軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

エピローグ『新たな日々と秘密の再会』

史書を開こう。ガーライスト王国の歴史を語るなら、其の一戦を語らないわけにはいかない。

ガーライスト正統王国戦役。通称、『神話血戦』と呼ばれる一連の攻防を指す戦役だ。

聖女王フィロス率いる正統王国が、僭称王国の残党と其れに与する大聖教の同盟軍を解体し、正統なる王国を守り通した一戦。偽王であったアメライツの首を、純然たる女王であるフィロスが斬り落とした戦い。

そう記録される事になった。歴史の筆は、勝者によって取られるものであればこそ。

此の戦役に連なる英雄の名は数え切れず、彼らは王国の礎として史書に名を刻まれる。

ぱらり、ぱらりと細く小ぶりな指が史書を捲る。英雄として列席する者は、戦場で剣を振るった者だけでなく、協力を惜しまなかった貴族や諸勢力も含まれる。力関係や史書を編纂した者によって、その序列は曖昧だ。

けれど序列の最上位だけは何時も同じ。ただ一人の名だけが刻まれる。それは権力闘争によるものなのか、それとも信仰によるものなのか。

瞳が指を止めて、彼の名を見た。忘れるはずもない其の名前を人差し指の先でなぞる。

二年前の戦役で姿を消して、未だ姿を見せもしない彼の姿を瞼の裏に映した。

「今日は同盟国との会談じゃなかったのか、行政長官」

行政長官。そう呼ばれて――ラルグド=アンはようやく史書から顔をあげた。気付いていなかったが目が乾いていたようで、意識して数度瞬きをする。

ガーライスト王城に備え付けられた書庫は本を保管するために、日光が最低限しか入らない構造になっている。軽く文字を読むのにも目を凝らさなくてはならない。

灯りもつけずに一人でいたアンを彼女が見つけられたのは、きっとアンが暇があれば此処にいるからだった。

「すみませんナインズ様、史書の確認をしていまして。これも私の仕事ですから」

「やめてくれ、今のお前に様付けで呼ばれるほど私は立派な人格も身分もしてないさ。謙虚すぎるより、もう少し偉ぶった方が良いんじゃあないか」

「趣味ではありませんね」

紫色の瞳を尖らせたナインズに向け、頬を緩めてアンは笑った。大人びた笑みは、もう僅かな幼さすら捨て去っていた。

「……まぁ、過去を振り返るのもほどほどにな。お前は立派になったが、だから余計に心配だよ。立派な奴ほど、囚われやすいものだ。それに最近は、英雄の名を借りて不埒な真似をしようとする連中もいる」

ナインズはそれだけを言って、書庫から出ていってしまった。

見透かされていたか。アンは表情を変えないまま胸中でため息をついた。めっきり本当の感情を顔に出す機会は少なくなってしまった。

二年という月日は、歴史の中で見てみれば瞬きほどの時間だ。だが神話血戦後に迎えた二年は、アンにとって一人の人生に匹敵するほどの重みを伴っていた。

女王フィロスの王家統一。諸貴族の併合。聖女マティアによる紋章教の正式な国教化と、教義を国家と同一とする為の編纂。歴史に刻まれるありとあらゆる出来事に、アンは携わり続けている。表舞台に上がる事は少なかったが、彼女の交渉と調整能力は戦後にこそ活用されるもの。

今日も書庫に来れたのは久しぶりだ。数週間に渡り、周辺村落の視察をしていた。聖女マティアにすらまだ会えていない。

――そうだ。もう戦後なのだ。

アンは、二年も経ってからようやくその実感を呑み込んでいた。史書の表紙に触れる。重厚さを伴った黒と紫の色合いが、過去に蓋をしているようだった。

こんな風に感じているのは自分だけではないだろうなと、アンは思った。きっと女王も聖女もこんな思いだったから。戦後を全力で駆け抜け続けていたのだ。幸いやるべき事は幾らでもあった。

南方国家イーリーザルドとの正式同盟も、東方の雄ボルヴァート朝と新たに協定を締結したのも、下手をすればその副産物だったのかもしれない。

「過去ですか。勿論、分かってはいるんですが」

史書を本棚に戻し書庫を出てから、アンが自分に言い聞かせて呟く。

城壁都市ガルーアマリアの陥落から始まり、空中庭園ガザリアとの同盟。傭兵都市ベルフェインを併合して地盤とし、福音戦争を戦い抜いた。サーニオ会戦で勢力を確立し、女王フィロスを戴いて諸国と手を結び――。思い出せばきりが無い。

あの日から今日まで、楽しい事もあったが苦しみはその何倍もあった。死を覚悟した事は数え切れない。ならむしろ、アンにとって今はずっと恵まれている。頭痛の種だった彼がいなくなって清々する思いだ。

アンは胸中で、欺瞞ですね、と呟いた。

やはり過去は美化されるものらしい。あの日々は良かったと感じてしまう。きっと戻れるなら己はあの日を選ぶのだろうと、広い大理石造りの廊下を歩きながらアンは目を細めた。

「本当に、身勝手な人間ばかりです」

「――あら、誰かに聞かれるわよアン」

ぴしゃりと、優美さを含みながらも強さを持った声がアンの独り言を拾う。アンは慌てた様子もなく、むしろ聞かせたのだと言わんばかりに肩を竦めた。

声の主はそんなアンの様子にくすりと笑みを浮かべ、黒い瞳を緩めた。アンも似たような表情を顔に張り付ける。共に廊下を歩く足を止めないまま、軽い挨拶を交わした。

「お久しぶりですフィアラート様。お元気なようで何よりですよ」

「久しぶり、と言っても半年ほどでしょう」

宝石の輝きを思わせる黒曜の瞳と、洗練された立ち居振る舞い。フィアラート=ラ=ボルゴグラードは可憐さよりも美麗さを強調させる容貌でそこにいた。三国会談の度に顔を合わせているじゃないの、と顔を綻ばせて苦笑する。

その笑みにつられ、思わずアンが言った。

「でも以前は、これほど顔合わせをしない事が珍しかったですし」

言った瞬間、アンは咄嗟に唇を噤んだ。先ほどまで史書を読みふけり想い出に浸っていた所為で、心が緩んでいたのかもしれない。彼女には珍しい失態だった。

フィアラート――を含めた数名、というより彼と関わりの深かった者に対して、二年前の話は禁句だ。穏やかな表情が途端に凍り付いた氷を彷彿とさせる事になる。

一年ほど前に事情を知らない文官が、会食の場で彼の話題を出した際には酷いものだった。文官はただ英雄の話をしたかっただけなのだろうが。

フィアラートは表情を固めたままそれ以降は一言も言葉を発さなくなったし、ガザリアの女王は不機嫌さを悪化させ、何時呪い殺してもおかしくない視線で文官を睨んでいた。銀髪の騎士は表面上は取り繕っていたようだが、平然としているのに触れる食器が全て砕け散ったり割れたりするのには余計に戦慄した。

まぁ、聖女の様子に比べればずっとマシだったが。アレは思い出したくもない。

今回アンは直接的に触れたわけではないが、それでも思い浮かべはするだろう。咄嗟に頬を引き締めてフィアラートへと視線を向ける。不味い。会談が台無しになるかもしれない。

「――そうね。確かに、あの頃は常に顔を合わせていたくらいだものね」

だがアンの懸念にそっぽを向くように、フィアラートはあっさりと受け入れむしろより深い笑みを浮かべている。

果て。その時点でアンには違和感があった。フィアラートはここ二年ずっと不安定だったのに、今日は妙に安定した様子だ。

ボルヴァート朝の外交を担う立場として、感情を操作する術でも学んだろうのか。

神話血戦の後、彼が王都におらず、そうして暫くの時を経ても戻らないのを確認してからフィアラートは故郷へと帰る事を選択した。元より彼女はボルヴァート朝から留学してきた身でしかない上、繋ぎ止めていたのは彼の存在だけだ。

先の大戦で人材を悉く失っていたボルヴァート朝で、魔術に秀でた彼女が重職を得るのは難しい事ではない。外交を司る立場に任じられたのは、彼女がガーライストの重臣らと既知の仲であるのが大きかったのだろう。

無論、彼女自身が各国を駆け巡り一人の人間を探す為という目的もありはしたのだが。

「あの頃は楽しかったわ。まぁ勿論、今も悪くないけれど」

アンが眉間に皺を寄せる。一歩フィアラートから距離を取った。明らかにおかしい。彼女にとっては、今よりも過去の方がずっと良かったはずだ。

何故ならそこには彼がいたのだから。

諦めた、振り切った。フィアラートがそんな性格をしていないのはアンも良く知っている。奇妙さを覚えて更に距離を取りながら、会談室の扉を開く。

各国と会談や合議を行う為に拵えられた会談室は円卓が据えられていた。各国に上下はないと宣言するためだけのものだが、それでも外交の場はそういった儀礼が肝要なのだ。

アンもフィアラートも早くに席を温める性格だが、今日は珍しく先客がいた。

内側が見通せそうなほどの鮮やかな碧眼に、同色の髪色。特徴的な長い耳。男装ではなく、女王としての外装を身に纏ってフィン=エルディスがいた。どうやら彼女が一番乗りらしい。

「やぁ。遅かったじゃないか二人とも。待ちわびていたよ」

どういう事だろうか。アンは思わず胸中で問うた。

言っては何だが、アンが付き合った限りエルフはそう時間に几帳面な種族ではない。

彼らが不真面目というのではなく、生涯の時間を多く持つゆえか時間間隔が人間より薄いのだ。それも女王となれば一層。彼女を連れ出してこれるのは彼くらいのものだった。

それが自主的に合議の場に早めに来るなんて今まで無い事だ。アンの表情がますます硬くなる。

「貴方が珍しく早いんじゃないエルディス。良い事でもあったの?」

フィアラートの問いかけに、エルディスは頬をつりあげて上機嫌で言った。感情が薄いはずのエルフが、ここぞとばかりに笑みを浮かべる。蕩けるような彼女の笑顔は、絵心があれば残して置けたのにとアンが思うほどだった。

「ああ、あったさ。悪くないね」

フィン=エルディスもまた、神話血戦の後に王都を離れた存在だ。彼女の場合ガザリアの統治の問題もあって、戦役が終わった時点で留まる理由はなくなってしまった。彼もいないのだから余計にだ。

それでも時折エルフが偵察するように王都に入り込んでいたのは。まぁ、そういう事だろうとアンは理解していた。

無論エルディスも会談で顔を合わせる事はあったが、此処までの上機嫌は初めてだ。むしろ不機嫌さがエルフの常かと思うほどだったのに。

沸々と、アンは心に湧き上がってくるものを感じていた。しかし其れを何とか抑え込もうとした時に、声はかかった。よろけかかっていたアンの身体を、彼女は抱きとめて言う。

「――騒がしいと思えば貴様らか。変わらんな」

そこにあったのは銀の双眸と、髪の毛を一つにまとめ上げたカリアの姿。鋭利さを増した雰囲気は、近寄りがたさを演出すると共に彼女の帯びる美をさらけ出す。

カリアはフィアラートやエルディスと違い、神話血戦の後もガーライスト王国を離れる事は無かった。

女王フィロスにしろ聖女マティアにしろ、彼女の存在は手放しがたい。カリアにしてみれば戦後の傷ついた状態のガーライストが、他国に干渉を受ける事は我慢ならなかった。それこそ、彼が守り通した国だからこそだ。

両者の利害は一致し、カリアは王家直下騎士団の長に任じられた。彼女のように成れる者はおらずとも、彼女という大剣がいるだけで戦役の抑止力にはなる。

内戦で血を吐き出し、英雄すら失ったガーライストが他国の干渉を最低限に抑えられたのは、カリアの影響が大きい。

だからこそカリアが各国との合議に顔を出すのは通例になっていた。と言っても彼女はフィアラートやエルディスと顔を合わせる目的くらいしか持っていないようだったが。

二年前以降、常に沈痛な面持ちを隠さず憂いを帯びた瞳をした彼女が笑顔を見せるのはその時だけだった。

「全く。少しは進歩というものを覚えるべきではないか。ええ?」

「おや言うものだねカリア。君も僕も、もう進歩がどうと言えるような存在じゃあないだろうに」

そんなカリアが、今日に限って得意げで満ち足りたような笑みをしていた。己が周辺村落の視察に言っていた間に何があったのだろう。

心臓が強く鳴っている。冷や汗が背筋を伝っていた。アンは、頭が強く締め付けられる痛みによく覚えがあった。

二年ほど前に何度も、幾度も、数え切れないほど経験した痛みだ。

――まさか。

いいやそんなはずがない。もしそうなら、とっくの昔にアンの耳に入っているはず。ならきっと此れは自分が思い違いをしているだけだ。そう強く言い聞かせた。

それから会談室には、次々と各国の重鎮や外交官が顔を出す。誰もが、奇妙な雰囲気のカリアやフィアラート、エルディスに視線を移しはするものの、敢えて触れようという者はいなかった。逆鱗かどうかも分からないものには近づきたくないという事だ。

故に話題が動いたのは、合議の始まる時間直前。聖女マティアと、女王フィロスがその場に姿を見せてからだった。

「各国、お揃いのようですね」

マティアが柔らかな言葉遣いで、その場の全員に声をかける。彼女は紋章教が正式にガーライスト王国の国教となって以降、殆ど宰相のように女王の傍にいる事を許されていた。

それはマティアが権力を占有しているというよりも、国教の頂点にあるものが女王の補佐を兼任しなければならないほど、ガーライストの人材が未だ不足している事を告げている。

マティアがぐっすりと眠れる夜は、戦前も戦後もそうない。

「感謝を致します。こうして顔を合わせられるのは、世が平和な証ですから 。二年の歳月も、報われるというもの」

しかしその声が心なしか弾んでいるのは、聞き間違えだろうか。どんどんとアンの顔が蒼くなっていく。だがそれに気付いた者はいなかった。

マティアは女王に言葉を促す様子で頭を下げる。女王フィロスは何時もの黒のドレスではなく、紫色のドレスに身を包んでいた。言葉を作ってから、言う。

「こうして私達の関係が続くのは、大変喜ばしいわ。始まりが戦場であっても、今手を握り合えているのなら其れで構わないと私は思うの」

フィロスの態度は堂々としたものだ。それは血統そのものよりも、彼女の努力の証だった。

玉座は手に入れる事は勿論、握りしめ続ける事が何よりも大変だ。特にフィロスの場合、何時足元が瓦解するかもわからない。まさしく薄氷の上を歩くが如き道筋。

二年の歳月、薄氷を渡り切った彼女の輪郭には、王位を継ぐ者の威厳と風格が備わっている。

しかし今、それが僅かに緩んだ。

「けれど、私達が手を取り合う切っ掛けになった人間を欠いたままだった。――今日この日まで」

フィロスの視線を受けて、マティアが頷く。アンは可能な限り表情を動かさないように務めた。

「――英雄ルーギスが、生きていると分かりました。事情があり、暫く公に姿を表す事はないでしょうが」

場が一瞬で騒然とする。二年前に消えた、いいや言ってしまえば死んだと思われていた英雄が生きていた、となれば当然だった。

新王国の建国に、ルーギスの存在は欠かせなかった。天城竜ヴリリガント、精霊神ゼブレリリスを討滅した事実は未だ諸国の記憶に新しい。彼がいるのならば、新王国へは余計に手が出しづらい事になる。何事かが起これば、あの鮮烈なる英雄が刃を振り下ろすかもしれないのだから。

無論、姿を見せないというのは怪しい。しかし易々と切れる札でもない。各国の高官らは視線や小声で意見を交わしながらも、一見は喜ばしいという顔をしてみせる。

――三者を除いては。

「――へぇ?」

エルディスが、反応した。

上機嫌だったはずの眦がつりあがり、彼女の不機嫌さを端的に表している。指先からは呪いが溢れそうなほどに魔が集約されていた。

空間が呼気をするのすら躊躇われるほどに、緊迫していく。

「――それ。秘密にとか、他の人間には言わないでくれとか、言われなかった?」

ばちりと、雷火が散った。

フィアラートが外交官という仮面を投げ捨てて、顔から一切の感情を消している。声も先ほどまでの穏やかなものではなく、むしろ他者を食らいつくしてしまいそう。

黒曜の瞳が、大きく見開かれながら獲物を探している。

「……なるほど。ええ、そうですね。生きている事くらいならば構わないと言われましたが」

マティアが瞳を僅かに細めた。フィロスもまた首を傾げる様子だ。だが二人とも、ああなるほどそう言う事かと、得心が言ったようだった。

いいや、彼を知る者全てが理解したに違いない。

「――承知した。つまり、私だけでなく多くの相手に秘密裡に声をかけていたと」

円卓が、軋む音がした。カリアは終始笑顔を崩さなかったが、鬼気迫る気配は、もはや戦場の其れだ。

アンは久しく感じていなかったはずの強烈な感触に懐かしさすら覚えながら、吐息を漏らす。

――そうだった。英雄殿はこういう人だった。

◇◆◇◆

騒然とした空気は、合議室から王都全体に波及した。消えたはずの英雄が、各国の要人達と秘密裡に邂逅していたというのだから当然だ。

しかしそれは何も、彼が生きていた事が分かったからではない。カリアもフィアラートもエルディスも。彼が自分にだけ秘密を打ち明けて会いにやって来たと思っていたから大人しかったのだ。

そうでないと露見してしまえば、もはや彼女らを止める術はない。

カリアは騎士団を王都の捜索に向かわせたし、フィアラートやエルディスは自国の者らをつぎ込んで捜索しはじめた。当然、紋章教も同じだ。

誰も彼も、自分達の前にだけ現れたと思っていたのだ。そうでないと分かったなら、次は自国に引きずり込むために探し回るに決まっている。奇しくもガーライスト王国、空中庭園ガザリア、ボルヴァート朝と各国の人間が彼の生存を認めてしまった。

アンは頭がずきずきと痛むのを抑えながら、一人で廊下を歩いていた。王都内では多くの兵が走り回り、今頃息を切らせている事だろう。けれどアンは、書庫の前に来ていた。

どうして己一人で来たのだろう。どうせなら紋章教の兵を引き連れてくれば良かったのに。それが合理的というものだ。けれどそれはどうも納得がいかない。

本当の所は、アンも承知していた。何故己がこうも収まりのつかない感情を抱えているのか。

――どうして他の人間の所には行って、私の所には来ないのか。どれだけ面倒をかけられたと思っている。

今にも口元から零れそうな不満を噛み殺しながら、大きな音を立てて書庫の扉を開く。

過去に王都を占領した際、彼がこのように追いかけまわされる事は珍しくなかった。カリアやフィアラート、エルディスらの感情を刺激するのは彼の得意分野だ。間に立って仲裁をするのは何時もアンの役目だった。

そんな時、彼は何時も此処にいたのだ。何時も此処で、彼女らの感情が過ぎ去るのを待っていたのだ。

だからアンは書庫に足を踏み入れ、心臓が高鳴るのを必死に宥めて、書庫の最奥、複数の本棚が重なり合った場所を見た。かつて英雄がいた場所を。

――彼は今日も、此処にいた。

二年前に消息を断ちそれ以来音沙汰もないかと思えば。いざ現れてすぐに騒動を引き起こしてくれた大英雄が窓際に腰かけていた。

緑色の服装はやや趣を変えているが、軍服に似せた衣服は彼らしい装いだ。二年経っても、その鋭い双眸はまるで変わっていない。

腰元に二振りの剣をさげながら、英雄は佇んでいた。

「――ん。お前は……アンか。血相変えてどうしたんだよ。お前らしくもない」

らしくもない。よくもまぁ宣ったものだとアンは思った。珍しく言葉を探す。もしも会えたならと、第一声は決めていたはずなのに遠い所に消えてしまった。

歯を噛みしめて表情を力の限り険しくしてから言ってやる。

「……私が血相を変えて走らされるのは、何時も英雄殿の所為ですけどね」

ルーギスが一瞬頬をひくつかせるのをアンは見逃さなかった。ふふんっと鼻を高くする。こうでなくては。二年経っても、二人の関係性は変わっていないらしい。

「本当に王都中が大騒ぎですよ。あの人たちに思わせぶりな態度は良くないと知っているはずでしょう?」

「急に出ていけばそれはそれで面倒になるだろう。慎重にやったつもりだったんだがな」

本を取りながら、ぱらりと捲って視線を落とすルーギスにアンは瞬きをして返した。彼が手に持っているのは、アンが何時も目を通している史書だ。無意識に頁を捲っているのではなく、視線は本の中身をしっかりと追っているようだった。

しかしそんな事より、聞かねばならない事が幾らでもあった。

「何をしていたんです、二年もの間」

貴方がいなくなって、どれだけ大変だったか。そんな恨み言を言ってやろうと思っていたが、一矢報いれてアンは多少満足していた。ルーギスの隣に腰かけながら、顔を見つめる。

ルーギスは口を軽く歪めて言った。

「ちょっとした――弔いみたいなもんだ。もう死ねなくなってた奴、死んでいるのに生き続けちまってた奴。全員弔ってやるのに時間がかかった。其の所為で魔力も全部失って、ようやく起きた。身体もちょっと大飯ぐらいになったみたいでな」

「弔い、ですか」

思わずアンが言葉を繰り返した。ルーギスが誰の事を、何をした事を語っているのかはっきりと掴み取れなかったが。その単語を聞いた瞬間に一人の顔が浮かんだからだ。

大聖教の聖女。ルーギスの想い人。黄金の瞳で、神話血戦を引き起こした張本人。

触れるべきか、アンの唇が迷う。しかし、ルーギスはすぐにアンの意図を察して言葉を発した。きっと彼がそんな真似が出来たのは、此れをもう何人もに話続けているからだろう。

ルーギスが瞼を一瞬閉じる。

「――死んじゃいないさ。あいつは俺の幼馴染だろう。往生際の良い女じゃあない」

其れが願望なのか、真実なのか。アンには分からない。しかし何となく遠い目をしたルーギスにむしゃくしゃとしたものを感じて、アンはつま先を伸ばした。

「そうですか。――で、こうして目の前に現れたのは、私で何番目なんです? いえ、何も思っていませんよ。あれだけ迷惑をかけておいて、いざ帰って来たと思ったら不義理な事だなぁなんてとてもとても」

ふんっと鼻を鳴らしながらアンは不満をぶつけたつもりだったが。ルーギスは表情を固くするでもなく、苦笑して答えた。

「……ああ良かった。お前はやっぱりラルグド=アンだよ。美人になってたから別人かと疑ったが間違いない」

頬を拉げさせるでもなく、緩やかに笑うルーギスを見て、アンは逆に不機嫌に唇を尖らせた。何だ随分付き合いが悪くなったじゃないか。昔なら、もう少し同じような流れで言葉遊びに興じただろうに。それに色々と、卑怯だ。

その時ようやくアンは、己がどこか浮かれている事に気付いた。やはり、彼女達をああだこうだと言える立場に己はいないらしい。

しかし次にはアンは気持ちを切り替えた。ふとした瞬間、ルーギスが酷く真面目な顔つきをしているのに気付いていたからだ。アンを前にして、何かを口にだそうと機会を図っているのを理解していた。

押し黙って、手の平を向ける。ルーギスは目を開いてから、悪いなとそう言った。

「此の国で一番まともに人間なのはお前だろう。だから、お前に頼みたくてな」

ルーギスは再び史書を捲る。それはアンが何度も指を這わせていた。英雄を列挙する為の頁だ。彼もまた指を置いて、言った。アンはただ聞いていた。

「――俺の記録は省いといてくれ。出来るだけな。どんな奴だったかとか、何をしたかなんて、いりやしないだろう」

それに無駄に良く書きすぎだと、ルーギスは喉を鳴らした。だがアンは気に食わないと頬を赤くし、眦をつり上げる。

「どうしてです。貴方が自分を卑下する性格なのは知っています。ですが、貴方の偉業は並ぶもの無きもの。この世の誰もが貴方を英雄と呼ぶでしょう、きっと私達が死んでしまった後も」

アンの言葉には、並々ならぬものが宿っていた。其れがどういった感情であるのか、説明はつき辛い。ただ、激昂に近しかった。大きな瞳がより強く見開かれている。

しかしルーギスは一切気圧されずにアンを見つめ返した。

「そいつは嬉しいね、お前に言われるなら尚更だ。だが良いか、アン。例えそうだったとしても、礼賛する必要なんて無いのさ。崇め讃える必要なんてない。俺が何をしでかして、何が残ったとしても。そんなものはいずれ過去になる。

未来を生きるべき奴らが、過去の俺を見て万歳をしてそれでどうなるんだ? いるんだろう。俺の名前で、無茶をしようとする奴らも。彼らは彼らで十分に強い。もう英雄を辿る必要なんて無い。俺はそう信じている」

ナインズの語った言葉が、アンの瞼に浮かんだ。

英雄を礼賛し、英雄と同一化し、英雄になろうとする。そんな者どの国にも、どの時代にだっている。

だが、そんなものは不要だとルーギスは言うのだ。心情は理解しよう。ルーギスも英雄に憧れた。だが其れは彼になりたかったんじゃない。彼の隣に立ちたかったのだ。

アンはまだ、納得がいかなかった。だってそうだろう。あれだけ傷ついて、誰よりも前に立って、其れで己たちを勝利に導いた彼が語り継がれないなど。彼女の感覚では到底理解しきれない。

「けれど、貴方は語り継がれるべきで――ッ!」

ルーギスは、アンの言葉を食い取って言った。

「――俺は語り継がれなくて良い。俺の事は、俺が知ってればそれで良い。例え外から不幸だと思われても、俺が幸福であるのなら俺はそれで構わない。

それにどうも、預言が得意な奴がいてな。俺が覚えられていても碌な事にならないらしい。

アン。お前だから頼むんだ。お前なら出来ると信用しているから言うんだ。だから頼む。それに、語り継がれなくてもお前は覚えていてくれるんだろ?」

ああ、くそう。アンは内心で毒づいた。真正面からルーギスの瞳を見る。卑怯だ。卑劣だ。どうして事此処に至って、そんな真っすぐな瞳が出来るのだ。何時も乾ききっていて、何かを望んでいる煌々とした瞳が。今は驚くほど純然な意志に満ちている。

「なら……貴方は今、幸福なのですか。……ルーギス様」

英雄殿と、呼ばなかった。彼がきっと、そう望むだろうと思ったから。ルーギスは一瞬戸惑ったように目を開いたが。頬を緩めて言った。

「――――ああ。今までも、これからもな」

飄々とした笑みだった。掴みどころのない、しかしアンが忘れられなかった笑みだ。また毒づきそうになった。

けれど瞬間、ルーギスの顔が視界から消える。咄嗟に視線をやれば、彼は窓を開いて窓枠に足を掛けていた。

廊下の方から足音が聞こえてくる。そうか、書庫も流石に安全地帯ではなくなったようだ。これを察して、何処かに避難してしまおうという魂胆なのだろう。

ルーギスが最後にアンに目配せをした。それは後は頼んだと、そう言うかの様だった。相変わらず人に尻ぬぐいを押し付ける英雄殿、いいや、押し付ける人だと、アンは笑った。

吐息を漏らす。心は奇妙に満ち足りていた。なるほど、とアンは先に会っていた彼女らの気持ちを理解した。

笑顔を崩すのが、難しい。少しは、今も良いじゃないかという気分になってくる。

――後世。英雄と語られ記録されているにも関わらず、ルーギスの人となりや具体的な性格を語った書物はごく僅かしか残っていない。史書に名前は刻まれるが、彼という輪郭は朧げなままだ。

だからこそだろう。ガーライスト王家と紋章教を支え続けた、王佐の才ラルグド=アンの手記に残されたルーギスの事を綴った一文は、より鮮烈に人々に彼を示す一言として受け入れられる事になる。

其れは、たった一文だ。

――素晴らしく人間的で、素晴らしく自分勝手な女たらし!

◇◆◇◆

歯車の玉座。ただそれがあるだけの空間。しかし世界の中心であり、世界全ての歯車を回す根源であった唯一の場。

数多の英雄が、数え切れぬ大魔と魔人が渇望して手を伸ばした至高の玉座が此処にある。

此れは、誰もが心の底に抱く願望を叶える為の椅子。

世界を己の手に。

時代を己の手に。

そうして、幸福を己の手に。

大層な話ではない。誰だって、世界が己の為に上手く回ってくれればと思う。時代が己に迎合する事を祈る。そうして、己が幸福である事を願う。

玉座を前にしながら、アルティアが言った。黄金の瞳は大きく開いていた。

「なぁ、オウフル。君はどう思う? 機械仕掛けの神々は、どう思っているんだろうな」

機械仕掛けの神々が造り上げた機構は、その願望を世界継続の為に利用するもの。彼らの願望は、其れだけだったのだ。世界が均衡のまま継続し、運命が己らの手中にある事を望んだ。

何故なら此の世界は彼らの体躯そのもの。ただ彼らは生存し続けるために歯車を回した。其処に人類や魔性の事を考慮する余地はない。世界はただ継続されるもので、命が多少消費されたとして考慮に値しない。均衡こそが大事なのだ。

その意志持つ神を打ち破ったのが、大英雄アルティアだった。

神が均衡の為にオウフルを眷属とし、彼女は其れを許さなかった。世界で初めて神を打ち滅ぼし、此の世界を彼らの呪縛から解き放った。

――けれど神すら超越したアルティアも、彼らが作り出した『運命』という名の機構からは逃れられない。

運命の力は絶大だ。其れを手中に納める事さえ出来れば、この世全てが思うまま。歯車の音色は世界の始まりから鳴り響き続けていた。

だが今、この玉座からは音が消えていた。砂粒程の軋みもなく、ただ静寂のみが支配する。

―― 運命(ハグルマ) が、止まっていた。玉座には、誰も座っていなかった。その姿は無残に両断されているのみ。

英雄も、大魔も、魔性も。玉座に傅いた全てがもう夢のように消えていた。

歴史の頸木とされた者らは、皆が彼の刃によって眠りについた。死ねぬ者らを、世界に縛られ続けたはずの者を、全て殺して解き放って彼は去った。それこそが、まるで弔いだとでも言うように。

もはやこの世界には、一切の頸木も鎖もないのだ。アルティアの肩筋にもまた、一閃の痕がある。もう消えゆく、ようやく終わる。

「彼はどうして、こんな事が出来たんだ?」

アルティアが呟く。明瞭な疑問だ。大英雄である彼女には、本当に分からない。しんと静まり返った空間に彼女の声だけが響いていく。

だが次の瞬間、彼女は大いに笑った。瞳に涙すらしていた。

その姿はまるで、声なき誰かと語り合っているかのようだった。

「――ふふ、はははははっ! そういう事か。なるほど、私が負けるわけだ。君が全てを賭けるわけだ」

歯車の玉座。運命を司る唯一の椅子。かつてこの玉座に座した者達は、その全てが時代の英雄や勇者達。

英雄は運命に選ばれ、勇者は神に愛された。彼らは時代すら変貌させる力を有する。

だが逆を言うならば彼らは力を持つ代わり。――運命と神の奴隷でしかない。

「彼はただの人の子だ。力も無く、才気も無く。何時死んでもおかしくないほど儚いのに。薄羽のようにか弱い命を燃やして此処まで来た」

ああ、だから。ただの人の子であればこそ。

――神も運命も、殺せてしまえたのだね。

アルティアは高らかに笑った。

彼女は常に、己が救わなければ、手を差し伸べなければならないと人間を見つめていた。彼らはあっさりと死んでしまう余りに儚い命で。運命に選ばれた己が、死に物狂いで、それこそ彼らを追い詰めてでも救わなければならないと思っていた。其れが彼女の愛だった。歪でも、其れだけが彼らを救い幸福にするための道だと信じていた。

けれど今、儚い彼らの手によって、アルティアは救われた。

玉座を両断した際に、ルーギスが肩を竦めて言った言葉をアルティアは思い出していた。何でも、魂の奥底で彼女の声がしたのだとか。

――私以外に屈する事は許さないと。

酷い笑い話だ。彼らにはもう、神話すらいらないのだ。

両手を空に伸ばす。子供の頃の笑顔を思い出して、アルティアは言った。

「さようなら人類。強き者達よ――私は君たちを愛していたぞ! もはや、神も運命すらも君たちには必要ない!」

何故なら、君たちはもう自らの手で未来を切り開いたのだから。

アルティアの姿が消えていく。世界が頸木とした最後の大英雄が、失われる。

そうして、歯車の玉座を見つめる者は誰もいない。もはや、此処を訪れる者は誰もいない。

彼らが――未来を見つめている限り。