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子供ができない女と離縁された私は、七人目の継母としてワケあり伯爵家に嫁ぐ

作者: セトガワ トウ

本文

「帰れブス! 僕に近寄るな!」

それが私とアジュの出会いだった。

八歳のアジュと目線を合わせるためにしゃがみ込むと、彼はすかさず食べかけのケーキを私に投げつけてきた。

最悪なことに、私は顔面キャッチをしてしまう。

眉の上から滑り落ちるスポンジ。

敵意と怯えを露わにする小さな男の子。

ショックで泣きそうになるも、私は逆に口端を上げて見せる。

簡単には諦めない。

私は母親になってみせる──

「ユミル。悪いが、君とは別れる。子供ができない女だとは思いもしなかった」

夫にそう告げられて、私の一回目の政略結婚は失敗に終わった。

結婚生活は約五年。

元々貧乏子爵家でお金のために嫁いだのでホッとしている部分もあった。ただ、心残りが一点。

……子供ができなかった。

私には日本での前世があり、そのときも同じ経験をしている。

子供ができない体質と判明して、夫に泣きながら別れを告げられたのだ。

そのとき、私に怒りや絶望はなかった。

そうだよね……。しょうがないよね……。

だって、私も死ぬほど自分の子が欲しかったから……。

彼を許して私は離婚し、その後不幸な事故で死んで、異世界に転生した。

二十五歳の誕生日、二度目の縁談が舞い込んだ。

相手は七歳年上のランス伯爵。

彼は私に妻の役割は求めなかった。問題児である息子の継母としての役割が大事らしい。

彼は息子の成長、私は生活と実家への支援。その利害が一致した私たちの縁談はすぐにまとまった。

実は、私が乗り気だった理由はもう一つある。

継母でもいいから、母親になりたかった。

自信もあった。

誰よりも子供を愛してみせると。

でも父からの情報で、その自信はあっけなく破壊されたけれど。

私、七人目の母親らしい……。

うちと同じ貴族とは思えない……!

そう思うほど立派な邸宅だった。

庭で感動していると執事に伯爵の書斎まで案内される。

中に入ると、窓の前にいた彼が振り返る。

銀髪に青い瞳、輪郭も綺麗で肌にはシミの一つもない。相変わらずクールな美青年だ。

「来てくれたか。早速だが、息子のところに案内しよう」

そう言って、彼はいきなり息子の部屋まで案内しようとする。

夫婦の役割はないとはいえ、もう少しなにかないのだろうか……?

廊下を歩きながら、彼は淡々と話す。

「息子の名はアジュ。八歳だ」

「アジュ様ですね」

「様はいらない。それだとメイドとの関係に似てしまう。三人目の母はそれで失敗した」

「……承知しました」

なるほど、過去の母親たちの失敗談があるわけですか。

伯爵が部屋のドアを開ける。中に入ると、可愛らしい銀髪の少年が床に座ってケーキを食べているところだった。

「アジュ、新しいお母さんだ。挨拶しなさい」

「こんにちは、ユミルよ。よろしくねアジュ」

挨拶に対する彼の反応はすこぶる悪い。

椅子に座ったまま、こちらを憎らしそうに睨み付けてくる。

見かねた伯爵が彼を叱る。

「アジュ、その態度はなんだ?」

「あ、大丈夫ですよ。いきなり話しかけてごめんね」

「帰れブス! 僕に近寄るな!」

想定外の一言に内心動揺しつつ、表には出さないで目線を合わせたところ、顔面にケーキを喰らった。

伯爵が怒鳴りそうになったので、私は先に手を伸ばして合図を出す。

大丈夫ですと。

内心ショックを受けつつ、私は床に落ちたスポンジを拾って口に入れる。

「きたなっ……!?」

「汚い? でも私の家ではケーキなんて滅多に食べられないから。お金持ちの家では、こんな風にケーキを使うのね。驚いたわ」

そう言うと、アジュは警戒したように一歩後ずさる。

「少し甘いから、歯磨きはちゃんとした方がいいわね」

「うるさいっ、母親ぶるな!」

「アジュ、いい加減にしろ」

「ランス様、いいんです。一度、出ませんか」

「……わかった」

すぐに、私たちは外に出る。

近くにいたメイドに、伯爵は部屋を掃除するように指示を出した。

それも少し問題だと感じつつも、いまは意見を述べるのを我慢する。

「……今日は特に機嫌が悪かった。あいつは容姿がいい女性に対してブスと言う」

「なぜ、逆のことを?」

「美人はその悪口に慣れていない。むしろ誇りに思っているからこそ、そこを攻撃する。困ったものだ」

相手によって悪口を使い分けているのだろう。

アジュは人間不信に陥っていると初対面の私にもわかる。

「あとで、アジュの成育記録帳を執事のヨルズから受け取ってくれ。私は仕事で一ヶ月ほど家を空ける」

「一ヶ月ですか……」

「悪いとは思う。だが重要な案件で、どうしても外せない」

大事な仕事なら仕方ないか……。

この生活を維持できるのも彼あってこそだから。

「私が君を妻として愛すことはない。だから他の男と会っても構わない。ただし、アジュには見つからないようにしてくれ」

私への愛のなさと同時に、アジュに対しては配慮がある。

「アジュの傷を少しでも軽くしてくれ。それだけが私の望みだ」

「承知しました」

伯爵は小さく頷く。

相変わらず、感情は見えない。

出ていく際、彼は執事に小声で告げる。

「予算の範囲内であれば、彼女の好きにさせてやれ」

私に権限を与え、出ていった。

早速、私は執事に記録帳を見せてもらった。

アジュの知能や身体能力はかなり優秀らしい。

読み書き計算、思考力も良い。

そしてこの世界には魔力や魔法があるのだが、彼の魔力量は大人を混ぜてもトップクラスらしい。

つまり由緒ある伯爵家を継ぐにふさわしい天才だ──ある欠点を除けば。

魔道具適正……0

魔法は魔力だけあっても使えない。

必ず、魔道具を介して発動する。

つまり魔道具をいかに上手く扱えるかどうかで、適性のあるなしが判断される。

魔力量が高いのはいくつも利点があるが、そもそも扱えなければ無意味。

「坊ちゃまの致命的な点です。これがある故に、世間からは無能扱いされております」

立派な白髭を蓄えた執事が低い声で話した。

「ヨルズさん。いつからここで働いていますか?」

「ヨルズ、とお呼びください奥様。私は三十年、伯爵家に仕えてきました」

「そう。でもまだ八歳でしょう。無能扱いするのは早すぎるわ」

「坊ちゃまは初級の魔道具も扱えません。他の貴族の子は五歳で使えるようになるものなのに」

ヨルズは六十歳くらいだろうか。メガネをかけていて一見知的だが、どこか焦りが見え隠れする。

伯爵家の嫡男が、他に遅れをとっているから?

「明日から、彼の授業を見学するわ」

そう告げて、私は部屋に戻る。それからアジュや実母に関することを書かれたレポートを読み込んだ。

アジュは双子だったらしい。

もう一人はキールという男の子。

実母は彼だけを連れてこの家を出て、その後別の人と結婚したとのこと。

資料だけではわからない複雑な事情も絡むのだろう。

翌日、朝食の時間になってもリビングにアジュは現れない。

おかしいと思ってメイドに尋ねると意外な答えが返ってくる。

「坊ちゃまは部屋で食事を取るんです」

「……ランス様とはとらないの?」

「はい。最後にそうしたのは半年前です」

少し、頭が痛くなってきた。

アジュが継母を嫌いなのはわかる。

でも父親とも上手くいっていないとは……。

「私の食事を彼の部屋に持ってきてちょうだい」

「……え? でも坊ちゃまは」

「お願い」

そう告げて足早にアジュの部屋に向かう。

一度深呼吸してから、ドアを開けた。

「おはようアジュ! 一緒にあさごぼっ!?」

すかさず枕が飛んできて、私は顔面キャッチをしてしまう。

昨日のケーキよりはマシなのかな……。

「勝手にはいってくるな! 出ていけっ」

「一緒に朝ご飯を食べようと思ったの」

「いやだ! 出ていけ! お前と一緒になんて食べたくない!」

これは困った……。

圧がすごすぎて、強引に通したら嫌われてしまうだろう。

一旦外に出ることにした。

「じゃあ、私はドアの前で食べるからね」

返事は返ってこない。

料理を持ってきたメイドに私は尋ねる。

「彼はいつも床でごはんを食べるの?」

「……は、はい」

「では私もここで、床に置いて食べてみるわ」

「奥様……いくらなんでもそれは……!?」

「大丈夫よ。準備をお願い」

複数のメイドたちがアジュの部屋に料理を置いた後、廊下の床にもそうする。

動揺するメイドたちはリビングに戻ってもらって、私は食事を始める。

「このパン美味しいわね。うちでは、こんなパン滅多に食べられなかったから」

ドア越しの会話は一方的なものだ。

それでも心を開いてもらうために、色々と試したい。

朝食が終わって、いよいよアジュの授業が始まる。

彼は学校には通わず、家で教育を受けている。

「──まるでダメですな。これでは、伯爵家を継げませんぞ」

庭でヨルズがため息をつく。

アジュは地面に膝をつき、悔しそうにする。そばには扱えなかった魔道具の杖がある。

「アジュ様、もう一度です。炎を強くイメージするのです」

「……いやだ。もうやりたくない」

「ダメです。もう一度」

厳しい口調で言われ、嫌々ながらアジュは杖を手に取る。

「意識を集中して、炎が出るところをイメージするのです」

「──うわぁ!?」

杖が弾かれたように飛び、アジュの手から逃げていく。

ヨルズはそれを拾うと、抑揚のない声で告げる。

「これ以上は時間の無駄です。午後の授業まで、休憩にしましょう」

二限目以降は中止にするらしい。

落ち込んで座り込むアジュを尻目に、ヨルズは邸宅に戻っていく。

私はアジュに近寄る。

「私が魔道具を使えるようになったのは十二歳だから、焦らなくてもいいよ」

「……」

あの気の強い彼が、反論すらしてこない。

「うちはお金がないから、初めて魔道具に触れたのは十歳のとき。二年間は全然ダメだったわ」

「僕はもう五年やってるんだよ……。二年で使えるようになったっていう自慢かよっ!」

彼は半泣きで叫ぶと、走って自宅に逃げ込んだ。

少し伝え方が悪かったかな……。

邸宅に戻ると、私はヨルズにさっきの件を注意する。

「もう少し、丁寧な言葉を使って。子供って意外と繊細なのよ」

「……旦那様には伯爵家の跡取りとして、厳しくても良いと言われております」

「でもあんな言い方、傷つけるだけよ」

「では甘やかせば良いと? それで魔道具が扱えるようになるでしょうか」

ヨルズはメガネをくいと持ち上げる仕草をする。その眼光は鋭く、私に対する尊敬の念など欠片もない。

どうせ、七人目もすぐ出ていくと考えているのだろう。

「午後の授業は私にさせてください」

「奥様が……? 一つだけよろしいでしょうか」

「ええ」

「アジュ様の訓練が始まったのは──」

滔々と今までどんな訓練をしてきたかを説明してくる。

うんざりしながら聞き終えると、私はアジュの部屋に向かう。

ノックをしようとして……手を止める。

「……うっ………………うぅ………………」

中から、噛み殺したような声が聞こえてきたからだ。

たぶん、枕かなにかに顔を埋めて泣いているんだと思う。

声はかけずに、踵を返した。

午後の授業が始まると、充血で目を赤くしたアジュに柔らかい声をかける。

「午後は私が教えるね。不満はあると思うけれど、まずは一回聞いてほしいの」

魔道具の杖に強めに魔力を流し込むと、午前中のアジュのように杖が吹き飛ぶ。

「いまのは、魔道具に対して魔力を込め過ぎたのね。午前中のアジュも同じだと思う」

「……知ってるよ」

「うん、あなたの魔力は大人も顔負けだから、意識しても扱いが難しいのよ。小さな体に大きすぎる力が宿っているの」

「大きすぎる力……」

たぶん、体が成長するに連れて、状況は良くなっていく。

だからあと数年もすれば、初級の魔道具くらいは難なくいけるだろう。

でもそれじゃ遅い。

周囲の期待に応えられず、彼の精神はますます病んでいく。

「弱めに……弱めに……」

アジュは魔力を弱める意識を持って杖を持つが、やっぱり弾かれた。

最小でも出力が高すぎるのだ。

「大丈夫よ。何回もやってみましょう」

「……奥様、よろしいでしょうか」

そばにいたヨルズが呆れたような顔をする。

「その程度のことは、我々も教えているのですよ。それでできたら苦労はしないのです」

「でも午前中は一、二度飛ばしただけで中断していたわ」

「それはアジュ様の集中力が欠けていると判断したからです」

「──ヨルズ」

白熱する私と彼の議論を邪魔するように、誰かが庭にやってきた。

長い白髪を後ろで結い、白髭が目立つ男性だ。

質のいい服にマントを羽織っている。

庶民とは違うオーラを出す彼を見るなり、ヨルズに笑顔が浮かぶ。

「来てくださったのですね、アイグル様」

「少し時間ができたのでな」

「奥様、この方は元宮廷魔術師で伯爵のアイグル・ホールズ様です」

宮廷魔術師は、魔法関連のエリートだ。

彼は当然、講師として招かれたのだろう。

アイグルは私やアジュを眺めてから、ヨルズに質問する。

「それで、いまはどういう状況だ?」

「奥様が、アジュ様に指導していたところです。魔力量が多すぎる云々と……」

「……ふむ。アジュくん、わしはアイグルと言う。まず、腕前を見せてくれないかね」

アイグルは杖に視線を向ける。

撃ってみろ。

そう目で語っている。

それを受けたアジュは緊張した面持ちで、いままでと同じことをやった。

失敗して落ち着かない様子のアジュを見て、アイグルはぼそりと漏らす。

「酷いとは聞いていたが、ここまでとはな……」

「私にもお手上げなのですよ。アジュ様にはなにが足りないのか」

「間違いなく想像力の欠如だ。わしが指導しよう」

スッと前に出てアイグルが指導を始める。

彼はイメージが大切であり、頭の中で魔法を使う姿を思い描く訓練を徹底した。

数時間それは続き……

──カラン

アジュの手からまたしても杖が逃げて遠くへ落ちた。

天を仰ぎ、アイグルは細長く息を吐く。

「ヨルズ。わしはキール様に指導したこともあるが……運命とは皮肉なものだな。なぜここまで格差があるのか」

この一言を耳にした途端、アジュが感情を露わにする。

杖を地面に強く投げつけ、叫んだ。

「もういい! やりたくないっ!」

そして彼は全力で走っていく。

それを見たヨルズたちが諦観したように首を左右に振る。

「アジュの前で誰かと比較したり、才能を否定するような言動はやめてください」

「ヨルズ、彼女の名は?」

「こちらはユミル様です」

「確か七人目だったかな……ふっ」

七人目をわざと強調して、鼻を鳴らした。

「奥様は、優しくすれば魔法を使えるようになると?」

「そうではありません。ただアジュはそれ以前の問題です。まずは気持ちを落ち着かせることからです」

「ハッハッハ! では二週間後にまた来るので、それまでに気持ちを落ち着かせてください。もしそれで魔法が使えたら、わしは今までの理論を捨てることになりますなぁ」

相当ツボにハマったようで、踵を返した後もずっと笑い続けていた。

私がヨルズを軽く睨むと、気まずそうに目を逸らす。

「二週間、私がアジュを指導するわ」

「難しいと思いますが」

「やってみないと、わからないわ」

「……奥様、もし成功したら私はここを去りましょう。その代わり失敗したら、今後魔法の指導には関わらないでください」

「……わかったわ。授業は私とアジュの二人だけで行います」

そう伝えると、ヨルズは肩をすくめた。

私は邸宅に戻り、いままでの訓練や授業の記録を片っ端から読み漁った。

結果としてわかったのは、誰もアジュの内面にはアプローチしていないこと。

アジュがなにを好み、なにが嫌いかすらわからない。

そこからね。

翌日、私はアジュのドアをノックする。

「今日から二週間、私が講師をするわね。まずは朝食よ。私はドアの前で食べるわね」

昨日と同じように、ドアの前に食事をとりつつ、部屋の中にいる彼に他愛もない話を振る。

返事はかえってこないけれど。

ただ彼が偉いのは一時間目の時間になると、ちゃんと庭にやってくるのだ。

私は杖の代わりに、布を丸めて作った即席ボールを出す。

「今日はこれで遊びましょう」

「……それ、なに?」

「お手製のボールよ。子供の頃、うちはこれで遊んでいたの」

「そんなので遊ぶの……?」

ぽかんとする彼に遊びのルールを説明する。

まずはドッジボール的なやつだ。

五分もプレイすると、私は心底驚かされた。

私は貧乏家ではあったが、実は魔法の才や身体能力には恵まれていた。

でもアジュの高い身体能力にはついていけない。

「次は蹴って遊ぶわ」

簡易ゴールを作ってサッカーの真似事をする。

遊びの中、アジュがいいプレイをする度、私は全力で褒めちぎる。

「すごいわアジュ!? いまのシュート、天才的よ!」

「……お、おおげさ……」

「全然おおげさじゃない! 私は感動したわ」

「……」

どう反応していいのかアジュは迷っている。

彼の地の底まで落ちた自尊心を回復させたい。

実際、シュートはすごかったしね。

翌日は、庭にいる生物の観察をする。

アジュはアリの行列を見つけ、報告してくる。

「アリがいた」

「観察しましょう。歩き方とか、どこに向かうのかとか」

巣穴に向かうアリの観察を終えると、次はバッタを発見した。

それも観察する。

「……ねえ、これになんの意味があるの?」

「アリもバッタも前に進むけれど、動き方が全然違うでしょ?」

「それは、そうだよ」

「人間も同じよ。人に合ったやり方があるから、誰かと無理に比べる必要はないの。自分は自分でいい」

双子の弟キールに対する強烈なコンプレックス。

アジュの中にはそれがある。

周りから比較され続けたことも原因だろう。

簡単に消えはしないが、別軸の考え方を提示したい。

「アジュはアジュでいい。そう、自分を信じることも大事よ」

アジュはわかったような、わからないような顔をしていた。

まぁ難しいよね、大人だって中々できないし。

翌日からは、ようやく魔法訓練に入る。

魔道具の杖を持ったアジュに、私は尋ねる。

「いつも、どんなイメージをしている?」

「炎が強く噴きだす感じ。ヨルズや色んな先生に言われてたし」

「普通はそうよね。でもあなたは逆にした方がいい」

「……なんで?」

「魔力が強すぎるし、魔法にいいイメージもないでしょ?」

彼は答えず、杖を何度も逆の手に持ちかえた。

長く触れていたくないかのように。

……そっか。

魔道具そのものが、すでに嫌いなんだ。

だから無意識レベルで力んでしまう。

「アジュは大好きな人の頭や肩に触れる時、どうする?」

「え? 優しくなでたり、そっとさわったり?」

「そんな優しい気持ちで魔力を込めてみて」

アジュは戸惑いながらも腕を伸ばす。

杖は……やっぱり弾き飛ぶ。

でも今までとは違った。

弾かれる力が明らかに弱かった。

「アジュ、ものすごく良かった。杖があまり飛ばなかったでしょう? 魔道具が以前より、あなたを受け入れているからよ」

「僕を、受け入れてる……?」

「魔道具は友達よ。あなたの敵じゃなくて、友達」

「も、もう一回やってみる」

そこからアジュは何度も練習した。

杖が飛ぶ距離はほんの少しずつ、短くなっていく。

「もう日も暮れるし、今日はここまでにしない?」

「もうちょっとだけ」

夕日が沈む頃、ついにアジュは杖を飛ばさないことに成功した。

「やったわね! すごいすごいっ。アジュは天才よ」

「お、おおげさだよ……」

私は飛び跳ねて本人より喜ぶ。

実際、とても嬉しかった。

実は日頃の生活は、魔法を使う上でも非常に大事だ。

乱れた生活をしていると、精神状態も悪くなる。

「早寝早起き、までは言わない。ただ夜中まで起きているのはダメよ」

「……眠れないんだよ」

「じゃあ馬車に轢かれて死んだら魔王に転生した人の話を聞かせるから」

「なにそれ!?」

ここはもう、前世で得たオタク知識が抜群に活きてくる。

マンガや小説で得たものをアウトプットしていく。

夜に話を聞かせてあげると、アジュは早く眠ることが多くなった。

そして一週間が過ぎた頃。

私がいつものように朝食中に話しかけていると、突然ドアが開いた。

「……中、入ったら? 廊下で食べるのはへんだよ」

「いいの? 遠慮なく、お邪魔するね」

私は食事を室内に運ぶ。

近くにいたメイドたちが目を丸くして、顔を見合わせていた。

ケーキも枕も食らわずに、部屋に入れるなんて最高ね。

一緒に食事をとる。

言いたいことは正直いくつかある。

床で食べること。片付けをしないこと。

食べ方のマナー。

でも今はグッと堪える。

それを言って受け入れてもらえるほど、心の距離は近くない。

さて、今日の授業は一歩進んだことを行う。

「もう杖を飛ばさなくなったね。次は炎を出すわ。小さな蝋燭の火をイメージして」

「蝋燭の火」

訓練は何時間も続いた。

その間、アジュは根気強く練習を続ける。

日が沈む頃、ポッと一瞬だけ杖先に火が出る。

「きゃーーっ! やったわねアジュ!? 今のは間違いなく魔法よ!」

「ぼ、僕が、だしたの……?」

「そうよ。あなたが魔法を使ったの! ずっと頑張ってきたもんね。おめでとう!」

私は全力で褒めたつもりだったのだけど、アジュの反応は思ってたのとは違う。

フラフラと歩き、ストンと腰が抜けたように座り込む。

「……ひっく……ひっく…………うぇぇえええん──」

それは突然の号泣だった。

溜め込んでいた感情が爆発するような、そんな泣き方だった。

何年も抱え続けた苦しみから、少し解放されたのだと私は憶測する。

アジュの肩を抱き寄せると、しばらく私の胸の中で彼は泣きじゃくった。

私がここにきて、約二週間が経った。

今日は約束していたアイグルが来ている。

「奥様、彼の気持ちは落ち着いたのですかな? フフッ」

庭で、揶揄うように笑うのはアイグルだ。

その隣にはヨルズもいる。

ついに、アジュの訓練の成果を見せる時がきたのだ。

「最初の一週間は頑張っていたのですが……ここ一週間は訓練を放棄して遊びに出ていたようですね」

冷めたような口調でヨルズが話す。

遊びではなく、外に出て魔法の練習をしていたのだ。

ヨルズやメイドたちに、アジュの力を見られたくなかったから。

「では奥様、見せてもらおうか。二週間の訓練の成果をね、クク」

「アジュ、まずはいつものをやってみせて」

「……うん」

アジュが集中すると、杖先から指先ほどの火がポッと出た。

それを十秒以上も維持する。

実はこれは難しいのだが、アイグルは堪えきれないように噴き出す。

「ハハハハッ! こりゃ参った! なにも出来なかった子供が火を出せた。これはめでたいっ。実にね」

口調が明らかに小馬鹿にしている。

「だがね奥様。わしが教えていたら、人の頭くらいの炎は出せただろうがね」

「勘違いしないでくださいね。これは、ウォーミングアップですから」

「ほう、もっと大きな炎が出せると? 拳程度だろうか!」

アイグルがニヤつく中、アジュは腕を真っ直ぐに伸ばす。

アイグルの横らへんの上空に照準を定める。

「そんな大袈裟な! 庭の草木を燃やすことを心配されておるっ」

「少し黙っててくださる? それともアジュの邪魔をしたいのでしょうか」

「……フン。ならば見せてもらおう」

彼がようやく口を閉じ、庭に静寂が訪れる。

アジュは深く呼吸した後、いつも通り魔法を放った。

──強烈な炎の渦

それがアイグルの頬の近くを通るようにして、天に伸びていく。

威力、熱量、範囲。

どれをとっても八歳の子のレベルじゃない。

熱気に当てられたアイグルが、へたりと腰を抜かすほどだ。

「な、なんだ今のは!?」

「う、うまくできたかな?」

「最高よアジュ! あなたはすごい才能の持ち主だわ」

私が褒め称える横では、アイグルとヨルズが顎が外れそうなほど大口を開けている。

「待て、おかしいぞ……!? 二週間であんな魔法を撃てるわけがない!」

「アジュだから撃てたのです。目の前で見たはずです」

「いや、だが……」

動揺してドモるアイグルの横で、ヨルズもまた落ち着かない様子だ。

「アジュ様は五年間、小さな火すら出せなかったのです。奥様、どんな指導をされたのですか……?」

「あなたたちの指導は一般的に間違ってないと思う。でもヨルズに必要なイメージは、炎じゃないわ。自分はできる、というイメージが大事だった」

より天才的な双子と比べられ、また周囲の出来損ないという評価で曲げられていた自信。

私はこれを少し直しただけなのだ。

アイグルに言う。

「魔法理論の前に、心がある。私はそう思いますわ」

「……ぐぐぐ……し、失礼する……!」

プライドを傷つけられたようで、アイグルは下唇を噛みながら去っていく。

「痛だっ──!?」

途中、石につまづいてコケていた。

相当に動揺しているらしい。

一方、ヨルズの方は完全に放心状態で、ただただ立ち尽くす。

普段冷静な彼の目が、確かに潤んでいた。

「……これが、坊っちゃまの本当の才能だったのか……」

悔しいのか、感動なのか、ヨルズの頬に一筋の涙が伝う。

彼は、私に向き直る。

「奥様……あなたこそ、真の指導者です。我々が五年で出来なかったことをわずか二週間で成し遂げました」

「大げさよ。土台はできていたわ。私は最後の一押しをしただけ」

「大変失礼な態度を取りました。約束通り、今日限りでここを立ち去ります」

深々と頭を下げると、ヨルズは邸宅にゆっくりと戻っていく。

切なそうにするアジュに、私は尋ねる。

「あなたは、ヨルズが嫌いだった?」

「……ううん、嫌いじゃない。怖かったけど」

「このまま出ていってほしい?」

その質問にアジュは素早く首を左右に振った。

その態度で、今後の成長に必要な人だとわかる。

「ヨルズ、待って」

「……はい」

「あなたには、まだ伯爵家に残ってほしい」

そう伝えると、彼は目を見開いた。

「あなたの仕事ぶりは真面目だし、三十年も伯爵家に仕えた忠誠心は本物よ。なにより、アジュがね……」

私はアジュの背中を軽く押して、彼の前に出す。

「ヨ、ヨルズが悪いわけじゃない……と思う……。だから、いてよ」

アジュは言語化が、まだあまり上手くない。

それでも精一杯の想いは伝わったらしい。

ここにきて初めて、私はヨルズの笑顔を見た。

「承知しました。このヨルズ、奥様と坊っちゃまのため、粉骨砕身努力いたします……!」

ヨルズは私の前でひざまずき、頭を深く下げる。

彼も伯爵家の未来のため、常にプレッシャーを感じていたのだと思う。

お互いにとって、いい結果になったかな。

その日の夜、私は自室で日記をつける。

一日の出来事と、アジュの成長を記録している。

彼の魔法を見たら、ランス伯爵はどんな顔をするだろうか?

あの無感情が壊れるのか、今から気になってしまう。

コンコン。

ドアがノックされた。

「どうぞ」

入ってきたのは意外にもアジュだった。

「部屋にくるのは初めてね」

「あの……お話聞きたい。眠れないから」

「ええ、もちろんよ。今日はどんな話にしようかな」

「冒険のやつがいい!」

すごく元気に答えるので、私も自然と笑みがこぼれる。

どこにでもいる八歳となにも変わらない。

部屋に向かう途中、突然アジュが立ち止まった。

様子が変だ。

指をもじもじさせ、上目遣いで私を見てくる。

首を傾げると、彼は緊張気味に話す。

「あの……前のやつ、ごめん……」

「前のやつ?」

「ケーキとか、あと……ブスって言って本当にごめんなさい」

あぁ、そんなこと……!?

アジュはずっと気にしていたらしい。

不安で、今にも泣きそうな顔をしている。

私はしゃがんで、彼の目をしっかりと見つめる。

「ちゃんと謝ってくれたから許すね。私のことは無理に母とは呼ばなくてもいいから。呼びたくなった時に、好きに呼んでね」

「うん! わかった、ユミルさん!」

ちゃんと敬称をつけるのは偉いね。

頭を撫でてあげると、照れたのか下を向いておどおどし出す。

部屋にいき、私は彼が眠るまで日本で読んだ小説の物語を語って聞かせた。

「スゥー、スゥー」

小さな寝息を立てる彼の寝顔は、天使と表現するしかない。

やっぱり子供は宝物だ。

私は音を立てないよう気をつけて、部屋から出ていく。

明日は、私が料理を作ってあげようか。