作品タイトル不明
第4話
「……ありがとうございます」
そこまで言って、私は少しだけ言葉に詰まった。
「ただ……私、そういう場にお招きいただくほどの者ではないかもしれません」
ルーカスが、わずかに首を傾げる。
「と、申しますと?」
「家の事情もありますし……婚姻の場に出る令嬢としては、あまり条件がよくないのです」
言葉にした瞬間、足先が一拍遅れた。
けれどルーカスは、音楽の流れに合わせて、ごく自然に私の手を導く。
視界がゆるやかに回る。
一度だけ身体が離れ、また近づいたとき、ルーカスの声が静かに落ちた。
「……そういうことを、今ここで先にお話しになるのですね」
言ってしまってから、自分でも少し早かったかもしれないと思う。
けれど……。
「……後から知って、お気を悪くされる方がよほど失礼だと思いましたので」
ルーカスはすぐには答えなかった。
仮面の奥で、静かに私を見ている。
「……誠実ですね」
私は思わず目を上げた。
けれどルーカスは、それ以上そこを掘り下げなかった。
「ですが、私はまだ、そこまで急ぐつもりはありません」
「……え」
「まずは、もう少しあなたとお話ししたいと思っただけです」
その言い方に、胸の奥が少しだけ熱を持つ。
「ですから、もしご負担でなければ、またお話しする機会をいただけませんか」
「……ありがとうございます」
やがて曲が終わり、ルーカスは私をゆるやかに止めた。
静かに一礼し、やわらかく笑う。
「ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
「では、今夜はこれで。また改めてご連絡いたします」
そう言って、ルーカスは一歩下がった。
「どうか、よい夜を」
ルーカスが去っていったあと、私は小さく息をついた。
そのとき、少し横から低い声が落ちる。
「……随分、話が弾んでいたようだな」
はっとして振り向くと、アーネストがいつの間にかすぐ傍に立っていた。
「グラーフ伯爵……」
「次の約束まで取りつけたらしいな」
「……聞こえていらしたのですか」
「近かったからな」
アーネストはそう言って、ルーカスの去った方へ一度だけ視線を向けた。
「……とても、ありがたいお話です」
私は目を伏せ、少しだけ微笑んだ。
「条件がよくないとお伝えしても、そこで話を切られなかったのですから……」
「……そうか」
アーネストは短く答えた。
それから、視線を私へ戻す。
「だが、お前が喜ぶところはそこではないだろう」
「え……?」
「お前自身を見たいと言われたことの方だ」
息が、少し止まった。
「……そうですね」
素直に、そう思えたらいいのに。
私は視線を落とした。
アーネストは、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言う。
「家の条件だけで相手を見る人間ばかりでもない」
私は顔を上げた。
アーネストは視線を逸らさないまま、淡々と続ける。
「……少なくとも、私はそうではない」
「え……」
胸が、どくんと鳴った。
けれど、アーネストはそれ以上言葉を重ねなかった。
言うだけ言ってしまったように、ほんのわずかに視線を外す。
「……覚えておけ」
低くそれだけ落とすと、彼はそれ以上こちらを見ないまま、静かに歩き去っていった。
私は、その背中をしばらく見送っていた。
その時。
「見ていたわよ」
すぐ近くで、楽しげな声がした。
私ははっと息を呑んで振り向いた。
そこには、扇で口元を隠したミレーユと、目を細めているセシリアが立っていた。
「ミレーユ様、セシリア様……」
「ずいぶん素敵な夜だったみたいね」
ミレーユが、くすりと笑う。
「ルーカス様と踊って、そのあとグラーフ伯爵とお話しして。まあ、忙しいこと」
「……見ていたのですか?」
「もちろん。ルーカス様と踊っていらしたのだもの。気づいた方は多かったと思うわ」
ミレーユは、扇の陰で楽しそうに目を細めた。
「それに、グラーフ伯爵がああして女性に声をかけるところなんて、そう多く見られるものではないわ」
「そ、そうなのですか?」
「少なくとも、軽い気持ちでそうなさる方には見えないわね」
そう言われて、私は思わずアーネストが去っていった方へ視線を向けた。
仮面とドレスの波の向こうに、もうその姿は見えない。
「……私が、仮面舞踏会が初めてだから、お気遣いしてくださっただけだと思います」
「それなら、踊り終えたところで終わりでしょう」
セシリアが、静かに言った。
「わざわざご自分で声をかける必要はありませんわ」
「……」
「それに、グラーフ伯爵は親切を見せびらかす方ではないわ」
ミレーユが扇の陰で笑う。
「そうね。お気遣いだけなら、もっと目立たないやり方をなさるでしょうね」
「目立たないやり方……ですか?」
「たとえば、使用人を呼ぶとか、私たちに声をかけるとか。あなたが困らないようにする方法はいくらでもあるもの」
ミレーユは、ちらりと広間の奥へ視線を向けた。
「けれど、伯爵はご自分でいらしたのよ。しかも、あまり機嫌のよくなさそうなお顔で」
「グラーフ伯爵は……機嫌が悪そうに見えましたか?」
確かに、眉間の皺がいつもより深かった気もする。
「ええ。とても静かだったけれど」
セシリアが目を細める。
「静かな人ほど、分かりやすい時があるものよ」
「……そう、ですか」
どうしてそう見えるのか、尋ねてみたかった。
けれど、それは私から深く尋ねるようなことではないのだろう。
私は小さく息を吐き、少しだけ声を明るくした。
「ところで、ミレーユ様。ジョスラン様とのダンスはいかがでしたか?」
「まあ、話を逸らしたわね」
「そのようなつもりでは……」
私は少しだけ言葉に詰まる。
「……でも、ジョスラン様とのダンスが気になったのは本当です」
そう言うと、ミレーユは扇の陰でくすくすと笑った。
「そうね。ジョスラン様とのダンスは、とても楽しかったわ」
「あら、そうなのですね」
セシリアが目を瞬かせた。
「ええ。足運びがとてもお上手なの。ああ、でも、話が途中から古地図の話になってしまって」
「古地図……」
「そう。古い街道の位置が、今の税の流れにも影響しているとか、昔の橋がどうとか、川筋が変わったせいで市場の場所が移ったとか」
「……よく覚えていらっしゃいますね」
「でしょう?」
ミレーユが少し得意げに笑う。
セシリアが口元を押さえて笑った。
「それはもう、ダンスというより講義ね」
「ええ。けれど、足は一度も踏まれなかったわ。そこは高く評価しているの」
その言い方がおかしくて、私もつい笑ってしまった。
ミレーユは満足げに頷くと、閉じた扇で軽く手のひらを打った。
「まあ、今夜の反省会はこのくらいにして、次へ行きましょう」
「そうですね。でも、その前に甘いものをいただきに行きませんか」
「それもいいわね」
三人で並んで歩き出すと、仮面舞踏会の音楽が、また少し遠くから華やかに聞こえてきた。