作品タイトル不明
王太子の不器用な手
王太子殿下の学園の入学を記念した夜会は、目も眩むような光の渦だった。
豪奢なシャンデリアの下、着飾った貴族たちが談笑している。その誰もが、私と、私の隣に立つ少年の動向を値踏みするように伺っていた。
「……疲れた顔をしているな、アナスタシア。少しバルコニーで休まないか」
耳元で低く囁いたのは、私の婚約者である王太子、マクシミリアン殿下だった。
相変わらずぶっきらぼうだが、私を気遣う彼の紫の瞳には、確かな熱が宿っている。私はその熱から逃げるように、静かに頷いた。
夜風が吹き抜ける、静かなバルコニー。
喧騒が遠のくと、私は小さく息を吐いた。そんな私に、マクシミリアンはそっと上着をかけようとして、私の祖母から贈られた青いサファイアの髪飾りに気づき、手を止めた。
「見事なサファイアだ。君の、夜空のような瞳によく似合っている」
「……お祖母様から、入学祝いにいただいたのです。アルマディス王家に伝わる魔除けだとか」
「そうか。アルマディス王女であった、前公爵夫人から……」
マクシミリアンは嬉しそうに目を細め、それから、きつく握り締められていた私の手をそっと包み込んだ。
彼の掌は驚くほど温かく、そして少しだけ震えていた。その不器用な優しさに、私の胸の奥がキュッと痛む。
(ああ、駄目だわ。私は……)
私は、マクシミリアンが好きだった。
周囲から何を言われても私を真っ直ぐに見つめてくれる彼に、恋をしていないと言えば嘘になる。私の胸の奥には、彼を信じたい、この恋心を大切に育てていきたいという小さな、しかし確かな《《恋のカケラ》》があった。
けれど、好きだからこそ、父のあの虚ろな瞳が脳裏をよぎるのだ。
『あれは愛などという美しいものではなかった。ただの熱病だ』
いつか、この温かい手も冷めるのだろうか。私を見るその瞳も、義務と罪悪感に濁ってしまうのだろうか。
「マクス殿下」
私は彼の掌からそっと手を引き、バルコニーの手すりに身を寄せた。
「私との婚姻も、祖母の言うような『義務』ですか? それとも、父のような『熱病』ですか?」
「なんだって……?」
「父は、母への愛を熱病だったと言いました。熱が冷めた今、残ったのは罪悪感だけだと。……殿下が私に向けるそのお言葉も、私たちがヨーク公爵家と王家だからという『義務』なのですか? それとも、いつか冷めて消えてしまう、不確かな感情なのですか」
私の問いは、震えていた。傷つきたくなくて、必死に彼を拒絶しようとする防衛本能。
マクシミリアンは痛烈な一撃を食らったように目を見開き、それから、ひどく切なげに眉を寄せた。
「……違う。義務でも、君を縛る熱病でもない」
彼は一歩、私に近づいた。その大きな手が、私の頬を包もうとして、拒絶を恐れるように途中で止まる。どこまでも不器用で、真摯な手だった。
「確かに、最初は国のため、民のための婚姻だと思っていた。だが、アナスタシア。君を知るうちに変わったんだ。お前は、どれだけ周囲に陰口を叩かれても、背筋を伸ばして、一人で戦おうとする。その気高さに、僕は心を奪われた。不器用で、強がりで、傷つきやすい君を、僕の生涯をかけて守りたいと思った。これは……一時的な狂気なんかじゃない」
彼の言葉は、私の凍りついた心を溶かすほどに熱かった。
信じたかった。その言葉に縋って、彼の胸に飛び込んでしまえたら、どんなに楽だろう。
けれど、私の理性が、冷酷に囁く。
『十数年前、お父様もお母様に、全く同じ言葉を囁いたのよ』、と。
「……殿下の真摯なお気持ちは、嬉しく思います」
私は、彼の届かない手の届かないところまで、一歩、後退りした。
「ですが、私はまだ、その言葉を信じる勇気がありません。『愛』という形のないものを、どうしても恐れてしまうのです」
「アナスタシア……」
「私に、少しだけ時間をください。……確かめたいのです。あの十数年前、一体何が起きて、何が間違っていたのか。それを見極めなければ、私は殿下の手を取ることができません」
マクシミリアンは、差し伸べたまま行き場を失った己の手を、ゆっくりと下ろした。その紫の瞳には、私の頑なさを責める色は一切なく、ただ耐えるような深い哀愁だけがあった。
「分かった。君が納得するまで、僕はいくらでも待つ。……だが、これだけは忘れないでくれ。僕は、君が僕を信じてくれるその日まで、ずっと君の側にいる」
二人の間に芽生えた、確かに甘やかな恋心のカケラ。それが、すべてを焼き尽くす熱病になるのか、それとも生涯を共にする本物の「愛」に育つのかは、まだ分からない。すべては、私の出す答え次第なのだ。
(私は、知らなければならない)
父の悔恨、祖母の矜持、そして婚約者の不器用な情熱。
それらを受け止めた上で、私はお伽話の「本当の始まり」をこの目で見に行く決意をした。
かつて、私の父を奪われ、悪役として修道院へ送られた女性。
オンタリオ侯爵令嬢、キャロライン様。
彼女なら、お伽話の裏側に隠された、もう一つの真実を知っているはずだ。