作品タイトル不明
第3話 ラスボス、匂いに釣られる
かまどの中で赤々と熾る炭火が、時折パチリと爆ぜる。
ダッチオーブンの重い鉄蓋の隙間から、シュウシュウと白い蒸気が漏れ出していた。それに乗って、胃袋を直接掴みにかかるような醤油とスパイスの香りが周囲に漂っている。
テントの前に設営した石造りのかまど。その熱を正面から受け止めながら、巨大な白い毛玉――フェンリルが、前足を揃えて行儀よく「お座り」をしていた。
「おい、近すぎるぞ。そんなに鼻を近づけたら火傷する」
俺がトングでかまどの炭を動かしながら注意すると、フェンリルは「クゥン」と喉を鳴らし、しぶしぶといった様子で数センチだけ後ろに下がった。だが、その視線はダッチオーブンから一ミリも動いていない。開いた口からとめどなく溢れるヨダレが、すでに足元の土を濡らし、小さな水たまりを形成しつつあった。
先ほど、五キロの和牛ブロックを丸ごと使ったステーキと、山盛りの特製ガーリックライスを平らげたばかりだというのに、こいつの胃袋はどうなっているのだろうか。いや、神話に名を残すレベルの魔獣のエネルギー消費量を、一般的な物理法則で測ろうとすること自体が間違っているのかもしれない。
俺が現在仕込んでいるのは、豚バラ肉のブロックを使ったコーラ煮だ。
調理法は至ってシンプル。分厚い豚バラの表面をフライパンで香ばしく焼き付けた後、たっぷりのコーラと醤油、酒、それに臭み消しの生姜とネギの青い部分を放り込んで、ひたすら煮込むだけの荒業である。だが、炭酸の効果によって肉の繊維は箸でスッと切れるほど柔らかくなり、コーラの持つ独特の甘みと複雑なスパイスの風味が、絶妙で奥深いコクを生み出す。
野営の夜、火の番を兼ねて時間をかけて煮込むには、これ以上ない最高のメニューだ。
傍らの岩に立てかけた配信端末の画面は、相変わらず凄まじい勢いでコメントが流れていた。
『フェンリルが鍋の番してるwwww』
『あんな行儀のいいボスクラス見たことねえぞ』
『完全に餌付けされてる……野生はどこに置いてきた』
『おっさん、さっきから「熱いぞ」とか普通に話しかけてるけど、相手ラスボスだからな!?』
『てか、あのダッチオーブンから漂ってくる匂い絶対ヤバいやつだ。画面越しでも美味そうなのが伝わってくる』
どうやら視聴者たちも、この状況の異常さに少しずつ順応し始めているらしい。
俺はアイテムボックスから使い慣れたキャンピングチェアを取り出して腰を下ろし、保温ボトルに入れておいたブラックコーヒーを一口すすった。苦味が口内をリセットし、次の食事への準備を整えてくれる。
「そういえば、お前。世間じゃフェンリルとか呼ばれてるらしいな」
俺が声をかけると、フェンリルは鍋から視線を外し、小首を傾げた。その仕草だけを見れば、ただの愛嬌のある大型犬にしか見えない。
「でも、そんな仰々しい名前でいちいち呼ぶのはどうもな。なんかこう、もっと呼びやすい方がいいだろ。……お前、全身真っ白だし、『ハク』でどうだ?」
我ながら安直すぎるネーミングだとは思う。
だが、神級魔獣に向かって「今日からお前はハクだ」などと宣告する底辺探索者は、世界中を探しても俺くらいのものだろう。もし誇り高き魔獣の逆鱗に触れて噛み殺されたとしても、まあ自業自得というやつだ。
しかし、フェンリル――いや、ハクは、その短い言葉の響きを確かめるように耳をピクピクと動かした後、
「ワゥッ!」
と、短く、嬉しそうな声を上げた。同時に、背後の巨大な尻尾がブンブンと勢いよく振り回され、またしても湖畔の風を乱す突風が巻き起こる。
「お、気に入ったか。よし、じゃあ今日からお前はハクだ」
俺が手を伸ばしてハクの顎の下を撫でてやると、ゴロゴロと巨大な猫のような喉鳴らしの音を立てて目を細めた。その毛並みは、どんな最高級の絨毯よりも柔らかく、滑らかだった。
『ハクwwww 安直すぎるwwww』
『神獣の命名が雑ゥ!』
『でも本犬(?)が気に入ってるみたいだし、よし!』
『やばい、だんだんハクが可愛く見えてきた。俺の脳バグってる?』
コメント欄のツッコミを横目に、俺はダッチオーブンの蓋に手をかけた。
「さて、そろそろいい頃合いだろ」
専用のリフターを使い、重い鉄蓋を持ち上げる。
ブワッと白い湯気が立ち昇り、それと同時にコーラと醤油が極限まで煮詰まった、理性を削り取るような甘辛い香りが周囲の空気に広がった。
鍋の中では、濃い飴色に染まった豚バラのブロック肉が、トロトロになった煮汁の中で微かに震えている。隙間に放り込んでおいたゆで卵も、見事な琥珀色に染め上がっていた。
「完成だ。豚バラのコーラ煮」
俺がそう宣言した瞬間、ハクの口からさらに大量のヨダレが溢れ出し、足元の水たまりを一気に拡大させた。
木の器に、分厚く切り分けた豚バラ肉を盛り付ける。ナイフを入れるまでもない。トングで掴んだだけで、肉の繊維が自重でホロリと崩れそうになるほどの柔らかさだ。その横に、半分に割った煮玉子を添え、最後に鍋の底でトロトロになった濃厚な煮汁をたっぷりと回しかける。
「ほら、食え」
俺が器を差し出すと、ハクは待っていましたとばかりに顔を突っ込んだ。
そして、その一瞬後には、器の中身は綺麗に消え去っていた。
「……お前、味わって食ってるか?」
俺の呆れた声など聞こえていないのか、ハクは「ハフッ、ハフッ」と荒い息を吐きながら、空になった器の底を必死に舐め回している。
俺も自分用の器を作り、箸で豚肉を切り分けた。
口に入れた瞬間、脂身がスッと溶けて甘い脂が広がり、赤身の部分からは凝縮された肉の旨味と甘辛いタレの味がジュワッと溢れ出す。コーラに含まれる複雑なスパイスが、豚肉特有の臭みを完全に消し去り、ただの醤油煮にはない奥深いコクを与えていた。
「ん……これは、飯が欲しくなるな」
俺は即座にアイテムボックスから白飯の入った飯盒を取り出し、熱々の豚バラと煮玉子をご飯の上に乗せた。タレがたっぷりと染み込んだご飯と一緒に掻き込むと、もはや理性を保つのが難しいほどの美味さだった。
『ああああああ! 白飯に乗せるのは反則だろ!!』
『深夜に見るんじゃなかった……胃袋が鳴って眠れない』
『このおっさん、絶対に飯テロの才能ある。魔法よりそっちが本業だろ』
『誰か! 誰か早くあの豚肉のレシピを解析してくれ!!』
コメント欄の悲鳴を置き去りにして、俺とハクは静かな最深部の夜の底で、ただひたすらに豚肉と白飯を掻き込み続けた。
赫き剣の連中に見捨てられ、死を覚悟したあの一瞬から、わずか数時間。
俺は今、未踏のダンジョンの最深部で、最強の神獣と一緒に、最高に美味い夜食を食っている。
★★★★★★★★★★★
「……っはぁ……っ、はぁ……っ」
薄暗いワンルームの自室。
散らかったデスクの上に置かれたエナジードリンクの空き缶が、パソコンのマルチモニターの青白い光を反射している。村田琴美は、荒い息を吐きながら、画面に完全に釘付けになっていた。
Eランク探索者である彼女の主な収入源は、ギルドでの地味な事務作業と、底辺D-Tube配信者の「切り抜き動画」の作成だ。
優れた鑑定眼を持つ彼女のスキル『真眼』は、戦闘には全く向かない。だが、他人のスキルの隠された効果や、映像に一瞬だけ映り込んだレアアイテムの真の価値を見抜くことに関しては、国内でもトップクラスの精度を誇っていた。
その夜も、琴美はいつものようにバズる可能性のある「ダイヤの原石」を探して、視聴者数が極端に少ない底辺配信を巡回していた。
そこで偶然、彼女は見つけてしまったのだ。
『名無し_キャンプ配信_テスト』という、サムネイルすら設定されていないそっけないタイトルの配信枠を。
最初は、ただの頭のおかしい探索者が、精巧なセットを組んでフェイク動画でも作っているのだと思った。
だが、無意識に『真眼』を通してモニターを見た瞬間、琴美は椅子から転げ落ちそうになった。
画面に映っている巨大な白い犬。
あれは、紛れもなく神話級の魔獣「フェンリル」だ。その発する魔力の波長、毛並みの質感、骨格の構造、すべてが作り物ではない本物であることを彼女のスキルが告げている。
そして、その神獣の頭を無造作に撫で、雑な名前をつけ、あろうことか「美味い飯」という最も原始的で無防備な方法で手懐けている長髪の巨漢。
(Fランク……? 嘘でしょ。あの生活魔法の異常な精度。詠唱破棄どころか、魔力構築のプロセスが存在してない……!)
琴美の目は、画面の男が魔法を行使した瞬間に現れた、不可視の魔力陣を捉えようとして、そして戦慄した。
土を盛り上げてかまどを作り、テントのペグを同化させたあの技術。
通常の魔法なら、事象を改変するための論理的な手順――構築、変換、出力というステップが存在する。だが、あの男の魔法にはそれがない。結果だけがポンッと出力されているのだ。
あれはただの『生活魔法』などというチャチなものではない。理屈をすっ飛ばして事象を塗り替える、底知れない異常な現象だ。
それを、あのおじさんは「ただのキャンプの準備」として、まるで呼吸をするように無意識にやってのけている。
(尊い……)
琴美は、震える両手でマウスを握りしめた。
誰も気づいていない。
あのコメント欄で「魔法の才能がすごい」と騒いでいる連中すら、この配信の本当の異常性には気づいていないのだ。
戦闘力が皆無という底辺のステータス。だからこそ、生存と生活という一点にのみ全振りの努力がなされ、結果として極まりきってしまった狂気の技術。
そして、何より。
画面越しからでも強烈に伝わってくる、あの圧倒的に美味しそうな料理のシズル感だ。
豚バラ肉の繊維がほぐれる瞬間の映像、タレの艶、神獣が歓喜して尻尾を振る様子。
「ぐぅぅ……っ」
琴美の胃袋が、悲鳴のような音を立てた。
もう深夜の二時だというのに、口の中に唾液が溢れて止まらない。空腹感と、それを見せつけられる苦痛が、逆に脳内麻薬を分泌させているような錯覚すら覚える。
「こ、これは……歴史的瞬間です……!」
琴美は大きく深呼吸をし、使い慣れた動画編集ソフトを立ち上げた。
この奇跡のような配信を、ただの「面白い飯テロ」で終わらせてはいけない。画面の男が持つ魔法の異常性、神獣が完全に堕落していく様、そしてあの狂おしいほどに美味しそうな料理の破壊力を、完璧なテロップと編集で世界中に知らしめなければ。
「ふふっ……あははっ。私が見つけちゃった……最高の原石……!」
深夜のワンルームに、限界オタク特有の早口な独り言が響く。
琴美は瞬きすら忘れ、ディスプレイに齧り付くようにしてキーボードを叩き始めた。誰に頼まれたわけでもない。ただ、「このヤバさを世界に見せつけたい」という強烈な衝動だけが、彼女を動画編集の作業へと駆り立てていた。