の私にはたまらなく愛おしかった。
当然のように、噂はその日のうちに王宮中を歩いた。
けれど、今度の噂は前とは少し違った。
王弟殿下が補佐官を選んだらしい。
でも、補佐官職は続けるらしい。
机もそのままらしい。
王家儀礼局の指揮命令は変えないらしい。
祝意は外取次を通すらしい。
つまり、誰かの隣に座る話だけではなく、誰かが自分の机を守った話として広がっていた。
それは、少しだけ愉快だった。
噂も、たまにはきちんと歩くことがあるらしい。
夕方近く、ヴァルブルク公爵令嬢が書記室へ現れた。
彼女はいつも通り優雅に一礼し、私の机の前まで来る。
「おめでとうございます、エルシェナ様」
「ありがとうございます、フロレンティア様」
「机が残って、本当によかったですわ」
「婚約より先にそこですか」
「もちろんです」
彼女はにこりと笑った。
「あなたの机がなくなったら、わたくし、少し怒っていたと思いますもの」
その言い方に、私は思わず笑ってしまう。
「怖いですね」
「ええ。敵に回ると面倒ですのよ」
「存じております」
フロレンティア様は満足そうに頷いた。
それから、ふと声を落とす。
「それにしても、良い形になりましたわね」
「そうでしょうか」
「ええ」
彼女は、私の机の木札を見た。
「王弟殿下の婚約者、という名だけなら、王宮はすぐあなたの仕事を飲み込んだでしょう。でも、先に補佐官として紙に残した。だから、簡単には消えません」
その通りだった。
名は、ときどき人を守る。
そして紙は、ときどき名を守る。
「フロレンティア様も、ありがとうございました」
「何をですの?」
「私の机を守る側にいてくださったことです」
彼女は一瞬だけ目を瞬いた。
それから、少し照れたように扇を開く。
「まあ」
その一言だけで、めずらしく言葉が続かなかった。
少しだけ勝った気がする。
もちろん、口には出さないけれど。
フロレンティア様が去ったあと、外取次から二通の封書が届いた。
一通は、ヴェルナー公爵家から。
もう一通は、リューネ家からだった。
私は少しだけ迷い、それからまずヴェルナー公爵家の封を切った。
中身は、正式な婚約解消手続きの完了通知だった。
カイル様との婚約は、両家合意の上で解消。
リネットとの婚約協議は凍結のまま終了。
今後、ヴェルナー公爵家は王家儀礼局およびリューネ補佐官の職務へ私的な申し入れを行わない。
最後に、ヴェルナー公爵夫人の署名で短い謝罪が添えられていた。
《《これまで、見えない仕事を当然のものとして扱っていたことを、家として深く恥じています》》。
私はその一文を、しばらく見つめた。
カイル様本人の筆ではない。
けれど、家としての謝罪だ。
それで十分だと思った。
もう一通は、リューネ家からだった。
こちらは父の名で、祝意と、今後の取次は正式な窓口を通すという短い誓約が書かれていた。
母の追伸はない。
リネットの言葉もない。
それがむしろ、今はよかった。
何か甘い言葉や泣き言が添えられていたら、きっとまた胸が痛んだだろう。
でも、これはただの公的な紙だった。
私は二通を、それぞれ別の控えへ入れた。
ヴェルナー家の通知は婚約解消控えへ。
リューネ家の書状は私信受領控えへ。
家の言葉が、ようやく紙の中で収まるべき場所へ収まった。
それを見て、静かに息を吐く。
もう私は、それらを胸の中だけで抱えなくていい。
「大丈夫ですか」
ロッテが控えめに訊いた。
私は頷く。
「ええ」
もう本当に、大丈夫だった。
「終わったというより、収まった気がします」
「収まった」
「ええ」
私は封筒を閉じる。
「あるべき場所へ」
ロッテは少しだけ考え、それから小さく笑った。
「それは、よかったです」
そう。
よかった。
過去をなかったことにはしない。
でも、もう私の机の上へ散らかしたままにはしない。
それでいい。
終業後、書記室には本当に茶が出た。
華やかな宴ではない。
大きな祝宴でもない。
ただ、机の上の紙束を端へ寄せ、茶器と焼き菓子を置いただけの、小さな祝いだった。
でも、それが私にはとても嬉しかった。
大広間ではなく、書記室。
飾りの椅子ではなく、私の机のそば。
誰かに見せるためではなく、ここで働く人たちが、少しだけ手を止めて祝ってくれる。
それが今の私に、いちばん似合っている気がした。
「おめでとうございます、補佐官殿」
エミルが少し緊張した顔で茶を差し出す。
私は受け取りながら笑った。
「ありがとう」
「その、これからも補佐官殿でよろしいのですよね」
「もちろん」
「よかったです」
彼は本気で安心した顔をした。
「急に王弟妃予定の方として扱えと言われたら、どうしようかと」
「私も困ります」
「ですよね」
そのやり取りに、マルタ女官が笑い、ロッテも小さく肩を揺らした。
クラウディア次席儀礼官は、茶を一口飲んでから言う。
「呼び方は、仕事では補佐官。私的な場では、相手による。取扱はそれで」
「はい」
「それから、殿下」
彼女はレオンハルト様へ視線を向けた。
「局内で私的に補佐官を連れ出す場合は、事前に私へ一言ください」
「分かった」
「分かった、ではなく、記録に残します」
「……承知した」
レオンハルト様が少しだけ真面目に言い直した。
その光景が少し可笑しくて、私は思わず視線を落とす。
クラウディア次席儀礼官は、本当に頼もしい。
たぶんこの人がいる限り、私は簡単には王弟殿下の婚約者という名に飲み込まれない。
「エルシェナ」
「はい」
レオンハルト様が、私の机の前に立った。
手には、小さな箱がある。
書記室の空気が、また少しだけ変わった。
「これは、終業後だから渡す」
「……はい」
彼が箱を開けると、中には細い銀の指輪が入っていた。
派手な宝石はない。
ただ、内側に小さく王家の印と、私の名が刻まれている。
外から見れば控えめで、でも確かな婚約の印だった。
「勤務中につける必要はない」
レオンハルト様は言った。
「紙を扱うのに邪魔なら、引き出しへ置けばいい」
「指輪を、そのように扱ってよろしいのですか」
「あなたの仕事の邪魔をするためのものではない」
その答えに、胸の奥が熱くなる。
「これは、あなたを縛る印ではない」
「では、何ですか」
「戻る先があるという印だ」
私は言葉を失った。
ずるい。
この人はやはり、甘い言葉を言うときまで実務のような顔をしている。
でも、その言葉が私にはいちばん深く届く。
「受け取ってくれるか」
「はい」
私は答えた。
「受け取ります」
指輪は、思っていたより軽かった。
でも、その軽さがよかった。
重く私を縛るものではなく、机の引き出しにも収まるもの。
仕事のときは外しても、意味が消えないもの。
私は指輪を一度だけ左手へ通し、それからそっと外して、机の小さな引き出しへ入れた。
書記室の人たちが、一瞬だけ驚いた顔をする。
でもレオンハルト様だけは、少しも驚かなかった。
「そこへ置くのか」
「はい」
私は引き出しを閉じる。
「今日の勤務中は、ここへ」
「よい」
「終業後に、またつけます」
そう言うと、彼の目がやわらいだ。
「それもよい」
たったそれだけのやり取りなのに、胸がいっぱいになる。
指輪をもらったからではない。
指輪を外しても、関係が崩れないと思えたからだ。
私の仕事と、私の選んだ人が、同じ机の引き出しに並んでいる。
それが嬉しかった。
茶の時間が終わると、皆は少しずつ書記室を出ていった。
クラウディア次席儀礼官は最後まで残って、取扱帳面を閉じる。
「リューネ補佐官」
「はい」
「明日から忙しくなります」
「でしょうね」
「婚約内定に関する祝意、問い合わせ、面会希望、噂、牽制。全部来ます」
「はい」
「でも、今日のうちに形を整えたので、かなり処理しやすいはずです」
「ありがとうございます」
「礼は仕事で返してください」
「皆さま、本当に同じことをおっしゃいますね」
「良い職場でしょう」
私は笑った。
「はい」
心からそう思った。
クラウディア次席儀礼官が去ったあと、書記室には私とレオンハルト様だけが残った。
窓の外はすでに夜だ。
王宮の灯りが、静かに回廊へ落ちている。
私は机の上の紙束を整え、今日の最後の控えへ署名した。
王家儀礼局補佐官 エルシェナ・リューネ。
その名を書いてから、少しだけペンを止める。
変わっていない。
でも、変わった。
私は補佐官のままだ。
そして、レオンハルト様の婚約者にもなった。
どちらか一つではなく、どちらも。
「エルシェナ」
「はい」
彼は、私の机の横へ立っていた。
「疲れたか」
「少し」
「今日はよく働いた」
「婚約内定の日なのに、仕事の感想ですか」
「あなたには、そのほうが嬉しいだろう」
「……はい」
本当に、そうだった。
「とても嬉しいです」
彼の口元が、わずかに動く。
私は椅子から立ち上がり、机の引き出しを開けた。
銀の指輪を取り出す。
終業後だから。
そう思うと、少しだけ笑ってしまう。
指輪を左手へ戻すと、さっきよりも自然に見えた。
仕事の手。
紙をめくる手。
札を動かす手。
そこに、指輪がある。
それは私の仕事を消さない。
むしろ、仕事を終えた私がどこへ戻るのかを示してくれる。
「似合う」
レオンハルト様が短く言った。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
「今日は、礼を言いたい日です」
「そうか」
「はい」
私は、自分の机へ手を置いた。
それから、彼のほうを見る。
「レオンハルト様」
「何だ」
「私は、補佐官エルシェナ・リューネとして、ここで働きます」
「ああ」
「そして、あなたが選んだ人間として、あなたの隣に立ちます」
「ああ」
「どちらも、私です」
彼は静かに頷いた。
「どちらも、あなたの名だ」
その言葉に、胸の奥がまた熱くなった。
何度も言われたようで、でも今日初めて本当に届いた気がした。
補佐官。
エルシェナ。
リューネ。
王弟殿下の婚約者。
そのどれもが、私の名になる。
どれか一つで消されるのではなく、重なっていく。
「では」
私は机の上の灯りを落とした。
「帰りましょう」
「どこへ」
「今夜は、まず王妃宮へご挨拶に」
レオンハルト様が一瞬だけ黙る。
それから、わずかに眉を上げた。
「今からか」
「はい。正式な承認をいただいたのですから、終業後にお礼を申し上げるのが筋です」
「あなたは本当に、順番を大事にする」
「儀礼局補佐官ですので」
「そうだったな」
彼は小さく笑った。
はっきりと見える笑みだった。
私はその顔を見て、少しだけ頬が熱くなる。
この人がこうして笑うのを、私はこれからもっと見られるのだろうか。
仕事のあとに。
机から離れたあとに。
そう思うと、胸が静かに弾んだ。
書記室の扉を閉める前に、私はもう一度だけ振り返った。
机がある。
木札がある。
引き出しがある。
明日も、ここへ戻ってくる。
かつて私は、誰かの隣の席を支えるために、自分の名前を薄くしていた。
妹は、その隣の席だけを欲しがった。
カイル様は、席を支える仕事を見なかった。
実家は、私を便利な娘として使い続けたかった。
でも今は違う。
私は、自分の机を持っている。
自分の名前で呼ばれている。
自分の仕事を続ける。
その上で、隣に立ちたい人を選んだ。
もう、誰かの代わりではない。
王宮の回廊へ出ると、夜の灯りが静かに並んでいた。
レオンハルト様が、私の半歩前ではなく、隣に立つ。
私は少しだけ歩幅を合わせた。
追いかけるのではない。
寄りかかるのでもない。
並ぶ。
それだけで、十分だった。
「エルシェナ」
「はい」
「明日からも、よろしく頼む」
「こちらこそ」
私は答える。
「レオンハルト様」
王妃宮へ続く回廊は、まっすぐではなかった。
角を曲がり、灯りの下を通り、何度か足元の影が揺れる。
それでも、もう不安ではない。
私には、戻る机がある。
隣に立つ人がいる。
そして、自分で選んだ名前がある。
だから私は、静かに前を向いた。
補佐官エルシェナ・リューネとして。
そして、あなたが選んだ人間として。
私はこれからも、この王宮で働いていく。