軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第100話 無意識の好みにジャストフィット。完璧すぎる秘書の誕生

グローバル企業『クライス・ホールディングス』のトップに君臨する、九条CEOの執務室は、一見すると非の打ち所がなく完璧だった。

――あくまで、一般的な『初見』では、である。

黒とグレーを基調にした、冷たくも知的な内装。

東京の景色を一望できる大きな窓。

無駄のない計算された高級家具の配置。

広いデスク上には、余計な書類や私物が一つもない。

隅々まで整っていて、静かで、上質。

いかにも、“誰も寄せ付けない若きカリスマCEOの城”という威圧感に満ちている。

だが。

「……60点。惜しいですわね」

私は、入社して数日目の朝一番で、社長執務室へ提出資料を持ち込みながら、オタクの厳しい目で室内を観察して内心でそっと呟いた。

惜しい。

実に惜しい。素人の仕事ですわ。

一見すると完璧に見える。

見えるのだけれど、前世でこの人のすべてを管理していた『妻』の私には、1秒で分かる。

この空間は、“一般的に優秀な業者が考えた『経営者向けの快適さ』”であって、“九条柊介――つまり私の愛するクライス様にとっての『完全な最適解』”では決してないのだ。

例えば、室温の空調設定。

今の設定温度は、スーツを着る男性に合わせて少しだけ低い。

一般的な執務環境としては悪くない。

だが、クライス様は前世でも、頭を冷やすためにやや低めの空気の中に身を置きたがるくせに、実は『指先だけは冷えやすい(剣の動きが鈍る)』という隠れた体質があった。

つまり、部屋の全体温度は低めでも、デスクの『手元(風向き)』だけは絶対に冷やしすぎてはいけないのだ。

さらに、湿度のパーセンテージ。

書類を読む時の、照明の微妙な角度。

長時間のデスクワークに耐える、椅子の高さと反発力。

サインをする万年筆の重心と重さ。

そして何より、神経を使う重い会議の前に口へする『飲み物の種類と温度』。

全部。

全部、全部。

私には、手に取るように完璧に分かる。

だって、前世で何十年も、一番近くで愛して見てきたのだ。

この人が、どんな環境の時に一番仕事(討伐)へ集中できて、どんな些細なストレスの時にほんの少しだけ不機嫌に眉を寄せるのかを。

「藤咲さん?」

隣から、秘書課の先輩が小声で呼ぶ。

「はい。何でしょう」

「何か、社長室の前でブツブツ言いながら、すごい怖い顔(狩人の目)してるけど」

「失礼ですわね」

私は即座に、完璧な秘書の営業スマイルへ戻した。

「社長の執務環境の『完全な最適化』を、少し真剣に考えていただけです」

「最適化」

「ええ」

「なんか、その執念が怖いんだけど。社長を狙うスナイパーみたい」

「そうでしょうか」

「そうです」

ええ。

でも、スナイパー以上にピンポイントで狙い撃ちする気満々の本音なのだ。

これはもう、会社から給料をもらってやる単なる秘書仕事ではない。

――私の人生を懸けた『推しの執務環境・ 超最適化(プロデュース) プロジェクト』。

現代日本に生まれ変わって、しかも厳しい選考を突破して合法的に専属秘書の特等席になれたのだから。

この職権乱用の特権を最大限に活かして、推しを快適に甘やかさない理由が、この世のどこにありませんこと?

◇ ◇ ◇

私がまず最初に着手したのは、最もダイレクトに推しの胃袋とメンタルを左右する『飲み物』だった。

現代日本において、一般的に、若くて多忙で有能なIT企業のCEOというのは、「ブラックコーヒー」をカフェイン中毒のように飲んでいそうである。

実際、九条CEOのデスク脇のサイドテーブルにも、洗練された見た目の良い最高級のコーヒーマシンがデデンと置かれていた。

だが、私は知っている。

この人は、無意識の魂のレベルでは、絶対に『紅茶派』だ。

しかも、ティーバッグの適当な紅茶なら何でもいいわけではない。

渋みの強すぎるものは、仕事の邪魔になるから好まない。

香りだけが華やかな、軽すぎるフレーバーティーも違う。

そして、温度も極めて重要だ。

熱すぎると、冷めるのを待つために仕事へ戻るまでの間に微妙な『待ちの 時間(ロス) 』が生まれてイライラする。

逆に、ぬるいのは論外。

つまり、“少し深めに抽出した上で、香りが立つギリギリの『すぐ飲める適温』”が、この人にとっての唯一の正解である。

「……」

私は給湯スペースで、取り寄せた大量の高級茶葉のサンプルを前に、真剣な顔で腕を組んだ。

「ふ、藤咲さん」

先輩秘書が、私の異様なオーラに気づいて通りがかる。

「何してるの。なんか給湯室が実験室みたいになってるけど」

「戦いです」

「何と!?」

「茶葉の香りと渋みの、黄金バランスと」

「……やっぱり聞かなきゃよかった」

会社の備品庫には、それなりに高い値段の茶葉があった。

ただし、それを選定したのは多分、一般論で“とりあえず高くて有名そうだから”という理由だろう。

違う。

そこではない。素人仕事だ。

推しに必要なのは、値段の高級感ではなく『圧倒的な適性(解釈一致)』だ。

私は数十種類の中から三種類の茶葉を厳選し、ストップウォッチで抽出時間を1秒単位で変え、湯温を1度単位で変え、香りと味の立ち方を徹底的にメモした。

「……これですわね」

最終的に、完璧な黄金比の一杯へ絞る。

深みのある落ち着いた香り。

渋みは極限まで控えめ。

けれど、飲んだ後の後味はキリッと爽やかに残る。

重い仕事中でも絶対に思考の邪魔にならないのに、ちゃんと気分をリフレッシュして切り替えられる、魔法のような一杯の紅茶。

前世で。

魔王討伐の準備でピリピリしていた夜更けの執務室へ、私がそっと差し入れた時。クライス様が何も言わずに、フッと息を吐いて最後まで飲み切ってくださった、あの懐かしい系統に一番近い味。

「藤咲さん」

今度は、秘書課のチーフが怪しんで来た。

「はい」

「給湯室で何をやってるの? コーヒーの匂いがしないけど」

「社長用の、午後の会議前の飲み物選定です」

「コーヒーじゃなくて?」

「ええ」

私はキッパリと、自信満々に言った。

「社長は、たぶんコーヒーより『紅茶』の方が、パフォーマンス向上の体質に向いております」

チーフが、私の独断に少しだけ不快そうに眉を上げる。

「社長は、毎日コーヒー派よ? 入社以来ずっとそうよ」

「いえ」

私は首を横へ振った。

「カフェインを摂取するために、ただ“飲んでいる(作業している)”だけです」

「……」

「本心から“好んでいる”とは限りません。胃に負担がかかっています」

「……」

「多分、ご自身にとっての『真の最適解』を、まだ知らないだけですわ」

「藤咲さん」

「はい」

「初日から有能なのは認めるけど、ずいぶん自信満々ね」

「プロの秘書の仕事ですので」

「……」

「それに」

私は真顔で続けた。

「社長の生産性を上げるためなら、一度、私の紅茶を試す価値は絶対にございます」

チーフは、私のブレない真っ直ぐな目を見て、しばらく黙った。

それから、根負けしたように小さく息を吐く。

「……一回だけよ」

「ありがとうございます」

「社長が一口飲んで気に入らなかったら、すぐにいつものコーヒーに戻すこと。いいね」

「承知しております。その時は私が腹を切ります」

「切らなくていいわよ! あと」

「はい」

「何で入社数日のあなたが、社長の好みをそこまで断言できるのかは、私にはまだ全く理解できない」

「女の勘です」

「絶対それだけじゃないでしょ」

「優秀な秘書の、企業秘密です」

「……何なの、本当に」

呆れられましたが、最高の光栄ですわね。

◇ ◇ ◇

次に着手したのは、執務室の空調温度と、細かな『生活導線』だった。

これもまた、一般的にはとても綺麗に整っている。

だが、九条CEOの体感としては、微妙にノイズ(ストレス)があるはずだ。

前世のクライス様は、雪山での野営も平気なくらい寒さには強かった。

けれど、長時間の書類仕事や会議の後は、右肩と剣を握る指先が固まりやすい。

今世の九条CEOも、ぱっと見は姿勢が良くて完璧でも、実際にはパソコンに向かうデスクワークの比重がかなり高い。

しかも、現代日本のオフィスのシステム空調は全体が均一すぎて、本人の微妙な身体の好みが完全に埋もれやすい。

私はまず、社長不在の隙に、社内の空調設定と社長室の席位置ごとの『風の流れ(気流)』を徹底的に確認した。

執務室内の冷風の当たり方。

時間帯による窓際の日射の角度。

加湿器の蒸気の届く位置。

椅子に座ってモニターを見た時の、光の反射の入り方。

「……」

私は社長室の図面データを見ながら、ブツブツと呟く。

「やはり、右肩側から手元にかけて、微妙に冷たい風が落ちて冷えますわね」

「……何の話?」

隣の先輩秘書が、もう私の奇行を止めるのを諦めた顔で聞いてくる。

「社長の着席位置から見て、こちら側の空調の風が、直接身体に当たりすぎです。0.5度上げます」

「分かるの? 気温差なんて」

「分かります。肌で」

「何で?」

「風の精霊の声が聞こえますので」

「いや、意味わかんないけど」

私は、さらにデスク上のアイテムの配置も少しだけ変えた。

あくまで“掃除して片づけた結果、自然とそうなった”と見せかける程度に、ミリ単位で。

高級なペン立ての位置。

決裁印の置き方。

タブレットスタンドの画面の角度。

彼が椅子に座ったまま手を伸ばした時に、最も無駄がなく、筋肉に負担がかからない最短の『完璧な導線』へ寄せていく。

前世でも、この方は“散らかった部屋を嫌う”のではない。

“必要なものへ、無駄なく一手で届かない状況(非合理)”を一番嫌うのだ。

そして私は、妻としてそのミリ単位の正解を、世界で一番よく知っている。

「……よし」

私は、整えられたデスクを見て小さく頷いた。

完璧、ではない。現代の規格の限界がある。

でも、“一般的に整っただけの冷たい社長室”から、“九条CEO専用に完全カスタマイズ(最適化)された、居心地の良い社長室”へ、間違いなく近づいたはずだ。

◇ ◇ ◇

勝負の時は、その日の午後に来た。

九条CEOは、長時間の重い役員会議を終えて、少し疲れた様子で執務室へ戻ってきた。

美しく整った眉間へ、わずかに疲労の皺が寄っている。

でも、威風堂々とした姿勢は崩れない。

歩き方も乱れない。

ああ。

本当に、こういう人前で絶対に弱みを見せない不器用なところは、前世から何も変わっていませんのね。愛おしいですわ。

「社長」

私は静かに、完璧なタイミングで一礼する。

「お戻りのタイミングで失礼いたします。お疲れ様でした」

「何だ」

低い声。少し苛立っている。

その不機嫌な声すら、やはり私の耳には極上のご褒美で心地よろしいですわね。

「お飲み物を」

「いつものコーヒーで頼む」

「本日は、特製の紅茶をご用意しております」

「……」

沈黙。

ああ。

はい。

今、少しだけ“何で新人の秘書が、俺の指示を無視して決め打ちしてる?”という、冷たく鋭い目をなさいましたね。

でも、引きませんわよ。私はあなたの健康(胃袋)を守る妻ですもの。

「本日は重い会議が長時間続いておられますので」

私は、一切怯まずに落ち着いて言う。

「これ以上カフェインを重ねるより、胃への負担が少なく、かつ集中の切り替えに向いた茶葉をブレンドして選びました」

「……」

「お口に合わずご不要でしたら、すぐにいつものコーヒーを淹れ直して下げます」

九条CEOは、黙ってジッと私を見た。

その氷のような目は、やはり恐ろしいほど鋭い。

単なる秘書らしい気遣いだけで済ませるには、自分のパーソナルスペースに少し踏み込みすぎだと警戒しているのだろう。

当然だ。

入社して数日の初対面に近い新米秘書が、自分の長年の飲み物の好みを“完全に分かった風に”変えて出してきたのだから。

だが、その値踏みするような沈黙のあと。

彼は短く言った。

「……置いていけ」

「承知いたしました」

私は、計算し尽くした適温のティーカップを、デスクの右手側――ただし、彼が今読んでいる書類の視界の邪魔にならず、それでいて自然に右手を伸ばせる『完璧な位置』へ音もなく置いた。

この置く角度も大事だ。

正面だと、微妙に書類の視界を切る。

左だと、利き手側の動線がクロスしてブレる。

右斜め前、少しだけ外側。

ここが、彼にとっての完全な正解。

「……」

九条CEOが、怪訝そうにカップへ手を伸ばす。

そして、一口、ゆっくりと飲む。

その瞬間。

本当に、ほんの一瞬だけ。

彼の氷のように張り詰めていた目元の硬さが、フッ……と解けてやわらいだ。

「…………」

ああ。

はい。

完全に勝ちましたわね。私の特製ブレンドの圧勝ですわ。

もちろん、表情としては傍目にはほとんど変わっていない。

でも、私にはハッキリと分かる。

前世で何百、何千回と見てきた、“心底気に入って安堵した時の、あの小さな緩み”だ。

「……どうして」

九条CEOが、カップをコトリと置きながら、驚いたように言った。

「はい」

「この茶葉と、この絶妙な温度を選んだ。俺は誰にも好みを言った覚えはないが」

「長い会議の後でしたので」

私は静かに、有能な秘書の顔で答える。

「強すぎるコーヒーの苦味より、この香りで気分を切り替えられる方が、社長のパフォーマンス向上に適切かと判断しました」

「……」

「また、これからの長時間の書類仕事の集中前に、冷めても味が落ちない抽出方法にしております」

「……」

「もしご不要であれば、次回からはすぐに」

「いや」

九条CEOは、私の言葉を短く遮った。

「これでいい」

「ッ……!」

ああもう。

限界オタクには無理ですわね。

“これでいい”。

ただそれだけなのに。

私の最愛の推しが、私の差し出したものを、何の疑いもなく“これでいい(これが最高だ)”と全肯定して認めてくださる、この圧倒的な幸福たるや。

現代日本の秘書という福利厚生、本当にどうなっておりますの。尊死しますわ。

「ありがとうございます」

私は完璧な秘書の顔で、深く一礼した。

でも、内心では両手を掲げてスタンディングオベーション再来である。

◇ ◇ ◇

その日を境に、私は誰にもバレないように少しずつ“九条CEO専用の超最適化”を社内で推し進めた。

朝、彼が出社する三十分前に、空調の風向きと温度を一段階だけ調整する。

デスクの書類は、ただ時系列に積むのではなく、彼の『判断負荷の軽い順』へ並べ替える。

重要な会議前の飲み物は、私の淹れた特製紅茶。

長い打ち合わせの後は、喉を潤す冷たすぎない甘くない炭酸水。

昼食後、十五分だけ日射が強く入る時間帯には、自動ブラインドの角度をミリ単位で変える。

そして。

誰にも言わず、しかし確実に、九条CEOの執務室は“彼にとって、この世で最もストレスなく仕事しやすい、実家のような空間”へと劇的に変わっていった。

彼自身の変化も、明確だった。

重い会議後の、眉間の深い皺が少し減る。

資料へ手を伸ばす時の無駄な動きがなくなり、決裁が速くなる。

無言で不機嫌に戻される、部署への差し戻し案件が減る。

そして何より、私が執務室へ入った時の彼の纏う空気が、昔のように少しだけ『無防備に和らぐ』。

秘書課の面々も、さすがにその異変に気づき始めていた。

「ねえ」

先輩秘書が、小声で私に耳打ちする。

「藤咲さん」

「何でしょう」

「最近、うちの氷の社長の機嫌、なんかものすごく安定してない?」

「そうでしょうか」

「いや、前より絶対いい。この前なんて、私のミスを怒らずに指摘してくれたのよ! 明日雪が降るわ!」

「それは何よりです」

「あなた、社長室で一体何をしたの?」

「最適化です」

「またその怖い言葉!」

「でも事実ですわ」

チーフが、後ろから決済書類を抱えたまま言った。

「実際」

「……」

「最近の社長室、前より空気が澄んでて、すごく居心地がいいのよね」

「まあ」

「インテリアは変えてないのに、何を変えたの?」

「少々」

私は扇を広げるように、口元を隠して微笑んだ。

「ほんの少々、空気を整えただけです」

「少々で、あんなに人間の空気まで変わる?」

「変わりますわ。環境は人を作りますから」

「……だから、何であなたに社長の好みの正解が分かるのよ」

ええ。

そこですわよね。

でも、言えるはずがない。

『前世で私が妻として管理していた夫でしたので、無意識の身体の好みが細胞レベルで全部分かります』などと。

「女の勘です」

私はニコヤカに、営業スマイルで答えた。

「藤咲さん」

チーフが真顔になる。

「あなたのその“勘”」

「はい」

「もはや、エスパーかストーカーみたいで怖い」

「最高の光栄ですわ」

◇ ◇ ◇

そして、決定的な問題は起きた。

というより。

これだけ過保護に世話を焼いていれば、有能な彼なら起きるべくして起きた 疑問(フラグ) なのだろう。

ある日の夕方。

分刻みの会議続きだった九条CEOが、静かな執務室で一人、私の整理した資料へ目を通していた時のことだ。

私は次の打ち合わせ用のファイルを持って入室し、邪魔にならないようデスク脇へ控える。

すると、九条CEOが、ふと書類をめくる手を止めた。

「藤咲」

「はい」

「一つ、聞く」

「何でしょう」

彼は、万年筆をコトリと置いた。

ひどく静かな動作だった。

でも、その向けられた目は、完全に“私の本質を確信を持って確認しに来ている目”だった。

「なぜ」

「……」

「君は、俺自身すら気づいていないような『俺の無意識の好み』を、そこまで完璧に知っているんだ?」

「…………」

来ましたわね。

ついに。

ついに来ましたわね、この核心を突く鋭い問い。

空調の温度。

紅茶のタイミング。

資料の配置。

照明の角度。

疲労に合わせた時間配分。

全部が、ただの優秀な秘書の『偶然』や『一般論』では片づけにくい、異常な領域まで来ていたのだろう。

当然だ。

私は、彼の無意識の好みにジャストフィットするよう、限界オタクの愛の全力を注いで、かなり本気で環境を整えてきたのだから。

でも、ここで「前世の妻だからです」と狼狽えてはだめだ。

私は、ほんの一呼吸置いて、穏やかに、プロの秘書として答えた。

「『観察』です」

「……観察、だと?」

「社長の毎日の動線、視線の反応、会議後の疲労傾向、飲み物の減り方、資料へ手を伸ばす時の筋肉の動き」

「……」

「それらをすべて見て、私の中で仮説を立て、試し、社長の身体に一番合うものだけを残しました」

「……」

「社長秘書の、当然の仕事ですので」

九条CEOは、黙ってジッと私を見ていた。

その沈黙が、妙に長い。

ああもう。

やめてくださいまし。

そうやって前世と同じ顔でジッと見つめられると、別の意味で動揺してボロが出そうになりますのに。

「初対面で」

彼が低く、探るように言った。

「たった数日で、そこまでする秘書は珍しい」

「そうでしょうか」

「極めて珍しい。異常だ」

「……」

「普通の秘書は、言われたことを完璧にこなす」

「……」

「だが君は、俺が不満を言語化して言う前に、すでにすべてを完璧に整えてくる」

「私が必要だと思いましたので」

「なぜ、そこまで俺のためにそう思う」

「……」

だって。

言われる前に先回りしてすべてを整えるのが、推しに仕える『側仕えの矜持』ですもの。

前世でも、私はずっとそうしてきた。

私の大好きなクライス様が、何を欲し、何を省き、何を心地よく思うのか。

それを、不器用なあの人が口にされる前にスッと差し出せた時が、オタクとして一番嬉しくて幸せだったのだ。

「社長が」

私は、少しだけ秘書の仮面を外し、声をやわらげた。

「本来持っている素晴らしい能力を、少しの無駄もなく、一番快適に発揮できる方がよいと思っただけです」

「……」

「私が環境を整えることで、社長の負担が減り、それが少しでも可能になるなら」

「……」

「私にとって、そうする価値は十分にあります」

また、重い沈黙。

九条CEOの氷のような目が、ほんの少しだけ、大きく揺れた。

「……君は」

彼は低く、しかし少しだけ、自分の記憶を探るように不思議そうに言った。

「まるで、何十年も昔から、ずっと俺の隣にいて『俺のすべてを知っている』みたいだな」

「ッ……」

私の心臓が、大きく跳ねた。

その彼の一言は。

あまりにも。

あまりにも核心に近くて、危険だった。

私は、泣きそうになる表情を崩さないよう全力を尽くしながら、静かに答えた。

「もし社長にそう見えているなら」

「……」

「専属秘書としては、最高の成功ですわ」

九条CEOは、私を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

やがて、ほんの少しだけ、閉ざしていた口元を緩める。

それは、私だけが知っている『気を許した笑み』に近い。

でも、ごく微かで、油断すれば見逃す程度のやわらかな変化。

「……そうか」

「はい」

「なら」

彼は再び資料へ視線を落とし、ペンを取った。

「引き続き、君の手腕に期待している。俺を支えろ」

「承知いたしました」

私は深く一礼して、執務室を辞した。

重厚な扉が閉まった瞬間、廊下でようやく、バクバク鳴る胸元を押さえる。

「……ッ、危なかったですわね……!」

危なかった。

本当に、色々な意味(オタクの感情の決壊)で危なかった。

でも同時に、ハッキリと分かったこともある。

九条CEOは、まだ前世の記憶こそない。

けれど。

彼の魂の深いところで、何かが引っかかっている。

私の気配。

空間の整え方。

紅茶の差し出し方。

その全部のどこかに、“見覚えのない、でも絶対に手放したくない懐かしさ(居心地の良さ)”みたいなものを、無意識に感じ始めているのだ。

ああ。

ええ。

でしたら、攻略まではもう少しですわね。

今世でも。

あなたのすべてを誰より愛し、理解する『完璧な秘書』として。

私はちゃんと、誰にも譲らずに、あなたの隣へ立ってみせますわ。