主はお赦しになりますが、私は赦しません ――祈るだけでよいと言われた聖女は、弱き者を食い物にした悪徳司祭の懺悔を聞きに行く
作者: tomato.nit
本文
聖堂は、朝の光に満ちていた。
高い窓から差し込む光が、白い石床に淡く落ちている。銀の燭台には夜明けの火が残り、祭壇には白百合と清水が供えられていた。
その前に立つ聖女イレイナ・ハングレイスは、息を呑むほど清らかだった。
白いヴェール。伏せられた睫毛。祈りの形に重ねられた両手。
ただそこに立つだけで、朝の聖堂の空気まで澄んで見えた。
「孤児院へ送る毛布は、今週中に手配せねばなりませんな」
「薬も切らしてはなりません。子どもは冬の風邪をこじらせやすい」
神官たちはもっともらしい顔で言葉を交わし、イレイナの前では自然と声を潜めていた。
イレイナはただ静かに微笑んでいた。
「聖女様は、ただ祈っておればよいのです」
肥えた神官は、丸い腹の前で指を組み、慈悲深そうな顔をした。
「孤児院へ送る毛布や薬の手配は、我々が責任を持って進めます。貴女は我々の言葉を神に届ける。それが、お役目です。金の話など、清らかな聖女様が触れるものではありません」
「はい」
イレイナは、白いヴェールの奥で穏やかに微笑んだ。
「主の御心のままに」
神官たちは満足げにうなずき、聖堂を出ていった。
重い扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
聖堂に、イレイナだけが残された。
イレイナは、足音が完全に消えるのを待った。
ばさり。
白いヴェールが床に落ちる。
伏せられていた睫毛がゆっくりと上がる。
口元にはまだ聖女の微笑みが残っていた。だが、それは一息ごとに形を変えた。やわらかな弧は冷たく吊り上がり、慈悲を湛えていたはずの顔から、静かな獰猛さが滲み出る。
穏やかだった笑みは、猟犬のような獰猛な笑みに変わっていた。
「ったく。ぐだぐだうっせぇな、ハゲどもが」
イレイナは首元の飾り紐を緩め、舌打ちした。
「何が、金の話は清い聖女には無縁だよ。笑わせんな。この世は金だぜ、金。ガキの腹を膨らませるのも、熱出した婆さんに薬買うのも、冬越す毛布を運ぶのも、全部金だ」
祭壇の上で、蝋燭の火が小さく揺れた。
「祈りで腹は膨れねぇ。神様だって、空っぽの鍋に祝福は盛れねぇよ」
イレイナは指を二回鳴らした。
柱の陰から、灰色の外套の男が滑るように現れる。
「お呼びですか」
「ギルドに流してる武器の状況はどうなってんだ。ちったぁ売れたのか」
「ええ。順調です。貴族の屋敷から押収した、邪教徒の祝福を受けたインゴットですが、少量であれば地金には最適です」
「けっけっけ。ざまあねぇな。雑魚の神に捧げた鉄なんざ、うちの冒険者どもに安く使われてなんぼだぜ」
男は少しだけ目を伏せた。
「それと、孤児院の件ですが」
イレイナの笑みが止まった。
「言え」
「冬越し用の毛布、薬代、小麦袋。すべて神殿からは支給済みになっています」
「届いてねぇんだな」
「はい」
「抜いたのは?」
「会計司祭バルド。先ほど聖堂にいた、丸い方です」
「あのデブか」
イレイナは、床に落ちたヴェールを爪先で払った。
「証拠は」
「領収書の写し、倉庫番の証言、運搬人の帳面。すべて押さえています」
「別宅は?」
「買っています。孤児院の薬代が、暖炉付きの客間に化けました」
イレイナは黙った。
祭壇の前に置かれていた銀杯を手に取り、じっと見下ろす。
やがて、笑った。
「神もあたしも舐められたもんだなぁ?」
銀杯を祭壇へ戻す。
「いいぜ。耳揃えて返してもらう」
その夜、会計司祭バルドは聖堂へ呼び出された。
名目は、孤児院支援の感謝祈祷。
バルドは上機嫌だった。
白い法衣を着込み、脂ぎった顔に穏やかな笑みを貼りつけている。小太りと言うには腹が出すぎていて、腹に食い込む太い金鎖が、呼吸のたびに法衣の上から鈍く揺れた。椅子に座るたび木が軋んだ。
「聖女様も、ようやくお分かりになったようですな」
バルドは祭壇の前で笑った。
「孤児院への支援は、神殿の格式を示す大切な務め。毛布も薬も、子どものために滞りなく回してこそ意味がある。貴女は祈り、我々が実務を行う。それが正しい形です」
「ええ」
イレイナは、白いヴェールを被ったまま微笑んだ。
「本日は、主の御前で、支援への感謝を形にしたく存じます」
「もちろんですとも」
バルドは満足げに頷いた。
その時、聖堂の扉が開いた。
入ってきたのは、孤児院の老修道女だった。続いて、咳をこらえる子どもを抱いた若い修道女。最後に、灰色の外套の男。
バルドの目が、わずかに揺れる。
「……これは?」
「感謝は、多い方がよいでしょう?」
イレイナは祭壇の前に立ったまま、穏やかに言った。
「孤児院を代表して、皆さまにお越しいただきました」
老修道女は深く頭を下げた。
「聖女様。このたびは、お心をお寄せくださり――」
そこで言葉が詰まる。
乾いた唇が、続くべき礼の言葉を見失っていた。
イレイナは静かに頷いた。
「では、まず確認いたしましょう」
その声音は、あくまで柔らかかった。
「孤児院の冬用毛布。薬。小麦袋。薪。子ども用の靴。すべて、神殿からは支給済みになっていますね」
聖堂の空気が止まった。
バルドの笑みも止まる。
「……何のことでしょう」
「ええ。わたくしも、最初はそう思いました」
イレイナは微笑んだまま、灰色の外套の男へ視線を送る。
「こちらが、毛布と薬の受領印です」
書類が広げられる。
「そして、実際に金が流れた先がこちら。司祭様の別宅の暖炉、客間の絨毯、銀食器ですね」
「違う。これは、管理上、一時的に預かっただけだ」
「帳面は、そう記しています」
老修道女が震える手で、胸元のロザリオを握った。
「子どもたちは、夜になると咳をします。薬が届いていれば、あの子たちは」
「黙れ!」
バルドが叫んだ。
「孤児など、多少寒くとも死にはしません。薬がなくとも耐える者は耐えるのです」
「聖女様! この者たちは貴女を惑わせています。金のことなど、聖女様が触れるものではありません。貴女は、ただ祈っていればよいのです。我々の言葉を神に届けるのが――」
「ですから」
イレイナは、ヴェールの奥で静かに微笑んだ。
「届けましょう」
聖堂の奥で、火が揺れた。
「あなたの懺悔を」
バルドが息を呑む。
イレイナは祭壇の階段を降り、膝をつきかけたバルドの前に立った。
「祈りで腹は膨れません」
やわらかな声音が、かえって聖堂を冷やした。
「けれど、罪はよく膨れるものですね。司祭様の暮らしぶりのように」
「せ、聖女様……」
「今なら、まだ主の御前です」
イレイナは静かに見下ろした。
「ご自分の罪を認め、孤児院へ返すとおっしゃるなら、わたくしはその言葉を届けましょう」
バルドの喉が上下する。
祭壇の光を受けた聖女の顔は、あまりにも穏やかだった。
縋るには、都合がよすぎた。
「わ、私は……」
掠れた声が漏れる。
「ほんの少し、魔が差しただけで……今なら悔いております。返します。返しますとも。だから、どうか……どうか慈悲を」
「主はお赦しになります」
その言葉に、バルドの顔がわずかに明るくなりかけて、止まった。
イレイナは聖女の微笑みを浮かべたまま、バルドの前にしゃがみ込んだ。
そして、その手を優しく包み込む。
「よくぞ、自らの罪をお認めになられました。立派です、司祭様」
「お、おお……当然だ。やはり、神は寛大であられる」
「ええ。神は」
イレイナの指が、バルドの指輪に触れた。
そのまま、もう片方の手がゆっくりとヴェールへ伸びる。
ばさり。
床に白が落ちた。
伏せられていた眉が、ゆっくりと上がる。
その口元には、もう聖女の笑みはなかった。わずかに吊り上がった唇の端に、鋭い八重歯がのぞく。
「でも、あたしは赦さねぇけどな?」
包み込んだ手のまま、青い宝石の指輪を引き抜く。
「なっ……!」
指輪が、祭壇の階段へ転がって乾いた音を立てた。
「祈るだけの聖女如きに、こんな真似が許されるはずがない!」
バルドが喚く。
イレイナは、転がった指輪を一瞥した。
「ああ、ないぜ?」
その声には、もう聖女の温度は欠片もなかった。
「これは、あたしの領分だ」
「まずは、毛布代」
イレイナは立ち上がると、そのままバルドの首元へ手を伸ばした。
太い金鎖を引き抜く。
「や、やめっ」
「薬代」
次に腰の鍵束。
「それは神殿の」
「小麦袋」
懐の金貨袋。
「返せ!」
「薪代」
最後に、神殿会計司祭の印章。
「それに触れるな!」
「子ども用の靴」
ひとつ剥がしては、祭壇の階段へ置く。
まるで供物でも並べるみたいに、イレイナの手つきは丁寧だった。
バルドの顔は、置かれた数だけ醜く歪んだ。
バルドは身をよじった。
「やめろ! 私は司祭だぞ! このような扱いが許されると思っているのか!」
「だったら祈れよ」
イレイナは笑った。
「祈って腹が膨れるか、てめぇで試してみろ」
最後に、灰色の外套の男がバルドの法衣の飾り紐を解いた。
白い法衣が乱れ、丸い腹が情けなく揺れる。
祭壇の階段には、司祭の威厳よりよほど重たそうな私物が並んでいた。
老修道女だけが、涙を拭いていた。
「バルド司祭。神殿会計職を剥奪。別宅、装飾品、隠し金、全部差し押さえ。孤児院に戻す。足りねぇ分は、てめぇの親族に泣きつけ」
「そんな、そんなことをすれば、私は」
「泣けよ」
イレイナは祭壇を見上げた。
「主に届くようにな」
翌朝。
孤児院に、荷馬車が三台届いた。
毛布。小麦袋。薬箱。薪。干し肉。子ども用の靴。
子どもたちは歓声を上げた。
老修道女は泣いていた。
イレイナは、白いヴェールを被り直し、穏やかに微笑む。
「主の恵みです」
子どもたちは、信じた。
修道女も、たぶん信じたかった。
灰色の外套の男だけが、荷馬車の陰で小声で言った。
「司祭様の別宅、思ったより高く売れましたね」
「主の恵みだろ」
イレイナは、干し肉をかじりながら答えた。
「聖女様」
小さな子どもが、イレイナの袖を引いた。
「お祈りしたら、また毛布、来る?」
イレイナは一瞬だけ黙った。
それから、しゃがみ込んで、子どもの目を見る。
「祈っとけ」
子どもは、こくりとうなずく。
イレイナは、にっと笑った。
「あたしはちゃんと聞いてるからよ」
子どもは、よく分からない顔で笑った。
イレイナも笑った。
聖女イレイナ・ハングレイス。
祈りを神に届ける聖女。
そして、泣き叫ぶ声も神に届ける、異例の聖女である。