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婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました

作者: 本城オブリゲータ

本文

婚約式の鐘が鳴るはずの時刻に、私の婚約者になるはずだった人は、病弱な幼なじみの寝室へ向かっていた。

神殿の控え廊下は、よく磨かれた白石でできている。

足音が響きやすい。

だから、来る人がいればすぐに分かる。

けれど、式の開始時刻を告げる小鐘が鳴っても、その足音は聞こえなかった。

扉の向こうには、両家の親族が揃っている。

私の父であるエルヴェイン公爵。

母。

ハーグレイヴ侯爵夫妻。

立会神官。

王家婚姻登録院から派遣された公証人。

さらに、今日の婚約式が公爵家と侯爵家の正式な婚約登録を伴うため、監督官としてレオニス大公家の次男ヴィクトル様まで控えていた。

整っている。

場は、完璧に整っている。

整っていないのは、ただ一人。

誓いの言葉を述べるはずの、ディオン・ハーグレイヴだけだった。

「アリシア」

母が、私の横で小さく呼んだ。

その声は震えていない。

けれど、指先は扇の骨を強く握っていた。

「大丈夫ですか」

「はい」

私は答えた。

大丈夫ではない。

でも、ここで大丈夫ではない顔をしても、来ない人が来るわけではない。

立会神官が懐中時計を見る。

公証人も、同じ時刻を記録用紙へ写した。

開始予定時刻から、半刻。

神殿規定では、婚約式の誓約者が半刻以上不在の場合、式は延期または不成立として記録される。

延期には、両家と本人たちの同意が必要だ。

不成立には、不在でない側の意思確認と、公証人の記録が必要になる。

私は、その規定を知っていた。

知らなければ、今日まで待つことも、今日で終わらせることもできなかった。

「もう少し待ちましょう」

そう言ったのは、ハーグレイヴ侯爵夫人だった。

青ざめた顔で、それでも貴婦人らしく背筋を伸ばしている。

「ディオンは、必ず参ります。きっと、やむを得ない事情が」

「セシリア様でしょうか」

私が静かに言うと、侯爵夫人の唇が止まった。

父が私を見る。

母も。

ハーグレイヴ侯爵は、苦い顔で目を伏せた。

つまり、皆もう知っているのだ。

ディオンがどこへ行ったのかを。

セシリア・ロイス男爵令嬢。

ディオンの幼なじみ。

幼いころから身体が弱く、長く寝込むこともある令嬢。

それ自体は、責めることではない。

病が本人の罪でないことくらい、私にも分かっている。

問題は、彼女の不安がいつも、私の予定の当日に限って強くなることだった。

初めての王宮舞踏会の日。

ディオンは、セシリアの発熱を理由に途中で帰った。

王妃殿下への挨拶の日。

ディオンは、セシリアが泣いているという使いを受けて、私を控え室に残した。

両家の晩餐の日。

ディオンは、セシリアの手紙を読んで席を立った。

観劇の日も。

慈善市の日も。

春の狩猟会の日も。

彼はいつも言った。

「君なら分かってくれると思った」

分かった。

私はずっと分かってきた。

彼が優しいことも。

セシリアが弱いことも。

幼なじみという過去が、私より先に彼の中へあることも。

けれど、分かることと、待ち続けることは違う。

「アリシア嬢」

立会神官が、私へ向き直った。

白い法衣の胸元に、婚約式用の銀鎖が下がっている。

「規定の半刻を過ぎました。式を延期するか、不成立確認へ移るか、ご意思を確認いたします」

「待ってください」

ハーグレイヴ侯爵夫人が、思わずというように声を上げた。

「まだ本人が戻っておりません。戻ってから、改めて」

「夫人」

ヴィクトル様が初めて口を開いた。

低く、静かな声だった。

その声だけで、廊下の空気が少し変わる。

「本人が戻っていないからこそ、規定が働きます」

「ですが」

「婚約式は、片方が待つための儀式ではありません」

侯爵夫人の顔が、さらに白くなった。

ヴィクトル様は責めているわけではない。

ただ、規定をそのまま口にしている。

だからこそ、逃げ道がない。

私は一歩前へ出た。

白い婚約式用のドレスの裾が、石床の上でかすかに鳴る。

今日はこの裾を、誓いの壇へ向けて進めるはずだった。

でも、もう違う。

この裾は、終わらせるために動く。

「本日の婚約式は行いません」

私は立会神官へ告げた。

「婚約不成立の確認をお願いいたします」

廊下が静まり返った。

誰かが息を呑んだ。

母の扇が、ほんの少しだけ鳴った。

でも、私は顔を伏せなかった。

「アリシア」

父が私の名を呼んだ。

それは止める声ではなかった。

確認する声だった。

「本当に、それでよいのだな」

「はい」

私は父を見る。

「私は今日、婚約式へ来ました。待合室へ来たのではありません」

父の目が、一瞬だけ痛ましそうに揺れた。

けれど、次の瞬間には公爵の顔へ戻る。

「エルヴェイン公爵家として、娘アリシアの意思を尊重する」

ハーグレイヴ侯爵が、ぐっと唇を噛んだ。

侯爵夫人は泣きそうな顔をしている。

けれど、反論はできない。

ここには神殿も、公証人も、王家婚姻登録院の監督官もいる。

これは内輪の口約束ではない。

正式な婚約式なのだ。

立会神官が頷き、公証人へ合図した。

公証人は式卓の上に置かれていた誓約書を下げ、代わりに青い縁取りの書面を出す。

婚約不成立確認書。

その名前は、ひどく冷たい。

けれど私には、その冷たさがありがたかった。

感情ではなく、記録になる。

誰かに可哀想だと言われる前に、事実として残る。

「アリシア・エルヴェイン公爵令嬢」

公証人が読み上げる。

「本日、聖アリア神殿において、ディオン・ハーグレイヴ侯爵家嫡男との婚約式を執り行う予定であったこと」

「はい」

「定刻より半刻を過ぎても、相手方誓約者が不在であること」

「はい」

「延期ではなく、婚約不成立として記録することを望むこと」

「はい」

声は震えなかった。

不思議なくらいに。

たぶん、震える時期はもう過ぎていたのだ。

何度も待った。

何度も飲み込んだ。

何度も、君なら分かってくれると思った、と言われた。

そのたびに、少しずつ何かが冷めていった。

今日、凍っただけだ。

「では、署名を」

ペンが差し出される。

私はそれを受け取った。

白い手袋を外し、素手で署名する。

アリシア・エルヴェイン。

まだハーグレイヴではない名。

これからも、ハーグレイヴにはならない名。

書き終えた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。

悲しくないわけではない。

悔しくないわけでもない。

今日のために選んだドレスも。

母が朝から整えてくれた髪も。

父が不器用に褒めてくれた真珠の飾りも。

全部、婚約式のためのものだった。

それを自分の手で終わらせるのは、痛い。

でも、待ち続けるよりはずっとましだった。

公証人が確認書へ封蝋を押す。

青い蝋が、白い紙の上で固まる。

それで、終わった。

私とディオン・ハーグレイヴの婚約は、成立しなかった。

神殿の大扉が開いたのは、その直後だった。

廊下の向こうから、慌ただしい足音が響く。

乱れた礼装。

息を切らした顔。

青い瞳に焦りを浮かべた、ディオン・ハーグレイヴが立っていた。

「アリシア!」

彼は私を見つけると、ほっとしたような顔をした。

その顔を見て、私は少しだけ不思議に思う。

この人は、まだ間に合うと思っているのだ。

「すまない。セシリアが急に苦しがって、どうしても私が行かなければならなかった」

私は黙って彼を見た。

ディオンは、その沈黙を怒りだと思ったらしい。

すぐに言葉を足す。

「君には悪いと思っている。だが、彼女は本当に弱いんだ。幼いころから、私がそばにいないと不安で」

「医師は」

私がそう訊くと、ディオンは目を瞬いた。

「え?」

「医師は、あなたがいなければ命に関わると診断なさったのですか」

「いや、そういうことでは」

「では、神殿医師を呼ぶことはできなかったのですか」

「セシリアは、私に来てほしいと言っていた」

「そうですか」

私は頷いた。

「なら、それは看病ではなく、選択です」

ディオンの顔が強張る。

「何を」

「あなたは、婚約式よりセシリア様を選んだのです」

「そんな言い方をしなくてもいいだろう」

「ほかに、どのような言い方がありますか」

私は彼の正面に立った。

白いドレス。

外した手袋。

封蝋の押された書面。

そのすべてを、彼にも見てほしかった。

「式は終わりました」

「終わった?」

ディオンが笑う。

乾いた、信じられないという笑いだった。

「何を言っている。私はまだ誓っていない」

「だからです」

「だから?」

「あなたが誓わなかったので、婚約は成立しませんでした」

ディオンの顔から血の気が引く。

彼は立会神官を見る。

公証人を見る。

最後に、ヴィクトル様を見る。

「そんなことが」

「規定どおりです」

ヴィクトル様が静かに言った。

「定刻より半刻を過ぎ、相手方誓約者が不在。エルヴェイン公爵令嬢は延期ではなく不成立確認を選択された。記録は完了しています」

「だが、私は戻ってきた」

「式の時刻には、いなかった」

「少し遅れただけだ」

「正式儀式における少しは、記録で決まります」

ヴィクトル様の声は変わらない。

怒ってもいない。

慰めてもいない。

ただ、事実を置いているだけだ。

その事実が、ディオンを追い詰めていく。

「アリシア」

彼は、ようやく私へ向き直った。

「君なら待っていてくれると思った」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった最後の温度が、すっと消えた。

やはり、それなのだ。

彼は悪意で私を置き去りにしたわけではない。

私なら待つと思った。

それだけ。

それだけで、人はこんなにも誰かを軽く扱える。

「ええ」

私は微笑んだ。

「だから、今日まで待ちました」

「アリシア」

「舞踏会でも、王妃殿下への挨拶でも、両家の晩餐でも、観劇でも、何度も待ちました」

「それは」

「今日も、半刻待ちました」

私は続けた。

「ですが、婚約式は待つための場ではありません。誓うための場です」

ディオンの唇が震える。

「やり直せばいい。改めて日を決めて」

「いいえ」

「なぜだ。今回だけではないか」

「今回だけではありません」

私は静かに首を振った。

「今日だけが原因なら、私は怒っただけで済ませたかもしれません」

「では」

「今日、私が終わらせたのは、これまで全部です」

彼は黙った。

ようやく、少しだけ理解した顔になった。

けれど遅い。

理解は、いつも遅い。

そこへ、神殿の横扉から別の足音がした。

若い侍女に支えられた女性が、白いショールをまとって入ってくる。

淡い金髪。

薄い肌。

か弱げな瞳。

セシリア・ロイス男爵令嬢だった。

「ディオン様」

彼女は震える声で彼の名を呼んだ。

ディオンが反射的に振り向く。

その動きだけで、私はもう十分だった。

彼は今でも、私より先に彼女を見る。

「セシリア。なぜ来た」

「だって、わたくしのせいで式が遅れていると聞いて」

セシリアは私を見た。

その目には涙が浮かんでいる。

けれど足元は思ったよりしっかりしていた。

少なくとも、命に関わる発作の直後には見えない。

「アリシア様」

彼女は私へ向けて、深く頭を下げた。

「ごめんなさい。わたくし、ディオン様を困らせるつもりはなかったのです。ただ、今日はどうしても不安で」

「婚約式の日だと、ご存じでしたか」

「……はい」

「開始時刻も?」

「はい。でも、ほんの少しだけ来てくだされば落ち着くと思って」

ほんの少し。

ディオンが言った少しと、同じ響きだった。

少し遅れるだけ。

少し寄るだけ。

少し待たせるだけ。

その少しを重ねられる側が、どれほど削られていくかを、この二人は考えたことがないのだろう。

「セシリア嬢」

ヴィクトル様が口を開いた。

「あなたの屋敷へは、神殿医師を派遣しています」

セシリアの顔色が変わった。

「神殿医師を?」

「正式儀式の誓約者が、あなたの体調不良を理由に欠席したためです。緊急性の有無は確認する必要がありました」

「そんな」

「診断は、急性の発作ではなく、強い不安による過呼吸傾向。命に関わる状態ではないとの報告です」

廊下の空気が、また少し冷えた。

セシリアは顔を伏せる。

ディオンは何か言おうとして、言葉を失った。

「病弱であることを責めているのではありません」

ヴィクトル様は続けた。

「しかし、正式な婚約式の時刻を知りながら、緊急性のない呼び出しを行い、誓約者を式から離れさせた事実は記録されます」

「記録……」

「ロイス男爵家には、王家婚姻登録院より注意書を送ります。今後、正式儀式当日の私的な呼び出しについては、医師または神殿を通すように」

セシリアの肩が震えた。

泣き出しそうに見える。

けれど、私はもう、その涙へ駆け寄る人ではなかった。

「アリシア様」

彼女は涙声で言う。

「わたくし、本当にそんなつもりでは」

「ええ」

私は頷いた。

「きっと、そんなつもりではなかったのでしょう」

セシリアが少しだけ顔を上げる。

私は、できるだけ穏やかに続けた。

「ただ、あなたが不安になるたびに、私の予定は後回しになりました」

「……」

「あなたが泣くたびに、私は待ちました」

「……」

「あなたに悪気がなかったとしても、私が待たされた事実は消えません」

セシリアは何も言えなかった。

悪気がない。

それは免罪符ではない。

少なくとも、私の人生を少しずつ脇へ寄せる理由にはならない。

ハーグレイヴ侯爵が、そこで深く頭を下げた。

侯爵夫人も続く。

「エルヴェイン公爵家、ならびにアリシア嬢へ、ハーグレイヴ侯爵家より正式に謝罪する」

侯爵の声は苦かった。

「婚約式不成立に伴う違約金、神殿費用、参列者への詫び状については、当家が責任を持つ」

「侯爵」

ディオンが顔を上げる。

父である侯爵は、息子を見なかった。

「ディオン。お前は、本日をもって婚約協議に関する家の代理権を停止する」

「父上」

「正式な婚約式に穴を空けた者へ、次の縁談の判断を任せることはできない」

ディオンの顔が歪む。

セシリアが震える。

けれど、これは妥当な処分だった。

むしろ、侯爵家の面目を考えれば、最低限だろう。

「アリシア」

ディオンが、最後に私の名を呼んだ。

「本当に、もう駄目なのか」

「はい」

「私は、君を嫌っていたわけではない」

「存じております」

「では」

「嫌われていないことと、大切にされていることは違います」

その一言で、ディオンは黙った。

私は少しだけ目を伏せる。

これを言うのに、ずいぶん時間がかかったと思う。

彼は私を嫌っていなかった。

酷い女だと思っていたわけでもない。

むしろ、信頼していたのかもしれない。

待ってくれる女として。

怒らない女として。

分かってくれる女として。

でも私は、もうその役を降りる。

「さようなら、ディオン様」

私は一礼した。

「どうか、これからは待たせない方をお選びください」

彼の返事はなかった。

それでよかった。

婚約式が不成立として終わったあと、私は神殿の裏庭へ出た。

参列者への説明は父と母が引き受けてくれた。

私は少しだけ、一人になりたかった。

裏庭には、白い小花が咲いている。

婚約式で使われる花だ。

変わらぬ誓いを意味するらしい。

少し皮肉な花だと思った。

石の長椅子に腰を下ろすと、急に指先が震えた。

式の間は平気だった。

署名もできた。

ディオンと話すこともできた。

けれど、終わった途端、身体は正直になる。

手袋を握りしめる指が、少しだけ震えている。

「泣いてもいい場面だと思うが」

声がして、私は顔を上げた。

ヴィクトル様が、少し離れた場所に立っていた。

神殿の白い壁を背に、深い紺の礼装がよく映えている。

「監督官が、泣くことまで記録なさるのですか」

「必要なら」

「必要ありません」

「だろうな」

ヴィクトル様は短く答え、私の隣ではなく、少し離れた石柱の横へ立った。

距離を取ってくれる。

それがありがたかった。

「見苦しかったでしょうか」

「何が」

「婚約式を、不成立確認に変えたことです」

「まったく」

即答だった。

私は少しだけ目を瞬く。

「意外です」

「なぜ」

「もう少し、穏便な延期を勧められるかと」

「延期は、次も待つという意味になる」

ヴィクトル様は淡々と言った。

「あなたは今日、次を待たないと決めた。なら、不成立が正しい」

その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。

慰めではない。

同情でもない。

判断を認められたのだ。

「あなたは捨てられたのではない」

ヴィクトル様は続ける。

「終わらせるべき時刻を、自分で選んだ」

私は、返事をするのに少し時間がかかった。

白い小花が、風で揺れる。

その揺れを見ながら、ようやく息を吸う。

「そう見えましたか」

「そう記録したいくらいには」

「記録は困ります」

「では、私の記憶に留める」

「それも少し困ります」

「なら、困る程度には覚えておく」

私は思わず笑ってしまった。

今日初めて、自然に笑った気がする。

ヴィクトル様は、ほんの少しだけ目を細めた。

「笑えるならよかった」

「今のは、笑わせにきたのですか」

「少し」

「意外と器用でいらっしゃいますね」

「よく言われない」

「でしょうね」

また、少しだけ笑ってしまう。

胸の奥の痛みが消えたわけではない。

けれど、痛みだけではなくなっていた。

「エルヴェイン公爵令嬢」

ヴィクトル様が、改めて私の名を呼ぶ。

「はい」

「今日の確認書は、婚約不成立として正式に登録される。あなたに瑕疵はない。今後の縁談においても、それは明記される」

「ありがとうございます」

「それから、今日の一件で、あなたを待つ女として扱う者は減るだろう」

「増えるかもしれません」

「なぜ」

「面倒な女だと思われるでしょうから」

「それは良いことではないか」

私は目を瞬いた。

ヴィクトル様は真面目な顔で言った。

「面倒な女だと思って去る相手は、最初から近づかない方がいい」

今度は、声に出して笑ってしまった。

神殿の裏庭で、婚約式を終わらせた直後の令嬢としては、あまりにも似つかわしくない笑いだった。

でも、止められなかった。

「ヴィクトル様」

「何だ」

「あなたは、慰めが下手ですね」

「だろうな」

「でも、嫌いではありません」

「それは幸いだ」

風が吹いた。

白い小花が、また揺れる。

私は手袋を握る力を、少しだけ緩めた。

「今日は帰ります」

私は立ち上がった。

「父と母が待っていますので」

「馬車まで送ろう」

「監督官のお仕事は?」

「終わった」

「では、お願いします」

ヴィクトル様は、私の半歩後ろを歩いた。

前ではなく。

隣を急がせるのでもなく。

ただ、私の歩く速さを見ながら。

それが、ひどく楽だった。

その後の処理は、思ったより早かった。

婚約不成立確認書は、王家婚姻登録院へ登録された。

ハーグレイヴ侯爵家からは、正式な謝罪状と違約金が届いた。

ロイス男爵家には、神殿と登録院の連名で注意書が送られ、セシリア様は当面、正式儀式当日の私的呼び出しについて監督付きとなった。

ディオンは、侯爵家嫡男としての教育をやり直すため、王都の社交からしばらく距離を置いたらしい。

セシリア様の世話を続けているとも聞いた。

それが彼の優しさなのか、責任なのか、未練なのかは知らない。

もう、私の知るべきことではなかった。

王都では、いろいろな噂が立った。

アリシア・エルヴェインは婚約式をひとりで終わらせた。

気の強い公爵令嬢だ。

冷たい女だ。

いや、当然の判断だ。

ハーグレイヴ家が失態を演じた。

ロイス男爵令嬢は本当に病弱なのか。

人々は好きなように話した。

私は、その噂を一つずつ追いかけなかった。

もう、誰かにどう見えるかを気にして待つ日々は終わったからだ。

季節が変わるころ、ヴィクトル様から最初の茶会の招待状が届いた。

大公家のものではなく、王家婚姻登録院の公的な茶会だった。

婚約式や婚姻登録に関する規定を若い貴族たちへ説明する、小さな集まり。

父は招待状を見て、少しだけ微妙な顔をした。

「これは、仕事の招待か」

「たぶん」

「ヴィクトル殿は、少し変わっているな」

「はい」

「お前は行きたいのか」

「はい」

父は私を見て、それから小さく笑った。

「なら、行きなさい」

その茶会で、ヴィクトル様は本当に規定の話をした。

婚約式における時刻の意味。

延期と不成立の違い。

本人意思の確認。

公証人の役割。

若い貴族たちは最初こそ退屈そうだったが、途中から真剣に聞いていた。

私はそれを見ながら、少しだけ可笑しくなった。

この人は本当に、婚約式を恋愛だけの儀式だと思っていない。

それが嫌ではなかった。

茶会の後、彼は私へ言った。

「次は、仕事ではない茶に誘ってもいいだろうか」

「最初からそうおっしゃればよかったのに」

「あなたが来ないかと思った」

「来ました」

「では、次も来るか」

「日程によります」

そう答えると、ヴィクトル様は少しだけ笑った。

「日程を出す」

「はい」

「待たせない」

その言葉に、胸の奥が少しだけ揺れた。

私は彼を見る。

紺の礼装。

静かな目。

冗談を言うのがあまり上手ではない口元。

けれど、その言葉はまっすぐだった。

「待つかどうかは、私が決めます」

「もちろんだ」

「でも、日程を出してくださるなら、確認します」

「十分だ」

その日から、ヴィクトル様は本当に日程を出した。

十日前。

七日前。

前日には確認。

急用が入れば、理由と代替日。

それは恋文というより、予定調整に近かった。

けれど、私にはそれが心地よかった。

誰かの不安で急に消える約束ではない。

私の時間を、私のものとして扱ってくれる約束だった。

一年後。

私は、再び聖アリア神殿の白い廊下に立っていた。

今日は婚約式の日だった。

相手は、ヴィクトル・レオニス大公子。

大公家の次男であり、王家婚姻登録院の監督官。

そして、私を待たせない人。

控え廊下に入ると、彼はすでにいた。

開始時刻の半刻前。

早すぎるくらいだ。

深い紺の礼装に、銀の留め具。

いつものように背筋を伸ばし、式の進行表を手にしている。

「早いですね」

私が言うと、ヴィクトル様は真面目な顔で答えた。

「遅れるよりいい」

「半刻前です」

「あなたを待たせる側にはなりたくない」

その言葉に、胸の奥が静かに温まった。

甘い言葉ではない。

けれど、私には十分だった。

「では今日は、私が少しだけ待たせてしまいましたね」

「構わない」

「なぜですか」

「私は待つと決めて来た」

私は微笑んだ。

あの日の私とは違う笑みだったと思う。

痛みを隠すためではなく、安心したから浮かぶ笑み。

「ヴィクトル様」

「何だ」

「私はもう、待つだけの女ではありません」

「知っている」

「あなたが来なければ、また終わらせるつもりでした」

「それも知っている」

「怖くありませんか」

「むしろ、安心する」

私は首を傾げた。

ヴィクトル様は、少しだけ考えてから言った。

「あなたは、自分を軽んじる相手から離れられる人だ。なら、隣に立つ者は軽んじなければいい」

「簡単におっしゃいますね」

「難しいことか?」

「人によっては」

「私には、難しくない」

その返事が、あまりにも彼らしくて。

私は思わず笑ってしまった。

小鐘が鳴る。

今度は、開始を告げる前の予鈴だった。

扉の向こうには、両家の親族が揃っている。

父と母。

レオニス大公夫妻。

立会神官。

公証人。

すべてが整っている。

そして今度は、誓うべき人もここにいる。

ヴィクトル様が手を差し出した。

私は、その手を見た。

一年前、私は誰かを待つことをやめた。

その手で、不成立確認書に署名した。

あの日の白いドレスも、青い封蝋も、忘れていない。

けれど、それはもう私を縛るものではない。

終わらせたから、今日ここに来られた。

「行きましょう」

私は言った。

ヴィクトル様が頷く。

「ああ」

手を取る。

扉が開く。

白い光が、廊下へ差し込む。

今度の私は、誰かを待って壇へ向かうのではない。

同じ時刻に来た人と、同じ歩幅で進む。

婚約式の鐘が鳴った。

今度は、きちんと。

私たち二人が揃った、その時刻に。