作品タイトル不明
第六百四十三話『聖女の信仰』
神の名を問えば、この大陸においては二柱の名があげられる。
大聖教主神にして、統治と幸福を司るアルティウス。
紋章教主神にして、自由と知恵を司るオウフル。
他にも過去の巨人や精霊、竜を信仰する派閥や、人間王メディクを信奉する者らもいるがごく一部と割り切る事が出来るだろう。
──しかしアルティウスにしろ、オウフルにしろ。厳密に言えば彼らは神では無い。
彼らはただ、力を有し魔の神髄と原典を得たのみ。大魔として神の如き力を持ったとはいえ、造り上げられた神々に過ぎない。
では、真なる神とは何だ。神とは、『何を』指し示す為に作られた言葉なのか。
其の起源を探求していたのは確かサレイニオだったなと紋章教聖女マティアは、唇を噛みながら思った。吐息は荒い。指先の感触が無かった。眼を大きく見開きながら、聖女と神霊の名を騙る存在を見た。
「あら。玉座の間と言っても、案外と豪華絢爛なものではないのね。ええ、構わないわ」
聖女アリュエノ。黄金の頭髪を何よりも輝かせながら、彼女は玉座の間に姿を見せた。姿だけを見るならば、か細い少女のようにしか見えない。
彼女の繊細な指先は衣服や華を愛でる事はあっても、剣を持つようなものではなかった。眼差しも戦う者のそれではなく、穏やかなものに見える。
だというのにマティアは、いいや女王フィロスにその場に揃っていた文官や護衛も含め、全員が同じ感情を抱いた。
ああ。己は此処で死ぬのだ。
アリュエノから発される想像を絶する悪意。魔術に覚えのないものでも肌で感じるほどの魔力の波動。彼女はきっと頬に浮かべた笑みのまま、子供が虫を潰す程度の気軽さで人間を殺せる。
そもそも、玉座の間に至るまでには千を超える兵が配置されていたのだ。それを彼女はどうやって、乗り越えてきたのか。もはや想像するまでもなかった。
「……大聖教聖女アリュエノ。王都にようこそ。でも、玉座の間に断りもなく入り込むのは無礼とは思わない?」
女王フィロスが、歯を食いしばるように言った。未だ玉座について期間も短いというのに、声に威厳が備わり始めているのはやはり王統の血がそうさせるのだろうか。
アリュエノが華も恥じらう笑みで応えた。
「思わないわ。だって、その玉座は本来私達のものでしょう。なら受け渡されるのが当然じゃないかしら?」
「そう、話し合いにはならないというわけね」
フィロスとアリュエノの問答で、周囲の人間がようやく僅かに正気を取り戻す。剣や槍を護衛兵が構えながら、アリュエノを取り囲むように動いていった。
そんな様子にアリュエノはぴくりとも反応しないで、フィロスだけを見ていた。
「貴方は、ルーギスの何なのかしら」
そんな、単純な問い。しかし聞き逃してしまいそうなか細い声に、重厚な感情が絡まっている。フィロスはルーギスの名を聞いた途端、眉間に皺を寄せて眦を鋭くする。
「……彼は我が国の元帥で、私を玉座につかせた張本人。そうね。多くを貸し付けてる債権者って所かもしれないわね」
「そう」
アリュエノが一歩を進んだ。黄金の眼に潜む感情が一つ、強くなった気配がする。彼女はただありのままの姿で、魔性に変貌していくかの様だった。唇が、洗練された動きで声を奏でる。
「詰まり、貴方がルーギスに戦いを強いている張本人ね」
ぞっとする声色。思わず歯を噛み鳴らすほどの衝撃があった。フィロスの足元が竦む。玉座から立ち上がった姿のまま、唾を呑み込んだ。
そのフィロスを守るように前に出たのは、護衛の兵とマティアだ。マティアは自ら戦わんばかりの意志を見せながら、気丈に両の眉を上げる。
大聖教と紋章教の聖女が、今此処で初めて互いの顔と姿を認識した。互いに、一歩も退く気はないという様相で。
「貴方が、紋章教の? 貴方も、ルーギスを戦場に駆り立てた一人よね。たまらないわ。貴方達みたいな人に、ルーギスが利用されていたなんて」
「……大聖教の聖女。私達は互いが互いの信仰の為に、手を取り合ったに過ぎません。彼は貴方の信仰が誤っているからこそ、私達の側にいるのでは?」
宗教論争、という程に大げさなものではない。だが互いの信仰と感情を食い合わせているという点だけを見るのならば、全く相違は無かった。
圧倒されてしまいそうな悪意に、マティアは唇を引き締めたまま立ち向かう。紋章教の聖女という肩書は、ただ祀り上げられる事だけで得たものではない。自ら信者を引き連れ、迫害の悪意を呑み込みながら刻み込まれたものだ。
そんなマティアだからこそ、アリュエノの頬に宿った笑みが変質したのに気付いた。同じ笑みであるが、どちらかといえばそれは無垢な笑顔に近しい。
「私の信仰、ね。そんなもの関係ないわ。だってルーギスは、私を愛しているもの。愛こそがこの世で最も強固な感情で、何よりも信じられる信仰じゃない。
だから私はルーギスを信じているし、ルーギスも私を信じている。彼を理解できるのは私だけで、私を理解出来るのも彼だけ」
恐ろしいほど、無垢な瞳だった。吐き気を催すほど、疑いを抱かぬ声色だった。マティアは此れの正体を良く知っていた。
狂信。狂おしくなるほどに、其れを信じるという事。
だから、とアリュエノは言葉を付け足した。
「だから――彼を救えるのは私だけなのよ。ええ、構わないわ」
「……貴方が信仰しているのは、神では無く、彼という事ですか」
思わず、マティアの喉から声が零れた。余りに異様な、アリュエノの狂信に気おされたかのよう。しかしアリュエノは、マティアの言葉すらも笑うように言った。
「そうね。神様を信仰する事に、興味は無いの。だってそうでしょう。私が空腹に泣き叫んでも、痛みに嗚咽を漏らしても、暴力に打ち据えられていても。神様は助けてくれない。――神様は、私なんてみていなかったわ。
……だから、全部どうでも良いと。この世はどうにもならないと、思っていたけれど」
ルーギスだけは違ったと、アリュエノは瞳を輝かせて言う。何もしてくれぬ神と、救ってくれた幼馴染。どちらを信じるべきか等、論ずるまでもない。
アリュエノの言葉も、姿も。全てが真っすぐにルーギスへの想いに燃えている。
正直に言うのならば、マティアはアリュエノの言葉にある種の驚愕と動揺を覚えていた。
戦役の元凶とも、要因とも叫ばれる聖女アリュエノ。今この時も信じがたいほどの魔力と悪意を顕現させている。
ならばその信念と信仰、そうして意志はより超然としたものなのだろうと。そう思い込んでいた。
しかし、違う。此れは、ただ救われなかった少女が、己を救ってくれた彼に恋をしただけでしかない。その純然たる想いがねじ曲がり、彼女は此処まで来てしまった。
マティアは敵でありながらも、アリュエノの数奇な運命を呪った。もし何事も無く、ただ平穏に彼女が生きていけたならば、きっと戦場になど彼女が立つ事は無かっただろう。その歪な生涯は、僅かにマティア自身の生涯を投影しさえする。
互いに、このような運命さえ無ければ。一瞬だけ、そんな想いを募らせた。
しかし、それでも敵として出会った以上。マティアはアリュエノを排斥するしかない。護衛兵を一歩、前に出させる。すべき事は時間稼ぎだ。レウやルーギス、もしくはカリアらが此処に戻ってくるまでの時間が稼げれば、十分に命は拾える。
そんなマティアの逡巡と、思考を全て裏切るようにアリュエノは言った。
「でも、神様にも二つだけ感謝している事があるわ。ルーギスに出会わせてくれた事と――」
瞬間、マティアの視点が反転する。何が起きたのか、何をされたのかも分からない。ただ、視点がブレる。強烈な嘔吐感と、腹部への激痛が数秒遅れて来た。
アリュエノの言葉が、耳に響く。
「――私に神秘を与えてくれた事」
聖女マティアを含めた、全員が其れに浸食されていた。内側から魔力が、朽ち果てていくような奇妙な感触。足元から身体が崩れる。女王も、玉座の前で地面に伏した。
アリュエノだけが、其処に立っていた。
「おやすみなさい。そうして、さようなら」
永遠の別れを告げる様子で、アリュエノはそう言った。彼女の足先がまた一歩、玉座に近づく。
玉座が己に力を与えてくれるであろう事を、彼女は誰よりも強く知っていた。アルティアが言うのだ。其れは己のものであり、君のものだ。
――此れでようやく、ルーギスを救う事が出来る。
また一歩、アリュエノが玉座に近づいた瞬間だ。僅かに、音がした。鋭いものが風を斬る音。
銀の煌めきが――アリュエノの視界を過ぎった。