軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話

グラーフ伯爵夫人の屋敷から帰った後、部屋へ戻るはずだった足を、そのまま父の執務室へ向けた。

扉の前で一度だけ息を整える。

泣いたあとの目元は熱かったが、もうそれを隠す気にはなれなかった。

扉を叩く。

「……入れ」

その声に従って中へ入り、私はまっすぐ父を見た。

「お父様、少しお話があります」

「……どうした」

「負債のことです」

その一言で、父の表情がわずかに止まる。

私は扉の前に立ったまま、まっすぐ父を見た。

「金貨三百を、あと五年でどう返すおつもりなのですか」

「それは……」

父の唇がわずかに動く。

けれど、言葉は出なかった。

「わたしは、全体の収支を見ました……豊作の年が続いたとしても、届きません」

「……だから、お前が乾燥物を始めてくれたのは助かっている」

その言葉に、背筋がひやりと冷えた。

「お父様は……」

喉の奥がかすかに震える。

「今は……私が返済を考えているから、もうご自身では考えなくていいと、そう思っていらっしゃるのですか……?」

「……そんな言い方をするな」

父の目が、わずかに揺れた。

「私は、お前に押しつけるつもりで言ったわけではない」

「では……どうするおつもりだったのですか」

父は何か言いかけて、口を閉ざした。

視線が、机の上へ落ちる。

沈黙が落ちた。

その沈黙こそが、何よりの答えだった。

部屋に戻ると、扉を閉めた途端、足から力が抜けた。

そのままベッドに座り込む。

胸が苦しい。

苦しいのに、何がこんなにつらいのか、うまく分からない。

「……どうして……」

掠れた声が、誰もいない部屋に落ちた。

乾燥小屋のこと。

負債のこと。

社交の場のこと。

頭の中には次々と浮かぶのに、そこに家族の顔はなかった。

誰も、同じようには背負っていない。

誰も、同じようには考えていない。

それなのに私は、ずっと、自分がやらなければと思っていた。

喉の奥がひくりと震える。

「……つらい」

言葉にした途端、堪えていたものが崩れた。

涙がぽろぽろと落ちる。

「っ……」

息がうまく吸えない。

肩を抱くようにして身を丸める。

「う……」

――返済のために始めたとしても、続けるなら別物として考えろ。

先代伯爵の声が、頭の奥で低く響く。

「どうやって……」

こんなにも頼られているのに。

震える声が、途切れ途切れにこぼれる。

「誰か……」

一人の顔が浮かんだ。

けれど、その名を呼ぶことはできなかった。

執務を終えて母の部屋へ顔を出すと、伯爵夫人は上機嫌で茶を飲んでいた。

「ちょうどよかったわ、アーネスト」

「何です」

「エリナ嬢がいらしていたの」

思わず視線が止まる。

「……そうですか」

「ええ。例のジャムを、贈答用の形に整えて持ってきてくれたのよ」

母はカップを置き、楽しそうに目を細める。

「あれはよかったわ。見せ方まで覚えたのね。端切れとレースを使って、きちんと贈り物の顔になっていたもの」

アーネストは黙って聞いていた。

母はその沈黙を面白がるように、ふっと笑う。

「それでね」

「……何です」

「あなたのお父様が来たの」

「父上が?」

「ええ」

母はあっさり頷く。

「そして、エリナ嬢を泣かせたわ」

アーネストはゆっくりと瞬きをした。

「……は?」

「だから言ったでしょう。泣かせたのよ」

「何をしたんです」

「何をした、ではないわね。何を聞いた、かしら」

母は肩をすくめる。

「林檎は領地のものか、どれくらい作っている、なぜ商いを始めたのか。そうして」

ほんの少し間を置く。

「借金か、と」

「……父上らしい」

「でしょう?」

「それで泣いたのか」

「でも、あの人なりに褒めてもいたのよ。“無駄がない”“考え方は悪くない”って」

「褒めたあとで泣かせたんですか」

「ええ」

アーネストは片手で額を押さえた。

「……父上は……余計なことを」

「余計なことかしら」

母はやわらかく首を傾げた。

「私は、必要なことだったとも思うけれど」

アーネストは顔を上げた。

母の目は、先ほどまでの面白がり方とは少し違っていた。

「エリナ嬢、自分が家を背負うのが当たり前だと思っていたわ。だから、あの人が“それは娘の役目ではない”と言ったの」

アーネストは目を伏せた。

しばらくしてから、低く口を開く。

「……それで」

喉の奥で一度言葉を転がしてから、問う。

「父上は、どう見たんです」

母はその質問を待っていたように笑った。

「悪くない、と。あなた、分かりやすいわね」

「母上」

「でも、困ったわ。せっかく面白くなってきたのに」

「何がだ」

「エリナ嬢、しばらくあなたを避けるかもしれないもの」

「……避ける?」

「だって男爵家で、借金があって、先代伯爵にあれだけ見抜かれたのよ」

アーネストはしばらく黙っていた。

「……父上は、余計なことをしてくれた」

「でも、あなたも知れたでしょう? 彼女がどれだけ一人で背負っていたか」

アーネストは答えなかった。

母はそんな彼を見て、ふっと笑う。

「どうするの?」

「……会います」

「ええ」

「避けられる前に」

伯爵夫人の笑みが、少しだけ深くなる。

「そうしなさい」

アーネストは一礼すると、そのまま踵を返した。

母の部屋を出たあと、廊下を歩きながら小さく息を吐く。

――泣いたのか。

足は止めなかった。

止めれば、余計なことを考えそうだった。