軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ムーロ王国へ 3

日が暮れる直前に国境を越えることができた。

宿に入り食事を取った後は、部屋でのんびりとしていた。簡素な宿屋なので風呂は共同だった。一緒になったおばさんの背中を流してあげたら、お礼に脱衣室で足のマッサージをしてくれた。それがものすごく痛くて、私の悲鳴が二階の部屋まで響いていたらしいが、マッキオもゴッフレードも助けに来なかった。これ絶対明日、揉み返しがくる……!

おばさんにおごってもらったホットミルクを飲みながら、私はひとり部屋の窓から夜空を眺めていた。

これはムーロ王国の空。同じ月なのに、ルビーニ王国よりも色も濃く大きく見えた。

レナートも同じ月を見上げているかしら。

自分で思っておいて、自分で照れた。

いやいやいや、アイーダやプラチドたちの上にも同じ月が昇っているから。

私はぶんぶんと首を振って息を吐いた。カップの湯気が揺れ、窓がくもった。人差し指でレナートの名前の綴りをなぞってみるが、部屋が暖かいのですぐに途中で消えてしまった。もう一度息を吐き、名前を綴ったがまたすぐに消えた。

意地になって息を吐いては綴り、吐いては綴りを繰り返しているうちに、あまり磨かれていない安宿の窓に指の跡が残ってしまった。

「わああ、こんなところに王太子様の名前を!」

慌てて消そうと服の袖を当てたが、何だか名残惜しく、そのままにしておいた。カーテンも開けたままでいいか。私の部屋なんて誰も見ないでしょ。

今日はもう寝よう。私は久しぶりの狭いベッドに横になった。部屋の灯りを消せば、月明りで窓のレナートの文字がうっすら浮かび上がった。

早くルビーニ王国に帰りたいな。

まだ実家に帰っていないのにそんなことを思う自分がおかしくって、枕に顔を押し付けて、えへへ、と笑い、そのまま眠ってしまった。

ベッドが固かったからかもしれない。昔の夢を見た。

私は物心ついた時には、既に姉たちとは違う教育を受けていた。

姉たちももちろん子供の頃から武術を学んできたが、私は姉たちよりもひときわ筋が良かったそうだ。師範たちが集まり、この子はこのまま英才教育を受けさせた方がいい、と相談し、私だけがそのまま武術の練習を続けることになった。跡継ぎ候補から外れた姉たちはすぐに淑女教育が始まり、公爵令嬢らしく年頃になったらあっという間に婚約者が決まった。

ずっと家庭教師と勉強していた私は、中等部から貴族向けの学校に通い始めた。そこで出会った令嬢たちの淑やかさを見て、自分ががさつだという事に初めて気付いたがもう遅かった。既に校舎の二階の窓から飛び降りたりしていた私は全く男子生徒にはモテず、むしろバレンタインには女子生徒から大量のチョコをもらっていた。

それでも公爵家の跡取りの肩書は強く、数人の婚約者候補はいた。彼らは親から強制されて私に優しくしてくれていたのはバレバレだったけれど、きっとこのうちの誰かと結婚するんだろうな、とは思っていた。

そんな時だった。

母が身籠った。年齢からすると最後の子になるだろう。

私は単純なので何も考えずに弟か妹ができるのを楽しみにしていた。今思えば姉たちは何か言いたそうな素振りはしていたが、結局何も言わなかった。

5人も産んだ母の出産は慣れたもので、陣痛が来たと思ったら数時間で生まれた。私と姉たちが部屋に駆けつけると、満面の笑みで赤ん坊を高く掲げた父が叫んだ。

「跡取りが生まれたぞー!」

父はすぐさま姉たちにボコボコにされ、しばらくの間部屋の隅に転がっていた。

生まれたばかりの弟は、赤ん坊というだけあって真っ赤な顔をしていた。小枝のような細い指一本一本にきちんと小さな爪が生えているのに感心して、私は瞬きも忘れてベビーベッドにしがみついていた。

「ミミは赤ちゃん抱いたことがないでしょう」

そう言って母が、ふにゃふにゃの弟を手渡してきた。つぶさないように落とさないように必死で、その感触はあまり覚えていない。おそるおそる指で頬を撫でると、弟はまぶたをぴくりと動かした。

「私が、ずっと守ってあげるからね」

私がそう言うと、姉たちがほっとした表情をした。

父にも師範たちにも土下座され、私は公爵家の跡取りから解放された。この国は女が爵位を継ぐことができるのは男児がいない場合だけなのだから、当然だ。

それに、私は実は跡取りではなくなって嬉しかった。ずっと思っていたのだ。

学校で出会った令嬢たちのように、私も守られたい!!

彼女たちは躓けば手を差し出され、どんな小さなものであろうと荷物があれば持ってもらえる。顔色の微妙な違いに気付かれ、髪型を変えたら心境を察してもらえる。

私だって帰り道を心配されたいのだ。また明日な、と背中をばしりと叩かれる下校はもうたくさんだ。

これからは遅れて淑女教育も受ける。そうすれば私も姉たちのようにすぐに婚約者が決まる……と思っていた。

公爵家の跡取りという肩書がなくなると、かろうじていた数人の婚約者候補もいなくなった。この小さなムーロ王国内で新しい出会いを求めようとも、公爵家に見合う家柄の子息たちは姉と結婚してしまったし、下級貴族では公爵家にはおいそれとは近付けない。詰んだ。

一応、私に負い目のある父が、ルビーニ王国のアイーダの父に私の居候をお願いしてくれた。ルビーニ王国くらいの大国であれば、小国の若干元気の良い公爵令嬢に引っかかってくれる貴族もいるかもしれない、と。

そうして、私はルビーニ王国に留学することになり、淑女の理想、アイーダのそばで暴力とは縁のない可愛らしい令嬢になりきっていた。しかし、その矢先に……

――――貴女との婚約を破棄させてもらう。

「……っふあぁぁ!!」

私はがばっと飛び起きた。

今でも耳に残っている、レナートの婚約破棄の言葉。自分に向けられた言葉ではなかったとしても、もう二度と聞きたくない。

私はとびきり冷たい水で顔を洗い、身支度を整えた。

「おはようございます、お嬢様」

「おはよう」

馬車に荷物を積んでいたゴッフレードが振り向いた。

「今朝、何か叫んでませんでした?」

「慣れない所で寝たせいか、嫌な夢を見ちゃったわ」

「街で朝食を食べてから出ましょう。今日の夕方までには家に着きますから、それまで馬車で寝たらいいですよ」

「そうするわ」

私たちは歩いて朝市へ行き、新鮮な野菜と卵のサンドイッチを食べた。

「このソース久しぶりだわ」

「ルビーニ王国とは違いますか?」

「そうね、あちらはもっと薄味かしら」

「あちらって。お嬢様はもうすぐあちらの方になるんですから」

マッキオとゴッフレードが笑った。

そうか、私はルビーニ王国民になるのか。まださっぱり実感がないけど。王族の結婚ってどれくらい時間をかけるのかしら。まさか私の淑女教育が終わるまでなんて言わないわよね……!?