軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十五話 王女殿下の婚約披露式典は、無事に終われば皆が最初から正しかった顔をします

王女殿下の婚約披露式典の朝は、晴れていた。

雲ひとつない青空だった。

空の機嫌としては申し分ない。

問題はいつだって、空より人のほうだ。

私は夜明け前から大広間へ入っていた。

最初に見たのは、花でも敷布でもない。

封緘箱だった。

招待状の最終控え。

親族名簿。

席次確定札。

その三つは、昨夜から赤封の箱に入れられ、近衛詰所の控え棚で保管されている。

今朝、箱を開けるときは、私一人ではなかった。

クラウディア次席儀礼官。

マルタ女官。

エミル書記官。

それから近衛が一人。

四人の目で封を見て、二人の手で控えを開く。

面倒だ。

けれど、面倒な手順ほど、あとで人を守る。

「封、異常なし」

エミルが少し緊張した声で言った。

「戻し印も一致しています」

マルタ女官が続ける。

私は頷き、席次札の最終束を受け取った。

昨日までは、こうした手順を少し大げさだと思う人もいただろう。

でも今日は誰も笑わない。

招待状が差し替えられたという事実は、それだけで書記室の空気を変えていた。

「外取次は」

クラウディア次席儀礼官が問う。

「王女殿下関係者、婚約相手側、神殿側以外はすべて別室待機です」

近衛が答える。

「リューネ家名義の取次、リネット嬢付きの侍女名義の取次は、本日中は受け付けません」

「よろしい」

クラウディア次席儀礼官が言った。

短い一言だった。

でも、その短さが頼もしかった。

封緘箱の確認が終わってから、ようやく大広間へ入る。

花の配置。

入場口の敷布。

王女殿下の袖が引っかからないよう、段差の縁を薄布で押さえること。

婚約相手側の家紋旗が、王家側の旗と高さを揃えているかどうか。

どれも小さい。

けれど、この小さいものの積み重ねだけが、式典を美しく見せる。

「北側の花台、半歩だけ下げてください」

私が言うと、下働きの者がすぐに動いた。

もう説明はほとんど要らない。

ここ数日で、王家儀礼局の人たちは私の指示の仕方に慣れてくれたらしい。

これは思った以上にありがたい変化だった。

大広間の中央では、マルタ女官が最終の名札を並べている。

壁際ではエミルが招待客の返書をもう一度確認し、クラウディア次席儀礼官は全体の時刻表を無言で見直していた。

誰も無駄話をしない。

でも、それぞれが自分の持ち場を知っている空気は、静かで心地よかった。

「問題は一つだけね」

マルタ女官が、名札から顔を上げずに言った。

「婚約相手側のご母堂です」

「ええ」

私は頷く。

昨夕、婚約相手側へ礼順確認のために示した仮置きの席次が、ご母堂の機嫌を大きく損ねた。

理由は、息子が王家へ婿入りしたように見える、というもの。

言いがかりではない。

むしろ、よく見ている。

王女殿下の格が高すぎる以上、少しでも導線を誤れば、婚約相手側の家は《《王家へ差し出される側》》に見えてしまう。

「席は動かしません」

私は名札の端を押さえた。

「動かすと、今度は神殿側と王妃宮の礼順が崩れます」

「では、見え方を変えるのね」

クラウディア次席儀礼官が言う。

「はい」

私は大広間の中央を指した。

「婚約相手の公子が王女殿下の側へ進むのではなく、王女殿下と公子がそれぞれ半歩ずつ中央へ出ます」

「両家が神殿側へ向かう形にする」

「ええ」

私は頷いた。

「さらに、ご母堂には控えの間で《《婚約相手側家譜確認の筆頭》》を務めていただきます。表で席を上げるのではなく、誓約前の確認役として家の重みを残す」

「婿入りではなく、両家確認に見せるのね」

マルタ女官が言った。

「そうです」

私は紙の端へ、新しい補助札を置いた。

「王女殿下が迎えるのではありません。両家が、神殿の前で並び立つ形にします」

エミルが感心したように息を吐いた。

「席は同じなのに、意味が変わるんですね」

「儀礼はだいたいそうよ」

私は少しだけ笑った。

「動かせないものを、どう見せるかが仕事なの」

そのとき、外から控えめな足音が近づいた。

婚約相手側のご母堂が、侍女を連れて大広間の入口に立っている。

顔は穏やかだった。

けれど、目は少しも穏やかではない。

私はすぐに一礼した。

「ご母堂様。昨夕は、仮置きの形でご不快な思いをさせてしまいました」

「不快というほどではありません」

その返答は、社交の言葉だった。

つまり、かなり不快だったという意味だ。

「本日の礼順は、こちらへ改めました」

私は控えの紙を示す。

王女殿下と公子が、それぞれ半歩ずつ中央へ進む導線。

神殿側の祝詞を起点にした式次第。

両家の系譜確認。

そして、ご母堂が控えの間で婚約相手側の家譜を確認する位置。

ご母堂は、しばらく黙ってそれを見ていた。

扇は閉じたまま。

つまり、本気で読んでいる。

「……家門紹介ではなく、系譜確認」

「はい」

「わたくしは表へ出ないのですね」

「表へ出れば、神殿側より家門が前へ出たように見えます」

私は静かに答えた。

「ですが、控えの間でご母堂様が確認なさった紙が、誓約文へ続きます。つまり式典の中では見えずとも、記録上はご母堂様の確認を経た形になります」

彼女はそこで初めて、私の顔を見た。

「あなた、若いのに嫌なところを見ますね」

「見落とすと、あとで誰かが困りますので」

ご母堂の口元が、ほんの少しだけ動いた。

笑った、のだと思う。

「結構です」

彼女は言った。

「この形なら、息子が王家へ差し出されたようには見えません」

「ありがとうございます」

「礼は、無事に終わってからにしましょう」

その言い方は少し厳しかった。

でも、席を拒む声ではなかった。

それで十分だった。

式典開始の鐘が近づく。

大広間の空気が変わった。

花も布も、灯りも旗も、さっきまでと同じ場所にある。

でも、人が入る直前の広間は、紙の上とはまったく違う生き物になる。

どこか一つが揺れれば、全部が揺れる。

だから私は、最後の確認を一つずつ口にした。

「神殿側、入場口」

「異常なし」

「婚約相手側家門旗」

「高さ一致」

「王女殿下付き女官」

「控え位置、予定どおり」

「招待状控え、親族名簿」

「赤封箱へ戻しました」

エミルの声はまだ少し硬い。

けれど、手は震えていなかった。

それだけで十分だ。

やがて、最初の音が鳴った。

楽団の第一音。

神殿側の司祭が入る。

その後ろに、婚約相手側の公子。

王女殿下は反対側の入口から、王妃殿下付き女官に導かれて現れた。

歩幅は、少しだけ早い。

やはり緊張なさっている。

けれど、段差前に作った半拍の間が効いた。

王女殿下はそこで自然に息を整え、公子と同時に中央へ進む。

袖持ちの女官も遅れない。

神殿側の司祭が祝詞を始める。

いい。

まだ崩れていない。

ご母堂の視線が、婚約相手側の旗と息子の位置を確認するように動いた。

その顔に不満はない。

北部公爵夫人も、夫人方の列で扇を閉じたまま静かに座っている。

見合いの札として使われそうだった甥君は、夫人方の視線から少し外した位置にいる。

誰もそこへ話しかけに行けない。

よし。

祝詞が終わる。

両家の系譜確認。

婚約相手側の家譜控えが、控えの間から運ばれてくる。

そこには、ご母堂の確認印がある。

公子側の家名は軽んじられていない。

王女殿下の格も下げていない。

神殿も飾りになっていない。

細い線の上を歩くような式次第だった。

でも、歩けている。

「誓約文へ」

クラウディア次席儀礼官が低く告げる。

私は頷き、エミルへ合図を送った。

紙が渡る。

公子が一礼する。

王女殿下が同じ角度で礼を返す。

半歩。

その半歩だけで、場の意味は変わる。

王家が迎え入れるのではない。

公子側が差し出されるのでもない。

神殿の前で、両家が並ぶ。

それが今日の答えだった。

誓約文が読み上げられるあいだ、私はずっと大広間の端から全体を見ていた。

王妃殿下のお顔は穏やか。

レオンハルト殿下はいつも通りほとんど表情を動かさない。

でも、こちらを一度だけ見た。

ほんの短い視線だった。

大丈夫か、と問う視線ではない。

大丈夫だな、と確認する視線だった。

私は小さく頷いた。

大丈夫です、と声には出さずに返す。

そのやりとりを、たぶん誰も見ていなかったと思う。

でも、私には十分だった。

最後の礼が終わる。

楽団が第二曲へ移る。

贈答箱が予定どおり運び込まれ、王妃殿下付き女官が一歩だけ前へ出る。

ここで本来なら、場の緊張が少し緩む。

緩んだ瞬間に、誰かが余計な動きをすることがある。

だから私は、夫人方の列へ目を走らせた。

動きなし。

北部公爵夫人も動かない。

ご母堂も席を立たない。

リューネ家名義の取次も来ない。

近衛の位置も崩れていない。

ようやく、少しだけ息ができた。

式典は、最後まで大きな乱れを出さずに進んだ。

王女殿下は一度も裾を踏まなかった。

公子は王家に飲まれたようには見えなかった。

神殿側も、立会印を予定どおり置いた。

婚約相手側のご母堂は、最後の退場時にだけ私へ視線を向け、ほんのわずかに顎を引いた。

それは礼だった。

きっと、これ以上ない程度の。

閉式の音が鳴った瞬間、大広間の空気が緩んだ。

無事に終わった。

その事実だけが、人の表情を一気に変える。

「最初から、この形で決まっていたように見えますね」

エミルが、小さな声で言った。

「そう見えたなら成功よ」

私は答えた。

「無事に終わった式典は、だいたい皆が最初から正しかった顔をするものだから」

マルタ女官が小さく笑った。

クラウディア次席儀礼官も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

そのとき、王妃殿下が中央からこちらへ視線を向けられた。

私はすぐに一礼しようとして、足を止める。

王妃殿下は、私だけでなく、書記室の者たち全員を見ていた。

「王家儀礼局」

静かな声だった。

けれど、大広間の端までよく通った。

「本日の式次第、見事でした」

書記室の者たちが一斉に頭を下げる。

私も深く礼を取った。

胸の奥が熱くなる。

「リューネ補佐官」

私の名が、続けて呼ばれた。

一瞬だけ、息が止まる。

「あなたの調整で、良い披露式典になりました」

大広間の空気が、ほんの少しだけ動いた。

私の名が、王妃殿下の口から出た。

誰かの婚約者としてではなく、誰かの代わりとしてでもなく。

王家儀礼局の補佐官として。

「身に余るお言葉でございます」

どうにかそう答える。

声は震えていなかったと思う。

たぶん。

王女殿下が、少し離れた場所で嬉しそうに笑っていた。

レオンハルト殿下は、やはりいつも通りの顔で立っている。

でも、目だけは少し柔らかかった。

式典は無事に終わった。

大きな拍手も、大げさな歓声もない。

王宮の成功は、いつも静かだ。

けれど今日の静けさは、今までのものとは違って聞こえた。

私は机の上に戻る予定の席次札を、そっと握り直す。

この形は、記録に残る。

誰が何を見て、どこを直し、どう守ったのか。

今度こそ、消えない形に。

そのために、明日はまた紙に書かなければならない。

面倒だ。

でも、悪くない。

無事に終われば、皆が最初から正しかった顔をする。

だからこそ、正しく終わった理由を、私はちゃんと残したかった。