軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第123話 突然のサプライズ。星空の下、時を越えた二度目のプロポーズ

あの胸が焦げるような夜景ドライブから、一週間後。

私は、自宅のマンションで、たいへん平和な休日の午後を過ごしていた。

溜まっていた洗濯を済ませ。

部屋の隅々まで掃除機をかけ。

冷蔵庫の中身をきれいに整理し。

そして、クライス様からお土産にいただいた、あの至高のチョコレートテリーヌの最後の一切れを、神棚に祈るような神妙な顔でいただく。

「……やはり、料理スキルまで今世で完全覚醒なさっていますわね」

私はフォークをそっと置き、静かに両手を合わせた。

推しの手料理。

しかも、低温調理器と最新オーブンレンジを駆使した、一切の隙がない現代版。

その余韻は、いまだに私の味覚と心臓の奥深くへ、甘くて重い傷(トラウマ級の萌え)を残している。

そして、先週の夜景の丘。

前世のプロポーズの『星降る丘』によく似た展望台。

煌めく夜景と星空。

半歩後ろではなく、隣に立てという絶対的な命令。

クライス様が、前世での思い出も、今世の現在も、どちらも等しく大切にしてくださっているのだと、魂の底から理解できた夜。

その帰り道の車内で、彼は不敵に笑って言った。

――『次は、もっと驚かせる』。

「……」

私は、ソファに沈み込み、そっと胸元を押さえた。

何ですの、あの意味深すぎる次回予告。

あれから一週間、私はずっと、いつどこから致死量の 爆弾(サプライズ) が飛んでくるのかと、心のどこかでビクビク身構えているのですけれど?

しかし、この一週間、特に変わったことは何も起きなかった。

会社では、クライス様は相変わらず“記憶を完全に取り戻した激重溺愛モード搭載CEO”として、隙あらば私の心臓を甘く攻撃してくる。

だが、それ以外は通常営業である。

敵対的買収の事後処理も完全に落ち着き、社員たちの間では「うちの社長、やっぱり強すぎる」「一生ついていく」という神格化が高まり、同時に「でも社長、藤咲さんを見る時だけ甘いし距離近くない?」という不穏な噂も静かに広がり始めていた。

お願いですから、これ以上広がらないでいただきたい。

しかし、否定する材料も絶望的に少ないのが現実である。

そんな、休日の夕方。

テーブルの上のスマートフォンが、短く震えた。

> 九条:

> 今夜、少し時間をくれ

「……」

私は、画面を凝視した。

短い。

相変わらず、業務連絡のように短い。

けれど、そのたった一文の奥に、明らかな『熱』と『決意』がある。

> 藤咲:

> もちろんです。どちらへ伺えばよろしいでしょうか?

すぐに返信が来た。

> 九条:

> 迎えに行く。

> 服は、『青いワンピース』で頼む。

「…………」

私は、スマートフォンを胸に抱きしめ、息を止めた。

来ましたわね。

ついに。

来ましたわね。

あの“次はもっと驚かせる”という特大フラグの回収が。

しかも、ドレスコードの指定。

それも、以前クライス様が一緒に買い物へ行き、彼の瞳の色に似ているからと選んでくださった、あの特別なワンピースと同じ『青』。

これは。

これは、もう。

「落ち着きなさい、藤咲瑠衣」

私は勢いよく立ち上がり、洗面所の鏡の前へ向かった。

自分自身に、言い聞かせるように頬を叩く。

「まだ何も確定しておりません」

「勝手に都合よく解釈して自爆してはいけません」

「限界オタクの早とちりは、大事故の元です」

「ですが」

「……」

「これ、どう論理的に考えても、何か重大なイベントが発生しますわね!?」

心臓が、もうすでに出陣前の陣太鼓のようにうるさい。

◇ ◇ ◇

マンションの前に迎えに来たクライス様は、あらゆる意味で危険だった。

仕立ての良い黒のジャケット。

ノーネクタイの白いシャツ。

少しだけラフだが、彼の冷たい美貌を引き立てる、完璧に品のある私服姿。

そして、夜の街灯の下でも一目でわかる、あの彫刻のように整いすぎた顔面。

「…………」

エントランスの自動ドアが開いた瞬間、私は三秒間、完全に息をするのを忘れて停止した。

「ルシア」

低い、鼓膜を溶かすような声が落ちる。

「……はい」

「固まるのは、今夜はまだ早い」

「……まだ?」

「そうだ」

「今、ハッキリと『まだ』とおっしゃいましたわね?」

「ああ」

「……」

「行くぞ」

「お待ちください」

私は片手で胸元を強く押さえた。

「その余裕たっぷりの言い方だけで、既に私の心臓にはかなり危険です」

「いい加減に慣れろ」

「無理です」

「なら、そのままでいい。お前はお前のままでいろ」

「それも処理落ちするので困りますわ」

クライス様は、わずかに喉を鳴らして笑った。

ああ。

その顔。

夜の外出前に、そんな色気のある顔をなさらないでいただきたい。

車に乗る前から、HPの消費が激しすぎますわ。

「……似合っている」

彼は、私の青いワンピースを下から上まで見つめて、静かに言った。

「ッ……」

私は即座に、真っ赤になって視線を逸らした。

「……ありがとうございます」

「こっちを見て言え」

「難易度が高すぎます」

「なぜだ」

「あなたに正面から褒められるというこの状況の重みを、もう少しご理解くださいまし!」

「完全に理解している」

「でしたら!」

「理解しているから、言ったんだ」

「ッ……!」

ああもう。

今世のクライス様、こういうところで一切の手加減をなさらない。

私はどうにか荒い呼吸を整え、彼が開けてくれた助手席へ乗り込んだ。

「……本日は、どちらへ?」

「着けば分かる」

「またそれですの!?」

「お前も、その焦らされる感じが好きだろう」

「好きですけれど、心臓には極めて悪いのですわ!」

クライス様は低く笑い、静かに車を出した。

◇ ◇ ◇

車は、煌びやかなネオンが光る都心へと向かった。

先週の夜景の丘とは、逆方向である。

高層ビルが森のように増え、街の灯りが濃くなり、行き交う人の流れも多くなる。

夕暮れは徐々に深い夜へと沈み、ビルの無数の窓が、星の代わりのように光り始めていた。

「……山ではありませんのね」

「ああ」

「見晴らしの良い丘でもなく」

「今日は違う」

「……」

「顔に出ているぞ、ルシア」

「だって」

私は窓の外を流れる景色を見ながら言った。

「先週、あのプロポーズの場所に似た丘へ連れて行かれましたので」

「……」

「今回も、また満天の星空の下なのかと」

「星空ではある」

「……え?」

「着けば分かる」

「本日二回目ですわよ、そのセリフ」

車はやがて、都心の一等地にそびえ立つ、最高級の五つ星ホテルへと入った。

私は、車寄せでエントランスを見上げる。

「……ホテル?」

「そうだ」

「お食事ですか」

「それもある」

「それ『も』?」

「降りろ」

促されるまま、彼のエスコートで車を降りる。

一流のホテルマンが恭しく出迎え、私たちは静かな絨毯の廊下を抜け、専用エレベーターへ向かった。

通常の客室階ではなく、さらに上。

最上階の一般のレストランフロアでも止まらず、特別なカードキーがなければボタンすら押せない、さらに上のVIP階へ。

「……クライス様」

「何だ」

「これは、一体」

「驚くのは、まだ早い」

「また“まだ”ですのね」

「ああ」

「今夜、あなたは私の心臓をどうするおつもりで?」

「大事にする」

「発言と状況が、1ミクロンも一致しておりませんわ!」

「……大事に壊す」

「物理的に壊さないでくださいまし!」

エレベーターの重厚な扉が、無音で開く。

そこは、ホテル最上部のさらに上に位置する、限られた人間しか入れない『プライベートラウンジ』だった。

そして私は、その空間に足を踏み入れた瞬間、完全に言葉を失った。

◇ ◇ ◇

ガラス張りの、幻想的な空間。

床から天井まで続く巨大な窓の向こうには、東京の夜景が360度、足元一面に広がっていた。

地上の無数の光。

遠くに光る東京タワー。

大動脈のように流れる車の列。

そのさらに上には、都会にしては珍しいほど澄み切った群青の夜空があり、いくつもの星が確かに瞬いている。

室内には、私の好きな、淡い青と白の花が上品に飾られていた。

揺らめく小さなキャンドルの灯り。

そして特等席の窓際には、たった『二人分』のテーブルが用意されていた。

人の気配は、私たち以外に全くない。

完全な貸し切り。

「……」

私は、本当に呼吸を忘れた。

「ルシア」

クライス様が、静かに私の名を呼ぶ。

「……はい」

「今日は、ここだ」

「……」

「前世の、あの王都の丘や、先週の展望台とは少し違う」

「……」

「だが……この現代の世界で、今の俺が用意できる、『星に一番近い場所』だ」

「ッ……」

駄目ですわね。

その不器用で真っ直ぐな説明だけで、もう胸が熱くなって張り裂けそうになる。

王都の風吹く丘ではない。

山頂の展望台でもない。

でも、この都心の空に最も近い、天空の場所。

現代日本で、九条柊介としての彼が、私のために必死に探して選んでくれた、二人だけの特別な星空。

「……クライス様」

「何だ」

「これ」

「……」

「すべて、私のために?」

「俺の世界に、お前以外に誰がいる」

「ッ……!」

一切の迷いがない即答。

ああもう。

前世から、何度この最強の殺し文句に撃ち抜かれればよろしいのでしょう。

クライス様は、私をエスコートするようにそっと手を取った。

そのまま、夜景が最も美しく見える窓際の席へ導く。

「まずは、食事をしよう」

「……はい」

「落ち着け。手が冷たいぞ」

「無理です」

「そうか」

「そうですわ」

「なら、落ち着かないまま、俺の顔を見ながら食べろ」

「解決方法が乱暴ですわね」

専属のシェフが運んできた食事は、信じられないほど繊細で美味しかった。

だが、正直に言うと、味の詳細は半分くらいしか覚えていない。

なぜなら、テーブルの向かいに座るクライス様が、ワイングラスを傾けながら、ずっと熱い瞳で私を見つめ続けていたからである。

足元に広がる夜景。

貸し切りという圧倒的な特別感。

星空。

美しい料理。

そして、愛する推しの、溶けるような視線。

私のオタクとしての処理能力の限界に挑戦しすぎではありませんこと?

「……食べにくいか」

「はい」

「なぜだ」

「見られすぎております」

「見ている」

「堂々と肯定なさる!」

「当然だ。今日のお前は、特別に綺麗だからな。見惚れていた」

「ッ……!!」

私は、カチャリとナイフとフォークを置いた。

「ルシア?」

「少々、お待ちください」

「何だ。どこか痛むのか」

「今のそのお言葉を、心の安全な記憶庫へ厳重に保管しております」

「いちいち保管するな。恥ずかしい」

「無理です! 家宝にします!」

「いい加減に俺の言葉に慣れろ」

「一生無理ですわ!」

「お前も忙しい女だな」

「すべて、あなたのせいです」

クライス様は、ワイングラスを持ったまま、ほんの少しだけ嬉しそうに、楽しげに笑った。

◇ ◇ ◇

食事が終わると、ホテルスタッフが静かにデザートと食後の紅茶を下げていった。

その後。

空間は、完全に私たち二人きりになる。

ラウンジの柔らかな照明が、ほんの少しだけ、さらに暗く落とされた。

足元の夜景が、より鮮やかに、宝石のように浮かび上がる。

ガラスの向こうの星も、さっきより少しだけハッキリと見える気がした。

私は、そこでようやく気づいた。

流れているBGMが変わっている。

ひどく静かで、美しいピアノの旋律。

現代の曲で、聞き覚えはない。

でも、そのメロディの穏やかな流れが、どこか魂の底から懐かしい。

前世の、神殿での私たちの婚礼で流れた、あの祝福の曲に、ほんの少しだけ、似ているような気がした。

「……」

心臓が、痛いほどさらに騒がしくなる。

まさか。

いや。

でも。

これは。

これは、もう。

「ルシア」

クライス様が、静かに席を立った。

私も反射的に立ち上がろうとする。

けれど、彼が優しく視線だけでそれを制した。

「そのままでいい」

「……はい」

クライス様は、ゆっくりと歩み寄り、私の目の前へ来る。

東京の夜景を背にしたその姿は、息を呑むほど、あまりにも美しかった。

洗練された現代のスーツ。

黒い髪。

九条柊介としての、完成された端正な顔。

けれど、その瞳の奥には、確かに私の愛した『クライス・フェルド』がいる。

私の知る、不器用な氷の騎士。

私の、たった一人の愛する夫だった人。

そして今世でも、数多の人の中から、迷わず私を見つけ出して選んでくれた人。

「前世で」

彼は、夜景を背に、静かに口を開いた。

「俺は、あの王都の星降る丘で、お前に言った」

「……」

「俺の側仕えとしてではなく、妻として、一生隣にいてほしいと」

「……ッ」

「お前は、顔をくしゃくしゃにして泣いて」

「……」

「俺の想像以上に、子供のように取り乱して」

「……」

「それでも、こんな不器用な俺を、迷わず選んでくれた」

「……はい」

答える声が、震える。

あの日の記憶が、一気に鮮明に蘇る。

満天の星空。

吹き抜ける夜風。

私の前にひざまずいたクライス様。

止まらない私の涙。

不器用で優しい、初めての口づけ。

そして、大勢の前で宣言した、婚礼の日の誓い。

「結婚した後も」

彼は、愛おしそうに私を見つめて続ける。

「お前は本当に、ずっと俺の隣にいてくれた」

「……」

「俺のただ一人の、妻として」

「……」

「俺の、かけがえのない家族として」

「……」

「ここが俺の特等席だと言って」

「……」

「血塗られた俺の生涯を、呆れるほど真っ直ぐに、あたたかく愛してくれた」

「ッ……」

もう駄目ですわね。

涙腺が、完全に決壊の危険水域です。

「でも」

クライス様の声が、少しだけ重く、深くなる。

「俺たちは、また生まれ変わった」

「……」

「世界も、名前も、立場も変わった」

「……」

「今の俺は、クライスであり、九条柊介でもある」

「……」

「お前も、ルシアであり、藤咲瑠衣だ」

「……」

「だからこそ、もう一度」

彼は、そこで一度言葉を切った。

そして。

座っている私の前で、ゆっくりと、恭しく、片膝をついた。

「――ッ」

世界が、完全に止まった。

前世の、あの星降る丘と全く同じように。

でも、魔法のない、まったく新しい現代の夜景の中で。

クライス様が。

九条柊介が。

私の前で、騎士のように跪いている。

「クライス、様……」

声が震えて、涙が溢れた。

彼は、ジャケットの内ポケットから、小さなベルベットのケースを取り出した。

黒いケース。

その蓋が、静かに、パカリと開く。

中には、輝く指輪があった。

シンプルなのに、息を呑むほど洗練された美しい指輪。

中央には、クライス様の瞳の色を思わせる、深く澄んだブルーサファイア。

その周囲に、まるで星空のように小さなダイヤモンドが散りばめられている。

前世で彼から贈られた、あのサファイアの首飾り。

誓いを立てた星空の丘。

神殿のステンドグラスの下の、婚礼のヴェール。

その私たちの記憶の全部が、その小さな指輪の中へ、永遠に閉じ込められているみたいだった。

「……ッ」

胸がいっぱいで、息がうまくできない。

クライス様は、跪いたまま、私を真っ直ぐに見上げた。

「藤咲瑠衣」

「……」

「ルシア」

「……」

「前世でも、今世でも」

「……」

「そして、来世でも」

彼の声は低く、静かで、けれど私の魂を焼き尽くすほど、逃げ場がないほどに熱かった。

「――永遠に、俺の妻でいてほしい」

「――ッ」

◇ ◇ ◇

涙が、ポロリと落ちた。

返事をするより先に。

息を吸うより先に。

何かを論理的に考えるより先に。

勝手に、ぽろぽろと、止めどなく。

「……ずるい、ですわ」

ようやく絞り出した声は、前世のあの日と全く同じくらい、みっともなく震えていた。

「何がだ」

「全部ですわ」

私は、大粒の涙をこぼして泣き笑いになりながら言った。

「また」

「……」

「また、こんな美しい場所で」

「……」

「こんな、私にはもったいないふうに」

「……」

「こんな、逃げ場のない完璧な言葉で」

「……」

「私を、また完全に落としに来るのですもの」

「落とすつもりなどない」

「嘘ですわ」

「本当だ」

「では、何ですの?」

「俺の中では、とっくの昔に、お前は俺に落ちていると思っている」

「ッ……!」

何ですの、その余裕の追撃。

プロポーズの最中にまで、そういうスパダリなことをおっしゃる。

「……クライス様」

「何だ」

「私」

「……」

「前世でも」

「……」

「あなたの妻になれて、心から、とても幸せでしたわ」

「ああ」

「生涯、誰よりも一番近くで、あなたの隣にいられて」

「……」

「特等席で、あなたを愛で続けられて」

「……」

「この上なく、私の人生は幸せでした」

「……」

「だから、死ぬ間際。……もし生まれ変わっても」

「……」

「必ず、またあなたを探し出そうと、決めていましたの」

クライス様の瞳が、わずかに、感動に揺れる。

「そして、今世で本当に探しました」

「……」

「見つけました」

「……」

「頑張って有能な秘書になって」

「……」

「あなたに選ばれて、恋人になって」

「……」

「あなたが奇跡のように記憶を取り戻して」

「……」

「また、こうして」

私は涙を拭うこともできず、ただぼやける視界で、大好きな彼を見つめた。

「……私を、妻にと、望んでくださった」

胸が、破裂しそうにいっぱいだった。

世界が二度変わっても。

果てしない時が流れても。

何度人生をやり直しても。

この人は、また私を見つけて、選んでくれる。

私は、またこの人を、全力で愛して選ぶ。

そんな神様がくれたような奇跡が、今、私の目の前にある。

「答えは」

クライス様が、やさしく静かに言う。

「急がなくていい。お前が落ち着くまで待つ」

「急ぎます」

「……」

「今すぐ、一秒でも早く答えます」

「……そうか」

「はい」

私は、涙を流したまま、世界一幸せな笑顔で笑った。

「もちろんです」

「……」

「前世でも、今世でも、来世でも」

「……」

「何度生まれ変わっても」

「……」

「私は、あなたの妻になりたいです」

「……」

「そして」

私は、胸元に手を当てて、私の魂のすべてを込めて、はっきりと言った。

「永遠に、私の特等席で、あなたを推し(愛し)続けますわ!」

クライス様が、ほんの一瞬、驚いたように目を丸くした。

それから。

前世の星降る丘の時と全く同じように。少し呆れたような、困ったような、けれど心底嬉しそうな、愛おしい顔で笑った。

「……そうか」

「はい!」

「そこは、何度生まれ変わっても変わらないんだな」

「当然ですわ! 私のアイデンティティですから!」

「……なら」

彼は指輪をケースから取り出した。

「手を」

私は、震える左手を差し出す。

クライス様の大きくあたたかい指が、私の左手を取る。

そして、薬指へ、サファイアの指輪をゆっくりと通した。

ぴたり、と。

まるで、最初からそこへ戻ってくるために、神様がサイズを測って作っていたみたいに。

指輪は、私の薬指に完璧に収まった。

「……ッ」

また、新しい涙がポロリと溢れる。

「ルシア」

「はい」

「これで、ただの『予約』ではなくなったな」

「……」

「確定した既定路線ですか」

「ああ」

「またそうやって、自信満々に断言なさる」

「当然だ。俺のものだからな」

「……」

「嫌か」

「嫌なはずがございませんでしょう!」

私が力強く即答すると、クライス様は満足そうに低く笑った。

そして、ゆっくりと立ち上がる。

すぐ目の前に、彼がいる。

眼下の夜景よりも近く。

頭上の星空より眩しく。

前世のクライス様よりも、今世の九条さんよりも、その全部の時間を抱えて、より深く愛おしく。

「ルシア」

「はい」

「口づけてもいいか」

「……ッ」

また。

またですのね。

前世の丘でも、全く同じように聞かれた。

強引なくせに、同意を求める声が律儀で、甘くて、不器用で、心臓に悪くて。

あの時の私は、恥ずかしさで爆発しそうになりながら、真っ赤になって小さく頷いた。

今も、本質は同じだ。

でも、今度は少しだけ、私も成長して、ちゃんと言葉にして言える。

「……もちろんですわ」

そう微笑んで答えた瞬間。

クライス様のあたたかい手が、私の涙濡れた頬へ触れた。

◇ ◇ ◇

誓いの口づけは、前世のあの日より、少しだけ長く、深かった。

でも、途方もなくやさしかった。

世界で一番大切な壊れ物を扱うみたいに。

けれど、もう二度と、どんな運命が来ようと絶対に離さないと誓うみたいに。

ゆっくりと唇が離れたあとも、私は余韻でしばらく呼吸を忘れていた。

「……大丈夫か」

クライス様が、吐息の混じる距離で聞く。

「その質問」

私は涙目で、頬を赤く染めて抗議した。

「前世でもなさいましたわ」

「そうだったな」

「そして今回も、全然大丈夫ではございません」

「……そうか」

「はい。腰が抜けそうです」

「では、もう一度しっかり支える」

「ッ……」

言うが早いか、彼の力強い腕が、私の背中と腰へギュッと回る。

私は、迷わずそのあたたかい胸元へ額を預けた。

あたたかい。

懐かしい。

でも、トクトクと鳴るこの鼓動は、紛れもない『今』の彼の体温。

「……クライス様」

「何だ」

「幸せすぎると、人は少し怖くなるのですね」

「なぜだ」

「あまりにも出来すぎた、都合の良い夢ではないかと」

「夢ではない」

「……」

「俺は、確実にここにいる」

「……」

「お前も、俺の腕の中にいる」

「……」

「証拠の指輪もある」

彼は私の左手を取り、薬指のサファイアの指輪へ軽く、愛おしむように触れた。

「これは、俺たちが掴み取った現実だ」

「ッ……」

私は、また泣いた。

だって、彼の言う通りだった。

前世の星降る丘も現実だった。

神殿の婚礼も現実だった。

共に老いて白髪になった日々も現実だった。

そして、今世のこの美しい夜景も、この光る指輪も、この胸のあたたかい温度も、全部が紛れもない現実なのだ。

「ルシア」

「はい」

「今世では」

「……」

「俺は、現代の『九条柊介』として、お前と結婚する」

「……」

「だが、『クライス』としての、お前への永遠の愛の記憶を持ったまま」

「……」

「この新しい世界で、改めてお前を俺の妻にする」

「……」

「いいな」

「命令形ですの?」

「確認だ」

「確認にしては、だいぶ圧が強いですわ」

「……嫌か」

「大好きです」

クライス様は、心底安心したように、また少し笑って私を強く抱きしめた。

◇ ◇ ◇

それからしばらく、私たちは窓際に寄り添って、美しい夜景を見ていた。

私の左手には、彼から贈られた指輪が光っている。

光の角度を変えるたび、小さな星のようにキラキラと光を返す。

そのたび、私は胸の奥がふわふわして、幸福で現実感を失いかけた。

「……指輪」

「ああ。気に入ったか」

「気に入った、という次元の言葉では足りません」

「では?」

「我が家の永久国宝の家宝です」

「なら、大事にしろ」

「当然ですわ」

私は薬指を愛おしく見つめながら言った。

「前世の、あのサファイアの首飾りと同じくらい、大切にします」

「……」

「いえ」

「……」

「今世のあなたが、私のためにわざわざ選んでくださったという意味では、また別方向に尊いアイテムですわ」

「……結局、尊いのか」

「もちろんです」

クライス様が、呆れたように、けれどやさしく愛おしそうに息を吐く。

「ルシア」

「はい」

「結婚式は」

「……」

「お前の好きなようにしていい」

「……!」

「ただし」

「……」

「俺のことばかり考えるな」

「それは無理ですわね」

「お前が主役の式でもあるんだぞ」

「分かっております」

「なら」

「ですが」

私は、クルリと彼に向き直り、真剣な顔で言った。

「最高のオーダーメイドのタキシード、最高のロケーション、最高の照明、最高のプロのカメラアングルでの撮影は必須ですわ!」

「……」

「今世でも、私の推しの世界最高のお披露目会として、一切の妥協は許しません!」

「……ルシア」

「はい」

「式などの次の話は、また明日にしろ」

「なぜですの」

「今夜は、まず俺の『婚約者』として、素直に喜べ」

「ッ……!」

婚約者。

今世で。

また。

その甘美な言葉が、私に向けられる。

私は、薬指の指輪を見て、少し照れたように彼を見上げた。

「……はい」

「珍しく素直だな」

「今は」

「……」

「もう、胸がいっぱいですので」

「そうか」

「はい」

「なら、もう少しだけ、俺の腕の中でこのままでいろ」

「……」

「俺も」

「……」

「ようやくお前を手に入れた幸せを、少し、噛みしめたい」

「ッ……」

ああ。

駄目ですわね。

この人も、私と同じように、この奇跡の幸せを噛みしめているのだと分かると、もうそれだけで胸が破裂しそうになる。

私は、そっと彼の逞しい腕に寄り添った。

「クライス様」

「何だ」

「今世でも」

「……」

「また、私をよろしくお願いいたしますわね」

「こちらこそ」

彼は静かに、私の髪にキスをして答える。

「俺の妻」

「戸籍上は、まだですわ」

「いずれだ」

「……」

「そして、俺とお前の絶対の確定だ」

「本当に、そういう強引なところですわよ」

でも。

まったく嫌ではない。

むしろ、その絶対的な確信が、嬉しくてたまらないのだから。

◇ ◇ ◇

帰りの、静かな車内。

私は助手席で、自分の左手を目の前に掲げ、何度も何度も指輪を見ていた。

夜の道路を走る車のオレンジの灯りが、指輪のサファイアにちらちらと反射する。

そのたび、胸の奥で小さな花火が上がり、フフッと口角が緩む。

「ルシア」

「はい」

「さっきから、指輪を見すぎだ」

「無理です。輝きが尊いです」

「前を見ろ」

「事故はあなたが防いでくださいます」

「俺は運転中だ」

「では、頑張って前も見ます」

「……頑張ることか」

「はい」

私は、どうにか顔を上げて前を見た。

けれど、数秒でまた、磁石に引き寄せられるように指輪へ視線が落ちる。

だって。

仕方がないでしょう。

最愛の推しからの、時と世界を越えた二度目のプロポーズ。

前世でも今世でも来世でも妻に、と言われた愛の証。

そんなもの、見ずに平常心でいられるはずがない。

「……クライス様」

「何だ」

「私、アドレナリンが出すぎて、今日は眠れるでしょうか」

「……眠れ」

「また命令形」

「明日も、大事な予定がある」

「……」

「何の予定ですの?」

「俺の両親(実家)へ、結婚の報告に行く」

「ッ……!!」

「それから、社内にも、無用な混乱を避けるために時期を見て早急に発表する」

「ま、待ってくださいまし!」

「何だ」

「展開が早すぎます! 怒涛ですわ!」

「前世の出会いから数えれば、十分すぎるほど遅い」

「そうですけれど!」

私はまた、限界を迎えて顔を覆った。

しかし、指輪がキラリと視界に入る。

顔を覆っても、薬指の輝きが見えてしまう。

もう、逃げ場がない。幸せの袋小路だ。

「……幸せです」

ぽつりと、心の底からそう零れた。

クライス様は、前を見たまま、この上なく優しい声で静かに言った。

「……俺もだ」

それだけで、車内があたたかい空気で静かに満たされる。

言葉は、多くはなくていい。

この人の“俺もだ”という一言には、いつだって、彼の愛の全部が詰まっている。

私は、そっと左手を胸元へ寄せた。

前世のあの丘で、私は妻として隣に立つ未来をもらった。

今世のこの星空の下で、私はもう一度、同じ人から永遠を差し出された。

そして、私はまた選んだ。

クライス様を。

九条柊介さんを。

前世でも、今世でも、来世でも、何度でも。

「……永遠に、私の最推しですわ」

私が小さく呟くと、運転席から、満足そうな低い声が返った。

「ちゃんと聞こえている」

「わざと聞かせましたのよ」

「そうか」

「はい」

「なら、俺もハッキリ言っておく」

「……」

「お前は永遠に、俺の妻だ。逃がさん」

「ッ……!!」

私は、その夜いったい何度目か分からない、幸福な処理落ちを起こした。

車は静かに、二人を乗せて夜の東京を走っていく。

薬指の指輪は、私の手の中で、いつまでも色褪せない星のように光り輝いていた。