軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

4 初邂逅

一瞬だった。

人の何倍にも膨れ上がった怨霊が、歩いていた青年に襲いかかった瞬間、祓われた。木っ端微塵に跡形もなく、露と消え去った。

熟練の祓い屋、陰陽師であろうと、こうも素早く綺麗に祓えはしない。

怨霊を祓うべく追いかけていた黒スーツの男が、両手で印を結んだ状態で固まった。

何が起きたのか。今、目の前で起きたのは果たして現実の出来事なのか。

すぐには理解が追いつかない。

眼鏡奥の両眼を見開き、メモ帳片手にぶつくさ呟きながら近づいてくる青年を凝視するだけだった。

かつての活気を失った古めかしい商店街の一角。

澄み渡る蒼空が広がる昼日中にもかかわらず、路地裏は薄暗く空気が淀んでいる。道端に塵や瓦礫が散乱し、人影はない。

細い路地に面した亀裂の入る壁の二階、割れたガラス窓から瘴気がほとばしった。

「まずい、外に逃げたぞ!」

建物内から焦った声が発せられたと同時、ガラスが割れる派手な音。割り砕かれたガラス片と窓枠が弾け飛ぶ。

そこから、どろりとタール状の黒い塊が流れ出てきた。

大蛇を彷彿とさせる姿の怨霊が、するすると壁を伝い、地面へと下りる。

一度大きく身を震わせ、ガラス片が散らばる道をのったりと這いずっていく。

「俺がいく!」

鋭い声が室内から響くあいだも、黒い塊は遊ぶように蛇行しながら大通りへと向かう。

空き店舗の二階に巣食っていた怨霊を、あと少しのところで取り逃がした陰陽師――黒スーツの男が部屋を飛び出す。

物が散乱し、剥がれの目立つリノリウムの狭い階段を駆け下りる。最後の四段を跳び下り、着地。手すりを軸に上着の裾を翻して回る。

狭い廊下を駆け抜け、裏口扉を蹴り開ける。

片方の蝶番が外れ、朽ちかけの扉が破壊音とともに地面へと落ちた。

路地に出ると、はるか先に地を這う怨霊の姿があった。

一帯は空き店舗ばかりで、人気はない。速やかに退治してしまえば問題ない。

走りながら考えたのも束の間。

人がいた。

二十代前半と思しき青年が大通りを曲がり、こちらへと歩いてくる。

手元に視線を落とし、片腕に買い物袋を提げ、至って呑気な足取りで。

陰陽師が焦る中、あろうことか、怨霊が青年に狙いを定めた。

瞬間的に膨れ上がった黒い塊が青年を頭上から包むように覆い尽くす。

すかさず立ち止まった陰陽師が、九字を切ろうと両手で印を結ぶ。

その時突然、怨霊が爆発四散した。

周辺の淀んでいた空気もろとも吹き飛び、瞬時に除霊された。

「臨」と真言を唱えかけていた陰陽師の眼鏡が、ずり落ちる。

あたりに満ちる清々しい空気。

悪しきモノの気配は微塵もない。

追いかけていた怨霊のせいで一面に、低級の悪霊まで蔓延っていたというのに。

今のはなんだ。実力ある陰陽師三人がかりでも苦戦していた怨霊があっさり祓われてしまったのは。

夢か、幻か。

「うわっ、また消えてる!」

メモ帳をめくっていた青年が出した大声で、我に返った。呆けているあいだに、すぐ傍まで近づいてきていたらしい。

背はあれど痩身、さもちょいと近所へ買い物に来ましたといったラフな格好。腕に提げられたビニール袋の中から、瓶同士が当たる硬質な音が鳴る。

「な、にが?」

意図せず、ぽろりと問いかけていた。

青年は、怨霊に一切気づいていないようだった。

けろりとしている。

怨霊クラスの悪しきモノであれば、いくら鈍い人間でも悪寒を感じる程度の異変を感じるものだが。

鈍感体質か、あるいは、何かに護られているのか。

顔を上げて陰陽師を視認した彼は、身体のどこにも異常はなさそうで、ただ不機嫌なだけだ。

「文字だよ、文字! 書いたばかりだったのに!」

「文字……」

意味もなく反芻した。

青年は余程腹立たしいのか、初対面の相手であろうと遠慮なく愚痴ってくる。

「買ってすぐのペンで書いたんだけど、あー、もう、何で消えるんだ。それはそうとゲルインクのペンって書きやすいけどすぐ減るのは、玉に瑕だよな。や、好きだけど。これの書き味を知ってから他のは使えなくなったけど」

「はあ」

「あー、うっかり買い忘れたの、なんだったか。ほら、あれだよ、あれ」

「あれと言われても」

「なんかこう、日常に欠かせない物だったはず。毎週決まった日にいる大事な――」

「ゴミ袋?」

「それだ!」

満面の笑みになった。

けれども、すぐさま真顔になって周囲を窺う。「あのさ」と声を抑えた。

「俺、越してきて間もなくて、ここ初めてきたんだけど、すげぇ寂れてるね。シャッター下りた店しかないし。また買い物した場所まで戻るの億劫でさ、このあたりにゴミ袋買える店あるか知らない?」

「……君がきた反対側のほう、大通りを抜けた先に新しい商店街がある、が……」

「助かった。ありがとな、親切なお兄さん! じゃ!」

片手を挙げて快活に笑い、颯爽と駆けていき、角を曲がっていった。

元気のいいことだ。

己よりいくらか年下だろうと当たりをつけながら、ぼんやりと見送ってしまう。

「お、い、 播磨(はりま) 。だ、大丈夫だったか? 怨霊、は?」

背後から、ようやく追いついた陰陽師仲間が声をかけてきた。

振り向けば、片や荒く肩で息し、片や膝に手をつき、息も絶え絶えで声すらだせないようだ。

怨霊を追い詰めるまでにかなりの時間を費やしたせいだろう。無理もない。

あまり歳は変わらずとも、体力無尽蔵とよくいわれる己とは違うのだろう。褒められているのか、貶されているのか。知らないが。

浅く息を吐く。

さて、どう説明したものか。

しばし悩み、答えを弾き出した播磨は、眼鏡のつるを押し上げた。

陰陽師たちが連れ立って去ったあと。

祓われた怨霊の跡から小さな白いモノがうごめく。

少しずつ、少しずつ。移動し始めた。

湊が去って行ったほうへと向かい、じりじりと。

その光景を目にする者は、誰もいなかった。

やがて太陽が沈みゆく時間帯。空を飛ぶ鳥がねぐらへと帰っていく。その下で湊も赤く色づいた家に戻った。

商店街で己が怨霊に襲われたことも、意図せず祓ったことも、欠片も知る由もなく不機嫌さはどこへやら。

購入した日本酒と和菓子を喜んでもらえればいいな、と心踊らせていた。

神棚に供えるべきか、庭に供えるべきか、それが問題だ。

「庭にしよ。催促されたし」

わずかに笑みを浮かべ、カーテンを開けた。

「えっ」

いる。

縁側の中央あたり、白い獣がこちらを向いて座っている。

半端に開けた布地をつかんだまま、瞠目した。

こうまで堂々と姿を現してくるとは、想像だにしておらず面食らう。

人ならざるモノを真正面から見たのは初めてだ。

犬か、狼か。

精悍な顔の位置が湊の腹部あたりまである。

巨躯の長毛を風になびかせ、静かな眼差しでガラス窓越しに相対する湊を見つめている。

明らかに普通の獣ではない。

その体躯はうっすら透けている。

獣越しに、朱色に染まる殺風景な庭が見えた。

透けてはいても、ただ、そこにあるだけ存在感が際立っている。

その神々しい姿からは、不思議と恐ろしさを感じなかった。

意を決し、窓を開けて静かに縁側へと足を踏み出す。二メートルほどの距離を空けて対峙した。

清浄な風が一人と一柱の合間を吹き抜けていく。

逃げるそぶりもない、泰然と鎮座する美しい純白の獣。緊張から強張る湊を映した黄金の眼を、ゆうるりと細めた。

「邪魔するぞ」

腹の底に染み入る深い深い声色だった。

総毛立った湊は、軽く身を震わせる。人外の声を聞いたのもむろん、初めてであった。