作品タイトル不明
第1話
ハーゼルベルク子爵邸の玄関前には、すでに何台もの馬車が止まっていた。
私は小さく息を整え、招待状を取り出す。
扉の前に控えていた執事へそれを差し出すと、相手は一礼して封蝋の印を確かめた。
「リュークハルト家のエリナ様でいらっしゃいますね。本日はようこそお越しくださいました」
「ありがとうございます」
私は抱えていた小さな包みを、そっと差し出した。
「本日のご招待への御礼に、ささやかですが手土産をお持ちしました。ハーゼルベルク子爵様へお渡しいただけますでしょうか」
執事は包みを丁寧に受け取り、改めて一礼する。
「確かにお預かりいたします」
広間へ足を踏み入れた瞬間、私は思わず息をのんだ。
高い天井から落ちる灯りはやわらかく、仮面をつけた色とりどりの衣装が揺れている。
楽師の奏でる音も、いつもの夜会よりどこか軽やかで、拍がはっきりしていた。
誰がどこの誰なのか、ぱっと見ただけでは分からない。
同じ貴族の集まりのはずなのに、どこか現実から浮いているみたいだった。
まるで、恋愛小説の一場面に迷い込んだみたい。
――これが、仮面舞踏会。
「エリナ嬢」
不意に声をかけられ、私ははっと振り向いた。
ルーカスが、こちらへ歩み寄ってくるところだった。
今夜は仮面をつけていても、その柔らかな物腰ですぐに分かる。
「よく来てくださいました」
「こちらこそ、お招きありがとうございます」
私が礼をすると、ルーカスは目元の奥をやわらかく細めた。
「その仮面、よくお似合いです」
「あ、ありがとうございます」
少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、私は小さく頭を下げる。
「手土産も、確かに預かりました。父も母も喜ぶと思います」
「ささやかなものですが……」
「そういうお気遣いが嬉しいのです」
ルーカスはそう言ってから、私の姿をあらためて静かに見た。
「仮面舞踏会は初めてですか?」
「……はい」
「でしたら、最初は少し騒がしく感じるかもしれませんね」
「はい……本当に、別世界のようです」
そう答えると、ルーカスは小さく笑った。
「でも、気後れなさる必要はありません。今夜はまず、無理なく話せる方々の輪へご案内します」
「……ありがとうございます。お願いいたします」
私はもう一度、小さく礼をした。
「先日の実務者会でも思いましたが……エリナ嬢は、落ち着いてしまえば、きちんとご自分の言葉で話される方です」
「そうでしょうか」
「ええ。だから今夜も、最初の一歩さえ越えてしまえば大丈夫だと思っています」
その言い方があまりにも自然で、私は返す言葉に少し迷った。
「……そう言っていただけると、少し安心します」
ルーカスはそれ以上は踏み込まず、やわらかく頷いた。
「では、こちらへ」
そう言って一歩横へ寄り、広間の少し奥を示す。
私は案内されるまま、その隣を歩き出した。
途中、何人もの視線が仮面越しにこちらへ向くのを感じる。
けれど、ルーカスが自然に歩調を合わせてくれているだけで、不思議と心細さはなかった。
「……踊りは、お好きですか」
「いいえ。こうした場は、ほとんど経験がなくて……」
「では、最初は見ているだけでも十分ですよ」
ルーカスはやわらかく笑った。
「けれど、もし少し慣れた頃にでも――あとで一曲、お誘いしても?」
「……うまく踊れるか分かりませんが、私でよろしければ……」
ルーカスが案内したのは、広間の端寄りにできていた小さな輪だった。
年若い令嬢と、その兄らしい青年、既婚らしい夫婦が、仮面越しに穏やかに言葉を交わしている。
「こちらなら、最初でも気詰まりは少ないと思います」
そう言ってルーカスは二、三の言葉を交わし、私を「リュークハルト家のエリナ嬢です」と紹介して輪へ入れると、すぐに別の客から声をかけられた。
「失礼。私は少し向こうへ回らなければ」
「はい。どうぞ、お構いなく」
「あとでまた、ご挨拶に伺います」
そう言い残して離れていく背を見送り、私は少しだけ肩の力を抜いた。
すると、向かいにいた令嬢――セシリアが、すぐにやさしく笑った。
「その仮面、素敵ですね。象牙色がとてもお似合いです」
「あ、ありがとうございます」
思わず胸元のあたりに手を添える。
「そちらの仮面も、とても綺麗です。レースの重なり方が、羽の色とよく合っていて……」
そう言うと、セシリアは目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「まあ、そこを見てくださるなんて。母が選んでくれたのです」
「そうでしたのね。金糸が少し入っているから、灯りの下だと余計に映えますね」
「ふふ、ありがとうございます」
もう一人の令嬢――ミレーユも、楽しそうに口を挟む。
「エリナ様のドレスも素敵ですわね。……もしかして、ロゼット仕立て屋のもの?」
「ええ、たしか……姉から譲られたものなので、詳しくはないのですが」
「やっぱり。袖の形に少し特徴がありますもの。でも、ロゼット仕立て屋のものにしては、飾りが控えめで、ずいぶんすっきり着ていらっしゃるのね」
私は少しだけ目を伏せた。
「少しだけ……飾りを外してもらったのです。私には、そのままだと華やかすぎる気がして」
「あら、その方がよろしいと思いますわ」
ミレーユは仮面の奥で、楽しそうに目を細めた。
「飾ればいいというものでもありませんもの。今の方が、仮面の色もよく映えています」
その言い方に、胸の奥がほんの少しだけほどけた。
少し話しただけなのに、不思議と輪の中の空気はやわらかかった。
やがて、セシリアが、仮面の奥でいたずらっぽく目を細める。
「仮面舞踏会は、いつもの夜会より少し気が楽ですわね」
「そうなのですか?」
「ええ。少しくらい大胆なことを言っても、今夜は仮面のせいにできますもの」
ミレーユが、くすりと笑う。
「この方、今夜は少し真面目にご縁を探すつもりでいらしたのよ」
「仮面舞踏会ですもの。せっかくなら、少しくらい期待してもよろしいでしょう?」
「だって、ただ壁際で音楽を聞いて帰るなんて、もったいないじゃない」
そう言ってから、彼女は私へ少し身を寄せた。
「もしよろしければ、ご一緒に移動なさいません?」
「ご一緒に……?」
「ええ。あちらに、まだ落ち着いて話せそうな方々の輪があるのです。いきなり一人で入るより、誰かと一緒の方が気が楽でしょう?」
私は思わずそちらを見た。
広間の少し奥、灯りの集まるあたりに、若い男女がゆるやかな輪を作っているのが見える。
「もちろん、無理にとは申しませんけれど」
セシリアはやわらかく続ける。
「せっかくの仮面舞踏会ですもの。今夜くらい、少し冒険してみてもよろしいのではなくて?」
たしかに、一人で動くよりは心強い。
それに、この場へ来た以上、ただ隅で息を潜めているだけでは何も変わらない気もした。
「……では、少しだけ」
「決まりね」
彼女は扇の先を軽く持ち上げ、ミレーユにも目配せする。
「まいりましょう。今夜は、お互いによいご縁を見つけたいものですわね」
その言葉に、私は小さく息をのみながらも、そっと頷いた。