軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

17 ようこそ、深山神域へ

田んぼの畦道を肩で風を切り、さもかったるそうに歩く一条が、道端に落ちていた空き缶を土もろとも前方へと蹴り飛ばした。

汗が滴るその顔は不快げに歪み、最底辺の不機嫌さを物語っている。

いけ好かない優秀な同期、周囲からの含みを持った視線の数々。

頭上から照りつける夏の盛りをすぎてなお、いまだ活きのいい太陽すら腹立たしいのだろう。

空き缶に八つ当たりした程度で苛立ちが収まるはずもない。

鋭く舌を打ち、数メートル先に転がした空き缶まで追いつくと、力任せに上から踏み潰した。

そんな子供染みた行動を繰り返す後ろ姿を、同期かつ幼馴染みの痩せぎすの女が冷めた表情で眺めている。

いつものことだと、終わるのを傍に控えて待つ。

こぼれそうになるため息を喉奥で噛み殺した。

ようやく土を蹴る音がやむ。

土にめり込んだ空き缶を踏んだままの一条が、前方を忌々しげに睨んだ。

その突き刺しそうな視線の先には、緑深い山を背景に、山裾にぽつんと建つ一軒の和風モダンな家がある。

なんの違和感もなく山の風景に溶け込み、まるで共生しているかのように自然にそこにある。

二人が目指す目的の家だ。一条が舌を打った。

「何でこの俺がこんなド田舎まで出向いてこなきゃ、なッ!」

顔面目かけて薮蚊の群れに特攻をかけられた。

「うっぜえッ、俺じゃなくてアイツんとこに行けよっ!」

女のほうへと両手を振り回し追いやった。

理不尽な台詞を吐き、滑稽な動作を続ける着崩れたサマースーツの男を、女は無言でただ見つめる。

わずかに眉をひそめて、固く拳を握りしめて。

女は、一条家の傍系にあたる家の者だ。

本家の跡取りである一条に逆らえず、いわれるまま、されるがまま、ただただ付き従う。

まさに主人と下僕。

幼少期に出会った時から女の地獄が幕を開けた。

辛うじて手だけは出さないものの、嫌み、嘲笑がデフォルトの暴君に振り回される日々を送っている。

当然ながら良好な関係のわけもなく、歪な間柄だ。

先日、悪霊に捕らえられた一条を見捨てて以来、前以上に当たりがひどくなっていた。

「くっそ、口ん中入ったじゃねーか!」

道に唾を吐き続ける見苦しい男を胸中で嘲笑う。

袖で口許を拭う粗野な仕草は、一応、名家の生まれにもかかわらず残念の極みだ。

嫌々ながらハンカチを出せば、一瞥し「いらねえ」と鼻で嗤われた。

お気に入りを捨てる羽目にならずに済んだと安堵し、ポケットへと戻す。

気づかれないよう、ため息を夏風に流し、常に感じている苛立ちをやり過ごした。

一条が顎で家のほうを示す。

「おら、さっさといくぞ。ノロマ」

返事を待つこともなく背を向けて歩いていく。

しばしの時間を置き、女は嫌がる足を無理やり動かした。

白い塀に囲まれた瀟洒な黒い外観の木造平屋。

塀の外側には、家を護るように幾本もの巨木がそびえ立ち、枝葉を四方へと伸ばして表門に木陰を作っていた。

容赦のない日差しを頼もしく遮ってくれる樹冠だが、頭上からひっきりなしに蝉の声が降ってくる。

まるで神社のようだ、と女は感じた。

砂利道をすぎ、二人は表門前に立つ。

古式ゆかしい数寄屋門はまだ新しく、今時では珍しいだろう。

「手間取らせやがって」

斜め前の男が舌打ちとともに悪態をつく。

一条が一方的に敵視している同期の播磨が、先日の任務時に使った護符は、異常とも言えるほどの速さと強さで悪霊を祓った。

その恐るべき威力を目の当たりにした一条は、なんとしてでも護符の出所を知るべく、播磨の行動を式神で監視しようとした。

が、即座に看破され消し炭にされてしまった。

幾度かの惨敗を得て、民間調査機関に依頼。

昨日、護符の制作者の住む家を突き止め、取るものとりあえず勇んで赴いた次第だ。

門柱に掲げられた表札には『楠木』と彫られてある。

形ばかり襟を正した一条が軽く咳払いし、インターホンを押す。待つことしばし。

応答なし。

押す押す、応答なし。押す押す押す、応答なし。

うんともすんとも返ってこない。

格子戸越しに見える玄関扉も開く様子はない。

もう少し間を置けばいいのに。

女は思いながらもその口は固く引き結ばれて開かれることはない。

忠言などしようものなら、何をいわれるか知れたものではない。余計なことはいわない、しないに限る。

だが。

見鬼の才も、霊力も優秀とは言えない女でも、この家の異質さを知覚していた。

断じて土足で踏み入ってはならぬ場所。

無闇に近づいてならぬ場所だと、本能が大音量で警鐘を鳴らし続けている。

なぜ、一条は気づかないのか。

なぜ、そんな傍若無人な真似ができるのか。

到底理解できない。

こちらは先ほどから冷や汗が止まらないというのに。

すぐさまここから逃げ出したい。

自然にあとずさろうとする足を気合いだけでその場に留める。

先日、叱責されあまつさえ脅された内容を思い出す。今度また逃げれば、家族に累が及ぶと。

青ざめた女の傍ら、インターホンを引くほど連打した男が吐き捨てた。

「おいおい、まさか出かけてんじゃねえだろうな」

調査の結果、楠木湊は一人暮らしであまり家を空けることなく、日用品の買い物程度しか出かけないという。

どうせいるに違いないと決めつけていた暴君が吼える。

「ふっざけんなよ。わざわざこんな田舎まで出向いてきてやったんだぞ、この俺が! 出てきやがれッ!」

振りかぶった足が前へと繰り出される。履き古したその革靴が格子戸に触れそうになった直前。

――ちりん。

凛と響いた風鈴の音が、暴挙を止めるべく一歩前へと歩み出た女の耳にだけ届いた。

スカッと空を切った足の遠心力に振り回され、バランスを崩した身体が派手に地面へと転がった。

横顔、肩、腰を湿った土で強打。

あまりに無様。

羞恥を覚えた一条は瞬間的に跳ね起き、よろけながら立ち上がる。

「ッんだよ、一体、なんだっつー……」

絶句。あたりの景色が様変わりしていた。

山だ。

なぜか夥しい数の木立の合間にいる。

視界に入るのは、緩やかな斜面にのびのびと生える数多の太い幹を持つ針葉樹ばかりだった。

「ああ?」

首を巡らせれば、大木しかない。

山の中腹あたりとしか思えない。

半開きの口で、空を見上げる。はるか高み、枝葉に細く切り取られた薄い青空。にわかには信じがたい光景だった。

愕然となり束の間呆けて、首の痛みに顎を引いた。

昼なお薄暗い静まり返った山中には、誰もいない。

あれだけ煩かった蝉も、すぐ傍にいた幼馴染みすらも。

「な、なんでだよ、だって、今まで、門の前に、いただろ!? ゆ、ゆめじゃ――」

震える自分の声だけが深山に木霊した。

戦慄く手で痛む頬に触れる。

ざらざらとした土の鮮明な感触が、否が応でも夢ではなく現実の出来事だと伝えてきた。

護符で式神を呼ぼうとポケットに手を入れて探るが、ない。

確かに入れていた頼みの綱がない。一枚もない。

慌てふためき、すべてのポケットを引き出し、くまなく探るも無駄に終わる。

ならば、と苦手な印を結び、術を発動させようと奮闘しても、無駄だった。

何も起こらず、霊力を操れない。

なぜか、ただの一般人と成り果てていた。

なんで、どうして。幾度も壊れた機械のように繰り返し、頭を掻きむしる。ほどなくすれば、冷静になってくる。

音がしない。

するのは、己が発する音のみ。

どこからも生き物の気配がしない。

動物、虫、何一つとしてその息づかいが感じられない。

もしかして、ここはこの世ではないのか。

ぞくり、と背筋に震えが走った。

身も世もなく大声で叫んだ男が駆け出す。

だが、すぐに斜面を這う幾筋もの根の一本に爪先を引っ掻けて転んだ。

倒れ伏し、首だけで振り返る。額から血を流し、血走った眼が地面から浮き出た憎い根を捉えた。

奇声をあげて起き上がり、踵で太い根を蹴りつける。

何度も、何度も。根が土からめくれ上がっても。

最後に木肌が剥げて折れた根を蹴り飛ばし、幹に叩きつけた。

荒々しく肩で息をしながら走り出す。

滴る汗を撒き散らし、斜面を下っていく。倒けつ転びつ、落ち葉を跳ね上げ、脱げた靴を飛ばし、麓を目指して転げ落ちるように下っていった。

緑一色の連峰を茜色が覆っていく山中は、一段と暗さを増した。

比較的緩やかな斜面に立つ太い幹に凭れかかり、靴を履いていない足を前へと投げ出してだらしなく座り込む一条は、疲れ果てていた。

どこまで下っても、終わらない斜面。変わらぬ景色。

山を下りられない。

いつまで経っても麓にたどり着けず、夕焼けに気づき、とうとう足が止まった。

闇雲に山を駆け下り続け、一体どれほどの時間が経過したのだろうか。

木々の額縁の中、山間へと滑るように落ちていく太陽。楠木邸に着いたのは昼前だった。

おそらく七時間以上は彷徨い続けているだろう。

草葉を掻き分けてできた切り傷の入った手で片足を抱え、ただただ太陽を見つめ続ける。

たとえそれが、己の知る太陽でなくても。

尋常ではなく疲れているが、喉の渇きも空腹も感じない。あり得ない事態を受け入れられず、考えることすら脳が拒否していた。

汚れた両手で、血がこびりついた頬を包んだ。

「い、やだ、いやだ。もうたくさんだ」

悲痛な声が終わると同時、日が落ちた。あたり一帯、闇に包まれる。

――ちりん。

どこからともなく聞こえてきた、かすかな音。

真の闇の中、淀んだ瞳に怯えの色が走る。

――ちりん。

音が大きくなった。

伸ばしていた足を引き寄せ、腰を浮かせる。

――ちりん。

またも大きく。軽やかな、涼しげな、場違いな音。

少しずつ、近づいてきている。

破れた靴下を履いた足が地面を蹴った。

よろめきながら駆け出して間もなく蔓延る根に躓く。

宙に投げ出され、風圧で巻き上がる髪、服、内臓が浮き上がる感覚。必死にもがくその手は何もつかめない。

固い幹に全身を叩きつけられるまでの刹那の間。

あれは、風鈴の音だ。と頭の片隅を過った。