軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

番外編「真実の愛の申し子」、結婚から三年後

王宮の王太子妃の執務室に、心地よい午後の陽光が差し込んでいた。

私はデスクに向かい、流れるような手つきで書類にサインを認めていく。私の隣では、夫であり、この国の王太子であるマクシミリアンが、同じように山積みの国政文書を片付けていた。

本来であれば、王太子と王太子妃の執務室は別々に用意されるのが通例だ。

それにもかかわらず、こうして二つの机を並べているのは、他でもない彼の強い希望。いいえ、切実な懇願によるものだった。

『忙しい毎日の中で、一番長い時間を占めるのは執務の時間だ。だから頼む、アナスタシア。その時間を、少しでも多く君と一緒に過ごしたいんだ』

そう言って、大真面目な顔で私の両手を握ってきた彼の姿を思い出す。

公務という義務の中にさえ、私と共にあるための口実を見つけ出そうとする。そんな彼の不器用な執着が、今の私には酷く愛おしい。

「よし!これで今日の分は終わりだ。本当に見事な手際だな、アナスタシア。……ああ、やっぱり君をこの執務室に迎えて正解だった。君以上のパートナーはいない」

マクスが羽ペンを置き、ふう、と小さく息を吐いた。それからすぐに、私の手元を覗き込んで、嬉しそうに目を細める。

「ふふ、お褒めに預かり光栄ですわ、マクス殿下。ですが、今日は少し急がなければならなかったのです」

「ああ、例の件だな」

マクスが優しく微笑み、私の手をそっと包み込んだ。

私たちが結婚してから、早いもので三年が経とうとしている。

かつてバルコニーで震えていた不器用な彼の掌は、今では驚くほど自然に、そして温かく私の手に馴染んでいる。

数日前、私の実家であるヨーク公爵家から、一つの大きな報せが届いた。

父フランソワが、正式に公爵位を退き、隠居することになったのだ。

後継者としてヨーク家に迎えられたのは、遠縁にあたる若き伯爵子息だった。彼は私の学園時代の後輩でもあり、非常に聡明で、何より血の滲むような貴族の義務を「喜んで背負う」と言い切る気概を持った傑物だ。

母がかつて領地の別邸で放った「優秀な養子に仕事を押し付ければいい」という言葉は、確かに無責任極まりない現実逃避だった。けれど、私と父がそれを「現実的な政治」として正しく機能させた結果、ヨーク公爵家は破滅を免れ、次世代へと無事にバトンを渡すことができたのだ。

「フランソワ公爵は……これから、公爵夫人のいる領地へ向かわれるのだな」

マクスが静かに問いかける。私は頷き、窓の外の青空を見つめた。

「ええ。引き継ぎをすべて終え、本日、王都を発たれるそうです。……これからは、あの静かな別邸で、お母様と共に暮らすと」

父のあの虚ろな瞳が脳裏をよぎる。

十数年前の熱病は冷め、残ったのは義務と罪悪感だけだと語った父。けれど、公爵という重荷から解放された今、父は自らの意思で、再び母の元へと戻ることを選んだ。

それはもう、盲目的な大恋愛ではないのだろう。犯した過ちへの責任であり、同時に、十五年という歳月をかけて、泥をすすりながら築き直した、彼らなりの「家族の情愛」の形なのかもしれない。

「お伽話の続きではなく、彼らの本当の『その後』が、これから始まるのですわね」

「ああ。きっと、今度こそ穏やかな日々になるはずだ」

マクスは私の肩を引き寄せ、その広い胸に私を包み込んだ。

トントン、と規則正しく刻まれる彼の心音。それは、かつて私が恐れていた「いつか冷める熱病」のそれとは、明らかに違っていた。

この一年間、マクスは私を一度も檻に閉じ込めようとはしなかった。私が王太子妃としての公務に奔走すれば、誰よりも頼もしい味方として支えてくれた。夜、二人きりになる時間は、互いの労をねぎらい、不器用ながらも真っ直ぐな言葉で、その日にあったことを語り合った。

冷めない熱ではなく、絶やさない灯火のように。彼は毎日、私に確かな信頼を積み上げてくれた。

「……マクス」

「ん? どうした、アナスタシア」

私は彼の胸に顔を埋めたまま、小さく呟いた。

「私、最近……少しだけ、怖くなくなってきたのです」

「何がだ?」

「『愛』という、形のない不確かなものが」

私の言葉に、マクスの体がわずかに強張った。彼は驚いたように私を見下ろす。その紫の瞳が、嬉しさと、愛おしさで揺れていた。

「盲目的に溺れるのは、今でも愚かだと思っていますわ。けれど……あなたとなら、この温かさを信じてもいいのかな、と。そう思えるくらいには、私はあなたに、甘やかされてしまったようです」

初めて口にする、私の本音。

形だけの契約として始まった私たちの婚姻。けれど、私の頑なだった心の氷は、マクスが時間をかけて注ぎ続けてくれた温もりによって、少しずつ、けれど確実に溶かされていた。

「アナスタシア……」

マクスが、ひどく切なげに、そして歓喜に震える声で私の名を呼んだ。

彼の大きな手が私の頬を包み込み、ゆっくりと顔を上げさせる。重なる唇は、驚くほど熱く、けれどどこまでも優しかった。

「ありがとう。君がそう思ってくれる日まで、一生待つつもりだった。……いや、これからもずっと、君がその愛を信じ続けられるように、僕は僕のすべてを賭けて、君を大切にする」

彼の言葉に、嘘偽りがないことを、今の私はよく知っている。

私たちは、お伽話のハッピーエンドのように「永遠の愛」を安易に誓い合ったりはしない。けれど、現実の荒波を二人で手を取り合って進むための、確かな「愛」が、ここにはあった。

窓の向こう、遠い領地の陽だまりの中で、ようやく肩の荷を下ろした両親が、静かに微笑み合う姿が目に浮かぶ。

そして私たちは、王都のこの場所で、私たちの新しい歴史を紡いでいく。

「これからもよろしくお願いいたしますわ、私の頼もしい旦那様」

「ああ。生涯をかけて、君と共に歩もう、僕の愛しい王太子妃」

差し込む陽光は、私たちの未来を祝福するように、どこまでも温かく、優しく満ち溢れていた。

ハッピーエンド