軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第44話 雷鳥の卵と魅惑の巨大スフレパンケーキ

天井の疑似太陽がゆっくりと高度を下げ、深淵の迷宮の最深部に穏やかな昼下がりが訪れていた。

湖面を撫でる風は心地よく、青白い発光苔が絨毯のように広がるキャンプサイトは、普段なら食後の心地よい微睡みに包まれる時間帯だ。だが今日に限っては、キャンピングチェアに身を沈める女性陣の間に、どこか重苦しい疲労感が漂っていた。

「……おじさん。私、もうお肉は……お肉はしばらくいいです」

エミリアが、少しげっそりとした顔で自分のお腹をさすりながら力なく呟いた。普段なら巨大な魔獣の肉を前に誰よりも目を輝かせる彼女の口から出たとは信じがたい言葉だった。

「わたくしも同意しますわ……。さすがに胃腸が休まりませんの。今はただ、口の中で優しくとろけるような、繊細で甘いスイーツが猛烈に食べたいですわ」

クロエも日傘を傾けながら優雅さを保とうとはしているが、その表情には切実な疲労感が滲んでいる。激辛マニアのユジンですらテントの影で水を飲みながら「塩気と脂は一旦リセットしたいわね」と深く頷いていた。休暇扱いでまだキャンプに滞在している小島ハナに至っては、テーブルに突っ伏したまま無言で胃薬の瓶を転がしている有様だ。

無理もない。ここ数日、空から降ってくる各国の最高級レア食材は確かに絶品だったが、あまりにも濃厚で激重なメニューの連続に、彼女たちの胃袋は完全に限界のサインを出していた。

「贅沢な悩みだな。まあ、確かに脂の強いものが続いたからな。……お茶の時間にするか。クッキーかパウンドケーキでも焼こうと思ってたところだ」

俺が石造りのかまどに火を入れようとした、その時だった。

ブゥゥゥンッ……。

キャンプサイトの端に籐子が構築した転移陣が、微かな駆動音と共に青白い光を放ち始めた。

「また来たわよ。ヒロト、受け取りのサインお願い」

籐子が作業用ゴーグルを額に押し上げ、半ば呆れたように光の収束点を見つめる。

光が収まり、陣の中に現れたのは巨大な魔獣の死骸ではなく、厳重に魔力コーティングされた頑丈な木箱だった。木箱の表面には、見慣れないルーン文字の紋章が刻印されている。

「あ、これ私の母国……ノルウェーのトップギルドの紋章です!」

エミリアが弾かれたように立ち上がった。

俺が木箱のロックを外し、重い蓋を開けると、中には緩衝材代わりの柔らかい植物の葉が敷き詰められており、その中央に巨大な『卵』が鎮座していた。

ダチョウの卵をさらに3回りほど大きくしたようなサイズだ。青白い滑らかな殻の表面には、微弱な電流がバチバチと這うように走っている。

「サンダー・ロックの卵ね。北欧ダンジョンの極寒の高山にしか巣を作らない、雷鳥の魔獣よ。これを無傷で持ってくるなんて、向こうのギルドも相当無茶をしたはずよ」

ユジンが卵の表面を走る電流を見つめながら呟いた。

添えられていた手紙には、ノルウェー語で『同郷のエミリアが毎日美味い飯を食っているのを見て、居ても立っても居られなくなった。我が国の誇る最高の食材だ。これで極上のスイーツを作って、彼女に食わせてやってくれ』と書かれているらしい。

「……お前ら、運がいいな。リクエスト通りの最高のスイーツが作れそうだ」

俺が卵を持ち上げると、エミリアをはじめとする女性陣の目に、パッと期待の光が灯った。足元では、ハクが「自分の分もあるのか」とばかりに短い尻尾をパタパタと振っている。

巨大なボウルを2つ用意し、サンダー・ロックの卵を慎重に割る。

殻の厚さはかなりのものだったが、ナイフの柄でヒビを入れて叩き割ると、中から黄金色に輝く巨大な卵黄と、異常な弾力を持つ卵白が流れ出した。魔獣の卵だけあって、普通の鶏卵とは比べ物にならないほど粘度が高く、まるで上質なゼリー液のようだ。

「これだけ弾力のある白身なら、アレにするか」

俺は卵黄と卵白をそれぞれのボウルに分け、卵白の入ったボウルを見下ろした。

普通の泡立て器でこの粘度の卵白をメレンゲにするには、腕が千切れるほどの労力が必要だろう。だが、俺にはこれがある。

「少しうるさいぞ」

俺はボウルの上に手をかざし、『極・生活魔法』を行使した。

ウィィィィンッ! という、空気を細かく震わせるような甲高い音が鳴り響く。魔力で発生させた局所的な『超振動』だ。

「……ちょっと、ヒロト。今、私の魔力計がとんでもない数値と波長を叩き出したんだけど。まるで岩盤を粉砕する時みたいな……アンタ、ボウルの中で何やってんのよ」

籐子が頬を引きつらせて計測器と俺を交互に見た。

「何って、メレンゲを泡立ててるだけだ。手でやると疲れるだろ」

「……物質破壊レベルの魔力振動を、お菓子作りのミキサー代わりに使ってんのね……。もうツッコむのも疲れたわ」

呆れ顔の籐子をよそに、ボウルの中の卵白は目に見えない無数の細かい泡立て器で掻き回されているかのように、一瞬にして白く濁り始めた。グラニュー糖を3回に分けて投入しながら振動の波長を微調整していくと、ものの10秒足らずで、卵白は純白の雲のように膨れ上がり、ボウルを逆さにしてもピクリとも落ちないほど完璧なツヤと角を持ったメレンゲへと変貌した。

卵黄のボウルに、牛乳と少量の小麦粉、そしてアイテムボックスから取り出したバニラビーンズの種をしごき入れて混ぜ合わせる。そこへ、先ほど作った極上のメレンゲを3回に分けて加え、泡を潰さないようにゴムベラでさっくりと、しかし手早く混ぜ込んでいく。

「よし、焼くぞ」

俺はかまどの炭火を調整し、分厚い鋳鉄製のスキレットを乗せた。

十分に熱したスキレットにフランス産高級エシレバターを落とす。ジュワァァッという心地よい音と共に、焦がしバターの芳ばしい匂いが弾けた。そこへ、たっぷりと空気を含んだ生地をこんもりと高く盛り付ける。蓋をして、弱火でじっくりと蒸し焼きにしていく。

数分が経過すると、スキレットの隙間からバニラの甘い香りと焼けた卵の濃厚な匂いが漂い始め、キャンピングチェアで待機している女性陣から「ゴクリ」という生唾を飲み込む音がはっきりと聞こえてきた。

「よし、いい頃合いだ」

俺がスキレットの蓋を開けると、そこには絵本に出てくるような、厚さ10センチはあろうかという巨大で分厚いパンケーキが、見事に膨れ上がっていた。

フライ返しを2本使い、崩さないように慎重にひっくり返す。プルン、と生地全体が愛らしく揺れ、底面には完璧なきつね色の焼き目がついていた。蓋を戻し、裏面もキツネ色になるまで軽く火を入れる。

「巨大スフレパンケーキだ。皿を持て」

焼き上がったパンケーキを4等分にカットし、それぞれの木皿に乗せる。切り分けた断面からは、バニラビーンズの黒い粒が顔を覗かせ、湯気と共に強烈な甘い香りが立ち昇った。

熱々の生地の上に、さらにエシレバターの厚切りを乗せ、琥珀色のメープルシロップを滝のように回しかける。横には魔法で冷やしながらホイップした甘さ控えめの生クリームと、ダンジョンの浅い階層で久美子が採ってきていた酸味のあるアビス・ベリーをたっぷりと添えた。

「い、いただきますっ!」

エミリアが震える手でナイフとフォークを持った。

極厚のパンケーキにナイフを入れた瞬間、「スッ……」と、まるで空気を切っているかのように抵抗がない。彼女はバターとシロップが染み込んだ部分を切り取り、生クリームを少しつけて口へと運んだ。

エミリアの動きが、彫像のようにピタリと静止した。

シュワッ。

噛む必要すらなかった。舌に触れた瞬間、きめ細かなメレンゲの泡が弾け、口内の熱で溶けた生地が芳醇なソースと絡み合って滑らかな液体へと変わったのだ。後に残るのは、サンダー・ロックの卵特有の野性味すら感じるほど濃厚な卵のコクと、バニラの甘い香り。そこにエシレバターの芳醇な塩気と、メープルシロップの深い甘みが完璧なバランスで絡み合う。

彼女は言葉を発することなく、すぐさま次のひと切れを切り出し、クリームをたっぷりと乗せて口へ運んだ。そこからはもう無我夢中だった。

隣のクロエは、最初の一口を含んだ瞬間、扇子で顔の下半分を覆い隠し、ふうっと長く熱い息を吐き出した。

「……これは、いけませんわ……」

パリの三ツ星レストランすら凌駕するであろう儚い食感と暴力的な旨味に、彼女は優雅さを保つギリギリのラインでフォークを動かし続けている。

ユジンに至っては、辛党の矜持など完全にどこかへ放り投げていた。アビス・ベリーの酸味が極上の甘さを引き締める絶妙なアクセントになっているせいか、無言のまま恐ろしいスピードで皿からパンケーキを消し去っていく。

ハナは、一口食べるごとに天を仰ぎ、完全に焦点の定まらない目で咀嚼の快感に浸りきっていた。

俺は足元で期待に満ちた目でこちらを見上げているハクの木桶にも、シロップをかけていない特大サイズのパンケーキを置いてやった。ハクは「ワフッ!」と歓喜の声を上げ、顔中を粉だらけにしながらフワフワの生地に顔を突っ込んだ。

岩の上に立てかけられた配信端末の画面では、すさまじい勢いでコメントが滝のように流れ続けている。

『うおおおお! スイーツきたあああ!』

『厚さ10センチのスフレパンケーキとか暴力だろ!』

『口の中でシュワッと消えるのが映像からでも伝わってくる……ヤバい、よだれが止まらん』

『サンダー・ロックの卵をそんなふうに使うなんて!』

『俺たちも甘い食材送るぞ! イギリスの妖精王のハチミツを今すぐ手配しろ!』

『イタリアのトップギルドだ! 幻惑のティラミスを作るための極上マスカルポーネを送る! 待ってろおっさん!』

次々と新たな甘味を要求してくる各国の探索者たちのコメント群を横目に、俺は少しだけ苦笑いを浮かべ、自分の分のパンケーキにゆっくりとナイフを入れた。