軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

38.レオ、忠誠を得る(前)

ビアンカは、湖に飛び込んできたグスタフに抱えられると、そのまま湖岸へと引っ張り上げられた。

「レオノーラ! レオノーラが……!」

腕を逃れるようにして湖へと身をよじるが、グスタフに、

「おまえが取り乱してどうする!」

と一喝されて我に返った。

叫び出したくなるのをぐっとこらえ、視線だけは湖に固定させたままその場に蹲る。

彼女は濡れた手を組み合わせ、祈った。

(精霊よ……! どうか、レオノーラを助けて……!)

春が近いとはいえ、冷え切った湖。

その水に全身を濡らしたビアンカはカチカチと歯を鳴らしていたが、本人はそれに気付いていなかった。

グスタフが岸に投げ捨てていたローブを掛けてくれるが、それに礼を述べる余裕すらもない。

「物理的に湖底に引きずられたのではない。あれは、精霊の領域に引き込まれたんだ。溺れることはないだろう」

グスタフは普段の軽薄な態度を捨ててビアンカの傍に跪くと、彼女に問うた。

「ハーケンベルグを奪還するには、精霊に界を開いてもらう必要がある。ビアンカ皇女。――まずは事情を話せるか」

冷静な琥珀の瞳に見据えられて、ビアンカは少しだけ落ち着きを取り戻した。

「え……演習中に、一部の生徒が火の魔術を使って……それで、森の精霊が怒って。彼らがわたくしを湖の貴婦人に捧げると言い出したら、レオノーラが代わりに名乗りを上げたのです」

ビアンカはそれを止めようとしたこと。

その結果、二人とも湖の近くの森に放り出されてしまったこと。

しかし学生のためにも貴婦人の怒りを解かねばと考え、湖に向かい、結果「湖の洗礼」を受けたことを、ビアンカは喉を震わせながら話した。

「馬鹿が。なんで森に放り出された時点で引き返さなかった」

「だって……! レオノーラは一人でも向かうと言い張ったのですもの。学生を守るのは本来学年長の仕事。そもそも、わたくしのせいなのに、彼女にその責を負わせるわけにはいきませんわ」

グスタフはビアンカの言を聞いて眉を寄せた。

少女が湖の貴婦人のもとに強行したのは、学生たちの身代わりになるためだけでなく、兼ねてからの懸案事項――水源の確保を目的としていたようにも思われるが、どちらにせよ、「人の役に立ちたい」という強すぎる願いのために、自らを捧げにいったことには変わらないだろう。

(無欲の聖女か……)

まったく、なんという少女だろうか。

散々疑っていたくせに、いざ少女が真実無欲なのだと信じられると、途端にその己を顧みない献身が痛ましかった。

「レオノーラは、いつもそうですわ。自分のことは後回しで、周りの人ばかりを救ってまわって……わたくしは、何度彼女に救われたかわからない。なのに、わたくしではなく、あの子の方を湖に引きずり込むなんて……。『湖の洗礼』など、間違いよ。見る目が無いとしか思えない!」

いえ、ちゃんと合っていますよと答えられる人物は、残念ながらこの場にはいなかった。

「たしかにおかしいな。あいつはなんで、湖に引きずり込まれちまったんだ。本来、精霊はその本質を誤ることなく、人間の強欲や傲慢を見破るものだが……」

ニアミスで真実を突いたグスタフの発言に、ビアンカがきっと顔を上げる。

彼女は、少女が「母様」と呟いて湖に呑まれていったことを説明すると、拳を震わせた。

「きっとあの子は、亡くしてしまった人物のことをいつまでも求める――ない物ねだり、ということで引きずり込まれたのですわ。けれど、幼い子どもが母を求めることの何が、強欲だと言いますの? そんなささやかな、いじらしい願いすら汚らわしいものと切り捨てるのならば、それこそが精霊の傲慢ですわ!」

ビアンカは怒りに燃えていた。

その説明を聞いて納得したグスタフも、その琥珀の瞳を痛ましそうに細め、頷く。

「……まあ、稀ではあるが、精霊が人間を気に入りすぎた場合にも、そいつを自分の世界に連れ込んでいくことがある。ハーケンベルグの場合はそっちかもしれねえな」

そう独白してグスタフは自身を納得させると、すっとその場に立ち上がった。

「事情はわかった。湖の貴婦人を呼び出して、改めて彼女を返してもらうよう頼み込むしかねえだろ」

そうして、彼は言葉を古代エランド語に切り替えると、朗々とした声で湖に呼び掛ける。

その声が、ある響きを紡ぐたびに、湖面が激しく揺れることにビアンカは気付いた。

(まるで、応えるように……)

湖の下で、貴婦人は自分たちの声を聞いている。

それを確信させる現象だった。

(なんと言っているの? なんと言えば、彼女はわたくしたちの声を聞いてくれるの?)

自分がエランド語を操れぬことを、これほど悔いたことはない。

ビアンカは、持てる最大の注意と集中を払って、グスタフの詠唱に耳を傾けた。

(きっと、名前ね。メブキウル・シーゲリウス……ウズマ、ク? ケ?)

長くて一度では覚えきれない。ビアンカは呼吸さえ忘れ、何度も何度もその響きを呟き、心の中心に刻みつけた。

『今一度乞う、メブキウル・シーゲリウス・ウズマキルケ・カーネリエントよ!』

(メブキウル・シーゲリウス・ウズマキルケ……カーネル、ちがう、カーネリ……)

『どうか眼前に姿を現したまえ! メブキウル・シーゲリウス・ウズマキルケ・カーネリエント!』

(――カーネリエント)

ビアンカはぐっと、濡れた拳を握りしめた。

助けるのだ。

今度こそ、自分が。

いつも彼女に救われている自分が。

魔力も充分でない。エランド語も堪能でない。

すぐ口や手が先に出てしまう、欠点ばかりの自分だけれど、渾身の願いを込めて、叫ぶことくらいできる。

「……よく聞きなさい、湖の貴婦人とやら……」

ビアンカはきっと湖面を睨みつけ、拙いエランド語を掻き集めて叫んだ。

『メブキウル・シーゲリウス・ウズマキルケ・カーネリエント! わたくしの、ゆうじんを、かえして!』

その瞬間。

ザバアアアアア!

大音量と共に、湖がひっくり返ったかのような盛大な水柱が立った。

「きゃっ……」

思わずビアンカは腕で顔を庇い、悲鳴を上げかける。

が、水柱の中に見知った少女の姿を認め、アイスブルーの瞳を大きく見開いた。

「レオノーラ!」

少女はびっくりしたような顔で、こちらを見ていた。

「危ねえ!」

一度頂点まで持ち上がった水が、今度は一斉に湖面を叩くようにして落ちはじめ、それに合わせて少女の体も放り出される。

あわやそのまま湖岸に叩きつけられそうになったところを、咄嗟に腕を伸ばしたグスタフが抱きとめた。

「…………っ、……けほっ、ごほっ!」

少女は腕の中で、しばらくの間激しく噎せ込んでいたが、ややあって落ち着きを取り戻した。

濡れて張り付いた黒髪を掻き分け、困惑したように紫水晶の瞳を彷徨わせる。

そうして視線の先にビアンカの姿を見つけると、ぱっと顔を輝かせた。

「ビアンカ……様……!」

「レオノーラ!」

少女が伸ばしてきた両腕を、ビアンカは力強く握り、更にはグスタフの腕の中にいる彼女をそのまま抱きしめた。

「よかった……!」

感動の再会である。

しかし少女の方は、その喜びに安易に全身を浸らせることをせず、早々にグスタフの腕から下りると、ぱっと湖の方を振り向いた。

その視線の先では、再び水が渦を巻き、次の瞬間、美しい女性が出現していた。

カーネリエントだ。

ただそこにいるだけで周囲を圧倒する、森の支配者たるに相応しい威厳。

それに圧倒されたグスタフやビアンカが、素早く跪く。

しかし少女は、それになんら動じることなく、真っ直ぐと貴婦人を見つめ返すと、先程まで沈んでいたはずの湖に近付き、まるで恐れる様子を見せずに、湖面に指先を浸した。

――運のよいことだ。

途端に、カーネリエントの優雅な声が響く。

少女は何も言わなかった。

ただ不思議と、彼女はカーネリエントと意志を疎通し合っているように見えた。

――……ふ、よかろう。

一体何のやり取りがあったのか、ややあってカーネリエントが口の端を持ち上げる。

彼女はつんと顎を持ち上げると、意地悪そうに口の端を引き上げた。

――しかし、そなたのためではない。わかっているだろう?

ビアンカはなぜか、その瞬間湖の貴婦人と目が合ったように思った。

「ビアンカ様」

とそこに、少女が湖から指先を引き上げて、跪いたままのビアンカのもとに駆け寄ってくる。

彼女はビアンカの両手を取ると、紫の瞳に強い意志の光を浮かべた。

「お願い、あります。今から、私が言うこと、繰り返して。湖の貴婦人に向かって、叫ぶ、ください」

「え……?」

ビアンカからしてみれば、さっぱり状況が飲み込めない。

しかし少女は「いいから」と、焦ったように言い募った。

「今、この瞬間に、かかっているのです。水の陣、後は、許可をもらう、だけなのです……!」

水の陣。

それが何を意味するかはわからなかったが、少女のことだ、きっとまた、人のために何か奔走しているのだろう。

「わ……わかったわ。レオノーラ。それであなたが危なくなることはないのね?」

「ありません。むしろ、助かります。救われます」

力強く請け負った少女は、ビアンカの耳に手をあてがい、そっと囁いた。

エランド語だ。

意味ではなく、響きだけでそれを刻みこみ、ビアンカは復唱した。

『メブキウル・シーゲリウス・ウズマキルケ・カーネリエント』

立ち上がり、まずは、水の至高精霊の御名を呼ぶ。

湖の貴婦人――カーネリエントが、その完璧な形の眉を片方持ち上げて、面白そうにこちらを見つめ返してきたのを捉えると、ビアンカはその視線を受け止め、叫んだ。

『わたくしに、ふくじゅう、なさい!』

意味は、わかっていなかった。ただ、その音だけを覚えて力強く告げた。

その瞬間。

――…………!

カーネリエントは大きく目を見開くと、次の瞬間、うっとりとしたような笑みを漏らした。