軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百八十九話『アンという少女』

ラルグド=アンは、己の中の臓腑が自ら捻りをあげながら、己に鈍い痛みを与えているのを感じていた。身体は節々が固く、前へと進む脚は重い。油断をすれば小さな唇からは幾らでも溜息を吐き出せてしまいそうだ。

それも当然の事で、何せ此れより己は、議場に向かわねばならない。そう、紋章教とガザリアの合同会議が行われる議場へと、だ。

いざ本当に戦役を行う為、二つの勢力が合同会議を行うというのはそう容易いものではない。以前紋章教とガザリアが同盟を結んだ時の会議とはわけが違う。

何せあれはあくまで儀礼的な意味合いが強く、紋章教とガザリアが合同作戦を行う為の会議ではない。あくまで同盟を結ぶ事が決まった後の、形式の一つに過ぎなかったわけだ。

だが、今回は違う。己たちに振り下ろされんとする大聖教という名の大剣を前に、紋章教とガザリアが互いの牙をかみ合わせねばならない。

ならばその用意の為、もはや時間はいくらあっても足りるものではなかった。アンは合同会議に出席する以上、身だしなみ程度の化粧は行っているが、その眼の下にはより深い隈が出来ている。

会議出席者の取りきめ、精緻な作戦の策定に、日々変動する情報の収集。さらにはそれに応じた軍備の運用まで。全てを万全に出来たとはとても言い難い。どれもこれも不安要素が尽きるはずもなかった。

ただ、アンの心に絡みつき、重い鎖となってその脚を縫い付けようとするものは、それらの事ではない。むしろその程度の事が議題にのぼるのであれば、歓迎といった所だ。

アンが、最も恐れている事。それは、誰かが英雄殿――ルーギスの事を議場で口にすることだ。

何せ、己は未だ此処に至って尚、ガザリアの主フィン=エルディスが彼の引き渡しを求めている事を誰一人にも伝えられていない。そう、己の主、聖女マティアにさえ。

実際の所、それはアンが紋章教への背信を行っていたり、責務を果たしていないというわけではない。何せフィン=エルディスの言葉はあくまで非公式のもの。会議の開催を決定した際に、まるで雑談でもするかのようにぽろりと零した言葉でしかないのだ。

それに、アンは合同会議開催に至るまで、ガザリアとの調整を一手に引き受けている。その中で引き起こされた事象については、己の裁量で処断することが、可能だ。それだけの権限をアンはマティアから与えられている。

ゆえに、雑談の一つや二つ、そぉっと心の奥底に沈み込ませたとして、何か咎を受ける謂れはない。

だが、分かっては、いる。むしろ分からないはずがない。言った方が良い。聖女マティアに報告した方が良いに決まっているのだ。

むしろ雑談とはいえ、今や紋章教の主要人物に違いないルーギスを、同盟国の女王が引き渡しを求めてくるなど大問題だ。それこそ、これから戦役という大事に対して両勢力が力を重ねるというのなら、紛れもなく片付けておかねばならない案件に他ならない。

それを理解した上で尚、アンは口を開くことがどうしてもできなかった。理由は、いやというほど感じている、聖女マティアの変化。

明確に打算や損得から離れたところにある感情を、ルーギスに抱いてしまっているであろう今の聖女に、フィン=エルディスの要求を告げてしまえば、どうなるのか。

それを想像する度に、ぞっとした感触がアンの脳裏を撫でていく。まるで悪魔の指先がすぐそこにあるようにすら、感じてしまうのだ。

二つの結末が、見える。

一つは聖女マティアが、何時も通り変わらぬ打算をその頭に浮かべ、ルーギスを何一つの遺憾なくガザリアへと引き渡す結末。

紋章教が本来取るべき道筋は、それなのだとアンは思う。何せルーギスという存在が失われるわけではないのだし、紋章教とガザリアの同盟はより強固になるだろう。むしろルーギスを通じて、ガザリアの方針に少しばかり口を出すことも可能かもしれない。

重要な戦力であるカリアや、フィアラートという両名が失われてしまう可能性を考えても尚、利益はある。むしろ個人に付き従う不安定な戦力は戦力と考えるべきでないという視点もあることだろう。本来の、かつてのマティアであれば、間違いなくこの選択を選んだはずだ。

だが、今のアンにはもう一つの結末、選択がはっきりと眼に浮かび上がってしまっている。

それは、聖女マティアが打算や理性などでなく、己の情動に従うままにフィン=エルディスの要求を跳ねのけることだ。それこそ、かつてルーギスが一人でベルフェインへ向かったと知ったときのような、激昂をあらわにして。

否定をしたい。そんな事はあり得ないと思いたい。よもや己が敬愛する聖女が、そんな選択を選び取るはずがないと確信したい。

だが、アンがフィン=エルディスの件を口にしようとする度に、その可能性がどうしても脳裏に傷をつける。

そうしてもし、そのような事が起こってしまえば、紋章教とガザリアの同盟は、どうなるだろうか。決裂とはいかぬとも、良好とはとても言えない状態になる事は想像に容易い。その状況で、どうして強大な大聖教の軍勢に立ち向かえるだろう。

ガザリアとの同盟関係に罅が入るということは、即ち紋章教がいずれこの大地から姿を消すことに直結する。それだけは、それだけは許容できない。

だからこそ、アンはマティアに働きかけルーギスを謹慎という状態に置いた。どうにかその中で、自ら紋章教という勢力に与するという考えに至ってくれないだろうかと願った。フィン=エルディスとて、ルーギス本人が否というのであれば紋章教そのものに怨恨は抱くまい。例え何等かの亀裂が走ったとしても、最低限の影響で収まるはずだ。

だが、えてしてルーギス、英雄という存在は己の思い通りになど動いてくれない。それを思い出すだけで、アンは己の臓腑の奥が引き攣るのを感じる。眼が歪み、何か熱のようなものを生み落とすのが分かった。

――ああ、どうしてこうも、あの人は。不可解な事ばかり。

アンの胸に渦を巻く情動は、苛立ちと、鬱憤と、そして少しばかりの対抗心だ。

ラルグド=アンという少女は、事務的な処理能力がその主な才ではない。むしろその才能の多くは、話術、説得力、交渉能力といった、対人の能力に割かれているといって過言はない。それゆえに彼女は、紋章教の中でも調整役、交渉役としての地位を得て来た。

カリアやフィアラートのように何かを突出させた才ではなく、またマティアのように人を率いる才を持つわけではない。どちらかといえば裏方に回る事が多い役回りではあったが、それをアンは自らの性質に合致したものだと理解していたし、むしろ喜びにすら感じている。

調整役、交渉役というのは、誰よりも人と交わる。そうして、誰よりも人に影響を与えられる立ち位置だ。

己が影響を与えた末、己の想定した通り、己が立ち回った通りに人が動き、そしてそれらが重なり合い組織が動いていく。それは聖女マティアとはまた違う形での、組織の牽引、操作とでもいうべき行い。ラルグド=アンという少女にとって、それは密かな快楽だった。

それが、あの人は。アンの白い歯が噛み合い、僅かな痛みを発した。

正直に言えばアンはルーギスが苦手だ。奔放で、自分勝手で、女好きで、時折本当に同じ理性を持つ人間であるのかすら疑わしくなってくる。

それに何より、己の想定の外の、更に外へと自ら手を伸ばし、それが当然だとでもいうような顔をしているのだ。得意になれるはずがない。

そしてとうとう今回は調整役、交渉役という立場でありながら、手の内を全て晒したうえ、どうか私の言う様にしてくださいと、お願いまでさせられた。その末、結局ルーギスが答えを出すことはなかったのだ。

――悔しい、屈辱だ、不名誉だ。

瞳の端に涙すら浮かびそうになる。ああ、くそう。出来る事なら、あんな人間は早々にガザリアに引き渡してしまいたい。

今回、アンは未だルーギスの謹慎は解いてはいない。あそこに籠らせた以上、合同会議にも顔を出せないはずだ。後は、何としてでも話題がそちらへ向かぬよう調整を、行うだけ。

重い脚を引きずりながら、何とかアンは心を立て直していく。

議場に入る間際、二度、深い呼吸をした。大丈夫だ、己なら出来ると、何度も言い聞かせる。少しずつその心が平静を取り戻してくるのを、アンは感じていた。

――ほら、早く来なよ、ルーギス。ボクを出迎えに来ないなんて、ボクの騎士として失格だろう?

そんな、何処か楽し気な、耳を擽るような声が聞こえてくるまでは。