軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第05話 手を握ってあげてください

無言の朝食に、無言の見送り。それを一か月ほど繰り返して、ある朝、出立前にアルヴェンダール様が、次のように言った。

「魔獣の掃討に行く。しばらく帰らん」

魔獣の掃討、特に王都の防壁周辺で行われるものは、国としても重要事業の一つだ。

国民の安全は、騎士団のこうした活動によって守られている。

でもその予定を聞いていなかったのか、マイラさんは卒倒しそうになっていた。

「いってらっしゃいませ、アルヴェンダール様」

「い、いってらっしゃいませ、坊ちゃま。どうか! どうか! どうかご無事で!」

そのときの私は、長年アルヴェンダール様の使用人を務めるマイラさんが、ここまで焦燥し、乞うようだった理由を、まったく理解できていなかった。

一週間後、帰ってきたのは、旦那様ではなく、騎士団本部より派遣された伝令係だった。

「ロウデン師団長が危険な状態です。すぐに王都病院の特別棟までお越しください」

***

マイラさんと二人で、早馬車を飛ばして王都病院の特別棟へ向かった。

時刻はすでに夕方。向かった方向は王都の中でも開けた丘の隣、敢えて街と距離を置かんとしているかのような場所だった。

そこで私は、初めて、アルヴェンダール様の正体というものを見た。

彼は病院のベッドで心拍計に繋がれ、うなされていた。それだけならまだわかる。怪我人や病人はそうだ。

でも、そのベッドは、太い鉄格子で、長方形の箱のように覆われていて。

アルヴェンダール様はその格子を、片手で握りしめ、叩いている。

絶句した私の肩をマイラさんが強く抱きしめてくれた。ほどなくして額に汗を流した主治医の先生がやってきた。

「主治医のオーレムです。マイラさん、お久しぶりです」

「はい。……また、こんなことになるとは」

「そちらの女性は? すみません、今バタバタしておりまして」

主治医の先生は私の方を指した。

私が言葉に窮していると、代わりにマイラさんが答えてくれた。

「……奥様です。シーナ様といいます。結納が前後していますが、書類上の手続きは終わっています」

「そうですか。ロウデン師団長の、奥様ですか」

先生は少し、浸るような顔をした。

「マイラさん。奥様に、ロウデン師団長の治療状況は?」

「……いえ」

「なら、主治医の私から説明しましょう。奥様、心して聞いてください」

私はそこで初めて、“銀狼卿”を蝕んでいる病巣の存在を知った。

アルヴェンダール様は先の戦争で心的な外傷を負っていた。本人は語ろうとはしないが、部下や仲間の死に強く紐付いたことだそうだ。

しかし、騎士団の最高兵力の一人であるアルヴェンダール様に休養を取らせるのは状況が許さなかった。そして本人たっての希望もあり、無理を押してでも騎士団の業務に従事していたらしい。

そして事態を難しくしているのが、ロウデン家に継承されている“氷狼の血”というものだそうだ。

その血は継承者に圧倒的な氷の魔力と魔法をもたらすが、その者の状態に応じて、魔力の制御が効かない状態に陥らせることがある。

今回の掃討では、アルヴェンダール様自体はつつがなく任務をこなした。しかし帰り道に部下の一人が魔獣の不意打ちによって殉職してしまい、また、その魔獣を撃退する際にアルヴェンダール様本人も、他の部下を庇おうとして大きな怪我を負った。

その怪我自体は、致命傷というほどではなかったという。しかし部下の死が氷狼の血に強く作用した。氷の魔力が暴走してしまい、アルヴェンダール様は自らを傷つけながら、周囲を巻き込まぬよう隊を離脱した。この病院へは、自らたどり着いたらしい。

私は唾を呑んで、尋ねた。

「治療、は……」

「それが、できぬのです。一刻も早く点滴と輸血が必要で、それさえできれば良いのですが、氷狼の血が皮膚を猛烈に強く固め、メスも針も通らない。これは氷狼の血以上に、本人の潜在的な意識によるものです」

主治医の先生は苦々しそうに続けた。

「つまり、師団長は、生きることを拒否しておられます」

マイラさんの方を見た。

彼女は何も否定することなく、ただただ事実を受け入れて、俯き、ゆっくりと口を開く。

「ごめんなさい、シーナ様。このことを坊ちゃまに断りなく説明するわけには、いかなかったのです」

首を振って応える。

いや、反省すべきなのは私の方だ。

私は言われるがまま、アルヴェンダール様とマイラさんに従うだけで、何もしようとはしなかった。

アルヴェンダール様がどれほどの苦しみがあって、今を生きているのか。そんなことを想像しようともせず、ただただ自分の保身のみを考えていたのだ。

──これは、罰されて然るべきだ。

そのとき私は、一つの決意をした。

隙を見て、あるいは主治医の先生を欺いて、 そ(・) れ(・) を実行する覚悟を固めた。

でも、格子があっては そ(・) れ(・) はできない。少しの邪魔があっても成功しない。

だからギリギリまで、本当にギリギリまで、隙を見ることにする。

「お二人をお呼びしたのは、まず第一に、この危険な状況をご家族に伝えないわけにはいかなかったから、ということがあります」

先生は一つ指を立てたあと、二本目の指は立てず、手を伏せ、私の目をじっと射抜いた。

「そしてもう一つは、師団長の生きる意思の、一助になってほしいからです」

指示が出され、ベッドの周辺が片付けられる。するとベッドを囲う格子の右側が見えた。

そこに、アルヴェンダール様の右手が固定されている。

「手を、握ってあげてください。それだけは医療にも、魔法にも、どうにもできないことです」

私はマイラさんの方を見た。彼女は首を振った。

「前回も同じことがありました。ですが、私では坊ちゃまを呼び戻すに能わなかった」

「マイラさんで駄目だったなら、私では、とても」

「いえ、シーナ様。あなたしかいないのです」

「でも」

そのときのマイラさんは、何か確信めいた表情をしていた。

「坊ちゃまを救えるのは、きっと、あなただけです」

そうして私は、ベッドの隣に跪いて、その震える右手を握った。

***

手を握って、もう何時間か。

その手はずっと震えていて、強くなったり、弱くなったりする。

アルヴェンダール様は戦っているんだ、とわかった。

きっとそれは、彼の過去であったり、後悔であったり、そして何より、許せない今の自分自身と。

「シーナ様。名前を、呼んであげてください」

マイラさんは言う。私は一も二もなく繰り返す。

「アルヴェンダール、様」

反応は、ない。

「もう一度」

「アルヴェンダール様。頑張って」

うめき声が返ってくるだけだ。

「マイラさん、やはり、わたくしでは」

「……坊ちゃまは幼い頃、奥様──すみません、坊ちゃまの母君に『アル』と呼ばれておりました」

「え?」

「呼んであげてください。アル、と。師団長でも、銀狼卿でもない、本当の坊ちゃまの名前を」

アルヴェンダール様の過去などわからない。

私にできるのは、ただ、誰かの言うことに従って、それに、精一杯の真心を込めることだけだ。

「……帰ってきて、アル」

必死に絞り出したその声が、届いたのか届かなかったのか。

そのとき、一瞬、私の腕が、刃物で押しつぶされるかのような怪力で、握り返された。

次の瞬間、何も見えなくなるほどの眩い光が走って、ゴゥンという轟音、そして耳をつんざくような破裂音がする。

気づけば私は主治医の先生に庇われて、病院の床に伏せっていた。

「……え?」

上を見上げる。病院の壁が吹き飛んでいる。周りに控えていた看護婦さんたちもみんな伏せるかうずくまるかしていて、先生の頭からは血が流れている。

何が、いったい、どうなったの?

マイラさんを探した。彼女は崩落した壁の際に佇んで、病院の中央の中庭の方を見つめていた。

「……坊ちゃま」

彼女の視線の先にいるのは、半人半獣の、銀色の狼。

その狼は一人うずくまって、泣いていた。