作品タイトル不明
第6話
結局、私も一緒に出ることになった。
「……え、私もですか?」
父は返書を指先で叩いた。
「去年の流れを一番把握しているのはエリナだ。レオン、お前だけでは細部を拾いきれまい」
兄がすぐに顔をしかめる。
「父上、そこまでしなくても――」
「実情を知らずに話しても、向こうに押されるだけだ」
父はそう言って私を見た。
「前へ出すぎるな。だが、必要なことは言え」
「……承知しました」
兄はひどく嫌そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
隣領伯爵家が管理する境界近くの別邸へ着いたのは、昼前のことだった。
春先の空気はまだ冷たく、馬車を降りた瞬間、頬に触れた風がひやりとする。
玄関前では、隣領側の従者がすでに待っていた。
「お待ちしておりました。リュークハルト家の皆様でございますね」
兄が頷く。
「案内を」
「はい。代官殿がお待ちです」
中へ通されると、兄が当然のように一歩前へ出た。
私はその半歩後ろを歩く。
「こちらへ」
案内された部屋には、すでにマルセルが座っていた。
「お時間をいただき感謝いたします」
兄が先に口を開く。
マルセルは静かに一礼を返した。
「こちらこそ。早めに顔を合わせておいた方がよい話でしたので」
その目が兄から私へ移る。
「エリナ嬢もご一緒でしたか」
「はい、お久しぶりです。マルセル様」
私がそう答えると、マルセルは小さく頷いた。
茶が出され、二言三言、天候と街道のぬかるみの話が交わされたあとで、マルセルはすぐ本題へ入った。
「では、春先の人足の件です」
兄も私も机上の書付を開く。
「今年、伯爵領では水路と街道沿いの補修を例年より少し早めます。雪解けの具合が思ったより早かったので」
兄は腕を組んだ。
「それはそちらの都合でしょう」
「無論。ですが、こちらが動けば境の村から人が流れますでしょう」
「こちらも春は暇ではありません」
「ええ。だからこそ、先に擦り合わせておきたいのです」
マルセルが書面から顔を上げた。
「今年も同じように動けば、境の三村からどの程度出る見込みですかな」
兄は眉を寄せた。
「そこまで細かいことは、その場になってみなければ――」
「大まかでも結構です」
「こちらとしては、春仕事に差し障りが出ない程度には残ってもらわねば困る」
マルセルは静かに兄を見ていた。
兄の答えは間違ってはいない。
けれど、それだけでは話が前に進まない。
やがてマルセルは、私へ視線を向けた。
「去年の流れは、エリナ嬢はご存じですかな」
兄の肩がわずかに動く。
私は鞄から帳面を取り出し、机の上に広げた。
「……境寄りの三村です。去年は春先の二十日ほどで、合わせて十七人流れました」
書記の筆が走る音がする。
「特に痛かったのは最初の十日です。こちらは畑起こしと水路補修が重なっておりましたので」
「最初の十日……」
「はい。二十日間ずっと苦しいというより、出だしが詰まるのです。そこを越えれば、村ごとに手を回して何とか持ちこたえられます」
兄が横から低く言う。
「そこまで言う必要があるのか」
「……そうですね」
私は書面へ目を戻した。
「去年の賃の話は、もう境の村まで広がっています。今年、伯爵領が去年と同じ早さで動けば、人はもっと早く流れます」
マルセルは黙って聞いている。
私は帳面の上に指を置いたまま、続けた。
「お願いしたいのは、最初の十日だけです」
部屋の空気が静まった。
「境の急ぎ箇所へ、最初の十日だけ手を足していただけませんか」
兄が横で息を呑んだ気配がしたが、私は言葉を切らなかった。
「最初に数人分でも手が増えれば、水路の急ぎ分は十日以内に片づけられます」
マルセルは組んだ指をほどかず、静かに私を見ていた。
「そうなれば、その後は境の村から伯爵領へ出てもらって構いません」
しばらく沈黙が落ちた。
やがてマルセルが低く言う。
「……境の水路は、去年の協議で管理を交互にすることになっておりましたな」
「はい」
「今回の提案は、境の急ぎ箇所に先に手を入れる方が、結局は双方に損が少ない――そういうお考えですか」
「そうです。住民にも確認しております」
兄がようやく口を開く。
「……こちらとしては、春仕事の立ち上がりさえ崩れなければいい」
マルセルが視線を向ける。
「急ぎの水路が先に済めば、その後の人足の出入りまで細かく言うつもりはありません」
マルセルは兄を見、それから私の帳面へ目を落とした。
「必要な人数は」
「四人です」
書記の筆が止まり、また動き出す。
マルセルは軽く椅子の背に寄りかかった。
「こちらの補修開始を遅らせるよりは、たしかに現実的ですな」
兄の顔がわずかに上がる。
マルセルはしばらく考え、それから静かに頷いた。
「分かりました。境の急ぎ箇所については、こちらから四人出しましょう。十日間だけです」
私は帳面を閉じる手に、少しだけ力を込めた。
「ありがとうございます」
「ただし、その十日で終えることが前提です。応援だけ受けて、なお境の村を引き留める話になるのでは困る」
兄が今度はすぐに答えた。
「そのつもりはない」
「ならよろしい」
マルセルは書記へ向けて、日取りと人数を書き留めるよう合図する。
「こちらの四人は境の南側へ先に入れます。十日を過ぎた後は、予定どおり伯爵領側の補修へ戻す」
「承知しました」
兄が答える。
「境の村の雇い入れについても、その十日が済むまでは急がぬようにしましょう。余計な先触れも出しません」
私は静かに頭を下げた。
「助かります」
話はそこで大筋まとまった。
細かな確認が続くあいだ、私はもう口を挟まなかった。
やがて立ち上がる頃になって、マルセルが改めて私を見た。
「去年の水路のときも思いましたが、よく見ておられる」
私は少し苦笑して、一礼した。
◆
屋敷を出てから、兄はしばらく何も言わなかった。
馬車の前まで来たところで、ようやく兄が低く言った。
「……余計なことまで言うなとは言ったが」
私は足を止める。
「はい」
「今日は、あれでよかった」
私は兄を見た。
けれど兄は、こちらを見ないまま馬車へ目を向けている。
「……そうですか」
それだけ返すと、兄はひどく不機嫌そうな顔のまま続けた。
「次もああだと思うなよ」
「……はい」
兄は鼻を鳴らし、先に馬車へ乗り込んだ。