軽量なろうリーダー

妹に奪われたので、兄にしました

作者: 百鬼清風

本文

私は伯爵家の娘オルガ・レインフォード。王都の夜会に出るのは三か月ぶりだった。薄青のドレスは古い型だが、裾の刺繍だけは母が眠る前に残してくれたもので、胸を張るにはそれで十分だった。

隣に立つ侯爵令息セドリック・アルヴァンは、私の婚約者である。金の髪を撫でつけ、誰にでも優しく笑う男だが、その笑みが私に向いたのはもう半年も前のことだった。

「オルガ、少し話がある。人の少ない場所へ来てくれないか」

「お断りいたしますわ。あなたの少しは、たいてい私が泣くまで終わりませんもの」

「今日は違う。大事な話なんだ。頼むから、ここでは騒がないでくれ」

騒がないでくれ、という言い方がまず気に入らない。まだ何も言っていないのに、責められた気分になった。

けれど、周囲の視線がこちらへ流れ始めていた。扇を閉じ、笑ってやった。笑っていないと、彼の靴を踏み抜きそうだったからだ。

「いいわ。逃げ道のない場所だけは避けて下さい。私が大声を出した時、皆に聞こえないと困りますので」

「君は本当に、昔から口が悪いな」

「あなたは昔から、肝心な時だけ耳が悪いようで」

セドリックの頬が少し引きつった。その背後から、甘い香水の匂いが滑り込んでくる。

ミレーユ・レインフォード。私の異母妹である。父が後妻と一緒に屋敷へ連れてきた、花のように笑うのが得意な娘だった。

父は、彼女を可愛がったが、その時からセドリックの態度も変わっていった。

「お姉さま、そんな怖いお顔をなさらないでください。セドリック様は、ずっと悩んでいらしたんです」

「まあ。ご本人より先にお口が動きますのね。腹話術でもお覚えになったのかしら?」

「ひどいです。わたくし、お姉さまに幸せになってほしくて」

「私の幸せを語る前に、その腕を離してちょうだい。婚約者の腕に妹がぶら下がるような礼儀は、うちにはないのよ」

ミレーユの細い指が、セドリックの袖をぎゅっと握った。潤んだ瞳が上を向く。あの角度はよく知っている。父が叱りかけた時も、侍女が注意した時も、彼女はいつもその顔を作る。

セドリックは守るように半歩前へ出た。最初から私ではなくミレーユの前に立った。

「オルガ、彼女を責めるな。悪いのは僕だ」

「仕方ありませんね。続けて下さい」

「僕は、君との婚約を解消したい。そして、ミレーユ嬢を選びたい」

広間の音が少し遠のいた。楽師の弓が弦を撫でる音も、貴婦人たちのさざめきも、どこか水の向こうから届くようだった。

泣くと思ったのだろう。セドリックは苦しげな顔をしていた。ミレーユは勝った顔を隠すため、白い手袋で口元を押さえている。

「そう。それを、ここで仰るのね」

「君には悪いと思っている。だが、僕は真実の愛に気づいてしまったんだ」

「真実の愛。便利な言葉ね。都合のいい言葉ですこと」

「浮気ではない。僕たちは清らかな気持ちで支え合ってきた」

「清らかとは物は言いようですわね。婚約者がありながら妹と手紙をやりとりして、庭園で二人きりになって、私の悪口を言っていたのを支え合っていたと?」

ミレーユの肩が大きく動く。セドリックの顔から血の気が引く。どうやら、私が何も知らないと思っていたらしい。

扇で自分の胸元を軽く叩いた。息が浅くなるのを、腹の底へ押し返す。泣くには早い。唇を噛んだ。ここで泣く気はなかった。

「お姉さま、誤解です。わたくし、ただ寂しくて相談していただけで」

「相談なら父にしなさい。侍女にしなさい。壁にでも話しかけなさい。どうして私の婚約者の腕にぶらさがる必要があるのかしら」

「だって、セドリック様は優しく聞いてくださって」

「盗った菓子は甘いでのしょうね。食べた後で歯が折れなければいいのですが」

「オルガ!」

セドリックの声が広間に響いた。周囲の視線が一気に集まる。彼はしまったという顔をしたが、もう遅い。

招待客たちが扇の影でこちらを見ている。誰も止めない。こういう時、貴族は助けるより眺める。蜜に群がる蜂より行儀が悪い。

「君のそういうところが嫌だった。強くて、可愛げがなくて、僕が何を言っても言い返してくる」

「黙って頷く人形が欲しいなら、陶器店へ行けばよろしいかと」

「ミレーユは違う。彼女は僕を頼ってくれる。僕を必要としてくれるんだ」

「あなたが欲しいのは我が家の財布と肩書、この子が欲しいのは姉に勝った気分でしょう」

ミレーユの目に涙が盛り上がった。だが落ちない。絶妙な場所で止まっている。職人芸だ。拍手してあげてもいい。

「お姉さま、わたくし、そんなつもりではありません。ただ、セドリック様をお慕いしてしまっただけです」

「人の皿から肉を取って、肉が好きだったからと言い訳するのかしら」

「そんなふうに言わないでください。お姉さまは何でも持っているのに」

「だから、母の形見も、父の関心も、婚約者も、何もかも欲しがったのかしら」

ミレーユの唇が震えた。今度は本当に傷ついたような顔だった。けれど、知っている。傷つくのはいつも奪えなかった時だけだ。

セドリックがミレーユの肩を抱いた。その瞬間、胸の奥で何かが小さく砕けた。腹は立つ。情けない。だが一番嫌なのは、少しだけ寂しいと思ってしまった自分だった。

「もうやめてくれ。彼女を傷つけるなら、僕は君を許せない」

「許さなくて結構ですわ。私も、あなたを磨いて飾る係は今日で終わり」

「僕を磨いて飾る?」

「夜会の挨拶を忘れた時、誰が横から助けたの。贈り物の好みを外した時、誰が先方へ詫びたのかしら。あなたが笑っていられたのは、後ろで私が泥をかぶっていたからでしょう」

セドリックは答えなかった。答えられない沈黙は、下手な謝罪より腹が立つ。

ミレーユがすがるように彼を見上げる。セドリックはその視線に力を得たらしく、胸を張り直した。

「それでも、僕はミレーユを選ぶ。君とは終わりだ、オルガ」

「終わりね。分かりました」

「……ずいぶん簡単に引くんだな」

「泣いてすがれば満足だったかしら? 残念ね。あなたにすがるくらいなら、噴水の魚に求婚しますわ」

周囲から小さな笑いがこぼれた。セドリックの耳が赤くなる。ミレーユの目が鋭く細まった。

彼女の顔が強張った。私はその顔を見て、やっと少し息が楽になった。

「ただし、言っておきますわ。私を捨てて妹を選ぶなら、最後まで抱えて歩きなさい。途中で重いと泣きついてきても、こっちは扉を閉めますわよ」

「誰が泣きつくものか。僕は彼女を幸せにする」

「なら今すぐ幸せにするといいわ。その前に彼女が私から借りた真珠の髪飾りを返させなさい」

ミレーユの顔が白くなった。今夜の髪に挿している大粒の真珠。母の遺した物だ。貸した覚えはない。彼女の部屋から、侍女が見つけた時にはもう遅かった。

ざわめきが広がる。ミレーユは髪に触れ、涙を落とした。真珠の上で光る涙は、美談ではなく飾りに見える。

「ち、違います。これは、お父さまが私に」

「父はその真珠を見分けられないわ。母の物に興味なんてなかったもの」

「オルガ、今それを言う必要があるのか」

「あるわよ。婚約者を奪われた夜に、私が母からいただいた形見まで勝手に使われて黙るほど、私は出来のいい姉じゃありません」

声が震えかけた。奥歯を噛んで止める。泣くな。泣くな。ここで泣けば、全部あの女の思うつぼになる。ミレーユが一歩下がった。セドリックが彼女をかばう。二人並ぶ姿は、絵に描いた恋人同士のようだった。腹の底が熱くなる。

「セドリック様、怖いです。お姉さまが、わたくしを皆の前で」

「大丈夫だ。僕が守る」

「守るなら、真珠を外してからにしなさい。盗んだもので飾りたてて震えられても、こちらは虫唾がはしりますわ」

「君は本当にひどい女だ」

「観察力が赤ん坊より少し上がったようですわね」

広間の入口で、重い扉が開く音がした。冷えた夜気が流れ込む。人々の視線が、私たちからそちらへ移った。

黒い礼装の男が立っていた。長身で、肩幅があり、銀の髪を後ろで結んでいる。セドリックの兄であり、アルヴァン侯爵家の長男ヴィクトル・アルヴァンである。

彼は社交の場にほとんど出ない。戦場帰りの狼だとか、笑わない鉄仮面だとか、令嬢たちは好き勝手に噂していた。だが今夜の彼は、冷たい顔どころか、ひどく楽しそうに片眉を上げていた。

「ずいぶん賑やかだな。弟が婚約者を捨てる場に遅れたか。世紀の瞬間を見逃すところだった」

「兄上、これは僕たちの問題です」

「そうか。なら、まずその真珠を返せ。母親の形見を盗んだ女を腕にぶらさげて、真実の愛とは大した芸だ」

ミレーユが小さく悲鳴を上げた。セドリックが凍りつく。周囲のざわめきが一段高くなる。

ヴィクトルは私の前まで歩いてきた。黒い手袋の指が、私の肩から落ちたショールを拾い上げる。彼の動きは乱暴ではないのに、誰にも逆らわせない重さがあった。

「オルガ嬢、泣くな。ここで泣くと、あの二人が物語の主役みたいになる」

「泣いてないわ。目にまで怒りがこみ上げただけです」

「いい返事だ。なら聞こう。君はまだ、あの弟が欲しいか」

「いらない。返品札を貼って、箱ごと川へ流したいくらいですわ」

ヴィクトルが低く笑った。初めて聞く笑い声だった。少しだけ肩の力が抜けた。

「では、俺が君をもらう」

「……は?」

「弟が手放したなら、アルヴァン家で一番見る目がある男が拾う。それだけだ」

「ちょっと待ちなさい。犬猫みたいに言わないでくれる?」

「失礼した。では言い直す。オルガ・レインフォード嬢、俺の妻になる気はあるか」

広間が爆発したようにざわめいた。セドリックが何か叫んだ。ミレーユが泣いた。誰かが扇を落とした音もした。

私だけが、目の前の男を見上げていた。銀の瞳は冗談の色をしていない。からかいでも同情でもない。彼は本気で、私に手を差し出している。

「今この場で言う話ですか?」

「今でなければ、弟が自分の損を理解できない」

「彼のように性格悪いわね、あなたも」

「君ほどではない」

「とんでもない、あなた方ほどではありません」

差し出された手を見た。母の形見を髪に挿した妹。真実の愛を掲げた元婚約者。見物人たちの好奇の目。その全部が、急に遠くなる。

私はヴィクトルの手を取った。手袋越しなのに、熱が伝わる気がした。

「いいわ。どうせ今夜、私は捨てられた悪女役なんでしょう。だったら、もっとも派手に奪われましょう」

「上出来だ。泣くよりずっと似合う」

「当然ですわ。私を泣かせたいなら、もっと高い男を連れてきなさい」

「その条件なら、俺で足りるな」

ヴィクトルは私の手を引き、広間の中央へ向きを変えた。セドリックの顔は、初めて見るほど歪んでいた。

「兄上、ふざけるな。オルガは僕の婚約者だったんだ」

「だった、のだろう。自分で捨てた物を、兄が拾って怒るな」

「彼女は物ではありません!」

「今さら丁寧に扱うな。似合わん。お前の欲しいのは彼女の家の財布と名誉だろう?それが減るのが、惜しいだけだ。私が先に彼女と結婚すれば、お前達の好きにはしづらくなるからな」

思わず吹き出した。最悪の夜だと思っていたのに、腹の底から笑いが込み上げた。

ミレーユが私を睨んでいる。真珠はまだ彼女の髪で光っていた。けれどもう、あの輝きは彼女を飾っていない。むしろ、彼女の首を細い糸で締めているように見えた。

ヴィクトルが私の耳元へ顔を寄せる。

「まずは髪飾りを取り戻す。次に、君を温かい馬車へ乗せる。それから、好きなだけ怒れ」

「怒鳴ってもいいの?」

「俺に向けるな。馬車の壁なら好きにしろ」

「あなた、案外プライドが高いのね」

「君に蹴られるほど、まだ親しくない」

笑いながら、少しだけ目の奥が熱くなった。だが涙は落とさなかった。ヴィクトルの手を握り返すと、彼は満足そうに目を細めた。

その時初めて、セドリックが私の名を呼んだ。

「オルガ、待て」

振り返り、にっこり笑った。

「嫌よ。待つ女は、もう廃業しましたの」

夜気が頬を刺した。広間の熱が嘘みたいに遠ざかり、馬車の前で私はやっと息を吐いた。握っていた手が離れると、急に足元が軽くなる。

私を、アルヴァン侯爵家長男ヴィクトル・アルヴァンが連れ出した。夜会の中央から、何の遠慮もなく。

あり得ない話だ。だが、今の私には都合がいい。

「さっきの話、本気なのかしら?」

「本気でなければ、あの場で言わん。俺は舞台の上で冗談を言う趣味がない」

「じゃあ聞くわ。私を拾った理由、三つ以内で答えなさい」

「注文が多いな。いいだろう。一つ、君は有能だ。二つ、君は逃げない。三つ、弟に渡すには惜しい」

「最後が一番程度が低いわね。そんなに出来る女だったかしら?あなたも、我が家の財布と名誉が欲しいんのでは?」

「ああ、だが分かりやすいだろう」

ヴィクトルが馬車の扉を開ける。内側には厚いクッションが敷かれ、毛布まで用意されていた。用意が良すぎる。

私は乗り込まず、腕を組んだ。

「もう一つ聞く。私を慰めるための善意なら、いらないわ」

「善意で人を妻にするほど、俺は暇ではない」

「なら、利用する気ね」

「互いにだろう。君は居場所を欲し、俺は隣に立つ人間を欲する」

「言い方が商売人ですね」

「恋に酔うよりは役に立つ」

私は少しだけ笑った。甘い言葉より、こういう冷たい言い方の方が信用できる。

だが、条件は握っておく。

「分かった。じゃあ、私も三つ出す。受けるなら乗る」

「言ってみろ」

「一つ、私を隠さないこと。拾ったなら堂々と連れ歩いてもらいます」

「当然だ。隠すなら拾わん」

「二つ、私に何事も口を出させること。黙る人形は嫌いなので」

「それも問題ない。むしろ黙る方が困る」

「三つ、あの二人に泣きつかれても、絶対に助けないこと。私達で両家の将来を決める」

ヴィクトルの目がわずかに細くなった。夜の中で、その銀色だけが光る。

「助ける価値があるなら考えるが、ないだろうな」

「即答しなさいよ。あなた、妙に優しい顔する時があるわ」

「優しい顔ではない。面倒を避ける顔だ」

「同じよ。で、どうなのですか?」

「助けん。少なくとも、君の前では」

「……そこは一生にして」

「君が飽きなければな」

少しだけ息を吐いた。完全ではないが、悪くない答えだ。

足を一歩、馬車へ乗せる。

「じゃあ契約成立。あなたの馬車、借りるわ」

「借りる? もう君のものだろう」

「調子に乗らないで下さい。まずは座り心地を確かめます」

「気に入らなければ、別のを用意する」

「金持ちの嫌なところが出てますわよ」

「君の家ほどではない」

座席に腰を下ろすと、体の力が一気に抜けた。背中を預けた瞬間、今まで張っていたものが緩む。

泣くな。まだだ。

ヴィクトルが向かいに座り、扉を閉める。馬車がゆっくり動き出した。

「まず、髪飾りだ。あれは必ず取り返す」

「どうやって。あの場で奪い返せばよかったのではない?」

「奪い返すより、返させた方が長く効く」

「あなたも性格が悪いようね」

「さっきから褒めているのか」

「半分は」

目を閉じた。まぶたの裏に、さっきの光景が残っている。セドリックの顔、ミレーユの涙、笑う客たち。

胸の奥がじわじわと痛む。

「……あなた、どうして来たの」

「夜会にか」

「そう。あなたは、あまり社交に出ない方と聞いているわ」

「用があった」

「用?」

「弟の様子が妙だった。だから来た。もしかしたら、欲しかったものが手に入るかもしれなかったからな」

「それで、あの場面に間に合ったわけ」

「間に合ったというより、間を合わせた」

目を開けた。ヴィクトルはまっすぐこちらを見ている。

「見ていたの?」

「途中からな。君が言い返すところも、黙るところも」

「全部?」

「ほぼ全部」

「……最悪ですわね」

「同意する。だが、良かった」

「どっちよ」

「君が折れなかったからだ」

その言葉は妙に耳に残った。顔を逸らした。窓の外は暗い。灯りが流れていく。

「折れるつもりなんて、最初からないわ」

「そうだろうな」

「ただ……少しだけ、悔しかっただけです」

「当然だ」

「少しだけよ」

「嘘をつくな。もっと悔しい顔をしていた」

「見てたくせに言わないでちょうだい」

ヴィクトルが低く笑う。その音は、広間で聞いたものより近い。

膝の上で拳を握った。指先が少し震えている。

「……あいつ、私を見ないで言ったわ」

「誰だ」

「セドリック。婚約を解消したいって言う時に、私の目を見なかったわ」

「卑怯だな」

「そうよ。だから、余計に腹が立つの」

声が少しだけ掠れた。喉が痛い。ヴィクトルは何も言わなかった。ただ、こちらを見ている。その視線が妙に落ち着くのが、また腹立たしい。

「泣きたければ泣け」

「嫌よ」

「我慢するな」

「するわ。あなたの前で泣いたら、負けた気がするもの」

「勝ち負けの話か」

「そうよ。負けて終わるのが一番嫌いなの」

「なら、勝て」

「簡単に言うわね」

「簡単だ。あいつらに合わせる必要はない」

私は眉をひそめた。

「どういう意味」

「さっきの場は、あいつらの土俵だ。そこで勝つ必要はない」

「じゃあどこで勝つのかしら」

「これから別のやり方を考えればいい」

ヴィクトルは当たり前の顔で言った。その言い方が、妙に腹に落ちる。

「……あなた、いつもそんなふうに考えてるのかしら」

「負ける場所で戦うのは無駄だ」

「嫌な考え方ね」

「役に立つだろう」

「……確かに、そうとも取れますわね」

馬車が揺れる。背もたれに体を預けた。少しだけ、力が抜けてきた。

「で、具体的には?」

「まず、君の立場を整える」

「整えるは禁止よ。言い換えなさい」

「……揃える、だな。屋敷、使用人、衣装、全部だ」

「最初から全部あるわ。私は伯爵家の娘よ」

「あるが、今は弱い。妹と後妻におびやかされている」

「言うじゃないですか。悔しいけど、その通りかもしれない」

「事実だ。父親は後妻に傾いている。家中の力は割れている」

「……見てるように言うのね」

「当たり前だ。だから拾った。うまく行けば、取り戻せる」

息を吐いた。悔しいが、否定できない。

「次」

「次に、君の名前を上げる」

「どうやって」

「俺の隣に立たせる」

「それだけ?」

「それだけで十分だ」

自信満々に言われると、腹が立つより呆れる。

「自分の価値、分かってるのね」

「知らんわけがない。俺は長男だぞ、弟よりも評判も良い出来る男だ」

「嫌な男ね。堂々と自慢する」

「今さらだ」

少しだけ笑った。その瞬間、目の奥が熱くなる。しまった、と思った時には遅かった。涙が一滴、頬を伝う。

慌てて顔を背けた。

「見ないで」

「見ていない」

「嘘よ。見てるでしょ」

「見ているが、数えない」

「見るな!」

「一滴だ」

「言うな!」

思わず声が大きくなった。ヴィクトルが肩をすくめる。

「見るなと言われたから数えた」

「そういう問題じゃない!」

「面倒だな」

「黙りなさい!」

袖で乱暴に涙を拭いた。もう一滴出そうになって、必死に押し込む。

ヴィクトルが少しだけ身を乗り出した。

「オルガ」

「何ですか?」

「次に泣く時も、俺の前にしろ」

「だから嫌だって言ってるでしょ」

「命令ではない。許可だ。泣いていいと言っている」

「いらない」

「そうか」

あっさり引く。その距離感が、また妙に心地いい。

深く息を吸った。そして、ゆっくり吐いた。

「……あなた、本当に変な人なのね」

「よく言われる」

「普通はこういう時、もっと甘いこと言うのよ」

「甘いものは食事の後でいい」

「意味分からない」

「分からなくていい」

馬車が止まった。屋敷に着いたらしい。

ヴィクトルが先に降り、手を差し出す。

「来い」

「命令口調ね」

「嫌か」

「嫌じゃないですわ」

その手を取った。今度はためらわない。地面に足をつけると、夜の空気が胸に入る。冷たいのに、少しだけ軽い。

「ここが、あなたの城なのかしら?」

「仮のな」

「仮でも十分広いわね」

「中も広い。迷うなよ」

「迷ったら叫ぶわ。あなたが来なさい」

「面倒だが、行く」

「いい返事ね」

屋敷の扉が開く。灯りが広がる。

一歩踏み出した。振り返らない。

あの夜会も、あの男も、もう背中側だ。前にあるのは、知らない場所と、知らない男。そして――勝つための、次の舞台だ。

朝の光が差し込む廊下は、やけに静かだった。昨夜の喧騒が嘘みたいで、足音がやけに大きく響く。

私は、アルヴァン侯爵家の屋敷で目を覚ました。客室は広く、寝具は妙に良い。ぐっすり眠ったはずなのに、胸の奥だけがまだざらついている。

扉を開けると、すぐに使用人が頭を下げた。

「おはようございます、オルガ様。朝食のご用意が整っております」

「早いわね。誰の指示かしら?」

「ヴィクトル様でございます」

「……彼は、寝ているの?」

「既に執務室へ向かわれました」

小さく鼻で笑った。拾った女を放って仕事へ行くとは、ずいぶん余裕がある。だが、嫌いじゃない。

「案内して」

食堂に入ると、窓際の席に銀の食器が並んでいた。量は控えめだが、どれも香りがいい。腹が減っていると自覚した瞬間、妙に苛立つ。

昨夜はほとんど何も食べていない。

「……いただくわ」

一口食べると、体がやっと目を覚ました。温かいスープが喉を通るたび、少しずつ落ち着いた。

その時、足音が近づいた。振り返らなくても分かる。あの軽い靴音は一人しかいない。

「オルガ、おはよう」

「遅いわね。もう半分いただきました」

「それは失礼した。眠れたか」

「ぐっすりよ。あなたの屋敷、寝心地だけはいいようね」

「だけ、か」

「他はまだ分からない。うちよりは狭いけど、広いので」

ヴィクトルが向かいに座る。視線が真っ直ぐで、朝から疲れる。

「今日は客が来る」

「誰」

「予想はつくだろう」

「……ああ、あの二人ね。あなた達兄弟の家ですからね」

「正解だ」

スプーンを置いた。食欲が少しだけ落ちる。

「早いわね。昨日の今日で来るなんて」

「追い詰められると、人は急ぐ」

「で、どうするの」

「どうするも何も、会う」

「私も?」

「当然だ。主役だろう」

「嫌な主役ね。悪役にされるのは嫌だわ」

「観客は多い方がいい」

息を吐いた。逃げるつもりはない。だが、面倒だ。

「条件、覚えてる?」

「彼等を助けない、だろう」

「そう。それ、忘れないで」

「忘れん」

ヴィクトルは短く答えた。その一言が、妙に重い。

私は立ち上がった。

「じゃあ、準備するわ。あの女、どうせ泣くのでしょうね」

「泣くなと言うのか」

「言わないわ。泣かせてやるのですから」

「いい顔だ」

「褒めても何も出ないわよ」

応接室に入ると、すでに二人は来ていた。

侯爵令息セドリック・アルヴァンと、私の妹ミレーユ・レインフォード。昨日と同じ並びで、だが表情はまるで違う。

セドリックは青ざめ、ミレーユは涙で顔を濡らしている。

わざとゆっくり歩いた。視線を逸らさない。

「ずいぶん早いお越しね。まだ朝よ」

「オルガ……」

「名前を呼ばないで。用件だけ言いなさい」

セドリックが一歩前へ出る。だが言葉が出ない。喉で詰まっている。

先に動いたのはミレーユだった。

「お姉さま……お願いです……昨日のこと、誤解ですの……」

「誤解?」

「わたくし、本当に愛してしまっただけで……」

「まだそれ言う。根性はあるようですね」

「どうか、セドリック様を責めないでください……」

「責めていません。捨てただけです」

ミレーユが泣き崩れそうになる。だが踏みとどまる。

セドリックが拳を握った。

「オルガ、頼む。あの場でのことは謝る」

「遅いわね。昨日のうちに言いなさい。今更元には戻りませんよ。あなた方の事は徹底的に糾弾いたします」

「混乱していたんだ」

「そうは見えませんでした」

「……すまない」

その謝罪は軽い。軽すぎて、床に落ちる前に消える。

椅子に座り、足を組んだ。

「で? 謝罪すれば終わりだとでも?」

「違う。婚約の件だが……」

「まだ言いたい事があるの?」

「考え直したい」

瞬きをした。笑いそうになるのを必死に抑える。

「は?」

「昨夜のことは勢いだ。君とやり直したい」

その瞬間、ミレーユの顔が真っ白になった。

「セドリック様……?」

「ミレーユ、すまない。だが、やはり僕にはオルガが必要だ」

「必要って、便利な言葉ね。妹の分が悪いと見て、戻りたいだけなんでしょう?」

笑った。今度は隠さない。

「昨日は真実の愛だったんでしょう? 一晩で腐ったの?」

「違う、そうじゃない。君の価値を見誤っていた」

「今さら気づいたの? 遅すぎて笑えますわ。愛ではなく、価値と正直に言ったのは評価します」

「オルガ、頼む。もう一度」

「嫌よ」

即答だった。迷いもない。

セドリックの顔が崩れる。

「どうしてだ」

「どうしてって、捨てたのはあなたでしょう」

「だが、君も僕を必要としていたはずだ」

「今はもう、必要としてないわ。してたのは、私の方を見てくれる男よ」

言葉が刺さる。セドリックが言い返せない。

ミレーユが震える声を出した。

「お姉さま……ひどいです……」

「ひどいのはどっちよ」

「わたくし、全部失うんですか……?」

「心配いらないわ、その情けない次男坊は差し上げます」

ミレーユの涙が落ちる。今度は本物だ。止める余裕がない。

だが、同情はしない。

「ヴィクトル様……どうか、お止めください……」

ミレーユが助けを求めるように視線を向ける。

ヴィクトルは壁際に立ったまま、腕を組んでいる。

「なぜ俺に言う」

「お兄様でしょう……?」

「そうだ。だから止めん」

「そんな……」

「自分で選んだだろう。最後まで責任を持て。望みどおりの愛を手にいれるがいい。ただし、他の彼女のものは全て返してもらう」

冷たい声だった。情けもない。

ミレーユが崩れ落ちた。

セドリックが支えようとするが、手が止まる。もうどちらを取るか分からない顔だ。

その様子を見て、静かに息を吐いた。

「帰りなさい」

「オルガ……」

「二度と来るな。次に来たら、門番に追い返させますよ」

「そんな……」

「あと、それ」

私は指を向けた。ミレーユの髪。

「真珠、置いていきなさい。二度とこのような事が無いようにヴィクトル様からも、父に強く進言していただきます。私の持ち物や権利については、厳しく正しますので」

ミレーユが震えながら髪に手をやる。外そうとして、指がもつれる。セドリックが手伝おうとして、やめた。

結局、ミレーユが自分で外し、机に置いた。小さな音がした。それだけで、全部終わった気がした。

「……帰る」

セドリックがそう言った。声が空っぽだ。ミレーユを支え、二人は部屋を出ていく。

扉が閉まる、静かになる。

私は背もたれに体を預けた。長く息を吐く。

「終わったわね」

「終わったな」

ヴィクトルが近づいてくる。私は目を閉じた。

「……勝った?」

「まだだ」

「厳しいわね」

「ここからだ」

目を開けると、ヴィクトルがすぐ近くにいた。

「オルガ」

「何よ」

「選べ」

「何をかしら」

「俺を」

私は少しだけ笑った。

「命令?」

「違う。提案だ」

「……いいわ」

答えは、思ったより簡単に出た。

「ただし条件追加」

「言え」

「泣かせないこと」

「無理だな」

「は?」

「泣く時は来る。その代わり、理由は全部俺にしろ。全ての責任は取る」

「意味分からない」

「分からなくていい」

ため息をついた。でも、嫌じゃない。

「じゃあ、責任取りなさいよ」

「最初からそのつもりだ」

ヴィクトルが手を差し出す。それを取った。

今度は、迷わない。これで終わりじゃない。

王都の昼は、夜よりも残酷だ。噂が光の中で広がり、誰もが知っている顔で知らないふりをする。

私は、アルヴァン侯爵家の正面階段をゆっくり降りた。隣にはヴィクトル・アルヴァンがいる。堂々と並んで歩く、それだけで視線が集まる。

門の外には馬車が並び、使用人が控えている。今日はあえて人目の多い時間に出ると決めた。隠れないという条件は、こういう場面で効く。

「いい顔だな」

「いつもよ。あなたが横にいるからって、変わらない」

「嘘だ。少しだけ気分が上がっている」

「細かいのよ」

扇を軽く開いた。街の空気はざわついている。昨日の夜会の話が、もう半分は広がっているはずだ。

「行き先は?」

「宝飾店よ。母の形見、ちゃんとした状態で取り戻す」

「預けに行くのか」

「いいえ。昨夜のうちに使用人に磨きに出させてあるの。受け取りに行くだけよ」

「手回しがいいな」

「盗まれた物をそのままにしておくのは、許せないの。潔癖症なのかしら」

馬車に乗り込むと、通りの人々の視線が追ってくる。耳に入るささやきは、ほとんどが同じ内容だ。

――捨てられた令嬢が、侯爵家の長男に拾われた。

言い方はどうでもいい。結果だけが残ればいい。

店に着くと、主人が慌てて出てきた。

「オルガ様、本日は……!」

「預かり物を取りに来ただけよ。手入れ、終わってる?」

「は、はい。すぐにお持ちいたします」

差し出された箱を開ける。真珠は昨日と同じ光を持っているが、今はちゃんと手の中だ。髪に挿す。鏡を見なくても分かる。位置も重さも、体が覚えている。

「似合うな」

「知っているわ」

「昨日より、いい顔でつけている」

「当然よ。奪い返した物だもの」

店を出ると、通りのざわめきが一段強くなった。視線が増える。指さす者もいる。歩みを止めない。ヴィクトルも同じ速さで隣を進む。

その時、正面から見覚えのある二人が現れた。通りのざわめきの中に、聞き覚えのある声が混じった。嫌な予感がして顔を上げると、案の定だった。

セドリックとミレーユだ。

偶然にしては出来すぎている。だが、逃げる理由はない。セドリックが足を止めた。目が大きく見開かれる。私の髪にある真珠を見て、息を詰めた。

「オルガ……」

「道を塞がないで」

「話がある」

「ないわ」

「頼む、少しだけでいい」

声が弱い。昨日とは別人だ。

ミレーユはその隣で俯いている。顔色が悪い。装いも簡素だ。

立ち止まった。ほんの数秒だけ。

「一言だけよ」

「……すまなかった」

「それは、もう聞きました」

「違う。全部だ。僕は間違えた」

「知ってる」

「戻ってきてくれ」

瞬きをした。やっぱり来るのね、その台詞。

「嫌です」

「どうしてだ」

「どうしても何も、終わったでしょ」

「終わっていない。僕は君を――」

「やめなさい」

言葉を切る。長く聞く価値はない。

「愛してるって言うつもりなら、もっと早く言いなさい。妹を選ぶ前に」

セドリックが黙る。何も言えない。

ミレーユが顔を上げた。目が赤い。

「お姉さま……わたくし……」

「何」

「返します……全部……」

「もう返ってきたわ」

「違います……セドリック様も……」

その言葉に、セドリックが振り向く。

「ミレーユ?」

「わたくし、間違えました……お姉さまから奪えば、幸せになれると思って……」

「今さらね。父と母親に怒られたのかしら」

「でも……できません……」

ミレーユの声は震えている。だが、昨日よりも作り物が少ない。

それでも、首を振った。

「返すとか、渡すとか、そういう話じゃないの」

「……え?」

「人は物じゃない。昨日あなたが証明したでしょう」

ミレーユが言葉を失う。セドリックが一歩前に出る。

「なら、どうすればいい」

「知りません。自分で考えなさい」

「僕は……」

「私に聞かないでちょうだい。あなたの人生でしょ。その受け取れる財産も権利も私に劣る彼女とお幸せに。心配せずとも、目論んでいたほどではないにしろ、恥ずかしくないものは持たせますので」

扇を閉じた。もう十分だ。

「最後に言うわ。あなたを選ばない。二度と」

セドリックの肩が落ちる。完全に力が抜けた。ミレーユがその場に座り込みそうになるのを、彼が支える。今度は迷いなく。遅い。全部、遅い。

「行きましょう」

ヴィクトルに言う。

「いいのか」

「ええ。これ以上は時間の無駄」

歩き出す。背中に視線が刺さるが、振り返らない。数歩進んだところで、ヴィクトルが口を開いた。

「終わりだな」

「ええ。綺麗にね」

「綺麗ではない。お互い、弟と妹の名誉を傷つけた」

「私には十分よ」

馬車に戻ると、体の力が一気に抜けた。座席に沈み込む。

息を吐く。長く、深く。

「……疲れました」

「だろうな」

「でも、すっきりしたわ」

「顔に出ている」

「嘘でしょう」

「いい顔だ」

少しだけ笑った。窓の外を見ながら、ゆっくり瞬きをする。

胸のざらつきは、もうほとんど残っていない。

「ねえ、ヴィクトル」

「何だ」

「これからどうするの」

「決まっている」

「聞いてない」

「俺の妻になる」

即答だった。迷いがない。

ため息をつく。

「強引ね」

「嫌か」

「……嫌じゃない」

その答えは、もう迷わない。

「ただし条件」

「まだ増えるのか」

「当然よ。面倒な女なの」

「知っている。言え」

「退屈させないこと」

「難しいな」

「努力してもらいます」

「する」

短い返事。だが、それで十分だ。ヴィクトルが手を差し出す。それを取る。

今度は、最初から握るために。

「じゃあ、よろしく」

「こちらこそだ」

馬車が動き出す。窓の外で、王都が流れていく。昨日までは、あの中にいた。今日からは違う。

ここが、私の場所だ。

完。