作品タイトル不明
25.ベッドがひとつってどういうことだ!
宿の予約を執事のクルトに任せたのが失敗だったのだろうか。それとも、彼なりの気遣いなのだろうか。
たった1つのベッドを眺めながら、セシリアとアルフォンスは立ち尽くしていた。
「……おい、なんで、部屋が1部屋しかないんだ。せめて、ベッドは2台だろ!」
「お、落ち着いてください、アルフォンス様。普通の夫婦の寝室は、1部屋で、一緒のベッドですから……」
「いつ、俺たちが一緒の寝室で寝ていたんだ。……全く、いらない気を回しやがって」
おかげで、アルフォンスの酔いは少し冷めたらしい。だが、先ほどよりも顔はずっと赤くなっている。
「大丈夫です。私はソファで寝ますから」
「何言ってるんだ。どっちにしろ、俺はベッドで寝ないん、だから……」
アルフォンスはそこまで言って、言葉に詰まった。はっとしたようにセシリアの顔色を窺う。
セシリアの目は笑っていなかった。
「アルフォンス様? まだ、ベッドで寝る習慣がついていらっしゃらないようですね」
「いや……」
後ずさりするアルフォンスの手首を掴み上げる。
「悪い子は、こうです!」
セシリアは、アルフォンスを無理矢理ベッドに寝かせるように引っ張った。だが、思いの外、彼に抵抗する力は無かったため、セシリアがアルフォンスを押し倒すような格好になってしまう。
ふかふかとしたマットレスに、アルフォンスは沈み込んだ。ぽすんと、その上にセシリアが乗っかっている。
アルフォンスの顔は先ほどワインを口にした時よりも、いや、ベッドが1つだと分かったときよりも、ずっと。まるで完熟したトマトのように真っ赤に染まっている。
「……な、何やってるんだ。お、お、お、ま、お前……」
「な、な、な、何やってるんでしょうか、私……」
恋愛経験がないセシリアとて、この状態が『良くない』ことは分かる。いや、夫婦だから別にいいのか。いや、駄目だろう。いや……。
ともかく起き上がろうと、セシリアはアルフォンスから離れようとした。
が、その瞬間。
セシリアの手首がぱしり、と掴まれる。
ガサガサとした手の平が、セシリアの細い手首をぐっと引き寄せたかと思うと、鼻と鼻がぶつかる距離まで引っ張られた。
「ア、アルフォンス様……?」
酒を飲んだからなのか、潤んだ瞳はギラギラとセシリアを見つめている。彼の息は少しだけ荒い気がする。
「……可愛いな」
「えっ」
セシリアの頬にすっとアルフォンスの手が添えられ、唇に柔らかいものが触れた。まるで、サクランボを食べた時のような柔らかな感触だった。
甘くて、少し苦くて、蕩けそうな感情が胸いっぱいに広がっていく。きっと、一瞬のことだったのに永遠にすら感じられる時間だった。
唇が離れ、彼の吐息が顔にかかった瞬間、セシリアは自分が何をされたのか気が付いてしまった。
「……っ!?」
セシリアが飛びのいて、口元を押さえる。それを見たアルフォンスもまた、我に返ったようにベッドから立ち上がった。
「何を、お、俺は……今、一体、何を……!」
「お、落ち着いてください。アルフォンス様。私は大丈夫ですから」
「俺が! 大丈夫じゃ! ない!」
唇と唇が、触れてしまった。温かい感触が確かにあったことを確かめるために、セシリアは口元をなぞる。
(駄目、思い出したら、恥ずかしさで死んじゃう……!)
ベッドから離れ、2人して部屋の中をぐるぐると歩き回った。意味も無いのに、ソファに立ったり座ったり、空になったティーカップを意味もなく持ってみたり、クローゼットの扉を開けたり閉めたり。
ともかく、体の底から湧き上がってくるような、ぞわぞわした感情を押し殺すのに必死だった。
(落ち着け、落ち着け、私……!)
そうして、2人して意味の無い行動を続けてしばらく経ち。
「はぁー……はぁ……」
「つ、疲れた……」
セシリアは疲れてベッドに倒れ込んだ。なんだか、部屋の中を100周くらいしてしまった気がする。
アルフォンスもまた、深い息を吐きながらソファに座り込んでいた。
「……寝るか」
「そうですね」
すっかりと気持ちが落ち着き切り、甘い空気も抜けきってしまった。それが嬉しいような、悲しいような微妙な気持ちに苛まれる。
お互いパジャマに着替えると、一気に瞼が落ちてきそうになった。
セシリアは、シーツと毛布の間に滑り込んだ。ふかふかとしている毛布にくるまっていると、すぐにでも眠れそうだった。
けれども。
「……アルフォンス様は、寝ないんですか」
「俺はソファで座って寝る」
腕を組んで、目を瞑ってはいるが、そんな状態で寝られるはずがないだろう。セシリアは、とんとんと自分の隣を叩いた。
幸いなことに、ベッドは広い。
「私、眠れないので、横に寝てもらってもいいでしょうか」
「……は! お、お前、今の流れを忘れたのか。もしかして、記憶喪失か?」
「一緒に寝てくれないと、私も寝ませんから。ずっと起きてますから!」
「……子どもか」
アルフォンスは、肩をすくめたけれど、セシリアはこんなところで折れるわけにはいかなかった。
「ええ、子どもで結構です!」
「ずいぶんと、わがままな子どもだな」
「嫌いですか?」
「……わかって聞いているだろ」
ふう、と息を吐きながらアルフォンスは、立ち上がった。どうやら、折れてくれたらしい。彼は、セシリアの隣に潜り込んだ。
先ほど歩き回ったせいか、セシリアの心臓がおかしな音を立てることはなく、眠気が襲ってくる。
「……おやすみなさい。アルフォンス様」
「ああ、おやすみ。セシリア」
セシリアは目を瞑った。うっかりすると寝てしまいそうである。けれど、彼女はまだ寝るわけにはいかなかった。
薄く目を開く。しばらくの間、ずっとそうしてアルフォンスのことを見つめていた。
(……貴方が寝るまでは、私も起きておくから。眠るのが怖いと言っていた、貴方のために)
そうして、しばらくして。
やがてすうすうと寝息らしきものが聞こえてきた。見れば、ゆっくりと胸が上下している。どうやら寝てしまったらしい。
(おやすみなさい、アルフォンス様。いい夢を)
セシリアは、金色の前髪をゆっくりと撫でで、自身も眠りについた。
◇
すうすう、と寝息が聞こえたことを確認して、アルフォンスはゆっくりと目を開いた。
「……お前は、優しいんだな」
横で幸せそうな顔をして眠る、セシリアの前髪を撫でた。先ほど、自分にしてくれたのと同じように。
アルフォンスが眠るまでセシリアは起きているつもりであることを、彼は分かっていた。だから、申し訳ないと思いながらも、寝たふりをしていたのだ。
アルフォンスは、未だにベッドで眠ることができない。染みついた不眠体質は、都合よく簡単には治ることはない。
だが、一度だけ。
風邪を引いた時に、彼女が傍にいたことで眠れたことがあった。
ふかふかとした枕に、頭を沈めながら思う。
(もしかしたら、本当に)
アルフォンスが14歳の自分に気がついて泣くことができたように、彼女といれば、いつか、自分にかかったこの不眠の呪いも解ける日がくるのかもしれない。
「……セシリアは、凄いな」
アルフォンスは目を瞑った。
彼女は、ひょっとしたら魔法が使えてしまうのではないかとすら思う。アルフォンスの暗くて湿っぽかった毎日は、彼女のおかげで、いつのまにか気持ちいいくらいの晴天に変わっていた。
運命なんて言葉、アルフォンスは嫌いだったが、もしも運命というものが存在するのならば、セシリアの相手は自分であって欲しい。
「絶対に、守るよ。騎士に二言は無いからな」
アルフォンスは、その日、ほんの少しだけベッドの上で眠れた気がした。