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不実な婚約者をスッキリ排出! 恋心を消すお薬で爽快デトックス!

作者: 初春餅

本文

かつて「戦士の中の戦士」と謳われ、「決して敵に回したくない相手」と恐れられたヴェイツィ伯爵家は、海の向こうの大陸にそのルーツを持つ。

武勇を見込まれ、この国の王より招かれて早や数百年。定住し、血を混ぜていった今となっては、当時異質だった「ヴェイツィの容貌」もすっかり目立たなくなっていた。だが、それでも時折、先祖返りのような特徴を持つ子が生まれる。

柔らかな金髪の巻き毛、透き通った海のように青い瞳。

伯爵家の小さな令嬢、エルセ・ヴェイツィの外見的特徴は、往時のヴェイツィらしさを色濃く備えていた。

この国では栗色や褐色など、落ち着いた茶系統のまっすぐな髪と、同色の瞳を持つ者が多い。それ故か、九歳のエルセが初めて出席した茶会において、やんちゃ盛りの令息たちは彼女の巻き毛にいたく興味を示した。

――何であんなにくりくりしてるんだ?

――引っ張って伸ばしてやろう!

身分の貴賤を問わず、この年頃の少年たちは、大人の目が届かないところでは無法者になる。「お庭で仲良く遊んできなさい」と子供たちが外に出され、美しく刈り込まれた庭園は、無情にも幼い猟犬たちの狩場となった。

――逃げたぞ!

――追え!

金の巻き毛を揺らして逃げる、非力そうな小さな背中。

少年たちは興奮し、異質な外見をした新参者を夢中で追いかけた。

必死で逃げるエルセの息はすぐに上がった。外見は祖先譲りでも、エルセは激動の時代を生きた祖先のように強靭でも勇猛でもない。内気で大人しい、ごく普通の女の子だった。今日は「素敵なお友達ができるといいわね」と笑顔で送り出され、同年代の子供たちとの交流を内心では楽しみにしていた。

もう走れなくなり、エルセは芝の上に座り込んだ。少年たちは快哉を上げて獲物を取り囲む。

――お前の髪、変だからまっすぐにしてやるよ!

彼らの手が伸び、エルセの巻き毛を乱暴に引っ張った。細い金の巻き毛が数本、地肌から無理やり引き抜かれて、幼い捕食者たちの手に絡まる。少年の一人が「うわ」と言って手に絡まった金髪を払い落とした。一族の者がおどけて「ヴェイツィの金」と呼び、母が毎朝優しく 梳(くしけず) ってくれるエルセの髪を。

エルセの顔がくしゃりと歪み、青く澄んだ瞳から涙がこぼれ落ちた。

――何をしている!

エルセが驚き、声がした方へ目を向けると、背の高い少年がこちらに向かって走ってきていた。彼はエルセを囲んでいるごろつきたちを鋭く一瞥し、彼らの手を払いのけながらエルセを背に庇う。

――これが紳士の振る舞いか。

言われた方も一応とはいえ紳士たれと躾けられている身、恐ろしい教育係や厳格な祖父母の顔が思い浮かんだか、「い、行こうぜ」と小声で囁き合ってそそくさと逃げ出す。後にははらはらと涙をこぼすエルセと、騎士のごとく高潔な少年だけが残った。

少年は泣き続けるエルセにハンカチを差し出し、「もう大丈夫だよ」と微笑んだ。落ち着きのある焦げ茶の髪と、同じ色の優しい目。彼はエルセの隣に座り、泣き止むまでそばにいてくれた。「泣いている淑女を一人にはできない」と言って。

彼を引き留めていることが申し訳なく、エルセは急いで泣き止もうとするが、焦れば焦るほど涙は止まらなかった。

――いいんだよ。

穏やかな声がエルセの心に沁み込んでくる。

彼はエルセを急かすでもなく、ただ当たり前のような顔をして、エルセの隣に座っていた。

ゆっくりと波が引くように、エルセの涙はやがて止まった。

エルセが落ち着いたのを見て取り、彼はヒューバート・ミンツワースと名乗った。後に知ったが、彼はミンツワース伯爵家の嫡男で、エルセと同い年だった。

彼はこの茶会以降、男の子が苦手になったエルセが唯一親しくお喋りできる異性となり、やがて二人が年頃になるとエルセの婚約者となった。

家格が丁度釣り合っていたことと、互いの家に利があったことから持ち上がった縁談だったが、本人たちの意向も当然のこととして確認された。

エルセは諾と答えた。

ヒューバートも同じ答えだったと知った時、エルセの胸は喜びに震えた。

エルセがカフェで独りぽつんと座っていると、エルセの親友、リネットが彼女に気づいて声をかけてきた。

「あら。エルセ、待ち合わせ?」

「ええ」

「ヒューバートと?」

「……ええ」

大人しい性質のエルセと、活発で姉御肌のリネットは、母親同士が仲が良かったこともあり、互いにまだよちよち歩きだった頃からの付き合いだった。年頃になった今でも友情は続き、夜会で会った折などは、互いに笑顔で手を取り合い、お喋りに花を咲かせる仲である。

「付き合うわ。彼が来たらお暇するから安心して」

「もう、リネットったら」

エルセはリネットを軽く睨んだ。残念ながら、ヒューバートが遅れてくることは周知の事実である。

「……任務が忙しいのよ」

「 任務(・・) ねえ……」

リネットは憂わしげにため息をついた。ホットチョコレートを注文し、エルセのカップを見て眉を寄せる。

「何を飲んでるの?」

「蜂蜜入りハーブティー」

「このお店に来てホットチョコレイトを飲まないなんて!」

大仰に嘆かれ、エルセは曖昧に笑った。

実は最近食欲がなく、お茶や水しか喉を通らない。

だがそんなことを告白すれば、優しい友を心配させてしまうだけだろう。

「エルセの王子様を悪く言いたくはないけれど……このままでいいの?」

エルセの婚約者、高潔で勤勉なヒューバートは、この春、騎士に叙任された。貴族階級の子弟の場合、騎士の称号はただ胸元を飾る花と同じで、形だけのものであることも多い。だが真摯に鍛錬を重ねてきたヒューバートは違った。ちょっと齧った程度のお坊ちゃん方とは一線を画す本物の騎士だ。

彼は叙任とほぼ時を同じくして、主家筋に当たるブライツウェル公爵家の令嬢、ロザモンド姫の護衛騎士となった。まっすぐで艶やかな栗色の髪を持つ、聡明で美しいお姫様と、彼女に 傅(かしず) く若き美貌の騎士。ヒューバートが姫のそばに控える様子は、「まるで絵物語の一場面のようだ」と当初、随分話題になった。

「ブライツウェル家の護衛騎士になることは、とても名誉なことだと、皆……」

「分かっているでしょう、エルセ。そんなことを言っているんじゃないわ」

エルセはうつむき、唇を噛んだ。勿論、分かっている。

いつからだろう。ロザモンド姫とヒューバートの仲が、ひそひそと噂されるようになったのは。

最初に気づいたのはゴシップ好きの令嬢たちだった。

――ねえ、あのお二人……。

――やっぱり、あなたもそう思った?

貴族、特に若い令嬢たちは、二人の男女の表情や距離感から、色恋の有無を嗅ぎ当てることに長けている。ただでさえ注目を集める二人の、おやと思うほどしっとりとした雰囲気、偶然を装って触れ合う指先、ほんの一瞬、絡み合う熱い視線。本人たちは隠しているつもりのようだが、鋭い好奇の視線の前には何一つ隠せていなかった。

「リネット、あなたの髪は綺麗ね」

「お世辞ではぐらかそうとしている?」

「本心よ」

リネットの髪はロザモンド姫と同じく、まっすぐで艶やかな栗色だった。女性の髪色として男性から 頗(すこぶ) る好まれる色だ。エルセのように周囲から浮くことのない、落ち着いた美しい色合いである。ヒューバートも本当はこういう色が良かったのだろう。

今になって思う。エルセはヒューバートの同情を買って、そばにいさせてもらっていただけで、恋の相手としては一度も見てもらったことはなかったのだと。高潔な彼は、皆と違う色を持って生まれてしまったエルセの受難に遭遇し、見過ごすことができなかった。

彼はエルセに限らず、窮地に陥っている令嬢がいれば、必ず手を差し伸べる人だった。

――泣かないで。もう大丈夫だから。

道で足をくじいた令嬢がいれば、ヒューバートは一瞬の迷いもなく、その令嬢を抱きかかえて近くの診療所に運ぶ。診療所に引き渡した後は、ぐずぐずとその場に留まることなく颯爽と立ち去る。彼のそんな美談をエルセは何度耳にしただろう。彼にとって、エルセはそんな親切の延長線上にいるだけの、幼馴染の女の子に過ぎなかった。

――ヒューバート、それでも私はあなたのことが好き。

あの時、「もう大丈夫だよ」と彼が告げ、エルセに笑いかけてくれたから。

二人で過ごし、笑い合い、親しくなっていくにつれ、エルセはますます彼のことを好きになった。エルセが大切に育てたその感情は今や大輪の花を咲かせ、彼にどれだけ軽く扱われようと、彼とロザモンド姫のどんな噂を耳にしようと、一向に枯れる気配がない。

「綺麗なのはエルセでしょう」

「まさか」

「やっぱり分かっていないのね。あなたの髪に見とれている紳士は一人や二人では――」

「止めて。髪のことを言われるのは苦手なの」

エルセは急いでリネットの言葉を遮った。

――お前の髪、変だからまっすぐにしてやるよ!

子供の頃に投げつけられた言葉は未だ、棘となってエルセの心に突き刺さっていた。

「まだ引きずっているのね……。可哀相に。もし私がその場にいたら、絶対にそんなことにはならなかったのに」

「ありがとう、リネット」

エルセは小声でぼそぼそと言い訳した。

「もう子供ではないし、いつまでも囚われているのはよくないと分かっているんだけど……」

「それは仕方がないわ。か弱い少女が粗野な獣に集団で追いかけ回されたのよ。どれほど怖かったことか……。でもいいこと? 子供のたわ言は一旦忘れて。――青くけぶるその瞳に、どうか僕を映しておくれ。金と青の、麗しの君。……これが誰のことを歌っているか分かるわよね?」

「分からないわ。外国の叙事詩?」

「エルセ! あなたのコンプレックスは筋金入りね……。まあ、気づかなくても無理はないわ。一応とはいえ、婚約者のいる令嬢に恋を囁くなんて、紳士なら決してしないから」

リネットの言葉はヒューバートへの当てこすりだった。ヒューバートにエルセという婚約者がいるように、ロザモンド姫にもボーヴ公爵家の嫡男、フィリップ殿下という婚約者がいる。

「こんな話ばっかりじゃ、気が滅入るわね」

リネットが肩をすくめ、「もうすっかり秋の気配ね。このお店のアップルカスタードパイもそろそろかしら」と話題を明るいものに切り替えた。エルセも「そうね。楽しみ」と応じ、二人で時間を忘れてお喋りに興じる。

やがてリネットが怖い顔で立ち上がった。

「エルセ、もう待つことはないわ。私と一緒に帰りましょう」

ヒューバートを待ち始めてもう二時間は経過していた。だが、エルセは微笑んで、やんわりと首を横に振る。

「……付き合わせてごめんね、リネット。私は待つわ」

リネットは泣きそうな顔で「エルセ……」と呟いた。

――こんなに待たされても、まだ待ち続けると言う私は、どれほど哀れに見えているかしら……。

だが、今日はどれほど待つことになろうと、彼に会うつもりだった。

エルセは彼と話をしなくてはならない。

一昨日、エルセが偶然見てしまった、彼とロザモンド姫のキスについて。

「彼に、大事な話があるから……」

今でも鮮明に思い出せる。

夕日が差し込む回廊に、背が高く美しい二人が立っていた。

ロザモンド姫ははらはらと涙をこぼし、だが感情に支配されまいと堪えている様子は、凛として気高かった。二人の声は聞こえなかったが、ヒューバートの唇が「泣かないで、愛しい人」と動き、直後、彼は姫の唇を奪った。

エルセは息を止め、婚約者が美しい令嬢と唇を重ねているのを呆然と目に映していた。

教会からの帰り道だった。

あの回廊は普段から人通りが少なく、人の多いところが苦手なエルセは時々近道として使っている。運が悪かったとしか言いようがない。見なければ疑いのままで済んだのに。

エルセは震える体を抑え、どうにか足音を潜めて立ち去った。二人はとてもお似合いで、邪魔者はエルセの方だった。

だが、婚約者がありながら、別の人と恋人のキスをすることは、たとえお似合いの二人だとしても不誠実な行為だった。

だから今日は彼と話をしなくてはならない。

エルセが一昨日のことを知っていると告げたら、彼は何と言うだろうか。エルセの許しを請うだろうか。それとも潮時とはかりに別れを告げてくるのか。

以前ほどエルセとの時間を大事にしなくなったとはいえ、ヒューバートは変わらずエルセを婚約者として扱っていた。エルセの目を見、エルセの手を取り、パートナーとしてエルセをエスコートする。

だからエルセさえ余計なことを言い出さなければ、彼との間に波風が立つことはない。

このまま知らないふりをしようか。だが、この胸の苦しさをいつまでも抱え続けることは拷問に等しい。今日を逃せば今度はいつ彼に会えるか分からない。ならば、エルセは覚悟を決めるしかなかった。

「エルセ……」

「大丈夫よ。行って」

エルセは笑顔で手を振った。

「何かあったらうちに来て。一緒に過ごしましょう」

「ええ、ありがとう」

リネットは「必ずよ」と念を押して立ち去った。

ちっとも減らないハーブティーをちびちびと喉に流し込み、エルセは婚約者を待った。彼がようやく現れたのは、それから三十分後のことだった。

「参ったよ、ぬかるみに車輪が取られて、馬車が立ち往生して」

疲れたように告げ、ヒューバートはやれやれと座った。エルセを長時間待たせたことを気に病む様子もない。今思えば、彼がエルセに対し、こういう態度を取るようになってから随分経っていた。普段のエルセなら気を遣って「大変だったのね」とねぎらっていたかもしれないが、気遣いも枯れ果てた今のエルセは特に何も考えず、思ったことをそのまま口にした。

「ぬかるみ? 郊外にでも行っていたの?」

「あー……まあ……」

道路が整備されている王都で、ぬかるみに車輪が取られるという事態はあまりない。最近は雨も降っていないが、よほど郊外の、森の方へでも行っていたのだろうか。

「郊外にどんなご用事があったの?」

「……大したことではないさ」

ヒューバートが目を逸らし、それでエルセは察してしまった。

色づき始めた秋の森で、恋人と二人、束の間の優しいひと時を過ごしたのだ。

だが、もしそうなら往復の移動時間もなかなかのものになる。ぬかるみに車輪が取られずとも、エルセとの待ち合わせ時刻までに王都に帰ってくることは難しい。

――あなたにとって、私はそこまで軽んじていい存在なの……?

仮にエルセの推測が正しければ、というより最早そうだったとしか思えないが、彼の行為はエルセに対し、二重の意味で不誠実だった。

なのに、どうして私はここまでされても、彼のことが嫌いになれないのだろう……。

見切りをつけることができれば楽なのに。

――もう大丈夫だよ。

エルセの心の中には今も、あの時のヒューバートが優しいまま住んでいた。

「ヒューバート……。話があるの」

「うん。何だい」

「あなたと……ロザモンド様とのこ……」

「――そのことか」

ヒューバートはあからさまに不機嫌になった。

「暇を持て余したご令嬢たちが、いい加減なことを言いふらしているようだね。それで? まさか君までそんな根も葉もない噂を真に受けているの?」

――根も葉もないですって?

エルセは声を失った。噂に聞いただけではない。エルセはあの回廊でのキスを見たのだ。

「何を聞いたか知らないが、僕は潔白だ。無論、姫も」

嘘だ。彼が潔白とは程遠い身であることは、エルセ自身がよく知っている。

エルセは唇を震わせ、ティーカップに目を落とした。

高潔な彼がエルセに対し、顔色一つ変えず嘘を吐いた。

誰よりも高潔で、誠実だと思っていたヒューバートが。

「ヒューバート、お願い……正直に話して……」

「エルセ、何を言うんだ。君まで一緒になって僕と姫を貶める気か。これがブライツウェル家の耳に入れば、君もただでは済まないぞ」

まるで脅しだった。彼は姫とのことを頑なに認めず、それどころかエルセが噂に惑わされ、いわれのないことで彼を責めているかのように言う。

でも、ここまで否定するからには、もしかして……。もう分からない。エルセは混乱し、思わずといった様子で呟いた。

「じゃあ、あれは……見間違いだったのかしら……?」

ヒューバートがその言葉に大きく反応した。

「何を見たのか知らないが、僕に疚しいことなど一つもない!」

「そう……」

吐き捨てられ、エルセはかえって冷静になった。

本当に疚しくないのなら、ヒューバートは「何を見たの? 落ち着いて話して」と優しく尋ね、エルセの誤解を解こうとしてくれるだろう。

エルセのよく知るヒューバートなら。

ヒューバートは苛立たしげにため息を吐いた。

「エルセ、今日の君の態度は何だ。疲れて帰ってきた僕をねぎらうでもなく、煩わせてばかり。――君がミンツワース家にふさわしい人間かどうか、僕は再考しなくてはならないな」

その瞬間、エルセの心が音を立てて崩れ落ちた。

――もう大丈夫だよ。

やっと分かった。

幼いあの日、エルセが泣き止むまでそばに座ってくれていた、エルセの優しい王子様はもうどこにもいないのだ。

何故なら、エルセの王子様には他に大事なお姫様がいて、エルセはもう偽物だと分かってしまったから。だから彼のお姫様ではないエルセには、平気でこんなことを言う。

エルセの青い瞳から涙が一筋こぼれ落ち、ヒューバートが息をのんだ。

エルセは静かに立ち上がり、淑女の礼をとった。

彼の妻になる日を指折り数えていた頃、こんな言葉を投げつけられる日が来るなんて、エルセは思ってもいなかった。

「お言葉……しかと、承りました」

「エ、エルセ……」

夕暮れ時とはいえ、カフェにはまだ人が多い。二人の会話に耳をそばだてている者もいる。

エルセは彼らを置き去りにして、一人でカフェを出た。

馬車に乗ったエルセは、自邸ではなく別の行き先を告げた。ヒューバートとロザモンド姫の噂に巻き込まれ、翻弄されていた頃、とある女性がそっと耳打ちしてくれた場所である。

――どうしても苦しくなったら頼るといいわ。

その場所は、問屋街から二本入った細い道の突き当りにあった。

報われぬ恋に身を焦がす者に、恋心を消す薬を処方してくれるという薬師の魔女の店だ。

但し、消してしまった恋心はもう二度と取り戻せない。それでもよいのなら、と。

それでいい。むしろそうであってほしかった。だってこの恋がいつまでも心に 燻(くすぶ) り続けていることが問題なのだから。

エルセの未来がどうであれ――婚約解消が叶わず、このまま彼に嫁ぐことになっても、あるいはすっぱりと縁を切り、新しいスタートを切ることになっても――彼への思いを残したままでは、エルセが苦しいばかりだった。

――でも、覚えておいて。処置と引き替えに、令嬢としての尊厳を失うわ。

――令嬢としての、尊厳を……?

エルセに教えてくれたのは、しっとりとした上品な美女だった。彼女もまた、魔女に頼った一人だろうか。

――具体的に何をされるのかしら……。まさか嫁げない体になったりはしないわよね……?

正直なところ、後から恋心が取り戻せないことより、令嬢としての尊厳を失うことの方がよほど恐ろしかった。だが、ここまで来たら引き返せない。エルセは勇気を奮い起こし、大きな樽のような扉を開いた。

――あら、結構綺麗。

中は思っていたほどおどろおどろしくなかった。店内には薬草の爽やかな香りが漂い、年季の入ったマロンブラウンの家具は、よく磨き込まれて飴色の光沢を放っている。

奥から老婆がぬっと顔を出し、エルセにいきなり尋ねた。

「消してしまった恋心はもう二度と取り戻せない。本当にいいのかい?」

どう考えてもこの人が魔女だった。エルセはまだ何も言っていないというのに、こちらの訪問理由はすっかりお見通しである。さすが魔女……と思いながら、エルセは「お願いします」と青い顔で頷いた。

魔女はそれ以上何も尋ねず、エルセに薬を処方した。

投薬とその後の処理は別室で行うとのことで、エルセは奥の施術室に案内された。中に入ると、魔女はフリーサイズと思しきシンプルな前開きのガウンを「ほれ」とエルセに差し出した。

「綺麗なお召し物を汚したくないだろう。さあ、これに着替えて」

「あの、今から何を……」

「排出するのさ。報われぬ恋心をね」

皺々の口元が、新月のように綺麗な弧を描いて妖艶に微笑んだ。

「結局のところ、報われぬ恋心っていうのは……ただの老廃物なのさ。どんなに綺麗に見えてもそれはまやかし。後生大事に取っとく価値なんざこれっぽっちもないんだよ。いつまでもうじうじ溜め込んでないで、すっきり出しちまうのが一番さ」

成程……と、エルセは何となく理解した。恋心を消す薬とは、厳密に言えば消すのではなく、エルセの中から恋心を 出す(・・) 薬。そして恐らくその排出の方法が、令嬢としての尊厳を失う行為に当たるのだろう。エルセは我知らず肩を抱き、小鳥のように身を震わせた。

「……止めておくかい」

「……ッ! いいえ、やります!」

施術室には店員らしき少女も待機していて、エルセの着替えを手伝ってくれた。手慣れた様子でエルセのドレスを脱がしながら、「ご令嬢のお召し物って、一人では脱ぎ着できない構造ですよね」とか、「以前は施術衣なんて用意してなかったんですけど、うちの店もホスピタリティ上げていこうって話になって」と、気さくに話しかけてくる。少女は最後にガウンの紐をエルセのお腹の前で蝶々結びにし、ポンと軽く叩いて笑った。

「はい、出来上がり」

「あ、ありがとう」

彼女のお陰でエルセの緊張は大分ほぐれていた。これもホスピタリティの一環だろうか。少女は笑顔のままてきぱきと説明した。

「お嬢様にはこれからどんぶり一杯の薬湯を飲んでいただきます。飲み終わったらこの羽根でチョチョッとお喉を刺激させていただきますので、そうしましたら……」

少女が木桶をずるずると引っ張り出す。

「ココに吐いてください」

「え?」

木桶はエルセが床に膝をつき、緩く両手を開いて縁を持つのに丁度いい高さと直径だった。

「吐き終わりましたら、手を上げてお知らせください。……あ、そろそろです。ご準備を」

少女が三角巾を取り出して自身の顔の下半分にあてがい、頭の後ろで縛って鼻と口をガードした。施術室の扉が開き、大きなどんぶりを盆に載せた魔女が姿を見せる。

――う……ッ。

どんぶりから強烈な刺激臭が漂い、エルセの粘膜という粘膜が焼き切れそうになった。

「お嬢様、しっかり」

もんどり打って倒れそうになるエルセを少女が支えた。彼女にとってはいつものことなのか、手を出すタイミングや角度が慣れている。

「あ、ありが……」

「さ、お嬢様」

少女がどんぶりを指さし、エルセを促す。

あ、あ、あれを……飲めと……?

エルセは思わず後ずさった。

どんぶりの中の液体……液体……? はその臭気もさることながら、人体に取り入れてはならない色をしている。エルセを更に絶望させたことに、液体……? は縁までなみなみと入っていた。

魔女はエルセを試すように尋ねた。

「……止めておくかい」

「……ッ! いいえッ……!」

万が一にも誇りを忘れ、ヒューバートに縋りつくくらいなら――。

エルセはどんぶりを両手で押しいただき、息を止めて口をつけた。

ゴフッ。

「まだ吐いちゃダメ! お嬢様頑張って!」

「そうじゃ! 頑張れ、頑張るのじゃ!」

二人に励まされ、エルセはえずきながら劇物を喉に流し込む。

「そう! そうです! お嬢様、お上手!」

「その調子じゃ。ほれぐっと行けぐっと!」

無理……無理……あっ……もう…………。

「大丈夫、お嬢様ならできる! はいっ! はいっ! はいっ! はいっ!」

「鍋洗ってくる。後は任せた」

エルセは死ぬ思いで飲みながら思った。

何故……何故、こんな温度なの、と。

おどろおどろしい薬湯は、よりにもよってほんのり人肌の 生温(なまあたた) かさだった。これが氷水で冷やされているか、逆にぐつぐつ煮込まれていたら、味も臭いももう少し誤魔化されたのに。

「お嬢様、上手! その調子! はぁーい!」

くぐもってはいるが、元気のよい声が途切れることなくエルセを励ました。この声援がなかったら、エルセは途中で投げ出していたかもしれない。あれほど覚悟を決めてきたのに、この未知なるおぞましき物質の前には、エルセの覚悟など風の前の塵も同じだった。

「そうです! そうです! お嬢様、いいペースですよぉ~!」

本当……? 本当に減っている……?

あまりの臭気に空間が歪んで見え、エルセはもう目を開けていられなかった。 活きのいい掛け声(ホスピタリティ……?) に励まされ、エルセはギュッと凝縮された禍々しいエリクシールをひたすら喉奥にゴッゴッと入れる。

「――はい、結構です!」

最後の一すすりを飲み終え、エルセの手からどんぶりが取り上げられた。

「では――あっ」

少女が羽根を持って振り向くのと、エルセが何とか木桶の縁を手でつかんで顔を沈めるのがほぼ同時だった。

ああっ……あっ……。

なに、これは……。

「お嬢様……!」

少女の感極まった涙声がする。

「そうです、出して! 出し切って……!」

それは羽根の刺激を待たず、エルセの口からほとばしっていた。

ああ……これは……。

奔流に呑み込まれながら、エルセの意識がふっと過去へ飛んだ。

エルセの脳裏をよぎったのは、かつて王宮の庭園で見た、荘厳な獅子の噴水。

獅子の口からは勢いよく水が放たれ、エルセはその力強さに目を奪われた。

丁度、夕暮れの頃だった。

大輪の花火が次々と打ち上がっては降り注ぎ、獅子と獅子が吐き出す水を絶え間なく照らしていた。

「そうです! そうです! お嬢様! そうです……!」

エルセの脳内でパン、パンと乾いた音を立てて、鮮やかな花火が打ち上げられる。花火は放出止まぬエルセをまばゆく照らし、エルセが進みゆく未来をも照らし出す。

「はあっ、あっ……」

何という快感だろう。

要らないものを全部吐き出すということは――。

きっとエルセの心は、もうずっと前からヒューバートを排出したくて仕方がなかったに違いない。

「いいぞ! お嬢様! はいっ! はいっ! はいっ! はいっ!」

小気味よい掛け声(ホスピタリティ) にドライヴされ、エルセは夢中になって出し続けた。劇物の往復で喉が悲鳴を上げるが、構わない。ちっとも構わなかった。この胸の奥に留まる 老廃物(ヒューバート) をすべて吐き出し切れるなら。

ああ……。

遂にエルセが手を上げて、少女にその時が来たことを告げた。

エルセはそっと肩を抱かれ、止めどなく流していた涙と、濡れて光る口元を優しく拭われた。

「さあ、お嬢様、仕上げです……。これを飲んで、心残りもすべて出し切りましょう……」

手渡された水を飲み、エルセは再び木桶と向き合った。もう出ないと思っていたのに、未練はまだ口をついて出る。

「そうです! ぜんぶ、ぜんぶ、出し切って……!」

エルセは無我夢中で吐いた。

しつこい未練に別れの挨拶を。

これ以上吐けないというところまで。

遥かなあの高みまで。

もう出ないと心から胸を張って言えるまで――。

「はいっ、よく頑張りました……!」

木桶の縁にぐったりともたれ、意識を朦朧とさせるエルセを少女が優しく抱きしめる。

体はくたくたに疲れていたが、心は朝の海のように凪いでいた。

長く苦しい夜を駆け抜け、今、エルセの目の前に広がるのは、どこまでも続く大海原。

水平線を太陽が昇る。

エルセの中に新しい光が満ちた。

「これは……坊ちゃま」

魔女が調剤室に戻った時、そこには先客がいた。

いつまでも病み上がりのような、気だるく儚い雰囲気。後頭部でひとつにまとめられた、絹のように滑らかな淡褐色の髪。瞳の色は髪よりもやや緑がかった美しい色をしている。

そこにいたのは、密かに魔女の店で治療を受けるこの国の第三王子、イライアスだった。安易に名を呼ぶことは憚られ、ここでは単に「坊ちゃま」と呼ばれている。

王家の第四子で、彼の上には皆の注目と関心を一身に集める第一王子、蝶よ花よと育てられた第一王女、母である王妃が殊更愛し、甘やかしている第二王子がいた。相対的に低い関心の中で育ったイライアスは、整った端正な顔立ちながら、子供の頃からどこか冷めた目をした、生気のない王子だった。

彼が魔女を頼るきっかけとなったのは、一昨年に起きた馬車の事故だった。

郊外からの帰り道、乗っていた馬車が運悪く鹿と激突したのだ。

この時、馬車に同乗していたのは、すぐ上の兄である第二王子だった。兄王子はイライアスを下敷きにして我が身を庇い、彼自身はかすり傷で済んだが、イライアスは背骨を折る重傷を負った。

事故から約八か月後、魔女の店に担ぎ込まれた彼はひどい状態だった。

――押さえろ、飛び降りるぞ!

彼の背骨は王家の医師団がその威信にかけて完治させていたが、彼は治療の過程で痛み止めに依存するようになっていた。

彼に現れた病状は、痛み止めの乱用による突発的奇行と脱衣。

――こういうのって、魔女殿がお得意でしょう……?

――馬鹿者! こうなる前に連れてこんか!

イライアスと魔女の、今日まで続くいたちごっこの始まりだった。

イライアスを預かった魔女は、彼の体から痛み止めを抜き、もう飲むなよと言い渡して王宮へ戻した。だがイライアスが魔女の言いつけを守ることはなく、あっという間に元に戻ってはまた担ぎ込まれてくる。自分自身にさえ関心が薄いイライアスには、前向きに依存症を克服しようという気がないようだった。

イライアスの視線は調剤室の小窓に向けられていた。何かあった時にすぐ対応できるよう、そこからは施術室の様子を見ることができる。

彼が食い入るように見つめているのは、ぐっと木桶の縁をつかみ、果敢に身を沈める令嬢の姿だった。

――あの金髪は……確か……。

「坊ちゃま……。あなたがお望みとあらば、あなたのお目が触れられぬ場所など、この国のどこにもございませぬ。ですが、あれはまだ若い娘。目を逸らしてやるのが情けというものでしょう」

魔女が至極まっとうなことを言うが、イライアスは聞いていなかった。

――ヴェイツィ家の……エルセ・ヴェイツィ、だったか……? この距離で姿を見るのは初めてだ。

「……」

「聞けい」

ヴェイツィの娘は陸に打ち上げられた魚のように、肩で大きく息をしていた。肉体的にも精神的にもきつそうに見える。娘は顔を歪め、ぐちゃぐちゃになって、時折木桶の中を見ては衝撃を受けていた。

「……つらそうだ」

楽な方を選べばいいのに。

イライアスなら迷わずそうする。

だってそんなにつらくて苦しいなら――。

娘がふいに顔を上げ、手の甲でぐっと唇を拭った。

――何だ、あの目は……。

毅然として前を見据える眼差しは、まるで気高い獅子のよう。

何ものにも怯まぬ眼差しが、木桶を固くつかんで離さない手が、勝者だけが発する咆哮がイライアスの魂を揺さぶる。

美しいと思った。

その一瞬の生き様が。

まっすぐで揺るがぬ眼差しが。

ああ、この目を――。

「ずっと、見ていたい……」

ガタンと音がしてイライアスが振り返ると、後ずさりしたらしい魔女が戸棚に体をぶつけていた。

「魔女殿……」

イライアスは困ったようにふっと笑った。

「引かないでくれ」

「イヤ引くわ」

ヒューバートとの森での逢瀬から数日後、ロザモンドは父の書斎に呼び出され、「このような話をしなくてはならぬとは」とヒューバートとの仲を確認された。

――遂にこの日が来てしまった……。

いっそのこと「許されるならば、彼の手を取りとうございます」と言ってしまいたかったが、己の立場をわきまえた彼女は静かに微笑み、「誓って何もございません」と答えた。

「……ボーヴ家が懸念を示している」

父から苦々しげに告げられ、ロザモンドははっと身を震わせた。ご不快――否、それより悪い。はっきり「お怒り」という意味だ。ブライツウェル家が臣民から成った公爵家であるのに対し、彼女の婚約者であるフィリップのボーヴ家は王家に連なる公爵家だった。家格の差は歴然であり、ブライツウェルの粗相は許されない。

「誠心誠意謝罪し、誤解を解くのだ」

ロザモンドはお詫びの訪問を余儀なくされた。

事前に約束を取り付けていなかったとはいえ、フィリップは婚約者である。少し待てば会えると思っていたのに、今日はなかなか目通りが叶わない。さすがのロザモンドも焦り始めた。フィリップも怒っているのだろうか。いつもおっとりとしていて優しい、あのフィリップが。

長く待たされた後、ロザモンドはようやくフィリップの書斎に入室を許された。

「今日は会う約束をしていなかったと思うけど、何か用でも?」

ロザモンドは明らかに歓迎されていなかった。未だかつて、これほど冷ややかな出迎えを受けたことがないロザモンドは屈辱で倒れそうになるが、それでも毅然として前を向く。

「……本日は心からの謝罪と、誤解を正しにまいりました」

「誤解? ひょっとして君と君の情夫とのことを言っているのなら、私は何も誤解していないけど」

「フィリップ!」

情夫など。断じて淑女に聞かせていい言葉ではなかった。

フィリップはロザモンドの憤りなど見えていないかのように、にこりと笑った。

「ああ、それとも今日は、もしかして駆落ち前の挨拶に? それはどうもご丁寧に」

「そんな……フィリップ、わたくしは誓って――!」

「誓うという言葉は神聖だ。軽々しく使うものじゃない」

彼はうんざりとした様子で紙ばさみを突き出した。中を見たロザモンドの表情が変わる。

そこにはロザモンドとヒューバートの逢瀬が克明に記録された報告書が入っていた。

ロザモンドの背に冷たい汗が流れた。フィリップはすべて知っている。あの回廊での口づけも、ヒューバートと二人で過ごした森の中での、もう少し際どい触れ合いも。

「私たちの婚姻は家と家との契約だ。多少のことには目をつぶるつもりだったが、君たちにはどうも分別というものがないね。このままでは早々に一線を越えそうだったから、当家も動かざるを得なくなった」

「ちが……違うのです、これは……」

誓って言える。二人の間に起こったことは、すべてヒューバートから仕掛けてきたことだと。流されてしまったロザモンドも良くなかったのかもしれないが、逞しい騎士であるヒューバートがそうしたいと思ってしまえば、か弱い女であるロザモンドにどんな抵抗ができただろう。

「かの者の思いを諫めきれなかったのは、わたくしの落ち度でございます。ですが、わたくしはボーヴ公爵家に嫁ぐ者として……」

「これは驚いた。君は未だボーヴの未来の女主人の座に納まる気でいるのか。ハハ……笑わせる。これが駆落ちの報告だったら、まだ気概があったものを。私としても父に内緒で援助の一つもしてやったのに」

「あり得ません。駆落ちなど……!」

「へえ、そう」

ロザモンドは公爵家に生まれた者として、果たさねばならぬ責務を負っている。ヒューバートへの思いは一生胸に秘め、誇り高く顔を上げて、定められた結婚を粛々と受け入れる――それが彼女のあるべき道だと今日まで信じて、ロザモンドはまっすぐに生きてきた。

その覚悟を否定することは、たとえフィリップでも許さない。

「残念だ……。所詮、私も君と同じで、当主の決定に口を挟むことはできない。父がブライツウェルとの関係継続を決めた場合、私は従うしかないだろう」

フィリップはロザモンドに蔑むような目を向けた。

「最悪だ。貴族の娘の矜持も知らぬ、見境のないメス犬など」

「なっ……!」

ロザモンドは頬を朱に染め、フィリップの頬に手を振り上げた。フィリップが容赦なくその手をつかみ、ぎりりとひねって振り払う。

「――勘違いも大概にしろ。侮辱されたのは君ではなくこの私だ。君と情夫の派手な噂を知らないとは言わせない」

話は終わりとばかりにロザモンドは書斎から追い払われた。

こんな……こんなはずでは……。

帰宅したロザモンドは必死で表情を取り繕い、「彼はボーヴ家当主の決定に従うと言っています」とのみ父に伝えた。彼自身は破談を心から望んでいるようですが、などとはとても言えなかった。

これから先のことを考えると、ロザモンドは暗澹たる気持ちになった。フィリップ本人からは既に見限られてしまっているが、さりとてここで彼を逃してしまえば、新たな嫁ぎ先は間違いなくボーヴ家より格下になる。そんな屈辱はロザモンドの誇りが許さない。

鬱々とした日々を過ごす中、ロザモンドは気晴らしにと出向いたカフェであの女を見かけた。ヒューバートの婚約者だったという、あの金髪の娘。

ロザモンドが地獄に突き落とされている間、彼女は劇的な変化を遂げていた。

一体何をやったのか、ヒューバートとの婚約を解消した彼女は、見違えるほど垢抜けて美しくなっていた。

ロザモンドの記憶では、それなりに整った顔立ちではあるが、所詮は目立たぬカスミソウのような娘だった。だが今の彼女はまるで、薔薇を食うほど強く美しい、魔性のカスミソウになっている。

――いるのですよね……。殿方と別れたら、急に外見を磨いて見返そうとする女。

浅ましいと思うロザモンドだったが、そうは言っても彼女の変貌は無視できなかった。彼女の婚約解消を聞きつけた男たちが、既にそわそわし始めているという。聞いたところでは、名だたる公爵家の嫡男や、王妃の愛息である第二王子までもが興味を示しているとか。冗談ではなかった。万が一にもあの娘が王子や公爵令息の誰かに嫁ぐことがあれば、結婚後の身分がロザモンドより上になってしまう。

ロザモンドは楽しそうにお喋りしている金髪の娘と、彼女の連れの栗色の髪の娘がいる席に近づいた。

「……よろしいかしら」

二人がすっと席を立ち、淑女の礼をとる。ロザモンドは彼女らの正面に腰を下ろし、「お掛けになって」と着席の許可を与えた。

金髪の娘は突然現れたロザモンドに困惑しているようだった。ロザモンドに話しかけられる理由が分からないようだ。ロザモンドは気にせず親しみのある笑みを浮かべた。

「エルセさん、でしたかしら? ここのところ、急にお綺麗になられたと評判ね。一体何をなさったの?」

「え……いえ、特に何も」

金髪の娘はきょとんとした顔で首を傾げた。絶対に何かしているはずなのに白々しい。

「そう言わず、わたくしにも秘密を教えてくださらないかしら。婚約者と別れたそうだけど、その後、何か特別な美容法でもお試しになったの?」

彼女が思い出せるよう、時期まで特定して水を向けてやる。金髪の娘の隣で栗色の髪の娘が眉を上げた。婚約者との別れはロザモンドのせいだと言わんばかりだ。とんでもない言いがかりだった。二人の婚約解消のきっかけが、ヒューバートの暴言だったらしいことはロザモンドも知っている。

金髪の娘はああ、と呟き、花がほころぶように笑った。

「特に何もしていませんが……あえて言えば、心に住まわせる価値もない人をここから追い出しただけです」

そう言って、娘はみぞおちの辺りを優しく手で押さえた。

「ああ、成程……」

そういうことか。わたくしには釣り合わないような「価値のない」者を、わたくしの領域から追い出してしまえばいいのだわ。

つまり、ヒューバートのことだ。彼とはあれ以来会っていないが、この際だから二度と遭遇することのないよう、どこか辺境にでも追いやってもらおう。彼に対しては父も「高潔と評判だったからこそ一人娘を任せたものを、とんだエセ君子だったわ!」と怒り心頭だった。きっと聞き入れてくれるはずだ。あら、これはなかなか良い考えではないかしら? こうすることでボーヴ家にも誠意を見せることができるのではなくて?

ロザモンドは忙しなく考えを巡らせた。

それと、これからはヒューバートに限らず、彼のように身分の低い者たちも近づけないようにしよう。この娘の話では、彼らと接してしまうことで、ロザモンドの美が濁ってしまうようだ。これからはロザモンドと真に釣り合う「価値ある」相手とだけ接するのだ。そうすることでロザモンドはますます磨かれ、今よりもっと美しくなる。こんな娘など足元にも及ばぬほど。

――分かってしまえば簡単なことですね。

ロザモンドは立ち上がり、軽やかに踵を返した。

「……何あれ」

リネットが呆れたように呟いた。ブライツウェル家のお姫様がいきなり話しかけてきたと思ったら、暇乞いも口にせずさっさと立ち去ったのだ。こちらが見送りの礼をとる暇もなかった。

「美しくてお利口な方だと言うけれど……とてもそうは思えないわね」

「そうね。下品な方だったわ」

エルセも澄ました顔で同意する。婚約者のいる身でありながら、同じく婚約者のいる男性と抱き合える女性に品などそもそもありはしないが。

「はっきり言うようになったわね……」

「生まれ変わったの。もうあの二人とはできるだけ関わりたくない」

「同意しかないわ。……エルセ、本当に吹っ切れたのね。よかった」

リネットはエルセとヒューバートの関係が完全に過去のものとなった時、我が事のように喜んでくれた。

魔女の店から帰宅したエルセは待ち構えていた父に捕まり、ヒューバートとのことを確認された。エルセがヒューバートから投げつけられた言葉は既に父の耳にも入っており、父は頭に血を上らせて続々と詰めかけてくる一族の者を宥めながら、エルセの帰りを今か今かと待っていた。父はそれでも、エルセが思いを残しているなら彼との修復の道を探るつもりだったようだが、当のエルセが「えっ解消していいの? ヤッタァ~」という反応だったから、「あ、じゃあ……」と解消の方向に舵を切った。ミンツワース家も大人しく婚約解消を受け入れた。

「あーあ。アップルカスタードパイの口福感が台無し……」

嘆くリネットの肩をよしよしと撫でる。

エルセはふと、悪戯を思いついた子供のような顔になった。

「――もうひとつ食べちゃう?」

「天才」

二人は手を取って笑い合い、ウエイターを呼んだ。

「エルセとの婚約を……解消……?」

ヒューバートはたった今、父から告げられた言葉を呆然と繰り返した。

「何を驚く。お前から申し出たようなものだろう」

「いえ、あれは……」

――君がミンツワース家にふさわしい人間かどうか、僕は再考しなくてはならないな。

あの時は咄嗟にあんなことを言ってしまったが、決して本気ではなかった。

ヒューバートにとって、エルセは特別な女の子だった。

はらはらと涙を流す青い瞳が、眩しいものを見るようにヒューバートを見上げた時から。

ヒューバートは泣いている女性を放っておかないが、泣き止むまで自ら望んでそばにいるのはエルセただ一人だった。

エルセは雰囲気が柔らかく、一緒にいると心地良い。親しい人の前では意外とお茶目で、そこがまた可愛くもあった。

そして、彼女は淑やかで控えめながら、ヴェイツィらしい芯の強さがあった。貴族の妻としてエルセはひとつの理想形で、ヒューバートは彼女を手放すつもりなど微塵もなかった。

「嘘でしょう……エルセはもう、身内のようなもので……」

「ああ、どうやらお前はエルセ嬢に敬意を払わず、彼女の優しさに甘える一方だったらしいな。愚か者。婚約者を大切にできぬ男は捨てられて当然だ」

「……」

反論できなかった。ヒューバートにも「任務」を口実に、エルセとのことを少々疎かにしていた自覚はある。

ロザモンド姫とは今だけのことで、エルセとはこれからもずっと一緒なのだから――そう自分に言い訳をして。

「ヒューバート、一度だけ訊く。お前とロザモンド姫は男女の仲だったのか」

「え……い、いいえ……」

ヒューバートも馬鹿ではない。決定的な一線を踏み越えたことは一度もなかった。だがヒューバートのうろたえぶりと、落ち着きのない視線から、父はまったく何もなかった訳ではないと察したようだった。

「何と軽率な……。ロザモンド姫のおそば近くでお仕えする意味をお前は 履(は) き違えたか。お前に求められていたのは、あくまで護衛騎士としての本分の 全(まっと) う。少々おそばに取り立てられたくらいで、将来の婿候補になったとでも思い上がったか!」

「いいえ、まさか!」

ヒューバートは大きく否定した。ロザモンド姫とのことは勿論軽い気持ちではなかったが、ヒューバートにはエルセという婚約者がいるのだ。

ヒューバートは思い上がったのではない。

ただ、恋をしたのだ。

最初に誘ってきたのはロザモンド姫の方からだった。

潤んだ目でヒューバートを見つめ、よくよろめいてはヒューバートの腕に縋る。こんなことを繰り返されて、意識するなという方がおかしかった。プラトニックで終わらせず、触れてしまったのは良くなかったかもしれないが、拒絶されないと分かっていたからこそ、ヒューバートも大胆になれたのだ。

「ならば何故! 万が一お前と姫が思い合うことがあっても、ご身分はあちらが遥かに上。公爵家側からの打診ならともかく、当人たちの気持ちだけで飛び越えられるような身分差ではないのだぞ!」

「分かっています!」

ヒューバートは叫んだ。

言われずともよく分かっている。

分かっていた。

報われぬ恋だと。

どうあっても終わりを迎えるしかない恋なのだと。

だからこそ燃え上がった。

あの頃は、ロザモンド姫しか見えぬほどに――。

父がぐっと拳を握り、ヒューバートを殴り飛ばした。

「――楽しかったか」

楽しい……? 何を言っているのか。苦しくて切なくて、いくつもの夜、ヒューバートは恋にこの身を焦がしたのに。

「公爵家のご厚意を台無しにしたのだ。お前は未来を棒に振ったも同然だが、これからどうやって身を立てるつもりだ」

「それは……」

密かに思い合うだけの仲だから、露見することはないと思っていた。露見した後どうなるのかなど考えたこともない。

「それだけではない。お前は将来を誓ったエルセ嬢を傷つけ、結果的に彼女を失った。ヒューバート、今一度尋ねる。楽しかったか。お前が酔いしれた恋愛ごっこにそれだけの価値はあったのか」

ヒューバートは頭を殴られたような衝撃を受けた。

――エルセ……エルセを、失った?

「……エルセ」

ヒューバートはよろよろと扉に向かった。

「どこへ行く」

「エルセに謝罪し、関係の修復を……」

「聞き入れられると思うのか! そうやって相手のことを考えず、自分の都合ばかりを通そうとしたから、お前は愛想を尽かされたのではないのか」

――エルセが、僕に愛想を?

そんなはずがない。エルセを傷つけたことは分かっているが、ヒューバートが心の底から謝れば、エルセはきっとヒューバートを許し、再び笑顔を見せてくれる。ヒューバートとエルセには二人で重ねた長い年月がある。

「でも、僕とエルセは、こんなことでは……」

「ヴェイツィ伯のお人柄は分かるか。ご令嬢の意向を無視してまで、強引に婚約解消を進める人ではない。……エルセ嬢はもうお前に気持ちがないのだろう」

「――そんな!」

駆け出そうとするヒューバートの腕を父が強い力でつかんだ。

「行ったところで門前払いされるだけだろうが、それでも軽はずみな真似は許さん。これ以上醜態をさらすな、ヒューバート。お前がさらす恥は、ミンツワース家がさらす恥と心得よ!」

「父上……」

ここまで言われてしまえば、ヒューバートも自重するしかなかった。

落ち着いて考えると、父が言っていることの方が正しい気がした。

だが、それでエルセを諦められるかといえばそうではない。

直接訪問することは無理でも、偶然会える可能性に賭け、ヒューバートは夜会に顔を出し始めた。

未練がましいと分かっていたが、このままでは終われなかった。

エルセ本人には会えなかったが、こまめに夜会に出ているうち、彼女に関する情報を少しは得た。

最近のエルセは夜会には出ず、たまに令嬢だけの茶会に顔を出す程度らしい。彼女には縁談が殺到しているという噂も聞き、ヒューバートは気が気ではなかった。ヒューバートの友人たちもここぞとばかりに名乗りを上げているらしく、よくもそんな真似がとはらわたが煮えくり返った。

エルセ。会いたい――。

会ってどうするということは考えていなかったが、ヒューバートは彼女の姿を求め、うろうろと街をさまよった。

エルセに会いたい。いつものように笑ってほしい。

ふらりと角を曲がったところで、ヒューバートは目を見開いた。

エルセがリネットに笑顔で手を振り、路地に向かって歩き出そうとしている。

「――エルセ!」

ヒューバートの願いが通じた。

婚約していた頃はあんなに会うのが大変だったのに、今は道を歩いているだけで会ってしまうのか……。

ヒューバートの顔を見た瞬間、エルセは反射的に吐きそうになり、ハンカチで口元を覆った。

「それ以上近づかないで」

駆け寄ろうとするヒューバートを押し止め、「じゃ、さよなら」と踵を返す。

「待ってくれ!」

無理だった。

これも薬の効果なのか、ヒューバートがそばにいると、あの味と臭いをエルセの体が勝手に思い出してしまう。

「エルセ!」

「待って、そこで止まって!」

追いかけてくる気配を感じ、エルセは慌てて振り向いた。エルセに必死の形相で制止され、ヒューバートが足を止める。

うっぷ……。

「何か用……?」

何故声をかけられたのか分からず、エルセは口元を押さえたまま尋ねた。

「そんなに、怒っているのか……」

「お、怒ってないわ。それより用がないならもういい?」

「エルセ、悪かった!」

ヒューバートがいきなり頭を下げた。

「もう一度、君とやり直したい」

どういうことだろう。ロザモンド姫に捨てられでもして、それでエルセのところに来たのだろうか。最低だ。

「無理よ。私たちの婚約は正式な手続きを経て解消されたの。やり直すことはできないわ」

「できるよ。婚約を結び直せばいいんだ」

ヒューバートは何でもないことのように言った。家と家との契約を何だと思っているのだろう。そう簡単に結んだり解いたり結んだり解いたりするものではない。一往復だけでこりごりだ。

「エルセ、どうかもう一度、僕を選んで――」

「近づかないで!」

足を前に踏み出そうとしたヒューバートを必死で止める。この距離でも正直ギリギリなのに、これ以上近づかれたら彼の顔に吐いてしまう。

エルセの迫力に気圧され、ヒューバートはつらそうな顔をしつつも、目に見えないラインを大人しく守った。

「……ケヴィンたちが君を狙っている。心配なんだ」

ケヴィンたちとは彼の幼馴染で、幼少の頃、皆で寄ってたかってエルセの髪を引っ張った男の子たちだった。

――ええ。あれは本当に嫌だったわ……。

ここしばらくは夜会からも足が遠のいていたエルセだったが、とある女性だけの茶会に出席した際、ケヴィンが偶然を装って現れた。

――君のことがずっと気になってた。ヒューバートと別れたんなら、是非僕と……。

彼にしつこく言い寄られ、エルセは隙を突いて逃げた。子供の頃の仕打ちはエルセの心に植えつけられているのに、急にまとわりつかれても恐怖しかない。

だが彼とのことをヒューバートに心配されるいわれはなかった。

「ご親切にありがとう。でも私たちはもう他人だから、私のことは気にかけてくれなくていいのよ」

「エルセ……」

できるだけ優しく言ったつもりだったが、ヒューバートはショックを受けたようだった。

彼の両目から涙がこぼれ、エルセはぎょっとした。

「他人だなんて言わないでくれ……。僕たちの絆は、そんなにあっさり切れてしまうようなものだったのか」

え、そんなこと言われても……。

彼はどうしてこんなにきれいな顔で、きれいな涙を流しているのだろう。エルセを裏切り、バレていないと高を括って不誠実な嘘を吐いた挙句、逆ギレしたただのクズなのに。

ヒューバートがエルセに一歩近づき、エルセがヒッと一歩後ずさった。

「待て、エルセ。話を……!」

「――エルセ、ここにいたのか」

突然後ろから声がした。

聞き覚えのない声だったが、名を呼ばれたエルセはとりあえず振り向く。

そこにいたのは、儚げな雰囲気をたたえた美しい人だった。

後頭部でひとつにまとめられた、絹のように滑らかな淡褐色の髪。髪色よりもやや緑がかった綺麗な瞳。

その人はエルセを心配そうに見つめていた。

「……で、で、殿下……」

エルセに声をかけてきたのは、この国の第三王子、イライアスだった。

「なかなか来ないから、迎えにきてしまった」

そう言って、イライアスはふっと微笑んだ。エルセは有名人の登場に驚いて声も出ない。

イライアス第三王子は先日、馬車の事故による骨折の治療の過程で、痛み止めの依存症となっていたことを告白した。現在は治療を受け、すっかり克服しているという。彼は「過去の自分と似たような境遇に陥っている者に寄り添いたい」と、乞われれば教会や依存者の集会に出向き、彼らの話に耳を傾けたり、自身の経験を語ったりしていた。

だが、彼は自身の活動を誰かに賞賛されると、困ったように笑うのだという。「甘ったれた駄目男が、普通の男になっただけだ」と。

そんなことはないとエルセは思う。依存症の克服はきっと大変だっただろうし、それに、そんな過去を告白することはとても勇気のいることだ。直接お会いしたことはなかったが、エルセは彼を密かに尊敬していた。彼が治療を受けていたのはあの薬師の魔女の店らしく、勝手な親近感も抱いていた。

そんな憧れの有名人、イライアスがエルセに耳打ちする。

「彼から離れたいんだろう? 手助けするから、話を合わせて」

エルセとイライアスの距離が近く見えたようで、ヒューバートが慌てて声を上げた。

「殿下、エルセは私の婚約者で――」

「もう違う」

「もう違うわ」

イライアスとエルセの声が綺麗に重なった。

「行こうか、エルセ」

「は、はい。少しお待ちを」

エルセはヒューバートと距離を保ったまま、彼に声をかけた。

「ヒューバート、子供の頃、庇ってくれてありがとう。あなたはずっと私の王子様だった。でも、もう私に構わないで。あなたならまた素敵な人との出会いがあるわ。さよなら」

立ち尽くすヒューバートに背を向け、エルセはイライアスとともにその場を立ち去った。イライアスがエルセをエスコートしている以上、ヒューバートはエルセを無理に追ってくることができない。

――お薬の効果って、すごい……。

ヒューバートとのことは、エルセの中ですっかり過去のものとなっていた。随分長く一緒にいた相手だが、彼と過ごした年月ももう、セピア色の思い出でしかない。

――元気でね、ヒューバート。

彼がどうしてよりを戻そうと思ったのかは分からないが、彼ならエルセでなくとも、すぐにまた好みの女性を見つけるだろう。

エルセは何となく分かっていた。ヒューバートは恐らく、泣いている女性が好きなのだ、と。

彼はこの先、彼の前でしくしく泣く女性といくらでも出会えることだろう。その人と幸せになればいい。不幸になれと思うほど彼に関心がなかった。

「う……」

彼のことを考えたせいか、吐き気がぶり返した。

「は、吐くのか」

イライアスが頬を上気させ、そわそわと尋ねた。

「どこか人目につかないところへ行こう。大丈夫だ、私が背をさするから」

「え……」

エルセがきょとんとしていると、イライアスははっとして言い訳し始めた。

「ち、違う。誤解だ。人目につかないところというのは君の外聞を憚ってのことで、背をさするというのも、吐いている人はそうされると楽だと聞いたことがあって、別に疚しいことは何も……!」

エルセは思わず噴き出した。そんな失礼な誤解をするはずがない。手慣れていそうですが、もしや介助のご経験が? と思っただけで。

人間ができていると評される、美しい第三王子の意外な一面を見た気がした。

「お心遣いに感謝いたします。お陰で吐き気が治まりました」

「そう、良かった。……私のお陰ではないだろうけど」

イライアスがコホンと咳払いをした。

「エルセ嬢……提案だが、しばらく私を男避けに使わないか。君は私が『特別に親しくしている女性』ということにすれば、君に声をかけてくる男はいなくなるだろう」

「えっいいんですか」

エルセにとっては願ってもない申し出だった。殿下の特別に親しくしている女性――畏れ多くも、第三王子殿下がエルセの恋人のふりをしてくれるということだ。

ヒューバートや彼の友人、ケヴィンたちだけではない。今は恋なんてこりごりだと思っているのに、エルセの意に反して声をかけられることが増え、エルセはうんざりしていた。

「あっ、そういえば!」

「何?」

エルセはおずおずと切り出した。

「実は、第二王子殿下からお誘いがあって……。お断りするのが難しく、二週間後の夜会にお伺いしなくてはならないのですが……」

何がどうなってエルセが第二王子の興味を引いたのかは分からないが、エルセは彼の主催する夜会に招待されてしまった。第二王子は気分屋で我儘、あまり素行がよろしくないと評判で、ヴェイツィ家はエルセが将来の約束もないまま、彼にもてあそばれることを恐れていた。だが将来を約束されたとて、彼が夫ではとても幸せになれるとは思えない。何とか断りたかったが、一介の伯爵令嬢が第二王子のお誘いを断ることはできなかった。

「大丈夫。私が守るよ。兄のことはよく分かっているから、任せておいて」

イライアスはあっさりと請け合った。

喉から手が出るほどありがたいお話だったが、彼の庇護を受ける彼の恋人の役なんて、エルセにしかメリットがない。彼はそれでいいのだろうか。

「私は助かりますが、殿下にご迷惑では……」

「いや。実を言うと私も助かる。『特別に親しくしている女性』がいれば、女性から声をかけられることもなくなるだろう」

ああ、そうか。彼にもそういう悩みがあるのだ。つらい経験を経て人間的に成長したといわれる第三王子は、独身の王族の中でも人気が高い。

「君は婚約を解消したばかりだ。彼とは仲が良かったそうだし、今はまだ新しい相手を探す気にはなれないだろう。今の君には、穏やかに過ごす時間が必要なんじゃないのか」

どうして分かるのだろう。エルセが欲しいと思っているものが。

さすが、地獄を見た人は違う……。

じーんと感動しているエルセに、イライアスが優しく言った。

「……ゆっくりでいい」

「は、はい」

イライアスに促され、エルセは再び彼の腕に手を添えて歩き出した。

道すがら、彼がやや緊張した様子で尋ねた。

「……エルセ、と呼んでも?」

「光栄です」

イライアスはほっとしたように息を吐いた。次いで、取り繕うように表情を引き締めて言う。

「じゃあエルセ、遊びにいこう。二人でできるだけ沢山出掛けて、仲のいいところを皆に印象付けるんだ」

おお。恋人のふりはもう始まっているようだ。

「りんごは好き?」

「大好きです」

「私もだ。アップルカスタードパイ、りんごのシブースト、タルトタタン。二人で沢山食べにいこう。りんごの季節が終わる前に」

「まあ。私たち大忙しですね!」

エルセが弾んだ声を上げる。

イライアスはまぶしそうに目を細めた。

「どうしました?」

「……いや、意外とお茶目な感じなんだな、と」

「すみません、失礼を」

彼の態度が気さくなせいか、エルセはつい、親しい人たちといる時の感覚でイライアスに接してしまった。

「いや、大歓迎だ。その調子」

「はい」

その言い方が可笑しくて、エルセはまた噴き出してしまった。

「このまま本当の恋人になってくれてもいいよ」

「ふふ。殿下ったら」

冗談ばっかり。彼もなかなかお茶目な人のようだ。

「前を見据える凛々しい姿もいいけれど――君は笑顔の方がずっといい」

「殿下?」

イライアスが小声でぽつりと漏らした言葉が雑踏に紛れ、エルセが聞き返す。

イライアスは繰り返す代わりに、やんわりとねだった。

「殿下ではなく――どうかイライアス、と」

(完)