軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第13話 ご褒美の頭ポンポンとショート寸前

小規模魔物討伐から一夜明けた第一騎士団本部は、朝から妙な熱気に包まれていた。

いつもなら訓練場へ向かう前の騎士たちは、眠たげな顔で軽口を叩き合いながら散っていく。

だが、今日は違う。

「おはようございます、ルシア様!」

「昨日の完璧な補給、ありがとうございました!」

「南門交代組からも絶大な感謝をと!」

「あと果実煮、疲れた身体にめちゃくちゃ染みました!」

次から次へと飛んでくる、異常なまでの挨拶と感謝の嵐。

私は朝一番から、若干の居たたまれなさを覚えていた。

(近いですわね……? 皆様、昨日からちょっと私への距離感が近くありませんこと?)

いや、分かる。気持ちは分かるのだ。

昨日の討伐で 後方支援(ロジスティクス) の重要性がはっきり見えたのだろうし、適切な補給のありがたみも身に染みて実感したのだろう。それは大変結構なことだ。

だが。

「ルシア様! 俺、今日から水袋の紐を絶対に同じ位置に結びます!」

「よろしい心がけですわ」

「ルシア様! 補給箱の仕切り、ご指導の通りに作り直しておきました!」

「素晴らしいですわ」

「ルシア様!」

「順番にどうぞ!?」

朝から、騎士たちの『信仰心』が強すぎる。

どうやら私は、若手騎士たちの間で“補給と整理の大切さを教えてくれるありがたい女神”みたいな立ち位置になりつつあるらしい。

いや、まあ、推しの組織の役に立っているのならよろしいのだけれど。

「大人気ですねえ」

背後から、のんびりした声がした。

振り向けば、ローデン隊長が腕を組んだまま、面白そうにこちらを見ている。

「他人事みたいにおっしゃらないでくださいまし」

「いやあ、昨日のあれを見たらこうもなるでしょう。何しろ皆、“終わった後まで楽な討伐”なんて人生で初めてだったんですから」

「それは皆様が指示通りに、きちんと動いてくださったからですわ」

「そういう謙虚なとこがまた宗教的に効くんだよなあ」

何がですの、と問い返そうとしたところで。

会議室の方から事務担当騎士が慌てて駆けてきた。

「ルシア様! 昨日の討伐報告、王宮提出用の清書が上がりました!」

「見せてくださいまし」

「はい!」

私は受け取った報告書へスッと目を通す。

討伐数、負傷状況、商隊保護、補給使用量、戦闘時間、帰還時刻。

概ね問題ない。だが――。

「ここ、補給効果(バフと兵站のシナジー)の項目が抜けておりますわね」

「補給効果?」

「ええ。今回の任務において、討伐後の行軍疲労が『大幅に軽減された』という事実は、数値化して記録として残すべきですわ」

「そこまで書くんですか?」

「当然です。次回以降の 標準手順(マニュアル) 化と、予算獲得の根拠に必要ですもの」

「なるほど……(相変わらずガチだ……)」

私はその場でスラスラと数行追記し、提出用の文面を完璧に整えた。

そこへ、朝の訓練前だというのに珍しく本部奥から『団長』までもが現れた。

豪快な体格の中年騎士で、普段は細かい事務にはほとんど顔を出さない現場主義のトップだ。

「ほう。もう報告がまとまったのか」

「団長」

ローデン隊長が姿勢を正す。

団長は書類を受け取り、ざっと目を通した。そして、すぐに顔を上げる。

「負傷軽微、帰還後の再編も滞りなし、商隊保護で街道の印象も良好、か」

「はい」

「昨日の小規模討伐、えらく手際がよかったと聞いていたが……本当に想定以上だな」

その鋭い視線が、ゆっくりと私へ向いた。

「ルシア嬢」

「はい」

「よい働きだった」

私は軽く目を見開いた。

団長からの、真正面からの称賛。

第一騎士団の長にそう言われる重みは、さすがに小さくない。

「恐れ入りますわ」

「いや、謙遜はいらん。討伐は勝って当然、だが“陣形を崩さずに勝つ”のは難しい。そこを裏から完全に支えきったのは、間違いなくお前だ」

「……ッ」

だめだ。これはちょっと、素直に嬉しい。

自分の役割が、きちんと言葉で評価される。しかも騎士団全体の前で。

前世の理不尽な社畜時代でも、現世のバカ王太子の婚約者時代でも、こんな正当な評価を受けた経験は一度もなかった。

すると、団長はニヤリと笑った。

「副団長」

「何でしょう」

クライスが、ちょうど副団長室から出てきたところだった。今日も朝から顔が良い。

「お前、いいのを拾ったな」

「拾ったわけではありませんわ」

私は思わず反論した。

「正式に(面接を突破して)雇われております」

「はははッ、分かってる分かってる!」

団長が豪快に笑う。

「だが、そう言いたくなるくらいの大当たり(SSR)だという意味だ」

騎士たちの間からも、ウンウンと深く頷く気配が漂う。

やめてくださいまし。そんなに大勢に揃って頷かれると、ますます恥ずかしいではありませんか。

「今後、小中規模任務の補給と後方支援は、ルシア嬢の案を 基準(スタンダード) にしていく」

団長が宣言する。

「異論がある者は?」

「「「ありません!!」」」

「異議なし!」

「むしろ一生お願いします!!」

返ってきたのは、訓練の声出しよりも驚くほど揃った大合唱だった。

私は一瞬、言葉を失った。

(そんなに……?)

たかが一度の同行任務。

けれど、その一度でここまで空気が変わるのか。騎士たちの顔に浮かぶのは、貴族への媚びや遠慮ではない。本当に“助かった”と実感した現場の人間の顔だ。

胸の奥が、じんわりと熱くなる。

「……かしこまりましたわ」

私は静かに、深く一礼した。

「皆様の命とお力を守るため、今後も最善を尽くします」

その返事へ、拍手こそ起こらなかったものの、会議室の空気そのものがあたたかく和らいだ。

その中心で、クライスだけがいつも通り静かだった。

だが、その蒼い瞳は確かにこちらを、少しだけ柔らかく見つめている。

(うう……見られておりますわね……)

推しに見つめられながら大勢の前で褒められるなど、羞恥と幸福の両面から心臓に悪い。もう少しこう、ダメージを分散していただけないものか。

◇ ◇ ◇

昼前。

私は副団長室で、昨日の補給手順を清書し、簡易な標準運用マニュアルへとまとめていた。

「任務前補給準備、出発二刻前」

「水袋の配置固定、用途別に色紐でナンバリング」

「討伐後補給は水・糖分・塩分の順……」

ついでに、討伐後の靴泥除去布の配置や、負傷者の先導位置まで図解入りで書き込んでおく。小さなこと(UXの改善)ほど、後で現場に効くのだ。

その時、扉が軽く叩かれた。

「副団長、少しよろしいでしょうか」

団長の声だった。

入室を許可すると、団長は一枚の紙を持って入ってきた。

どうやら王宮提出用の正式な評価書らしい。

「昨日の件、こいつを会計院と王宮防衛部へ回しておく」

「了解しました」

クライスが受け取る。

団長はそこでふと、私を見た。

「ルシア嬢」

「はい」

「褒賞の希望はあるか?」

「……褒賞?」

キョトンとしてしまった。

「今回の働きは十分に功績扱いだ。大きなものではないが、特別手当か、希望物資の優先配分か、それなりの裁量はつけられる」

「まあ……」

私は一瞬だけ考えた。

特別手当。希望物資。

そう言われると、普通なら自分のために何かドレスや宝石を望む場面なのだろう。

だが私は、ほぼ即答だった。

「副団長室の茶葉を、少しだけ上等な『深蒸し系』のものへ変えていただけます?」

「…………」

「…………」

室内が、シンと静まり返った。

団長が、まるで理解できない未知の生物を見るような顔になった。

ローデン隊長でもいれば絶対に吹き出していたと思う。だが私は真面目だった。

「副団長はお茶の質で集中の持続が変わりますもの。あとは、夜間任務用の喉に優しい保存食を少し」

「……それは、お前の褒賞か?」

団長が怪訝な顔で聞く。

「はい」

「本当に?」

「はい」

団長はしばらく無言だったが、やがて腹を抱えて豪快に笑い出した。

「はははッ! なるほどな!」

「何かおかしなことを申しましたかしら」

「いや、実にお前らしい。徹底してるな」

「そうですか?」

「副団長」

団長は笑いを噛み殺しきれないまま、クライスへ言う。

「お前、ずいぶん大事にされてるぞ」

「……そうらしい」

クライスが淡々と返す。

やめてくださいまし!

そんな真正面から推しへ確認しないでいただきたい。私はただ、褒賞を最も有意義な形(推し活)で使おうとしただけなのだから。

「他にはないのか」

団長が聞く。

「そうですわね……では、若い騎士の皆様向けに、討伐後用の軽食庫を一つ新設してくださいまし」

「副団長室だけじゃないのか」

「騎士団全体が整った方が、結果的に副団長の負担も減りますもの」

「なるほどなあ……(全部副団長のためか)」

団長は感心したように深く頷いた。

その横で、クライスがほんのわずかに目を伏せたのを、私は見逃さなかった。

……もしかして、少しだけ、呆れていらっしゃる?

それとも。

それとも、別の何か?

考えかけたところで、団長は書類を置いて去っていった。

扉が閉まる。副団長室に、二人きりの静けさが戻る。

私はなんとなく落ち着かず、手元の紙を揃えるふりをした。

団長とのやり取りが、妙に気恥ずかしかったのだ。

「ルシア」

「は、はいッ」

低い声に顔を上げる。

クライスは机の向こうから、静かに私を見ていた。

「お前は」

「……はい」

「褒賞まで、人のために使うのか」

「人のため、というより」

私は少し迷って、それから素直に答えた。

「環境が整っていた方が、皆様も副団長も動きやすいでしょう?」

「自分のためには」

「特にございませんわね。(推しが快適ならそれが私の幸せですので)」

「……そうか」

その“そうか”は、どこか少し、温度が重かった。

私は少しだけ首を傾げる。何か変なことを言っただろうか。

だが、クライスはそれ以上何も言わず、書類へ視線を戻した。

◇ ◇ ◇

午後。

本部裏手の訓練場脇では、昨日の帰還組が軽い武具の整備作業をしていた。

私は補給庫の新配置について若い騎士たちへ説明していたのだが、気づけば周囲に人が増えていた。いつの間にか、小さな講習会めいた空気になっている。

「つまり、水は“量が多い方がいい”ではなく、“疲労時にすぐ取れる位置にある方がいい”のですわ」

「はいッ!」

「果実煮は豪華なご褒美ではなく、疲労時の回復効率を上げるためのバフ補助アイテム」

「はいッ!」

「靴泥落とし布は、任務後の足の疲れを軽減し、翌日の訓練効率を上げるための投資」

「はいィッ!」

……何でしょう、この妙な宗教的一体感。

「ルシア様」

若い騎士の一人が、きらきらした目で言った。

「昨日、本当に助かりました」

「それは何よりですわ」

「俺、初めて討伐の帰りに“まだ動ける”って思いました。だから、本当にありがとうございます」

その真っ直ぐな言葉に、私は一瞬だけ目を瞬いた。

大袈裟ではなく。素直に。本当に助かったから、ありがとうと。

そんな風に言われると、どうしていいか分からなくなる。

「……こちらこそ」

私は柔らかく笑った。

「私が組んだ陣形通りに、きちんと動いてくださった皆様のおかげですわ」

すると、そこへ別の騎士が照れくさそうに割って入った。

「ルシア様! これ、昨日のお礼です!」

差し出されたのは、小さな野花の束だった。

「えッ」

「森の帰り道で見つけたんです。あんまり綺麗じゃないですけど」

「そんなこと」

「ルシア様、いつも殺風景な副団長室ばっかりだから、たまには部屋に飾れるものをと……」

私は思わず、花束を両手で受け取った。

可憐な白い花に、薄紫の小花が混じっている。気取った豪華さなどない。けれど、その分だけ、まっすぐな心遣いが伝わってきた。

「……嬉しいですわ」

「本当ですか!?」

「ええ。ありがとうございます」

その途端、周囲の若手騎士たちまでなぜか少し嬉しそうな顔になる。どうやら“贈り物が受け取られた”という事実そのものが、彼らにとっても満足らしい。

ああ、なんて素直で可愛いのかしら。

王宮ではこういう打算のない真っ直ぐなやり取りは、ほとんどなかった。

私はそっと花束を抱え直した。少し胸が温かくなる。

――その時だった。

「何をしている」

訓練場の方から、絶対零度の低い声が飛んできた。

ビクゥッ! と、周囲の若手騎士たちの背筋が揃って伸びる。

振り返れば、いつの間にかクライスが立っていた。

今日も今日とて、目に悪いほど格好いい。

いや、そこではない。

「副団長!」

「いえ、その、補給配置の確認を!」

「ついでに昨日のお礼を……!」

若手騎士たちがしどろもどろになりながら口々に答える。

クライスの視線が、私の手元の花束へ落ちた。

その蒼い目が、ほんの一瞬だけ、スッと細くなる。

「……花か」

「はい」

私は素直に答えた。

「昨日のお礼だそうですわ」

「そうか」

短い返事。

だが、その声音がなぜだか少しだけ、不機嫌に低い気がした。

あら? 気のせいかしら。

クライスは若手騎士たちを一瞥し、それから私へ向き直る。

「ルシア」

「はい」

「来い」

「今、ですの?」

「今だ」

問答無用だった。

私は花束を抱えたまま、騎士たちへ軽く会釈する。

「では、続きはまた後ほど」

「は、はい!」

「失礼しました!」

「副団長、すみません!」

若手騎士たちがやけにシュンとしたのは気のせいではあるまい。

けれど、クライスは特に何も言わず、先に歩き出す。

私は慌ててその後を追った。

(何かしら……?)

追加の仕事だろうか。

それとも、花束を持ったまま若手騎士に長く捕まっているのが、副団長付きとして目についただけ?

そう考えながら半歩後ろを歩いていた、その時。

不意に、クライスが足を止めた。

「きゃッ」

危うく広い背中にぶつかりそうになり、私は慌てて立ち止まる。

振り返ったクライスが、私を見る。

その表情はいつも通り静かだった。だが、ほんのわずかに、何かを言いかけて躊躇っているようでもあった。

「副団長?」

「……昨日の件だ」

「昨日?」

小規模討伐のことかしら。補給のこと? 支援のこと?

それとも褒賞案?

私がコテッと首を傾げた、その瞬間。

クライスの大きな手が、スッ……と伸びてきた。

「……よくやった」

ポン。

軽い衝撃が、私の頭の上へ落ちた。

「…………」

「…………」

時間が、完全に止まった。

何が起きたのか、一瞬理解できない。

いや、理解はできる。できるのだが、脳が処理を全力で拒否した。

今。

今、この人は。

私の頭に。手を。置いて。

そして、軽く。

本当に軽く。子どもでも労うように。

頭を、撫でた。

「…………(思考停止)」

頭、を。

撫で、た。

(は?)

私の脳内サーバーが、音を立ててクラッシュした。

見事なまでに。完全に。落ちた。

視界の端が白む。耳が熱い。

心臓が変なところへ大きく跳ねた。というか、跳ねたまま戻ってこない。

(えッ、待って、待って待って待って。今、何が? 頭? 頭を? 推しが? 私に? えっ? 幻覚?)

情報が多すぎる。処理できない。

無理ですわ。そんなの、無理に決まっている。

私は口を開こうとした。

「ふ、く……ッ」

だめだ。言葉が出ない。

頭頂部に、まだ感触が残っている。

大きな手のひら。重すぎない、でも確かな圧。

ほんの一瞬だったのに、まるで焼き印みたいに消えない。

(死にますわ)

いや本当に。これはちょっと、限界オタクのキャパシティを超えている。

推しの手料理で泣いた私である。汗拭きで瀕死になった私である。

そこへ『不意打ちの頭ポンポン』など、耐えられるわけがなかった。

「ルシア?」

クライスが、少しだけ眉を寄せる。

いけない。反応しなければ。

私は今、とんでもなく間抜けな顔でフリーズしているに違いない。

「……ッ、あ、あの、その……」

「どうした」

「ど、どどど、どうも、ありがとう、ございます……?」

「なぜ疑問形になる」

「仕方ありませんでしょう!?」

思わず素で叫んでしまった。

しまった。やってしまった。公爵令嬢の淑女フィルターが完全に吹き飛んだ。

だが、そんなことを気にしている余裕はなかった。

頭が。頭がまだ熱い。というか全身が沸騰している。

「い、今のは……ッ」

「労いだ」

「ね、 労(ねぎら) い……」

「そうだ」

「頭を……?」

「何か問題があるか」

「大ありですわ!!」

また叫んでしまった。

だめだ。完全に取り乱している。

だが取り乱さずにいられる令嬢がこの世に存在するなら、ぜひお会いしてみたい。

推しに突然頭を撫でられて平常心でいられる人間など、もはや人ではない。石だ。

「る、ルシア様!?」

「今の見たか!?」

「あの氷の副団長が、頭を!?」

どうやら少し離れた位置にいた若手騎士たちが、遠巻きにこちらを見ていたらしい。

やめてくださいまし。観測しないで。シュレーディンガーの猫にして。

今の私はとても人に見せられる状態では――。

その時だった。

「……ッ」

クライス自身が、不意に自分の右手を見下ろしてピタリと止まった。

まるで今、自分が何をしたのかをようやく認識したかのように。

その蒼い瞳が、わずかに揺れる。

「副団長……?」

クライスは数秒、黙ったままだった。

それから、珍しく――本当に珍しく、ほんの少しだけ気まずそうに視線を逸らす。

「……」

耳が、赤い。

「…………(えっ)」

あっ。

これ。

もしかして。

クライス様ご自身も、完全に『無意識』だった?

そう思った瞬間、羞恥の種類が変わった。

いや変わっても地獄には違いないのだが。

少なくとも、“私だけが一方的にパニックで焼き切れている”わけではないらしい。

クライスはコホンと小さく咳払いした。

「……その」

「は、はい」

「昨日の働きは、言葉だけでは足りんと思った」

「……」

「だから、つい」

「つい」

「……」

「つい」

私はオウム返しに繰り返した。

つい。そうですの。そう来ますの。

つい、で頭を撫でられた側の心拍数はどうなるのですか副団長。

いや、でも。いや、でもですわね。

(『つい』でなさるくらいには、私への接触が自然だったのですわね……?)

それはそれで、ものすごくマズい(尊い)情報である。

「ルシア」

「は、はいッ」

「嫌だったか」

低い声。その声音だけは、妙に真剣だった。

私は一瞬、息を呑む。

嫌。

そんなわけがない。嫌どころか、脳が焼き切れるほど嬉しかった。

嬉しかったけれど、嬉しすぎてまともに動けなくなっただけで。

私は顔を真っ赤にしながら、なんとか首を横に振った。

「い、いえ……その……嫌では、ございません……」

「そうか」

「ただ」

「ただ?」

「致死量ですわ」

「……何?」

しまった。また心の声が漏れた。

私は両手で口元を覆った。だが、もう遅い。

クライスは怪訝そうに眉を寄せる。

その向こうでは、遠巻きの若手騎士たちが必死に笑いを噛み殺していた。ローデン隊長まで、いつの間にか少し離れた柱の陰でこちらを見てニヤニヤしている。

やめてくださいまし、本当に。

「……ッ、と、ともかく!」

私は強引に話を切り上げた。

「副団長のお心遣い、ありがたく頂戴いたしましたわ!」

「……ああ」

「で、では、私はこれで! いただいたお花を、飾ってまいりますので!」

そう言って、私はほとんど逃げるようにその場を辞した。

走ってはいない。走ってはいないが、心は完全に全力疾走だった。

◇ ◇ ◇

副団長室へ駆け込んだ私は、扉を閉めた途端、その場に崩れ落ちそうになった。

「む、無理ですわ……」

花束を抱えたまま、私は机へ片手をつく。

頭が熱い。耳が熱い。頬も熱い。というか、全身が溶けそうだ。

(推しに頭を撫でられましたわ……)

事実を脳内で文章にした途端、またしても処理が止まりかけた。

駄目だ。駄目駄目。こんなの反芻していたら、本当にショートして死ぬ。

私は必死に呼吸を整えながら、花瓶へ水を入れた。

手が少し震える。花を飾る位置を決めながらも、頭の中では先ほどの感触が何度も何度もリプレイ再生される。

大きな手。優しい圧。「よくやった」の声。

(ああああああァァァァ……ッッ!!)

心の中だけで絶叫する。

やめて。本当にやめて。こんなのもう、推し活の範疇を完全に超えている。

尊いとか、格好いいとか、好きとか、そういう単語だけでは全く足りない。

私は花瓶を副団長室の窓辺へ置いた。

白い小花と薄紫の花が、午後の光に揺れる。

……少しだけ、落ち着いた。

いや、落ち着いてはいないのだけれど。少なくとも息はできるようになった。

その時、扉の向こうから小さく物音がした。

誰かしら。私は条件反射で背筋を伸ばし、氷の淑女の仮面を被る。

「ルシア様?」

そっと顔を覗かせたのは、若い事務騎士だった。

「大丈夫ですか……?」

「何がかしら」

「その……先ほどの」

「何のことですの?」

「いや、頭……」

「何のことですの?」

私はニッコリと、一切の光のない目で微笑んだ。

若い騎士はブルッと肩を震わせた。

「す、すみません! 何でもありません!」

「それでよろしいのですわ」

退出していく彼の背を見送り、私はひとつ深呼吸をした。

外面は保てている。多分。おそらく。きっと。

だが、その頃。

廊下の向こうでは。

「見たか?」

「見た」

「副団長、完全に無意識だったよな?」

「でもルシア様にだけだぞ、あんなスキンシップ」

「しかもルシア様、顔真っ赤にして逃げてったぞ」

「そりゃそうだろ!!」

という、大変よろしくないザワめきが急速に広がりつつあった。

さらにその中心で。

ローデン隊長が腕を組みながら、しみじみと呟く。

「……あーあ」

「何ですか隊長」

「いや、氷の副団長もいよいよだなって」

「何がです?」

「無自覚なまま手ぇ出すのが、一番厄介(重症)なんだよ」

一方その頃、当のクライスは。

訓練場脇の柱の前で、しばらく無言のまま自分の右手を見下ろしていた。

撫でた。

確かに、撫でた。

言葉だけでは足りないと思った。それは本音だ。

だが、だからといって、なぜあんな風に自然に手が伸びたのか。自分でも分からない。

部下を労うように?

違う。そんな軽い感覚ではなかった気がする。

あの女が他の男から花を受け取って嬉しそうにしているのを見て、なぜか胸の奥がざらついた。

だから、上書きするように――。

「……何をしているんだ、俺は」

誰にも聞こえないほど小さく、クライスは呟く。

だが、その耳がわずかに赤いことに、本人はまだ気づいていない。

そして当然、そんなクライスの葛藤など知る由もない私は。

窓辺に飾った花と、自分の頭頂部とを交互に見ながら。

「これはもう、しばらく正気に戻れませんわ……」

と、本気で脳内サーバーの再起動を試みる羽目になったのであった。