軽量なろうリーダー

最悪な母親に転生したはずなのに、何故か息子の愛が重過ぎる

作者: 久里

本文

「………え?」

夢から覚めるような感覚で、ライラは前世を思い出した。

きょとんとした拍子に、前世の平凡な黒髪とは打って変わって、まるで何度もブリーチをかけたように見事な金髪が肩からパサリと滑り落ちた。ぱちり、とまばたく目は緑色。

というか、今生の自分が散々発狂したせいで、前世の自分が仕方なく顔を出したのかもしれない。

身体を動かしていた元の人格が壊れてしまったので、前の人生で使い終わったはずの人格が引っ張り出されてしまったのだろう。

ごくごく平凡な日本国民として人生を全うしたはずの前世とは裏腹に、今世の【ライラ】は中世ヨーロッパみたいな世界の、中でも特に最底辺。つまりは娼婦であった。

孤児として生まれ、路地裏で生きて、生きるために身体を売らざるを得なかった不運な人間。けれどどんなに豊かな国でも一定数は居るような、社会的弱者がライラだったのだ。

まだ少女の域を出ない頃から身体を売って、屋根のある家で生活する為に必死だった。

大抵の犯罪はやったし、大抵の苦しいことは経験した。比喩でもなく、本当に泥水を啜ったことだって一度や二度でもない。

苦しくて悲しくて、早くこの生活から早く脱出したかった。

だから、あんな男に騙されてしまったのだ。

お金持ちの貴族に声をかけられて舞い上がり、家と金を与えられて夢を見た。こんな自分でも高貴な人に愛されるのだと思って簡単に幸せになり、甘い言葉に騙されて子供を産んだ。

流石に貴族の奥様になれるかもとは思わなかったけれど、あの人なら自分を大切にしてくれるとは思っていたのだ。ましてや生まれた子供は男の子。きっと無碍にはされないし、面倒を見てもらえるだろうと思っていた。

馬鹿だったのだ。学もなければスラム以外の世間も知らなくて、愚かだった。まだ十代。子供を産むにも男に見初められるにも、早い方がいいと思い込んでいたのだ。

結果として、ライラは男に捨てられてしまった。

生まれた息子を確かめたあと、「近いうちに迎えに来る」と去って行ったのが最後だった。それから男は二度とライラに連絡を寄越さなかったし、会いにも来なかった。

多分、あの人は女の子が欲しかったのだろう。それが何故かは分からないけれど、貴族だったから、色々政治的な理由でもあったのかもしれない。若くて馬鹿だったライラはまんまと利用されて、上手く成果を出せなかったから捨てられたというわけだ。

男に捨てられたと察したライラは、段々と酒に溺れて頭をおかしくしてしまった。

与えられた家だけはそのままだったから、そんな風になっても、屋根のある住処があったことだけは幸いと言えたかもしれない。貧民街の古い一軒家など、貴族にとっては女を買うにしても端金であったということなのだろう。

時々思い出したように正気に戻るけれど、擦り減るようにしてまともで居られる時間もなくなった。

多分、あんな男でも愛していたのだ。馬鹿だったから。学があって頭の良い男に関わるのもはじめてで、男に優しくされるのもはじめてだったから、仮にも娼婦が客に対して馬鹿みたいに本気になって、捨てられたのがショックだったのだろう。

ライラがそんな中で、子供が無事に育ったことは奇跡に等しかった。

一番親の手が必要な赤ん坊の時には、ライラはまだ正気に近くて一応ちゃんと世話をしていたというのもあるのだろう。あと、気が狂ってもそれが誰かに当たり散らすタイプではなかったということ。

けれど何よりも幸運だったのは、生まれた息子が、ライラには似ずとても賢い子だったということだった。【ライラ】は息子の賢さに救われて、息子を殺さずに済んだということになる。

「今世の私って………」

記憶というにはあまりにも実感が薄く、どちらかと言うと身体に宿った記録に近いそれを思い出し、前世を取り戻したライラは座り込んだ体勢のまま頭を抱えた。

自己嫌悪が酷い。これが本当に他人なら境遇もあるし少しは【ライラ】に同情できただろうが、いくら記憶がなくても自分自身のことなので、今すぐそこの柱にでも頭を打ち付けてしまいたいほどだ。

もしかしたら、ほんの僅かにでも元の【ライラ】の感情が身体に残っているのかもしれない、と思ったら。

【ライラ】だって本当は赤ちゃんが産まれてきてくれた時は嬉しかったし、愛していたし、可愛かったのに、母親になれなかった。いつまでもお母さんになれずに、なり方もわからなくて、『愛した男に捨てられた、女である自分』を捨てられずにいたのだ。そして、そんな自分が随分と嫌だったみたいだった。

馬鹿なことをしているとわかっていたのに辞められなくて、現実から逃げたくて、だけどふとした時に正気に戻ると、自己嫌悪で死にたくなって、泣きながら「ごめんね」と息子を抱きしめていたようだったから。

もしかしたら、元の【ライラ】がいなくなった身体がそのままぼんやりと死んでいかず、前世の人格である自分が引き摺り出されたのは、そういうのも関係しているのかもしれない。

……気が狂っていた間の記憶は曖昧だが、それでも息子は既に7歳程度にはなっているはずだ。

父親譲りの黒髪、賢そうな紫の目をしたライラの息子。小さなルゼ。

つまりあの子は一番母親の世話と愛情を必要とする幼少期に、むしろ狂った母親のそばで面倒を見ていたということになる。

これが前世で生きていた日本なら酷い児童虐待だし、子供は早々に施設に保護されて母親から引き離されていなければならない案件だ。

生憎この国には児童相談所なんてものはないからそうはならなかったけれど、つまりそれだけ今世の自分は母親失格ということである。

どうしたものか、と思う。

幸いにして息子であるルゼは今頃パンを盗みに行っているのか家にはいないが、帰ってきたらどう振る舞うべきか。育てなければいけないのは間違いない。

元の【ライラ】が消えてしまった以上、前世を取り戻した今のライラが母親としての責任を果たすべきだ。

問題は、こんな母親でもルゼは一応、お母さんのことを好きでいてくれていたらしいということである。

記憶を見る限りだが、きっと間違いではないだろう。本当に無償の愛をくれるのは親ではなく子供の方とはよく言うけれど、全くその言葉の通りだと思う。

だからきっと、元の【ライラ】と今のライラがほとんど別人だと知られることはまずい。

お母さんが身体を『前世の記憶』なんてものに乗っ取られて、戻ってこないなんて知ったら、きっとあの子は傷付いてしまうだろう。こんな母親も見捨てないでいてくれた優しい子だから。

「気狂いバージョン2で行くしかないかも………」

いつボロが出るかわからないような、元に戻った演技はむしろ良くない気がする。ライラの息子であるルゼは賢い子供だし、そうでなくとも子供は案外身近なものの変化に敏感だ。

こうなれば最早、気が狂い過ぎてバージョン2に移行した感じで行くしかないかもしれない。なんか頭がおかしくなった人って、一周回って穏やかに見えるとか、前世の本とか映画で見た気がするし。

よし、と拳を握り締める。

そうと決まればあとは簡単だ、と立ち上がった。

因みに前世のライラは自覚こそなかったものの、家族や友達には『頭のネジが外れてる』『何がどうしてそうなった』『暴走機関車』『ブレーキを標準装備しろ』と散々言われるタイプの人間であった。

▪︎

いつも酒瓶を抱いて泣いているか、それともウーウー呻いて自傷行為に走っていた母親が、その日は久しぶりに背筋を伸ばして部屋に居た。

ルゼはそれを見て、「ああ、母さんは本当に頭がおかしくなっちゃったんだな」と思ったものである。

「あのねルゼ、お母さん前世の記憶を思い出したの!」

何せ、なんとかカビたパンをひとつ盗んで帰ってきたルゼに向かっての第一声が、これだったので。

お目目きらきら、声はハキハキ。元々頭がおかしくなかったと言えば嘘になるけれど、人間気が狂った上に限界を超えると、ここまでヘンになるんだなぁと悟った7歳の頃だった。

母さんはもうだめだ。いっそ殺してあげた方が幸せなのかも、とルゼは乾いた絶望を覚えたし、実際その為にナタも構えた程である。それを辞めたのは、まだ子供の自分じゃ簡単に楽にしてあげられないだろうな、と考えが及んだだけであった。決して母さんを殺したくないなんて自分勝手な思いで、母を見捨てたわけではない。

でも、今になって思えば、あの時思いとどまって正解だった。

どうせ前も今も、頭がおかしくなっていたことには変わりないのだ。だったら前みたいに一日中酒を飲んだり薬をやったり泣いて過ごす母親よりも、ちゃんとルゼを見てルゼに話して、頭を撫でて守ってくれる今の母さんの方がずっと嬉しい。

あの日から、母さんは明確に変わっていった。

これまでどれだけ金が無くなっても手放さなかったネックレスを金に変えて、ふわふわのパンやハムを抱えて買ってきてくれたし、ボロ布みたいだったワンピースは捨てて綺麗な服に着替えるようになった。

一日中年中家に篭りきりだったのが、昼間はルゼの食事を用意してどこかに出かけるようになった。母が何をしているのかはわからなかったけれど、どうやら娼婦を再開したというわけでもなさそうだった。ただ山ほどの本を持ち帰るようになって、ルゼにも子供向けの絵本をくれて、文字まで教えてくれた。

「異世界って不思議よね。異世界なのにこの国の字は英語だし、隣の国はフランス語を採用してるみたい。地図は見たことない形をしてるし、聞いたことない国名ばっかり並んでるのに、アニメみたいに独自の言語を使ってないのかな?」

「母さん、何を言ってるのか分からないよ。異世界って何?」

「それはね、母さんの前世から見て、この世界って多分異世界なの」

「そっか……」

「母さんこれでも前世は色んな国の言葉勉強してたのよ。奨学金掛かってたから成績落とせなくて必死だったんだけど、むしろそれが良かったみたい。やっぱり後々になると、勉強って何よりも自分のためになるんだね」

「そっか……」

「それにしても不思議だけどね。神様ってもしかして案外めんどくさがりで、色んな世界で色んな言葉を使い回してるのかも」

「良かったね、母さん……」

不思議そうにしながらとんでもなく不信心なことを言う母さんは、しかしとても楽しそうに本と向き合っていた。

幼い頃から孤児であったはずの母がどうして色んな国の言葉を知っていたのかはわからないが、一番有力なのは、捨てられた男に教えられたという説である。

今の母さんは男に捨てられたことをすっかり忘れてしまっているようだから、辻褄を合わせる為に、頭の中で『前世の記憶』なんて言い訳を構築したのかも知れない。

そう思うと母のことがとても可哀想に思えたが、けれど楽しそうな母と一緒に勉強をすることは、ルゼからしてもとても楽しかった。

「いっぱい勉強して、食べるのに困らない大人になるのよ」と頭を撫でてくれる母は、それからも色んな本をルゼにくれた。ルゼが興味を示した数学や魔術の分野の本は特に高かったろうに、惜しみなくプレゼントしてくれたのだ。

「ルゼ、荷物を纏めて。引っ越ししよう!」

クリップで髪を纏めて、水色のワンピースを着た母さんは、ある日いきなり腕まくりをしながらそう言った。ペンを持っていたルゼがぱちりとまばたくと、母さんはきらきらと笑って、「もっと良いところに引っ越そう」とルゼの手を引いたのだ。

急いで荷物を纏めて、呼んだ馬車にとにかく本を主にして乗せて、母がルゼを連れていってくれたのはとても大きなお屋敷だった。

そこには白い髪を撫で付けた紳士が居た。白い髪とは言っても背筋は伸びているし、役者みたいな顔をしているので、随分と若く見えた。

そしてそんな紳士は嬉しそうに破顔をしながら、「さっき話したばかりじゃないか」とルゼ達を迎え入れてくれたのだ。

「やぁ、君がルゼだね。お母さんに似て賢そうな顔をしている」

「!?」

「私のことは、そうだね。じいじとでも呼んでおくれ。君のお母さんの知恵を借りたくて、暫く住み込みで私の手伝いをしてもらうことになったんだ」

「!!??」

「これからはここが、君の家だよ」

衝撃だった。何が衝撃って、頭がおかしくなってしまったはずの母が、こんなにお金持ちで見るからに高等教育を受けて大人になってもいそうなお爺さんに「頭が良い」と認められているらしいことである。

でも、嬉しくもあった。今まで「あそこの母親は頭がおかしい」と近所の奴らに馬鹿にされてツバを吐き捨てられ家には石も投げられていた母が認められたことは、本当は少し、正直に言えば誇らしかったのだ。

後から知ったことであるが、母はあの老紳士と結婚したらしい。

どうやらずっと学問と、学問に没頭するための資産運用に人生を捧げていた老人が母に惚れ込み、「最期に、美しく聡明な女性の夫でありたい」と願った末のことであったらしく、母は息子の養育と莫大な遺産を引き換えに彼の妻となることを承諾したのだ。

当時のルゼにそれを伏せていたのは、今更ルゼに父親として老人を引き合わせることは、ルゼの負担になると考えていたが故のようだった。

金で買われたような結婚であったが、母は幸せそうだった。

金があり、家があり、食事がある。結婚相手は老いているものの優しく、「賢い女など」と女の知恵に不機嫌になったりしないで母を尊重してくれる。

明日の暮らしを心配しなくても良いし、何よりもルゼに家庭教師をつけてやれたことに満足しているようだった。

いつの間にか「バートリー夫人」と呼ばれるようになった母は、仕事の合間によくルゼの様子を見にきてくれた。

焼きたてのクッキー、素敵な香りの紅茶をトレイに乗せて、ルゼが今どんな勉強をしているのかを嬉しそうに聞いてくれたのだ。

いつもひび割れていた爪には、上品な淡いピンクのエナメルが塗られるようになった。

いつも酒の匂いがしていた身体は、いつからか爽やかな石鹸の匂いがするようになった。

たまにルゼの紫の目を見て「どうして」とルゼを抱きしめて泣いた母は、ルゼが紫の目を向けても「どうしたの」と微笑んで頭を撫でてくれるようになった。

ルゼにはそれが、きっと。

とても、とても幸せだったのだ。

▪︎

母は特に、魔術の話を喜ぶひとだった。ルゼがたとえば蝋燭に炎を灯したり風を起こせたりすると「すごいすごい」とはしゃいで、「魔法みたい!」と手を叩いて喜んでくれたのだ。

魔法と魔術の違いもわからなくて、だけどだからこそ、些細な魔術ひとつにも奇跡を見たみたいに喜べたのだろう。

幸いにして、ルゼには才能があった。もしかしたら、ルゼの父親は余程の高位貴族だったのかも知れない。

魔術師とは研究者でもある。人生の大半を研究に捧げた母の夫であるお爺さんは、魔術界でも相当名の通った人だったけれど、そんなお爺さんが目を剥くくらいにはルゼの魔力は素晴らしいものだった。

数学に向いた頭を持っていたのも良い。ルゼはあっという間に家庭教師が「もう教えることがありません」と降参するくらいには魔術が得意で、それからはお爺さんが自らルゼに指南をしてくれるようになった。

だから母の夫ではあったけれど、お爺さんはルゼにとって、父親というよりは先生と言った方が正しいひとだった。

「ルゼ。君はきっと歴史に名を残す、偉大な魔術師になるよ。ライラが君を誇りに思うのも当然だ」

先生はそう言って、しわがれた手でルゼの頭を撫でてくれたから、ルゼはそれから、ますますのめり込むように魔術に夢中になった。

本当は、まだ少女と言えるほど若かった母を弄んで捨てた男が父親なんて認めたくはなかったけれど、だからといって有用な才能に見て見ぬ振りを決め込めるほどルゼは愚かにはなりきれなかったのだ。

母が喜ぶなら尚更だった。母の誇りになれるのなら、尚更だった。

しかし、それから数年が経ってのことである。

お爺さんは死んでしまった。ルゼが十二歳になる頃のことであった。

盛大な葬儀が執り行われた。喪主は母。参列者は魔術師や研究者、文学者達の他に、貴族達もたくさんいた。

学者達にとって「バートリー夫人」は集まりにもよく訪れる見慣れた人であり、哲学や数学の話も出来る聡明な女性であったけれど、貴族達にとってはそうではなかったらしい。

貴族達にとって母は、年寄りの金持ちを騙して結婚した若い女。だからルゼや母を見てヒソヒソと何か嫌な話をしていたようで、ルゼはほんの少し居心地が悪くなったけれど、不思議なものである。

隣で手を握ってくれる母が真っ直ぐと背筋を伸ばして、高貴に微笑んでいたのを見ると、途端に平気になった。

こんなに誇り高く美しいひとの息子であるというのに、何を恥じることがあるのだろう、と思ったのだ。

母はそれから、お爺さんとの約束通り莫大な遺産を相続した。

ルゼの師匠は居なくなってしまったけれど、お爺さんはルゼの為に魔塔への紹介状を遺してくれていたから、勉強に困ることもなかった。

「寂しくなったらすぐに帰ってくるのよ。クッキー焼いて、ハンバーグ作って、スパゲッティも茹でて待ってるから」

「母さん……」

「誰かにいじめられたら、すぐに教えて。母さんがすぐにとっちめてやるんだから!」

「あー……。それは大丈夫かな」

ルゼが苦笑をすると、母は涙ぐみながら、ぎゅっとルゼのことを抱きしめてくれた。

そうしてルゼは、いつまでもルゼが小さな頃の好物を覚えていて、ルゼが落ち込むといつも同じようにそれらを作ってくれた母に見送られて、12歳で家を出たのだ。

どうやらルゼの才能は本物だったようで、天才が数多いる魔塔でも、ルゼはほんの少年であるというのに飛び抜けて評価されるようになった。

師はいくらでも見つけられた。素晴らしい人々が、ルゼを認めて「育てたい」と言ってくれたのだ。ルゼは彼らについて学び、また学びながら様々な新しい理論を模索し作り上げていった。

魔塔での日々は楽しかった。仲間も出来た。

研究者気質である彼らの前では、ルゼの歳も出自も育ちもどうでも良くて、ただルゼという一人の人間の資質だけを見て貰えたのだ。

ここに来て、ルゼが嘲笑を向けられることは一度もなかった。

ルゼの名声が上がるたび、ルゼがひとつ成果を上げて新聞に載るたびに、母からは手紙が届いた。

母が「無理はしないで」とルゼのことを心配しながらも、「ルゼが誇らしい」と言ってくれたから、ルゼにはそれがとても嬉しかった。

ルゼはこの時のことを、今でも後悔している。

楽しくて、研究に夢中になって、段々家に帰るのを疎かにするようになった。母はそれでも優しいから、よく魔塔の近くに寄っては食事に誘ってくれたけれど、食事に使える時間なんてたかが知れてる。

ちゃんと会えたのなんて、家で一緒の時間を過ごしたのなんて、一体いつが最後だっただろう。ちゃんとそばに居て、母を見て、話を聞くべきだったのだ。

───そうしたらきっと、母さんは死ななかったのに。

母の訃報が届いたのは、ルゼが三十七個目の特許を取得した時。ルゼが、14歳になった時のことだった。

強盗に襲われたらしい。だが、それにしてはあまりにも不自然な事件だった。調べればすぐに分かった。魔塔の仲間達も協力してくれたから、真実を得るための時間はそうかからなかった。

母は殺されたのだ。かつての男に。ルゼの父親に。

捨てた女が、どんどんと評判を得ていくのが目障りだったのかも知れない。賢く美しく華やかで、特に母の過去を知った学者達からは「彼女を捨てた男は馬鹿だ」と酒を片手に盛り上がるようになっていたから。

歳を重ねても綺麗なままで、古い女神にたとえて、セラーナの美貌とたたえられる程だった母。

ルゼが名声を上げるたびに、母はますます話題になった。男に捨てられた貧しい女が、知恵を付け立派に息子を育てたと評判で、いつの間にか母は社交界でも随分な地位になっていた。母は人誑しな部分があったから、かつては母を娼婦と嘲った貴族達でさえ、いつしか母を受け入れていたのだ。

捨てた女が評価を得て、自分の近くまで登ってくるような感覚は大層不快であったに違いない。

ましてやあれは貴族だ。平民の女など、殺すことに何の躊躇もなかっただろう。

「母さん、母さん。………かあ、さん、」

冷たい死体に縋り付きながら、あの日、ルゼはぼろぼろと泣いた。母の訃報が届いてすぐに家に駆けつけて、そうだ。同じ王都だった。帰ろうと思えばいつでも帰れた距離。なのに家に戻ったのは随分と久しぶりで、けれど家はルゼがいた時とちっとも変わらなかった。

ルゼの部屋もそのままで、ただ定期的に掃除されていたことは分かった。きっとルゼがいつ帰ってきても良いように。

母の部屋もそのままで、壁にはルゼが小さい時に家庭教師からの宿題で書いた初めての作文や、母のために作ったビーズのネックレスが大切に飾られていた。変わっていたのは、そこに14歳のルゼが写った新聞が加わっていたことだ。

母は、自分が狙われていたことに気がついていたらしい。

護衛を雇って、最後の頃には滅多に外にも出なくなっていた。買い物も何も使用人に任せて、不審な事故で殺されてしまった時は、それこそひと月ぶりに外に出たのだ。

あの日は、ルゼが広場で表彰される予定だった。母はそれを見るために、息子の晴れ姿を見るために、危険を承知で外に出たのだ。護衛を雇って、けれどその護衛に裏切られて、殺されて。

貴族の息が掛かっているからか、騎士達の口まで塞がれていた。「当時バートリー夫人には同行者も、当然“護衛”も居なかった」と。

だからこそ、ルゼは自分で調べるしかなかったのだ。

……どうして、と思う。

ルゼの父親は、伯爵だった。そんな相手に狙われていたのなら、わざわざ外に出たりしなくてよかったのだ。

たかが息子が表彰されるから何だというのだ。どうしてそんな馬鹿なことを、と思う。

でも、きっと母なら何があってもそうしただろうとも分かっていた。

母は優しい人だったから。本当に頭をおかしくしても、まるで別人のように変わってしまっても、ルゼのことを大事にしてくれた。

「大好きよ。愛してる」と微笑んで、抱きしめて、頭を撫でてくれた。

美しかった母。ルゼだって愛していた。照れ臭くて、言えなかったけれど。本当はずっと大事だったし、愛していたのに。

「ごめん、母さん、ごめん……。俺がもっと、俺が、おれが、」

もっとちゃんと、家に帰るべきだった。母の変化に気がつくべきだった。守るべきだったのだ。だってルゼにはその力があった。

母はそれを望まなかったかも知れないけれど、ルゼが魔塔を辞めて、この家に戻ってきていれば、誰にも母のことを傷付けさせたりはしなかった。

誰よりも真面目に魔術を学んだのも、強くなったのも、母のためだったのに。

嗚咽混じりの懺悔だった。縋り付く母の身体は冷たい。あたたかくて、いつも爽やかな石鹸の匂いがしていた母さん。柔らかな微笑み。今は死臭を纏って、静かな顔で、眠るように死んでいる。

照れ臭くて、いつもちゃんと言えなかった。

愛しているも、ありがとうも。

一度でも、ちゃんと伝えるべきだったのに。

▪︎

【ライラ】って本当、女としては報われないんだなぁ。

護衛として雇ったはずの男達に足を潰され、腹を何度もナイフで刺されて、たくさんの血を流しながらぼんやりとライラは思った。

不思議と痛みはなかった。刺されたところは熱を持つというけれど、熱くもない。むしろスッと冷えていくような感覚。だけどそのお陰か、随分と思考は穏やかだった。

「悪いな、奥様。けど俺達も命が惜しいんだ。貴族に逆らうわけにはいかない」

気の毒そうに眉を下げた男に見下ろされて、何だかおかしくて笑ってしまった。

やっぱり、あの男が命じたのだ。かつての【ライラ】が、気を可笑しくしてしまうほど強く愛した男は、けれどライラを目障りに思って簡単に殺してしまえるのだ。

暗い路地裏に、ツンと鉄のような血の匂いが満ちていた。男達が去っていくと、途端に静かになる。誰もいない。居るのは死にかけの女が一人。

あーあ、と思う。仕方のないところはあったのかも知れないけれど、それにしたって男を見る目が無さすぎる。ライラは本当に、女としては報われない人間だった。

でも、だけど。

母親としては、これ以上ないまでに報われた人間であったとも思うのだ。

だってあんなにも素晴らしい息子に恵まれて、母親としてそれ以上の幸福があるだろうか。小さな手を引いて歩いた日が懐かしい。あんなに幼かったのに、もう新聞に名前が載って、国中に知られるくらいに大きくなってくれた。

立派な人になんてならなくても、大きくなってくれただけでこれ以上ないほどの親孝行をしてくれたのに、それ以上の幸福をくれたのだ。こんなにも幸せなことはない。

まだ少年の域を出ないあの子を遺していくことは心残りであるけれど。

魔塔に所属する魔術師なら、たとえ貴族でもまともに手は出せないということを知っている。調べたのだ。あの子が魔塔に行くことが決まった時、たくさん調べた。だから安心出来る。

あれだけの特許を取ったのだ。ライラの遺産もあの子に渡るだろうし、きっと滅多なことでは食いっ逸れたりはしない。

あの子はきっと、大丈夫。賢くてしっかりした子だから、もうライラが居なくても十分立派に生きていける。

優しい子だから、それでもお葬式では、少しだけ泣いてくれるかも知れないけれど。強い子だから、立ち直ってもくれるはず。

「………ル、ゼ、」

最初は、元の【ライラ】が消えてしまったから仕方なく、ただそうするべきだと思ったからと育て始めた子だった。

でも、「母さん、母さん」と呼んでくれる小さな子が愛しくて、本を与えるたびに夢中になって読む横顔が愛しくて、いつの間にか本当に大切になってしまった。

ルゼ。私のルゼ。愛しい子。可愛い子。

ライラはあの子を産んだ本当のお母さんではなかったけれど、お母さんに成りすました偽物だったけれど、この身に余るほどの幸福を貰ってしまった。

「ど、うか、」

神様なんて信じてない。でも、どうか、どうか。

あの子のこの先が、一生が、光り輝くようなものでありますように、と。

祈るようにしながら、ライラはやがて、ひっそりと息を引き取った。

暗く湿っぽい路地裏で、誰にも看取られることなく、血に塗れた最期であった。

…………はず、だったのに。

▪︎

「…………え?」

長い夢を見ていたような気がする。夢から覚めるような感覚で、ライラは目覚めた。

きょとんとした拍子に、いつのまにか見慣れてしまった、まるで何度もブリーチをかけたように見事な金髪が肩からパサリと滑り落ちた。ぱちり、とまばたく目は緑色。

あれ、と思う。多分、また生まれ変わったわけではなかった。だって持っている記憶は、【ライラ】のままだ。

でも、何故だろう。絶対に死んだと思ったのに。

それに、キョロキョロと辺りを見渡しても、全く見覚えがない。病院でもないようだし。

とても綺麗な部屋だけれど、インテリアというには行き過ぎてるくらいに花があちこちから、地面や壁からも生えていて、ファンタジーな世界観全開といった感じだ。

「…………かあ、さん?」

と、その時だった。バサバサバサ!と紙が落ちる音。それに次いで、どこか知っているような知らないような声が、しかし覚えのある音でライラを呼んだ。

パッと後ろを振り返ると、そこに居たのは青年で、どうやら先程の声の主も彼のようである。

肩の辺りで切り揃えられた黒の髪に、紫の瞳。見覚えはない。でも、すぐに分かった。

わ、と思う。子供の頃から贔屓目なしに可愛い子だったけれど、うちの子って、すごく綺麗に育つのらしい。

「大きくなったねえ、ルゼ……」

「っ母さん!!」

思わずそうしみじみと言うと、ルゼはいきなり、グッと泣きそうな顔になってライラの元に駆け出してきた。

ぎゅっと強く抱きしめられて、ちょっとびっくりする。かなり育ったルゼの様子からして随分と時が経ったはずなのに、長く昏睡状態になっていたにしては、全く身体がなまってないのだ。多分、四、五年は経っていそうなのに、むしろすごく軽い。

「母さん、母さん、母さん!!っ、か、あさ……!」

「わっ、とと。……よしよし、ルゼ。大丈夫、大丈夫だよ。ごめんねえ、お母さん、ずうっと寝てたのね。ねぼすけでごめんね」

「っ違う!母さんが謝ることなんて、ひとつも……!」

「……ルゼ、大人になったねえ。すごく優しい、立派な大人になってくれたのね。それに格好良くもなった。嬉しいなぁ、幸せだなぁ。……よしよし、よしよし。大丈夫、大丈夫。お母さん、もう大丈夫だからね」

きっとルゼが治してくれたのね、と。ありがとう、と。何度も繰り返して、何度だってぐすぐすと泣くルゼの頭を撫で続けた。

大人になって、ルゼは少し泣き虫になったようだった。子供の頃にはむしろルゼが泣いたところなんて一度も見たことがなかったのに、今のルゼはぼろぼろと大粒の涙を流している。

ライラはルゼなら大丈夫だと思って、勝手に満足して安心して死んでいこうとしたけれど、考えてみればあの頃のルゼはまだほんの14歳だ。たった14歳の少年が、母親の死を。いや、今の状況を鑑みるに本当は死んでなかったのかも知れないけれど、とにかく母が重体となってしまった事実を突き付けられて平気なはずもない。

ライラの場合、特にお腹のあたりを重点的にめちゃくちゃに刺されていたので、結構酷い有り様だっただろう。

「もう大丈夫よ。もうどこにも行かないから、泣かないで、ルゼ。お母さんはもう、大丈夫だから」

それからライラはルゼが泣き止むまで、ずっとそうし続けた。震える指先がライラの、病院着であろうシンプルなワンピースを掴んで縋り付いてくるのを、ずっと抱きしめ続けたのだ。

───そうして、どれくらいの時間が経っただろうか。

一通りライラに慰められて、ルゼはぐすりと鼻を啜るようにしながら、やっとライラから身体を離した。泣き止んで落ち着いたけれど、目元はすっかり赤くなっている。

「あらあら、顔ぐちゃぐちゃ。ルゼ、ハンカチは?持ってる?」

「ん……」

「貸して、ほら。拭いてあげる」

「ん……」

受け取ったハンカチは、しっかり几帳面に折りたたまれていた。こういうところって性格出るよな、と思いながら、ライラはそれでルゼの涙を拭く。

そういえば胸の辺りが湿ってちょっと違和感があるけれど、まぁこれは勲章だろう。思わず苦笑するような形で口元を綻ばせると、ルゼがふと、「……あの、母さん」と口を開いた。

「うん?……ルゼがそんな顔するなんて珍しいね。どうしたの?」

「それが、あー……。怒らないで聞いて欲しいん、だけど……」

「?」

おずおずと、まるで何か悪いことをした子供みたいな顔でルゼが言う。

多分ルゼは成人してる、ような気がするし、本来であれば成人男性がやるのはなかなか見ていられないような仕草だけれど、親の欲目というやつだろうか。ルゼが中性的な美人に育ってくれたのもあって、全く見苦しくない。

ルゼは父親も、見た目だけならとてつもない美人であったし、美形ってこういう時得だなぁ、とぼんやり思う。

「その。母さんは僕に、優しい大人になったねって言ってくれただろ?でも本当は、そうじゃないんだ。僕は、母さんが自慢出来るような大人にはなれなかった……」

「ルゼ。どうしてそんなことを言うの。子供が私が居ない間に、こんなに立派に大きくなってくれたのよ?どうして自慢じゃないと思うの?」

「けど、その……」

「どんな大人になってたって良いの。大人になってくれたってだけで、十分すぎるくらいの親孝行よ。分かったら背筋を伸ばして、そんな顔しないで!ルゼは誰の息子なの?私の息子が、情け無い顔しない!」

バシン!とルゼの頬を挟むと、ルゼの紫の目がパチパチとまばたく。それから、まるで力が抜けたように、安心したように、また泣きそうな顔になった。

「母さん……。やっぱり、母さんは昔のままだ」

「当たり前でしょう、母さんだもの。それで、どうしたの?どうして私がルゼに怒ると思ったの?」

「……実は、その。母さんは、厳密には、治ったんじゃないんだ」

「え?」

「………蘇生、したんだよ。僕が。魔術を魔法に昇華させて、百年かけて……」

「ひゃ、………百年????ひゃく、百年!!??」

「うん。それで、それって実は魔塔でも教会でも禁忌とされてることなんだ。命を弄ぶ真似だからって。だから僕は魔塔から追放されたし、教会からも破門された。あとついでに魔王にも認定されちゃった」

「魔王!!??」

しょんぼりと肩を落とすルゼとは反対に、ライラはぎょっとした顔でルゼを頭のてっぺんからつま先まで何度も見た。何度見てもただの美人な息子である。どう見ても、そんなおどろおどろしい称号を付けられるような存在には見えない。

あ、いやでも今、百年と言ったか。つまり114歳でこの姿ということになる。それを考えれば、確かに普通の人間では説明が付かない、かもしれない。

ただの奇跡の114歳という可能性も捨てきれないけれど。美魔女の男バージョンみたいな。

「母さんを蘇生させる研究の途中にね、偶然不老不死の方法を発見したんだ。で、それを試してみたところうっかり急に若返ってしまったものだから、当然怪しまれるだろう?その時に色々と露見してしまって……」

「不老不死」

「母さんを蘇生する上での別方面でのアプローチとして、地下でキメラや人工生命体も作ってたんだけど、そいつらの存在もまずかったみたいでね。魔物を従える魔王として広く知られるようになってしまって、今では定期的に国からの討伐隊が組まれてるんだ」

「討伐隊」

「………流石に、怒った?」

おずおずと、ライラの顔色を伺うようにしてルゼが言った。

しかしまぁ、怒ったというか、びっくりしたというか、呆気に取られたというか。

パチパチとまばたきを繰り返したライラは、うーん、と天井を仰ぐようにして頭を抱えた。転生したら息子が居たの次は、死んで生き返ったら息子が魔王になっていたなんて、普通に生きててもなかなか遭遇することのないびっくり事件だ。

「………まぁ、でも、うん」

「……母さん?」

「うん。やっちゃったものは、仕方ない」

流石に天才の息子が思春期拗らせて「俺、魔王になる!」とか言ってたら、横っ面引っ叩いて「考え直しなさい!」くらいは叫ぶけど、ルゼのこれはそういうものではないし。

何せライラを助けようとしてくれたが故のことだ。いじらしい息子を、どうして責められるだろうか。というか、割と十割近く勝手に死んだライラに責任があるような気がしてならないので、どの顔を下げて怒れば良いのか分からない、というのもある。

「怒らないよ、ルゼ。がっかりもしない。分かるでしょ?だって私お母さんだもの。世界中が敵になったって何があったって、お母さんは子供の味方なんだってことは、一万年と二千年前から決まってる世界の法則なんだから!」

「母さん……!でも、何で一万年と二千年??」

「語呂がいいでしょ。前世で聞いた曲の歌詞にあったの」

「っ、ふはっ!出たよ、母さんの前世。百年ぶりに聞いた!」

百年ぶりの「前世」の台詞に、ルゼが思わずと言ったみたいに吹き出して破顔する。

ライラはそれを愛しげに細めた瞳で見つめて、「久しぶりに聞くと結構いいでしょう」と胸を張った。

「そういうわけだから、安心してねルゼ。これからは私も一緒だし、ルゼのこと守るから。百年分、いーーーっぱい守るからね!」

そう言って、今度はライラの方からぎゅっと力強くルゼのことを抱きしめた。

国が何だ、教会が何だ、討伐隊が何だ!母親という生き物は、そんなものに恐れをなして逃げ出すようには出来ていない。

子供のためなら国にだって教会にだって、神様にだって歯向かえてしまうのが我が子可愛さというものである。我が子と世界を天秤にかけた時、間違いなく子供を選べてしまうのが母親というものである。

地球日本産の女を舐めるなよ、鬼女にだってなれるんだからな!と思う。

「……うん。うん、母さん。心強いよ、すごく、すごく………」

「そうでしょう。だってお母さんだもの。ルゼと一緒だと強いのよ」

「へんなの」

「仕方ないでしょう。そういうものなんだから」

折角泣き止んだのに、また泣き出したルゼを抱き締めて、仕方がない顔で苦笑しながらライラは「それにしても、不思議だなぁ」と思う。

自分はあんまり碌な母親ではなかったはずなのに、うちの子、どうしてこんなにお母さんっ子に育ってくれたのだろう。

まぁ、細かいことはどうでもいいか。健やかでさえ居てくれるなら、お母さんとしてはオッケーです。