作品タイトル不明
第5話
「離れなきゃ駄目なのに……」
あの人に気にかけてもらうと、やっぱり心が弾んでしまう。
彼は、どうしてそこまでしてくれるのだろう。
事業を始めさせた手前、気にかけているだけなのだろうか。
答えは出ないまま、私は目の前の問題に意識を向けた。
林檎は、秋ほどふんだんには出回らない。
冬の終わりが近づくにつれ、良い実は少しずつ減り、加工に回せる分も目に見えて細っていく。
「冬の林檎は、振り分けが肝心ね」
そう呟くと、そばにいた女が頷いた。
「そうですねえ。上物は近場へ、形の劣るものはジャムや製菓用へ回すだけでも、だいぶ違いますし」
「ええ。だけど、他領から仕入れているから、林檎がなくならないだけましね」
私は帳面の端に指を置いたまま、小さく息をついた。
「乾燥小屋が少し空くなら、川魚を試したいのだけれど」
「燻製ですか?」
「ええ。近くで捕れるし、運ばずに済むもの」
そばにいた女が、少しだけ首を傾げた。
「お嬢様、それは……果物の小屋でなさるんです?」
「冬の間は空くでしょう?」
「空きますけど、煙の匂いは残りますよ」
「……残る? 何に?」
「燻した後だと、壁にも棚にも匂いが染みます。次に林檎を干したら、林檎まで煙臭くなるかもしれません」
「え……そんなに?」
燻製は、煙を当てるもの。
それは知っていた。
けれど、煙が小屋そのものに残るところまでは、考えていなかった。
「……全部、煙臭い林檎になってしまうのね」
「そうなりますね」
女は苦笑した。
「酒場なら喜ばれるかもしれませんけど」
「でも、それでは乾燥小屋は使えないわね……」
「それに、魚は魚で面倒ですよ。腹を出して、血を抜いて、臭みを取って。干すだけの林檎とは手間が違います」
「そうなの?」
「ええ。下処理を間違えると、匂いますし、傷みます」
それは、確かに困る。
冬の仕事にはなるかもしれない。
けれど、手間ばかり増えて品にならなければ意味がない。
私が黙って考え込んでいると、木材を運んでいた男の一人が顔を上げた。
「小屋でやらなくても、簡単な燻製棚くらいなら作れますよ」
「燻製棚?」
「ええ。風除けをつけて、下に火鉢を置いて、煙が逃げすぎないようにするんです」
「それなら、干し林檎くらいなら試せるかしら」
私が呟くと、女が頷いた。
「規格外の干し林檎を使ってみてはいかがでしょう。形が悪いものなら、失敗しても痛手は少ないですし」
「いいわね。香りがうまく乗れば、酒場向けになるかもしれないわ」
「甘いものが苦手な人にも、出せるかもしれませんね」
「ええ。茶菓子とは別の品として考えましょう」
私は帳面に、新しく一行を書き足した。
『規格外の干し林檎。燻製棚で少量試作』
――とはいえ、燻せばそれで済むほど簡単でもなかった。
最初の試しは、香りが強すぎた。
「苦い……」
「燻しすぎましたね」
次は逆に弱すぎて、ただ少し匂いのついた干し林檎にしかならなかった。
「難しい……」
私がそう呟くと、そばの女も苦笑した。
「魚なら多少強くてもそれらしくなりますけれど、林檎は甘みがありますからねえ。加減が難しいです」
乾かし具合を揃える。
煙を当てる時間を調節する。
「うまくいけば……きっとこれは価値が上がるはず」
煙を眺めながら、私は帳面に次の試作条件を書きつけた。
◆
母に呼ばれて応接間へ入ると、ヴィオラとその母君が来ていた。
アーネストは一礼し、二人へ挨拶を返した。
「お待たせして申し訳ありません」
「いいえ。急にお時間をいただいたのはこちらですもの」
ヴィオラの母は穏やかに微笑んだ。
ヴィオラもまた、いつも通り整った笑みを浮かべている。
卓の上には、すでに茶が整えられていた。
しばらくは天候や王都の催しの話が続き、やがて会話はゆるやかに間を置く。
「お忙しそうですわね、アーネスト様」
ヴィオラがそう言うと、アーネストは短く頷いた。
「時期的なものです」
「実務者会も、ずいぶん頻繁とうかがいました」
「必要があれば開く。それだけです」
それ以上は広げなかった。
向かいに座る母は何も言わない。
だが、沈黙の置き方で、おおよその用向きは分かる。
ヴィオラの母が、柔らかな声で言葉を継いだ。
「家のこととなると、お忙しいだけでは済まないこともございますでしょう」
アーネストは視線を上げた。
「そうかもしれません」
答えは曖昧なままにしておいた。
母が茶器を置く音だけが、小さく響く。
「ヴィオラ様は申し分のない方よ」
母は穏やかに言った。
「華やかで、聡明で、場にもよく慣れていらっしゃるもの」
「過分なお言葉ですわ」
ヴィオラはそう返したが、その目はまっすぐだった。
アーネストは黙って茶に手を伸ばす。
母の言葉に偽りはない。
それでも、その先に続けるべき言葉は、彼の中にはなかった。
応接間には、丁寧に整えられた沈黙だけが残った。
◆
家へ戻ると、机の上に一通の返書が置かれていた。
差出人を見た瞬間、私は足を止める。
――隣領伯爵家代官、マルセル。
封を切り、短く整った文面を追う。
春先の人足については、近く領官どうしで一度顔を合わせたい。
境の村の出入りも含め、早めに擦り合わせておきたい――。
私は紙を持ったまま、小さく息を吐いた。
去年の春を思い出す。
伯爵領が人を集め始めた途端、境の村から何人も流れた。
畑の手も、水路の補修も、こちらはぎりぎりだった。
――先延ばしにはできない。
「……よし」
私は返書を持ったまま廊下へ出た。
兄の部屋の扉は半開きで、声をかけるより先に中の気配が動く。
「お兄様」
入った瞬間、兄が顔をしかめた。
「うわっ……くさっ。何だ、その臭い」
「えっ……」
思わず自分の袖口を見る。
「……さっきまで燻製の試作をしていましたから」
言いながら、自分に移った匂いにようやく気づく。
けれど今は、それを気にしている場合ではなかった。
「部屋に入る前に少しは払え」
兄は眉を寄せたまま言った。
私はそれには答えず、手紙を差し出した。
「隣の伯爵領の代官から返事が来ました」
兄は面倒そうに受け取り、ざっと目を走らせる。
「……それで?」
「話し合いに出てください」
「何のだ」
「隣の伯爵領が春の人足を集め始めれば、境の村から流れます。その調整をです」
兄は手紙を持ったまま、すぐには答えなかった。
「毎年のことだ」
「毎年のことだから、先に手を打たなければならないのです」
兄がわずかに顔をしかめる。
「……お前は、そういう面倒ばかりよく見つけるな」
「お兄様、これが領主の仕事です」
部屋の中に、短い沈黙が落ちた。
兄は小さく息をつき、もう一度返書へ目を落とす。
「父上には話したのか」
「まだです。先にお兄様へ」
「……なぜ、先に父上へ持っていかない」
「お父様は、お兄様が目を通した方が早いとお考えになるでしょう」
兄の眉間の皺が、さらに深くなった。