軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

15 向かうところ敵なし

形ばかり急いだ風を装い、ガラス片が散る廊下を渡り、教室内に踏み込む。

中庭に面したガラスのない窓枠の向こう、澄み渡る青空に反して、充満する瘴気で薄暗かった。

倒れた机と椅子が散乱する中央。人型の悪霊が長い腕で、一条の上半身に巻きつけて持ち上げている。

宙に浮くか浮かないか、ギリギリの位置に。

爪先立ち、青ざめ、脂汗を流す一条が、ごくわずかに哀れになった。

悪霊もとい怨霊がこちらを向く。

身構えた陰陽師二人に気づくと吊った男をこれ見よがしに向けてくる。

その眼を弓なりにしならせて、三日月形の細い口を頬まで裂いて。

嗤っている。

人間をなぶって愉しげに、嗤っている。

その愉悦に呼応し、全身から瘴気を撒き散らした。

息を呑む播磨たちの前で黒い帯が首だけをつかんでゆらす。

震える足を交互に片側だけで立つよう、仕向けられる無茶なダンス。

強要されている一条が必死に逃れようとするも、決して敵わず。片側の靴が今にも脱げそうだ。

辿々しい足音だけが鳴る。口を塞がれた一条は声を出せないらしい。

予想以上に危険な相手だった。

一条でも祓える程度の中級悪霊だと、高を括っていた己の落ち度だ。

播磨が拳を握ると、ギチリと革手袋が鳴る。

緊張感が高まる中、怨霊が膨張した。

その体から爆発的に放たれた泥状の瘴気が天井、床を舐めるように這っていく。

扉近くに座り込んでいた痩せぎすの女が、迫りくる瘴気に怯え、這って廊下へと逃げていった。

それを見た一条の怯えきっていた瞳に怒りがにじむ。

濃厚な瘴気が立ち込め、部屋の明度がより下がった。

両耳を押さえた同僚が苦しげに唸る。

彼は悪霊の気配を主に聴覚で知覚する。

悪霊があまりに強力である場合、鼓膜が破れんばかりの苦痛、頭が割れるほどの激痛を伴うという。

それなりに耐性がある播磨でも、吐き気が込み上げてきた。手で鼻と口許を覆い、上着のポケットに入れていたケースからメモ紙護符を引き抜く。

刹那、明るくなる室内。

半身を曲げていた同僚の目が見開かれる。

片足立つ一条も目を剥き、混乱している様子が見て取れた。

怨霊が輪郭を激しく震わせる。まるで怯えるように。

外された革手袋の下から、翡翠の光が現れる。

圧倒的な除霊の光が放たれ、一条が床に投げ捨てられた。

悪霊が一瞬にして塊に変化し、窓を目指して飛びすさる。

逃がすわけがない。

播磨が床を蹴る。横倒しになった机、椅子を飛び越え、数歩で窓際へ。

窓の外側に半分近く流れ出ていた塊に翡翠色の光で覆われた拳を撃ち込む。

霧散する怨霊。

ほんのわずかのあいだに祓い終えた。

窓から生ぬるい風が入り込み、レールから外れかけたカーテンをゆらす。

意識から遠ざかっていたセミの大音声が耳についた。

直射日光を上半身に受けながら、播磨が手の甲を返して紋を見る。

半分ほど薄れていても、まだ祓いの力は十分に残っている。

その手に特殊な手袋をつければ、たちどころに光が消えた。

その光景を一条は床に尻餅をついたまま、同僚は立ち尽くしたまま、見ていた。

手袋の根本を押さえて、指を握って、開いて。

指先の具合に納得した播磨は、二人のほうへと向き直る。

「任務完了です。では、次の案件へ参りましょうか」

「ちょ、ちょ、ちょ、待って待って!? おっさん全然ついていけなかったんだがっ。え、なに、その手の甲。や、坊っちゃんとこの家紋だろうけど。あと、最初のやつもなに、すごすぎだろ。なにあれ!」

同僚が素っ頓狂な声をあげ続ける間も、歩みを止めなかった播磨はすでに出入り口付近にいる。

同僚が飛びつく勢いで引き留めた。

播磨は、背中に感じる刺し抜かんばかりの強い視線を感じつつ、平坦な声で告げた。

「知人から、心ばかりの気持ちです」

「え、は?」

「夕食楽しみにしてます」

「……お、おう」

言外にあとで説明すると匂わせれば、察しのいい彼は気づいてくれたようだ。

ポケットのケースはメモ紙に宿る祓いの力を封印するためのものである。

悪霊蔓延る現場に素のまま持ち込めば、無差別に祓ってしまい効力を失ってしまうからだ。

前回書いてくれた手の甲も、さして強くもない低級悪霊を歩くだけで次々と祓ってくれて消えてしまった。

ありがたくも実にもったいなかった。

昨日、思いがけず再び書いてもらえ、念のためケースと同様の特殊な手袋を作成依頼しておいて正解だった。

手袋だけでは完全に湊の力は封じ切れない。

だがそれを逆手に取り、直接悪霊に触れて祓う戦法を取っている。

扉をくぐりながら播磨は、手の甲をさする。

楠木湊の護符の威力は絶大だ。

その圧倒的な力を知ってしまえば、さほど力もない護符に高い金額を出す気にはなれない。

今ではメモ紙護符のみを購入し、播磨家ゆかりの一族のみで使用している。

播磨にも陰陽師としての矜持がある。

湊の護符にばかり頼るつもりは毛頭ないが、己の霊力には限りがあった。

ここ数ヵ月、とみに悪霊絡みの案件が増加しており、メモ紙に頼らざるを得なくなっていた。

今日もこれからもう一件、別場所へと向かわなければならない。

睨み続けている相手にあえて声はかけない。

睨むだけの元気はあるのなら、問題ないだろう。

気遣ったところで返ってくるのは罵詈雑言のみ。耳が腐る。

晴明桔梗紋は、一条の家紋である。

前回、手の甲をいつ見られやしないかと随分冷や冷やしたものだ。

今回、見られてしまったのは失態だったが、今さらどうしようもない。

廊下に出た二人は、靴音を響かせ遠ざかっていく。

ギリッと音が鳴るほど奥歯を噛みしめた一条が、筋の浮いた拳を床に叩きつける。乾いた音が荒れた室内に空しく響いた。

中庭の片隅にて。

三階の窓から生い茂る草むらへと落ちてきた白い塊がうごめく。

次第に幾筋もの青みの強い真珠色の光が立ち昇った。

やがて真珠の光沢を放つ塊が、一直線に雄大な入道雲へと向かっていった。

どぼん。楠木邸の御池に小亀が勢いよく飛び込んだ。

高い位置の大岩からの華麗なるダイブにより高い水柱が立ち、池の周囲を歩いていた湊のサンダルに水しぶきがかかった。

「お、珍しい亀さんの大ジャンプ。なんか機嫌よさそう」

笑って御池を覗く。

透明度の高い水を掻き分けて泳ぐ速度も異様に速い。黄みが強い真珠色の亀が縦横無尽に泳ぎ回り、水圧に煽られた水草がなびいた。

玉砂利のみだった御池に、いつの間にか豊かな水草が生えているのには、つい先日気がついた。

今さら驚くことでもない。

他に生き物の影も形もなく、こうも広い池に直径十センチほどの亀が一匹だけなのは、正直、寂しい。

ほかに魚くらいいてもいいのではないか、とは思う。

けれども――。

「まあ、亀さんが居心地いいのが一番だしな」

勝手にいらぬ気をきかせ、生物を入れるつもりはない。

風鈴が、かすかに音を鳴らす。

湊が空を仰ぐ。

容赦なく照りつける太陽の日差し。青空に明確な輪郭を刻み、存在を主張する入道雲。どう見ても夏真っ盛りである。

なれど。

庭の端から端まで見回す。

青々とした葉の落葉樹は目にも鮮やかで、絶えずやわらかな風が吹く。暑くも寒くもない快適な気温は、まさに春そのものだ。

御池に手を入れると、ひんやりとほどよく冷たい。

水温は常に一定に保たれている。

掻き回せば、ゆれる水面に映る己の顔が歪んだ。

庭は明らかに現世から切り離された異質な空間。

現世の生き物がいない、異様な空間。

現世の生き物は、湊のみ。

しかし不思議と、空恐ろしさは感じていない。

「居心地いいからな」

鼻歌を歌いながら手を引き上げ、神水を汲むべくじょうろを池に入れた。

同僚御用達の寿司屋は、今日も繁盛していた。

賑わう店内とは一転、別棟に並ぶ個室の中の一室は静かだ。

ゆとりのある広い座敷の中央には座卓、水墨画の掛け軸が掛かる床の間。

障子の向こうはささやかな枯山水の坪庭。

水流を模した砂紋の中、石灯籠から漏れる淡い灯りが意図して配置された石の陰影を作っている。

座卓を囲む仕事上がりである二人の陰陽師は、食事を済ませ一息ついたところである。

胡座をかいた同僚がビールジョッキ片手に、枝豆へと手を伸ばす。

「――なるほど。お前さんが近頃、顔色がいいのは、そのありがたいメモ紙さまのおかげだったというわけだ」

「そうですね」

メモ紙と手の紋について経緯を話し終えた播磨がウイスキーで喉を潤し、空のグラスを卓に戻すと、中の氷が音を立てて回った。卓上に並ぶ夥しい数の酒の空瓶は、ほぼ播磨一人で呑み干していた。

播磨は人一倍多くの悪霊を祓う。

近頃、他者が対処できない怨霊が多く、過剰労働気味だった。

久々に気の置けない相手との食事で、しかもおごり。鬱憤晴らしも兼ねて浴びるほど呑んでいた。

同僚が卓上に置かれたメモ紙を手に取り、しげしげと眺める。

「……すごいねえ。ただ大福名が書かれてあるだけなのに」

「稀有な能力ですよね。さらに最近能力が上がっていってるんです」

「ほう。けどよお、その相手のバックには太古の神がつ

いてんだろ。おっそろしい。いくらとんでもねえ威力の護符だろうが、手に入れんのにマジもんの神域に通うなんぞおっさんだったら御免被るが」

すぼめた肩を震わせたあと、メモ紙を裏返す。

そこには、小文字でさりげなく店名が書かれてある。

片眉を上げた同僚が、何度も頷く。

「備前庵の大福、うまいんだよな。わかる、おっさんも好き。餡は甘すぎないし、餅の歯切れもよくてさ。一日の販売個数限定、開店後数時間で売り切れるから滅多に食べられないのが難点だが」

「そうなんですか。では早めに買いにいかないと。毎回、店名が書かれてあって手土産を迷わずに済むから助かってるんですよね」

「ちゃっかりしてんな」

けらけらと笑う同僚を後目に、笑い事ではない、と思いつつウイスキーをグラスに並々と注いだ。

メモ紙の文字が何であろうと、効果があれば一向に構わない。何より助かっているというのは天地神明に誓い、嘘偽りのない本心からの言葉だ。

なぜなら、記された店の品を持っていけば、神の機嫌を損なう恐れがほぼなくなるからだ。

楠木邸の表門をくぐった瞬間、全身にかかる重い圧力。

強大な力を持つ太古の神から意識を向けられ、呼吸すらままならず、歩くのも一苦労。

さらには神域に絶えず吹く神威交じりの風に追い打ちをかけられ、気を抜けば、膝を折り、地にひれ伏しそうになるほどの重圧がのし掛かる。

だが手土産を差し出せば、事態は急変する。

地獄の釜の縁に立たされている絶体絶命の心地から、呆気なく解放されるのだった。

実際は、山神の威嚇ではなく「今日の菓子はなんぞ。むろん、こし餡であろうな」という期待と催促の重い気持ちが込められているからだった。

案外知らないほうが、幸せかもしれない。

「しっかしメモ紙って使いにくくないか。そこそこ投げるだろ」

「ええ、まあ。そうだったんですが、大丈夫です。次から名刺にしてくれるそうなので」

「名刺を投げる……レオタード着て、姉ちゃんと妹ちゃんと三人で一緒に?」

「……なぜです」

「通じない、だと? これがジェネレーションギャップってやつかあ。世代の違いを感じるわ」

不可解そうに眉を寄せた若者に、おっさん悲しい、と同僚が目頭を押さえた。

レオタード云々より、同じく陰陽師であるアグレッシブで自由人の姉と妹とともに、仕事することを考えただけで胃が痛くなる播磨だった。