軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第105話 氷のCEOが熱でダウン。看病という名の公式供給

あの大雨の中の出張から戻って、三日後。

私は、朝一番の予定表を見つめながら、心臓の奥がザワつくような、たいへん嫌な予感に襲われていた。

「……おかしいですわ。明らかに計算が合いませんわ」

社長室前の私のデスクで、私はタブレットに表示された今週のスケジュールを執拗にスクロールする。

本日の九条CEOは、朝一で海外投資家との戦略面談。

十時に役員向けの定例ブリーフィング。

昼前に北米拠点とのオンライン会議(時差調整済み)。

午後は来客が二件と、緊急の社内決裁が三件。

数字だけを見れば、いつもの「有能なCEO」の日常だ。

いつものことなのだけれど、私の『推しモニター』は異常な数値を弾き出していた。

「昨夜、退社記録は午前二時三十分。当然、残業ですわ」

私は小声で、呪文のように呟く。

「その前の日も、深夜の終電帰り」

「一昨日も、取引先との重い会食付き」

「そして今朝、出社時間は通常通り午前七時……」

だめですわ。

これは、生物学的な生存戦略として、だいぶよろしくない状態ですわ。

「藤咲さん、おはよう。朝から眉間にシワ寄せて、どうしたの?」

隣の席の先輩秘書が、カフェラテを片手にやってきた。

「おはようございます。……いえ、社長の稼働状況が、少々レッドゾーンを超えておりますの」

「……ああ」

先輩も私のタブレットを覗き込み、一瞬で悟った顔になった。

「まあ、今月は合併案件で修羅場だしね……」

「ええ。ですが、限界ですわ」

「え?」

「ここ数日の社長のご様子、お気づきではありませんか? 普段の白磁のような美肌が、さらに血の気を失って蒼白に。そして、あの鋭い瞳の奥に、微かな熱の揺らぎが……」

「……」

「睡眠時間が致命的に足りておりません。昨日の昼食も、私が用意したサンドイッチを二口しか召し上がっていないのです。摂取カロリーと消費カロリーが完全に逆転しておりますわ!」

「……藤咲さん、それは知ってるけど、なんで『一口単位』で食事量まで把握してるの? 監視カメラなの?」

「愛(観察)です」

「仕事って言って、お願いだから」

ええ、そうですわね。

仕事ですとも。あくまでプロの秘書としての、体調管理業務ですわ。

……そこに、私情という名の『限界オタクの執念』が、致死量ほど混ざっているだけで。

◇ ◇ ◇

私の最悪な予感は、十時三十分。役員ブリーフィングの開始予定時刻に現実となった。

一秒単位で時間に正確なあの人が、開始時刻を過ぎても執務室から現れない。

あのクライス様(九条CEO)に限って、遅刻など、天変地異が起きてもあり得ない事態だ。

「……失礼いたします。社長、お時間ですが」

内線に応答がないため、私は即座に席を立ち、社長室の重厚な扉をノックした。

返事はない。

二度目のノック。それでも、静寂が返ってくるだけ。

「失礼いたします!」

意を決して扉を開けた、その瞬間。

室内の、異常なまでの『熱気』と空気の重さで、私はすべてを悟った。

「……っ!」

広大な執務室の中は、不気味なほど静かだった。

九条CEOは、デスクへ片腕をついたまま、ガクリと深く俯いていた。

読みかけの重要書類は開いたまま。

愛用の高級万年筆も、その近くに無造作に転がっている。

「社長……!」

私は足早に駆け寄った。

名前を呼んでも返事がない。ただ、荒く、熱を帯びた苦しげな呼吸だけが、静かな部屋に響いている。

「九条社長、しっかりしてくださいまし!」

もう一度、耳元で強めに呼ぶと、ようやく、長い睫毛に縁取られた瞳がゆっくりと持ち上がった。

「……藤咲、か……」

低い、耳に溶けるような極上の声。

いや、低いのはいつも通りだが、掠れている。

完全に、高熱に焼かれた人の声だ。

至近距離でその顔を見て、私は思わず息を呑んだ。

顔色が、恐ろしいほど悪い。

普段の冷徹な白さとは違う、生命力を熱に奪われたような、痛々しい白。

目元はうっすらと赤く潤み、額にはびっしょりと汗が浮いている。

「……熱、ございますわね。かなりの」

「……大したことは、ない。ただの、寝不足だ……」

「ございます。私を欺けると思わないでくださいまし」

私は1秒の迷いもなく即答した。

「その顔色で“大したことはない”など、全大陸――いえ、全社的に通りませんわ。すぐ立ち上がれますか?」

「……次の、会議が……」

「却下です。今すぐ中止の手配をいたします」

「藤咲……」

「何ですの」

「……今日は、妙に強引だな……」

「看過できない重大な『バグ』が発生しておりますので。緊急メンテナンスが必要ですわ」

彼がわずかに眉を寄せ、苦しげに視線を落とす。

その、普段は見せない「弱った推し」の仕草だけで、私の胸の奥がキュン……と、いえ、ギュゥゥッ……と締め付けられるように痛む。

ああもう。

前世のクライス様は、あんなに完全無敵の騎士様だったのに。

誰より強くて、誰より頼りになって、ただそこに立っているだけで世界が救われると思わせてくださる方だったのに。

今世のあなたは。

こうして、過労で熱を出してふらつく、ただの人間(男)なのだ。

当然のことだ。神様ではないのだから。

分かっている。頭では分かっているのだけれど。

あまりにも、守ってあげたくて、切なすぎて、涙が出そうですわ。

「すぐに、お抱えの――いえ、近所の優秀な医者を呼びます」

「……いらん。寝れば、治る……」

「却下です。秘書への口答えも却下です」

「……」

「病院が嫌なら、まずは私の言う通りに体温を測ってくださいまし。いいですね?」

「……仕事が……」

「命より大事な仕事など、この藤咲瑠衣が認めませんわ!」

「……」

「社長!」

私はできるだけ静かに、けれど、魔王を討伐する時のような一歩も引かない強い瞳で言い切った。

「あなたが倒れて消えてしまったら、私の老後計画――いえ、この会社の未来が崩壊します。休むのも、CEOとしての重大な『業務』ですわ!」

その勢いに圧されたのか、九条CEOは、しばし呆然と私を見つめ、小さく黙り込んだ。

やがて、諦めたように長く熱い息を吐く。

「……分かった。俺の、負けだ……」

「ありがとうございます。賢明なご判断ですわ」

「……ただし」

「はい」

「大げさに触れ回るな。……みっともないからな……」

「善処いたします」

「……1ミリも信用できない目をしてるな、お前は……」

「お察しが良くて、大変よろしいですわ」

◇ ◇ ◇

秘書特権で強引に測らせた検温結果は、三十八度七分だった。

「大したこと、ありまくりですわよ! 救急車レベルですわ!」

私は液晶画面を見て、思わず絶叫した。

「……藤咲、うるさい……頭に響く……」

「失礼いたしました! ですが、看過できません!」

「だから、騒ぐなと……」

「無理です! 推しのピンチに黙っていられるオタクがどこにいますか!」

「……? おたく……?」

「ああ、いえ、秘書として当然の反応ですわ」

私は即座にチーフと連携し、その日の社長の全スケジュールを光の速さで再調整した。

投資家面談はWEB会議へ切り替え。

来客二件は「急用」として延期。

役員ブリーフィングは、私が作成した完璧な要約資料を共有し、決裁のみチャットで済ませるよう圧縮。

広報には“社長、急な体調不良につき本日は大事を取ってリモート対応”で公式回答を統一。

現代日本の企業組織、ありがたいですわね。

あの地獄の異世界領地経営に比べれば、「高熱のトップを物理的に休ませる」ためのハードルが天国のように低いですわ。

「自宅までお送りします」

私は上着を彼に羽織らせ、きっぱりと言った。

「……一人で、タクシーで帰れる」

「却下です」

「タクシーの運転手に、住所を言えば済む話だ……」

「そのタクシーのドアを開け、意識の朦朧とした社長を誰が安全に乗せると思っていらっしゃるのですか? 泥棒猫に連れ去られたらどうしますの」

「……」

「はい、論破です。私の勝ちですわ」

「……何も言ってないが、勝てる気がしないな……」

「言わずとも、あなたの心境は手に取るように分かりますのよ」

結局、私は内密に彼のご自宅住所を確認し、九条CEOの肩を支えて車寄せまで付き添い、無理やりタクシーへ押し込む――いえ、優雅にエスコートしてお乗せした。

だが。

私の「看病ミッション」は、ここで終わるはずもなかった。

「藤咲さん」

チーフが小声で私に囁いた。

「はい」

「社長、都心のタワマンで『一人暮らし』なのよね」

「ええ、存じております」

「熱は三十八度台後半。これから上がる可能性もある」

「ええ」

「……たぶん、あの性格だと冷蔵庫の中、ミネラルウォーター以外何も入ってないわよ」

「…………」

「……」

「……チーフ」

「……何?」

「行ってまいります。食材と、愛を買い出しに」

「……仕事として行って。お大事にね」

◇ ◇ ◇

九条CEOの自宅は、港区の一等地にそびえる高層マンションの最上階付近だった。

立地、強固なセキュリティ、無機質でモダンな内装。

すべてが“孤高の氷のCEO・九条柊介”という人間を、完璧に体現している。

上質で、無駄がなく、静かで、冷たく、他人を寄せつけない『城』。

でも、その完璧すぎる部屋の静寂が、今日は妙に、私の胸に深く刺さった。

こんなにも冷たい部屋に、一人きりで。

あんな高熱で。

戦いの後、誰にも頼らずに、ただ静かに死を待つように帰ってきたのだと思うと……。

「失礼いたします……!」

私は、車内で託された予備のカードキーで、震える手で室内へ入った。

九条CEOは、リビングの広いイタリア製ソファへ、力なく浅く腰かけた。

重いネクタイは投げ捨てられ、シャツの第一ボタンも乱暴に開いている。

普段は絶対に社員に見せない、その「弱り果てて乱れた推しの姿」に、私の心拍数がまた別の方向(煩悩)で忙しくなる。

……いけませんわね。

今は、そんな神供給を摂取して鼻血を出している場合ではありませんのに。

「水分補給は、どうされていますの?」

「……キッチンに、水がある……」

「スポーツドリンクは? 経口補水液は?」

「……ない」

「でしょうね! 100点満点の回答ですわ!」

「……何がだ……」

「私の想定どおりで、安心しただけですわ」

私は主婦の目でキッチンと冷蔵庫を速攻でチェックした。

冷蔵庫の中身は、予想通りというべきか、もはや悲劇のレベルで寂しいものだった。

数本のミネラルウォーター。

気取りすぎた炭酸水。

いつ買ったか不明なコンビニのサラダチキン。

不自然に上質な、カピカピのチーズ。

以上。

「…………」

私は真顔で、冷蔵庫の扉をパタンと閉じた。

「だめですわ。これは文明人の、ましてや病人が暮らす冷蔵庫ではございません」

「……別に、病人では……」

「いいえ、本日からあなたは公式に『私の病人』ですわ。逃げられませんわよ」

「……今日限定か……?」

「あなたが完全に私無しでは生きられない体になるまで――いえ、回復するまで継続ですわ」

私は近所のスーパーとドラッグストアへ猛ダッシュし、看病に必要な神器をすべて買い揃えた。

強力な解熱剤。スポーツドリンク。ゼリー飲料。

パックご飯、新鮮な卵、栄養満点のネギ。

そして、冷却シートに、加湿器用の精製水。

さらに、念のため、彼の魂が欲するであろう私の特製ブレンド用の紅茶の茶葉も。

部屋に戻ると、九条CEOはソファでぐったりと目を閉じていた。

眠っているわけではない。けれど、意識の輪郭が熱で溶け出している。

「社長……お粥を作りましたわ。」

「……」

「召し上がれますか?」

「……あぁ、任せる……。すまない……」

「承知いたしましたわ!」

ああ。

その、掠れた声での“任せる”の、破壊力たるや。

普段、一から十まで完璧に自分一人で決断し、世界を相手に戦っている誇り高い方が。

熱のせいで少しだけ毒気が抜けて、私へ全幅の信頼を寄せるように身を委ねてくる。

心臓へ、悪くないはずがありませんでしょう。

◇ ◇ ◇

看病というものは、不思議な儀式ですわね。

やるべきことは、泥臭く、非常に多い。

数時間おきの体温確認。

脱水症状を防ぐための水分。

栄養を摂らせるための食事の介助。

タイミングを見計らった薬。

寝具の調整。

室温と湿度の徹底管理。

汗をかいた後の、本人には刺激が強すぎる『お着替え』のサポート。

でも、そういう献身的な一つひとつを整えるたびに、私の中には、かつてないほど熱く濃い感情がふくらんでいく。

切なさ。

愛おしさ。

守ってあげたいという、本能的な渇望。

そして、細胞が覚えている、言いようのない『懐かしさ』。

前世のクライス様は、本当に、この世の誰よりも強かった。

不敗の氷の騎士。辺境領の絶対的な守護神。

誰より静かで、誰より頼りになって、その背中が倒れる姿など、想像することすら不敬だと思っていた。

でも。

あの人だって、同じ人間だったのだ。

疲れもしたし、独りで眠りもしたし、私の知らないところで、誰にも見せずに無理を重ねていた夜もあったのだろう。

今世の、熱にうなされる九条柊介を見ていると。

その隠された「人間味」を、ひどく、暴力的なほどに思い知らされる。

「……熱、まだ上がっておりますわね」

私は、おでこに触れた非接触体温計の表示を見て、そっと悲しげに眉を寄せた。

三十九度一分。

今が、峠かもしれませんわね。

「社長、お薬を飲んでくださいまし。はい、あーん、ですわ」

「……」

「いいですね?」

「……藤咲。子ども相手みたいに、バカにするな……」

「病人相手ですわ。それとも、私が口移しでお飲ませした方がよろしいかしら?」

「……ッ、……飲む……」

「はい、大変えらいですわ。はなまるですわね」

九条CEOは、屈辱そうに顔を赤くしつつ(熱のせいか、私の発言のせいかは不明)、きちんと私の差し出した薬を飲み干した。

えらい。

推しが、薬をちゃんと飲めて大変えらすぎますわ。

そう思った瞬間、内心で自分の親バカならぬ『嫁バカ』っぷりに頭を抱える。

いけませんわ。

看病という神聖な状況でまで、“推しが薬を飲めて尊い”などとオタクの脳内実況をしている場合ではありませんのに。

だが、仕方ないのです。

だって、推しは何をしても、どんな無様な姿を晒しても、宇宙で一番の推しなのだから。

「藤咲」

「はい、ここに」

「なぜ……」

「何でしょう」

「……なぜ、まだ、いるんだ」

「看病のためですわ」

「もういい……仕事に戻れ。一人で、大丈夫だ……」

「却下です。1秒で却下ですわ」

「……」

「お熱が下がり、あなたが私に冷たい皮肉の一つでも言えるようになるまで、私はテコでもここを動きませんわよ」

「……秘書の、仕事の範疇を……超えているだろう……」

「そうでしょうか?」

私は、冷たい水で濡らしたタオルを優しく絞りながら、微笑んで答える。

「社長が明日以降、最高効率で正常稼働するための『メンテナンス・環境調整』と考えれば、これは正当な専属秘書の業務範囲内ですわ。異論は認めません」

「……」

「それに……」

「……?」

「……個人的に。あなたが苦しんでいると、私の心臓が、仕事にならないくらい心配ですの」

ポソリと言ってから、少しだけ、部屋の空気が止まった。

あら。

今のは少々、オタクの仮面が剥がれて、素直な本音が出すぎましたかしら。

九条CEOは、ソファに身体を預けたまま、しばらく何も言わなかった。

熱のせいで潤んだ、真っ赤な目元が、少しだけ驚いたようにこちらへ向く。

「……そう、か……」

低く、かすれた、震えるような声。

でも、その言葉が、前世のあの夜のように妙にやわらかく響いて、私は一瞬だけ呼吸を忘れて言葉を失った。

◇ ◇ ◇

夜も深く更けた頃。

ようやく薬が効き、熱が少しだけ下がり始めたのを確認して、九条CEOを寝室のベッドへ移した。

私はリビングで後片づけをし、明朝、目覚めた時のための水と薬を枕元へ置く。

静かな、高級マンションの一室。

冷蔵庫の低い唸りと、加湿器の微かな水の作動音だけが、夜の静寂を埋めている。

すべてを終えて、私はそっと、寝室の扉を数センチだけ開けた。

「……」

眠っている。

九条CEOは、少しだけ苦しそうな、けれど深く、確かに眠っていた。

彫刻のように整った顔立ち。

枕に乱れた、艶やかな黒髪。

熱で少しだけ上気した、あどけなさを残す頬。

そして、固く閉じられた、美しい目元。

ああ。

本当に、本当に。

「前世では」

私は、彼のベッド脇へそっと腰を下ろし、消え入りそうなほど小さな声で呟く。

「あんなに、私にとって絶対無敵の騎士様でしたのに……」

もちろん、前世でも彼は神様ではなかった。

でも、私の中のクライス様は、いつだって凛として強く、揺るがなくて、私と家族を背中で守る側の人だった。

それが今世では、こうして孤独な部屋で、熱に浮かされて苦しんでいる。

その無防備な姿が、どうしようもなく切なくて。

同時に、私の手でしか守れないのだという事実が、狂おしいほどに愛おしかった。

私は、吸い寄せられるように、そっと震える手を伸ばした。

汗で張り付いた前髪へ、触れそうになる。

そこで、理性という名の防壁で、一度だけ止まる。

いけない。

これは、秘書として、そして一人の女性として、完全に越境行為だ。

分かっている。

分かっているのだけれど。

でも今、この愛おしい寝顔を目の前にして。

何も残さずに去れるほど、私は『ただの秘書』ではいられなかった。

「……少しだけ、ご褒美をいただきますわね」

誰に向けた言い訳かも分からないまま、私は熱い吐息を漏らして小さく呟く。

そして。

本当に、蝶の羽が触れるよりも、もっと、もっとそっと。

彼の、熱を帯びた前髪の隙間へ、優しくキスを落とした。

「ッ……」

唇が触れたのは、ほんの一瞬。

でも、私の胸の奥が、ぎゅうぅぅ……と、焼け付くように痛く、熱くなる。

ああ。

だめですわね。

本当に、私は。

こんな卑怯なこと。前世でも、今世でも。

あなたが私の最推しである限り、私の『愛の重さ』に抗えるはずがないのですわ。

どうか、早く元気になってくださいまし。

ちゃんと、いつものように、冷たくて、不愛想で、静かで、でも私を誰より信頼してくださる、あのやさしいお顔へ戻ってください。

私は、熱で少しだけ乱れたその前髪を、指先で愛おしそうにそっと整えた。

その、瞬間だった。

「……ルシア……」

「ッ!?!?(心臓停止)」

心臓が、口から飛び出して爆散するかと思った。

私は、文字通り飛び上がりそうになりながら、ベッドの上の彼を見た。

だが、九条CEOの目は、固く閉じたままだ。

規則正しい寝息。

……眠っている。

……多分、完全に。

「…………」

「…………」

私は、数分間、暗闇の中で石像のように完全に固まった。

今のは、ただの無意識の寝言だったのか。

それとも、あのキスに反応して、魂の底から漏れた言葉だったのか。

分からない。

分からないけれど、私の顔が、彼の発熱以上の温度で一気に真っ赤に沸騰する。

ああもう!

本当に!

看病という名の公式供給、最後の最後に爆弾(寝言)を仕込んでくるとは、火力が致死量を超えて高すぎますわよ!!

私は両手で茹で上がった顔を覆い、しばらくその場で、尊死を堪えてうずくまり続けた。

でも、私の指先には。

さっき、前髪越しに触れた彼のあたたかい温度が、まだ静かに、幸せな重みを持って残っていた。

――前世では無敵に見えた推しも、今世では同じように熱を出す。

――それでも私は、やはりこの人を、看病しながら何度でも好きになってしまうのですわね。