軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第113話 恋人になっても秘書は秘書。推しへの尊意は揺るぎません

運命の告白から一夜明けた、翌朝。

私は、狭いワンルームの洗面台の鏡の前で、たいへん真剣な、それこそ出陣前の武将のような顔をしていた。

戦闘服(スーツ) 、よし。

髪の乱れ、よし。

気合を入れたメイク、よし。

隙のないポーカーフェイスの表情、よし。

そして、最も重要な『限界オタクの心構え』も、完全によし。

「……本日も、有能な秘書はただの秘書ですわ」

私は鏡の中の自分へ、厳かに、己の魂を縛るように宣告した。

昨夜。

いいえ、正確には昨夜までに、私のオタク人生にとって、致死量を超えるいろいろな重大イベントがありすぎた。

あの記憶のない九条CEOからの、ド直球で重たい告白。

私の、面接のように深々と盛大に頭を下げる形での「謹んでお受けいたします」の返答。

その後の、だいぶ公式からの供給過多で心臓が止まりかけた、あたたかい抱擁。

そして。

――『これからの君の隣は、俺がいい』。

「ッ……!!」

私は反射的に、鏡の前で膝から崩れ落ちて胸元を強く押さえた。

危ない。

朝から反則級の尊い回想で、出社前に致死量のダメージ(致命傷)を負うところでしたわね。

だが、落ち着きなさい、藤咲瑠衣。

本日から、私は晴れて推しの“ 恋人(パートナー) になった”。

つまり、私生活においては、推しと合法的に至近距離まで距離を詰められる、SSR確定のボーナスステージへ突入したわけである。

……が。

会社は会社だ。

ここで「恋人になれましたわウフフ」と浮かれて、秘書としての完璧な実務の精度を落とすなど、プロの側仕えとして言語道断の論外である。

社内恋愛がどうこうという世間体以前に、私はこの人の『世界一有能な専属秘書』なのだ。

推しへの尊意(愛)は、むしろ仕事の完璧さでこそ体現され、発揮されるべきである。

「よろしいですわね」

私はもう一度、緩みそうになる自分へ言い聞かせた。

「オフィスでは、1ミクロンの隙もない完璧な秘書」

「プライベートでは……」

「……」

「その時の供給量に合わせて、臨機応変に考えますわ」

そこは、ちょっとだけオタクの都合の良いように曖昧にしておいた。

◇ ◇ ◇

クライス・ホールディングス本社三十階。エグゼクティブ・フロア。

朝の秘書課は、今日もほどよくピリッとした緊張感があり、ほどよく忙しい。

私はいつもの涼しい顔で、九条CEOの分刻みの本日スケジュールを再確認し、役員会議の資料の優先順を彼の思考に合わせて並べ替え、朝一でお出しする特製紅茶を、香りが一番立つ最適な温度で完璧に整えた。

うん。

完璧な仕事ぶりですわね。今日も私は有能ですわ。

問題は、その“いつも通り”の業務を、限界オタクの心臓があまり理解してくれないことである。

だって、昨夜までと今日とでは、決定的に、世界の見え方が違うのだ。

今の私は。

この重厚な執務室の扉の向こうにいる、あの気高く美しい人の、『恋人』なのである。

こ・い・び・と。

「……ッ」

私はそっと、資料を持つ手へギリッと力を込めた。

いけませんわね。

その甘美な響きの単語を頭で再生するだけで、少々毛細血管が浮き立ちますわね。

「藤咲さん」

隣の席の先輩秘書が、小声で呼んだ。

「はい、何でしょう」

「今日、なんか妙に機嫌いい?」

「そうでしょうか。いつも通り平常心ですが」

「ううん、違う」

「気のせいですわ」

「そう?」

「ええ」

「でも」

先輩は少しだけ首を傾げて、私の顔をジッと見る。

「なんだか、お肌がつやつや(ピカピカ)してる」

「……」

「何か、すっごくいいことあった? 宝くじ当たったみたいな顔してるよ」

「業務が円滑で、進捗が予定より巻きで進んでおりますので」

「その嘘くさい仕事の返し、絶対違う時のやつだ」

先輩、鋭いですわね。

ですが、そこは鉄壁の秘書として崩しません。

「あ、社長、そろそろお見えになります」

私はエレベーターの稼働音を聞き取り、静かに話題を変えた。

「あ、露骨に逸らした」

「仕事ですので」

「はいはい」

ちょうどその時、専用エレベーターが開く気配がした。

秘書課の空気が、一段だけ冷たく引き締まる。

九条CEOが、無駄のない足取りでフロアへ入ってこられた。

上質な黒のオーダースーツ。

今日も完璧に整えられた黒髪。

朝の光を受けて影を落とす、彫刻のようにひどく整った氷の横顔。

ああ。

はい。

無理ですわね。(眼福)

恋人になった翌朝の推しが、いつも以上にフェロモンダダ漏れで完成されている問題について、少し国会で協議が必要ではありませんこと?

「おはようございます」

私は、昨日までと1ミリも変わらない、完璧な三十度の角度で一礼した。

「おはようございます、九条CEO」

「……おはよう」

九条CEOの返答は、いつも通り低くて短い。

だが、その鋭い視線だけが、ほんの一瞬、私の上で熱を帯びて止まった。

「ッ……」

だめですわね。

たったそれだけの視線の交差だけで、内心のBPM(心拍数)が警報を鳴らして少し忙しくなりますわね。

けれど、表には絶対に出さない。

私は、誰より彼を愛する完璧な秘書である。

「社長、本日の予定です」

私は彼が歩き出すと同時に、スッとタブレットを差し出した。

「十時より、定例の役員会議」

「……」

「十一時半に、海外拠点とのオンライン接続」

「……」

「昼食後、来客が二件」

「……」

「十五時の社外の新規打ち合わせについては、先方都合で十五分後ろ倒しになっております。その間に決裁を二件挟めます」

九条CEOは、淡々とタブレットを確認しながら歩く。

私は彼の半歩後ろの定位置を維持し、そのまま社長室へ入った。

うん。

完璧。

いつも通り。

プロの仕事として、何一つ問題ありませんわね。

――と、私が安心したのも、そこまでだった。

「藤咲」

「はい」

社長室の重厚な扉がパタンと閉まった瞬間、九条CEOが、少し不機嫌そうに低く言った。

「距離が遠い」

「……はい?」

「今朝から、だ」

「……」

「お前の『秘書モード(ATフィールド)』が、強すぎる」

「…………」

私は、しばし、鳩が豆鉄砲を食ったように固まった。

何を我が儘をおっしゃっているのかしら、この尊い推しは。

「社長」

「今は、扉も閉まって二人きりだ」

「……」

「せめて、もう少し『普通』にできないのか」

私は、とても真剣に、オタクの脳をフル回転させて考えた。

普通。

普通とは何でしょう。

恋人になった翌朝、オフィスの社長室という神聖な職場で、最愛の推しへ“普通”に接するとは。

それは、具体的にどういう 挙動(スキンシップ) を指すのでしょう。

「……大変申し上げにくいのですが」

私は慎重に、言葉を選んで口を開いた。

「何だ」

「私、今、かなり決死の覚悟で頑張っております」

「……」

「これでも、発狂しそうなのを堪えて、だいぶ平静を装っておりますのよ?」

「全く、そうは見えない」

「え?」

「むしろ」

九条CEOは、少しだけ不満げに眉を寄せた。

「昨日より、対応がよそよそしくて硬い」

「当然ですわ!!」

思わず、素の大声が出た。

あら。

いけません。

でも仕方ありませんでしょう。言わせてくださいまし。

「何がだ。付き合ったのに、なぜ硬くなる」

「だって」

私は、爆発しそうな胸元を押さえた。

「恋人になった翌日に! 同じ会社で、同じ狭い空間で、昨日と同じように平常心で仕事をするのですわよ!?」

「……」

「無理がありませんこと!? オタクの心臓の耐久テストですか!?」

「……」

「しかも社長は、昨日よりさらに、今日も朝から顔が良すぎます! 直視できません!」

「そこか」

「最も重要です」

九条CEOが、やれやれと小さく息を吐く。

だが、その氷の口元が、ほんの少しだけ嬉しそうに緩んでいる。

ああ、はい。

そういう、素直な好意に少し照れてデレるところ、だいぶ前世から大好きですわね。

「藤咲」

「はい」

「一つ、確認する」

「何でしょう」

「付き合う前と後で」

「……」

「俺への『特別な扱い』を、変えるつもりは全くないのか」

私は、キョトンとした。

「変わっておりますわよ?」

「どこが。ずっと鉄仮面のままだろう」

「心の中の、熱量です」

「見えない」

「それはそうです」

私は真顔で深く頷いた。

「ですが、『公式供給量(萌え)』が、昨日比で二割増しです。致死量です」

「……」

「プライベートで、甘い恋人」

「……」

「会社で、最高に格好いい推し兼社長」

「……」

「今世、かなりのSSR確定のボーナスステージではありませんこと?」

九条CEOが、今度こそ呆れて、はっきりと額へ手を当てた。

「……お前」

「何でしょう」

「本当に、それでいいのか」

「何がですの」

「もっと」

彼は少しだけ、不器用な言葉を選ぶように沈黙した。

それから、少し拗ねたように低く続ける。

「普通の恋人みたいに、イチャついたり甘えたりできないのか」

「…………」

あらまあ。

私は、そこでようやく完全に理解した。

この方。

だいぶ不満なのだ。

私が“社長としての尊敬(推しとしての距離感)”を頑なに崩さないことへ。

晴れて恋人になったのだから、もう少しこう、二人きりの時くらい、距離感の違う『甘さ』を期待していらっしゃるのだ。

ああ。

なるほど。

それはつまり。

「社長。もしかして、拗ねていらっしゃいますの?」

「違う」

「ですが今」

「違う」

「ちょっとだけ」

「違う」

「可愛らしい方向に、いじけて――」

「藤咲」

「はい」

「さっさと仕事に戻れ」

「はい。喜んで」

でも、その整った耳が、少しだけ赤く染まっている。

ええ。

そうでしょうとも。

完全に図星でしたのね。可愛すぎますわ。

◇ ◇ ◇

その後も、私は鉄の意志で完璧な仕事へ徹した。

会議室の分刻みの予約調整。

役員への事前根回しと資料送付。

海外拠点のサマータイムの時差確認。

我ながら、完璧である。

だが、大問題は、九条CEOが時々、執務の合間に、妙に熱を帯びた視線でこちらをジッと見つめてくることだった。

役員会議の前。

「社長、資料です」

「ああ、こっちだ」

受け取る瞬間、ほんの少し、意図的に指先が長く触れる。

「……ッ」

私は、ビクッとしたが平然を装った。

装ったが、心の中では「指先が触れましたわー!」と大騒ぎでスタンディングオベーションである。

昼前のオンライン会議後。

「社長、次のお飲み物を。いつもの特製紅茶でよろしいですか」

「ああ」

カップを置こうとすると、また彼と至近距離で視線が絡む。

「何でしょう」

「いや」

「はい」

「本当に、変わらないなと思って」

何がでしょう。

と聞き返したかった。

だが、その言葉の温度が、妙に甘くやさしかったせいで、少しだけ胸が詰まって言葉を失う。

午後の来客対応後。

「社長、本件の要点整理です」

「助かる」

「当然です」

「……」

「何でしょう」

「そこも、変わらない」

「何がですの」

「お前の、俺の思考を読む秘書としての異常な精度が、だ」

「最高の光栄です」

「恋人になっても、手を抜かないんだな」

「むしろ、愛の力で精度が上がります」

「なぜ」

「気合い(推し活への熱)が増すからです」

「……」

「至近距離での顔面供給も増しますし」

「やっぱり、理由はそこ(顔)なんだな」

ええ。

そうですとも。顔はすべての入り口ですから。

だが、午後三時を過ぎた頃。

とうとう、隣の先輩秘書が小声で耐えきれずに言った。

「ねえ」

「はい。何でしょう」

「社長」

「ええ」

「今日、なんかずっと、肉食獣が獲物を狙うみたいに藤咲さんのこと見てない?」

「……」

「気のせいでは?」

「いや、私こういう社内恋愛の甘い空気には敏感だから」

「そうですの」

「うん」

「では」

私はニッコリと、完璧な営業スマイルで微笑んだ。

「お疲れによる、先輩の気のせいですわね。目薬さします?」

「露骨にごまかしたわね」

「秘書の基本スキルです」

「いや、その基本、使い所どうなの?」

◇ ◇ ◇

問題が限界突破して決定的になったのは、終業後の夜だった。

他の社員がほぼ帰り、静まり返ったフロアに残っているのは私と九条CEOだけ。

私は明朝の完璧な準備を終え、最後の退勤確認へ社長室へ入った。

「社長、本日の決裁、すべて以上です」

「……」

「明朝は、予定通り八時半にマンションまでお迎えに上がります」

「……」

「それでは、本日はお疲れ様でし――」

「待て」

低い、有無を言わせない声。

私は、ドアノブにかけた手を止めた。

「何でしょう」

「こっちに来い」

「……?」

九条CEOは、デスクの向こうから、獲物を逃さない目でジッと私を見る。

「今日の勤務時間は、終わった」

「はい」

「社長と秘書の業務も、終わりだ」

「……」

「今は」

「……」

「『恋人』だろう」

「ッ……」

ああもう。

真正面から、ド直球で来ましたわね。

だいぶ特大の火力高めで来ましたわね。

私は、動揺を隠すようにコホンと咳払いした。

だが、耳まで熱くなっている頬の赤さは、もう誤魔化しにくい。

「それは」

「……」

「理屈の定義としては、そうです」

「理屈?」

「ええ」

「感情は」

「……」

「私のオタクの 感情(キャパ) は、まだ全く追いついておりません」

九条CEOが、無言でスッと立ち上がる。

広い机を回って、逃げ場を塞ぐようにこちらへ歩いてくる。

一歩。

また一歩。

近い。

いえ、まだ距離はある。

でも、圧倒的なオスの存在感が近い。

「藤咲」

「はい」

「俺は」

「……」

「もう少し、普通の恋人みたいに、イチャつきたい」

「ッ……!!!!」

私は、本気で悲鳴を上げて一歩下がりかけた。

だが、後ろは重厚な扉だった。(壁ドン状態)

何ですのその直球は。

語彙が突然、たいへん生々しくなりましたわね!?

それはオタクの心臓への反則ですわよ!?

「しゃ、社長」

「今は、社長じゃない。違う」

「……」

「いきなり、下の名前で呼べとは言わない」

「……」

「だが」

九条CEOの目が、少しだけ甘く、熱っぽくやわらぐ。

「せめて、二人きりの時くらい、そこまで頑なに堅くなるな」

私は、逃げ場のない扉の前で、しばし、真剣に考えた。

堅い。

そうだろう。

私だって分かっている。

でも、無理なのだ。

だって、好きすぎるのである。

前世からの積み上げた重すぎる尊敬と愛とオタク心が、そう簡単に“普通の対等な彼女”へと移行できるはずがない。

「……努力は」

私は、真っ赤な顔でようやく答えた。

「いたします」

「努力、か」

「はい」

「今日のあれで?」

「かなり、必死に頑張った方です」

「本当に?」

「ええ」

「それで、あの態度か?」

「はい」

「……先は長そうだな。道険し、だ」

「ですが」

私は、少しだけ勇気を出して、彼のネクタイの端をちょこんと摘んで付け足した。

「嫌では、ございません」

九条CEOの目が、ほんの少しだけ、驚いたように見開かれる。

「何がだ」

「その」

私は恥ずかしさで視線を逸らした。

「もう少し普通に、イチャつくという……」

「……」

「恋人らしい甘い距離感、は」

「……」

「決して、嫌では、ありません」

「……」

「むしろ」

「……」

「オタクへの公式供給としては、大歓迎です」

「最後の一言で、せっかくのムードが全部台無しだな」

「そんなことはありませんわ。これが私の愛です」

「ある」

「ありません」

「ある」

「……」

「……」

「では」

私は、ほんの少しだけ、幸せに笑った。

「焦らず、一歩ずつ、ということで」

九条CEOは、愛おしそうにしばらく私を見ていた。

それから、ごく自然に。

本当に、呼吸をするみたいにごく自然に。

私の頭へ、ポン、と大きくてあたたかい手を置いた。

「ッ……!」

「……それならいい。待ってやる」

低い、甘い声が落ちる。

やさしい。

少しだけ、私の本音を引き出せて満足したような響きがある。

ああもう。

だめですわね。

結局、こうやって簡単に撫でられるだけで、黙らされて絆されてしまうのだから。

私は、熱を持った顔を覆いたい衝動をどうにか堪え、でもきっと耳まで少し赤いまま、小さく頷いた。

「……はい」

「明日も」

「……」

「ちゃんと、俺の隣へ来い」

「当然です」

「恋人としてではなく」

「……」

「俺の最高の秘書としてな」

「はい」

「でも」

私は、そっと上目遣いで顔を上げる。

「退勤後のプライベートでは」

「……」

「少しずつ、恋人として、よろしくお願いいたしますわ」

九条CEOの氷の口元が、フッと、この上なく甘く緩んだ。

「ああ」

その力強い一言だけで、私の胸がいっぱいになる。

恋人になっても、会社では秘書は秘書。

推しへの尊意は揺るがない。

でも、それで終わりではないのだ。

この先は。

秘書の完璧さの上へ、少しずつ、甘い恋人としての距離を、二人で重ねていく。

……ええ。

今世の恋人のボーナスステージ、オタクの心臓にとっては、なかなか難易度が高くて最高ですわね。