軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 清務

「やっと終わった……」

記録板の束を閉じ、セレナは小さく息をついた。

そのとき――

チリン

思わず顔を上げた。

書庫の入口に控えていた侍女が廊下の先へ目を凝らした。次の瞬間、慌てて身を翻す。

「姫様……! 巫女長様が……!」

セレナは思わず目を見開いた。

「巫女長様? こちらに?」

衣擦れと鈴の音が静かに近づいてきた。

白磁の床に、淡い金糸を織り込んだ巫衣の裾が映る。

巫女長アリヤナが、姿を現した。

セレナは立ち上がり、礼を執ろうとした。

だが、その前に――

「……姫様。

祓いの地より戻られたお方に、

まずお伝えせねばならぬことがございます」

セレナは扇を胸元に寄せ、姿勢を正した。

「伺います」

アリヤナは一歩も近づかなかった。

距離を隔てたまま、鈴を指先で揺らす。

「後宮の祈りは、国を鎮める柱。

ゆえに――

祓いの地にて“民を導く声”を持たれたならば、

その力は慎んで扱われねばなりません」

侍女たちが小さく息を呑む。

セレナはわずかに首を傾げた。

「王家の祈りは形です。

姫様が外に立てば、

その形が揺らぎます」

……わざわざ、それを言いに来たの?

神官は元来、王妃の座に連なる陣営。

それはつまり――

アリヤナは淡く目を細めた。

「祈りの座を持たぬ姫が、

民を鎮め、兵を動かすことは……

祟りと捉えられることもございます」

セレナは目だけで巫女長を見た。

アリヤナは口元に微笑を残したまま、表情を変えない。

……神父とは大違いね。

神の言葉より、体制を守る方が大事だなんて。

「姫様。

どうか、ご自身の立つべき場を

お違えになりませんよう」

鈴が小さく鳴り、空気だけが揺れる。

「……それが国を守ることです」

それだけを残して、アリヤナは部屋を出た。

扉が閉じ、残り香が静かに沈む。

セレナはしばらくその場に立ち尽くした。

祟り、ね……

それはあなた方の“私念”の間違いでは?

扇の縁を胸に当てる。

全く、神の名を都合よく使うなんて……

はっと息を呑んだ。

……私も、だったわね。

「セレナ様……」

リサの声がそっと寄り添う。

「大丈夫よ」

人のこと言えないわ……

彼女、本当に霊感はあるのかしら?

そんな苦い皮肉を胸の底で転がした、そのとき――

コン、コン。

かたいノックが響く。

侍女が扉を開けると、カリムが立っていた。

「カ、カリム殿……!?

こちらまでいらっしゃるなんて……!」

侍女の声が裏返る。

後宮の奥に武官が足を踏み入れるなど滅多にない。

しかも、カリムの表情はいつもより硬い。

「姫殿下に、お取次ぎ願いたい」

侍女たちは左右へ散り、

セレナへ道が開かれる。

カリムは一歩進み、膝を折って深く礼をした。

「姫殿下。

殿下よりのご伝令にございます」

「殿下が……?」

「“政務殿へ参内せよ”

──以上が、殿下からの正式なお言葉です」

その声音は普段と違い、

妙に丁寧で、張り詰めた色があった。

……この人がこんな話し方をするなんて、初めて見るかも。

侍女たちは息を呑み、

部屋の空気が一気に強張る。

セレナは一歩前へ進み、穏やかに問いかけた。

「殿下は……どのようなご用件でしょうか?」

カリムは一瞬だけ迷い、

視線をわずかに伏せた。

そして顔を上げる。

「……それは、殿下ご自身が姫殿下にお伝えになるべき事にございます」

知っているのに教えないの? 意地悪……

困惑していると、カリムは続けた。

「ただ……殿下は、すぐにでもお会いしたいご様子でした」

侍女たちがどよめく。

セレナの指先が扇をそっと握りしめた。

胸の奥で、緊張とも戸惑いともつかぬ熱が膨らんだ。

カリムは膝を突き、視線を伏せる。

「姫殿下のご準備が整い次第、

政務殿までご案内いたします」

セレナは小さく息を吸い、侍女へ頷いた。

「……分かりました。

すぐに支度をいたします」

自室へ戻ると、侍女たちが一斉に動き出す。

薄衣と帯、髪飾りが整えられてゆく。

扇を指先で整えながら、

セレナは胸のざわめきを抑えきれずにいた。

白い扉が閉じる直前。

廊下の向こうで待つカリムの横顔が、

いつも以上に硬く見えた。

その頃、砦。

――“殿下は、祓いの姫の戻りを毎晩待っていた”

兵の軽口――

だが、砦まで届く頃にはそれだけで十分だった。

(……セレナ)

焚き火の端で漏れた噂に、

サフィアの指が止まった。

“祓いの姫の扉の前だ”

“毎晩だそうだ”

“戻ってきたら真っ先に会うつもりだったんだろうよ”

兵の囁きが、耳の奥の深いところへ沈んでいく。

胸が、ひどく軋んだ。

――殿下は帰還を待つ私には、

一度だって、その足を向けてはくださらなかったのに。

焚き火の灯が揺れる。

橙の影がサフィアの横顔を削り落としていく。

私じゃなく……あの姫を……。

手袋の縫い目が音を立てるほど、

拳が強く握り込まれた。

“殿下は、姫様の戻りを待っていたんだろうよ”

その軽口ひとつで、

視界が白く弾けた。

……私より、あの人を……?

私の戦いなんて、届かなかったの……?

炎が夜の風に裂かれ、

サフィアは静かに立ち上がった。

「私は、アルシオンだけなのに……」

その呟きは誰にも届かず、

焚き火の明かりだけが、揺れる頬を照らしていた。

侍従が扉を開けると、政務殿には夕の光が差し込んでいた。

夕の光を受けて長く伸びる影の先に、

アルシオンが立っていた。

机の上には巻物が並んでいるが、

どれも封を切った様子がない。

扉が閉まるか閉まらないかのうちに、

アルシオンの視線がセレナに向けられる。

「姫」

低く呼ばれ、

セレナの足が自然と止まる。

声は穏やかだ。

けれど、胸の奥がざわつくような響きがあった。

アルシオンは机の端から手を離し、

ゆっくりと一歩、セレナへ近づいた。

「来てくれて、ありがとう」

セレナは胸の前で扇を整え、

深く一礼する。

「殿下。お呼び立てと伺いました。

……何か、私に……」

アルシオンは机のそばに立ったまま、

セレナへ視線を向けた。

「……姫。

お前に訊きたいことがある」

「え……」

「王都東区の混乱を収めたのは──

“祓い”でも“形式”でもなく、

お前の声だったと報告を受けた」

「……声、ですか?」

「お前が“落ち着いてください”と言っただけで、

民も兵も動いた。

あれを……俺は軽く扱えない」

アルシオンは深く息を吸った。

「あの場で、何を考えていた?」

うう……どうしてまた難しい質問を投げかけるの……?

セレナは少しだけ目を伏せ、そっと扇の縁に指を添えた。

そして、顔を上げる。

「私は、ただ……多くの人が助かればいいと……」

セレナが言い終えると、

アルシオンはゆっくりと視線を受け止めた。

「それだけか?」

セレナは一瞬、扇を握り直した。

「姫。

お前は、恐れなかったのか。

疫の地に入り、民の前に立ち……

自ら膝を突いたことを」

セレナは息を整え、

扇の陰でそっと睫毛を伏せた。

「……恐れは……ありました」

小さく息を吸い、

セレナは顔を上げると、ほんの少し苦笑した。

「──きっかけは、侍女の手前……格好つけたかったのです」

アルシオンの瞳が、驚きにかすかに揺れる。

セレナは続けた。

「でも……続けるうちに、

民が喜ぶ様子や“ありがとう”と言ってくださるのが嬉しくて……それだけなんです」

扇で頬の赤らみを隠した。

アルシオンは息を呑んだ。

「……お前は、そういうところが……」

言いかけ、言葉が途切れる。

アルシオンは視線を逸らし、

机の端に指を置いて呼吸を整える。

「……民のためだったのは分かる。

だが、あんな無茶をされては……心臓に悪い」

少しだけ声が低くなる。

「次は……俺にも一声かけろ。

お前が危険に足を踏み入れるときくらいは」

視線をわずかに逸らす。

セレナは胸の奥が、そっと熱を帯びるのを感じた。

だがすぐに、自分へ言い聞かせるように呼吸を整え、少し俯き加減に答えた。

「……はい。

以後は……気をつけます」

セレナの返事を聞いたアルシオンは、

視線を机上へ戻した。

アルシオンの表情が、静かに引き締まった。

「……よし。では、本題に入る」

低い声に空気が変わる。

アルシオンは書状の束を指で押し出し、セレナに向けた。

「姫。

お前に任せたい役目がある」

「……役目、ですか?」

セレナが問い返した瞬間、

アルシオンは迷いを断つように、まっすぐ言葉を落とした。

「ああ。

王都の“ 清務(せいむ) ”──祓いと清めの在り方を形にしたい。

その基を、お前に作ってほしい」

セレナは息を呑んだ。

「殿下……それは、つまり……

私に制度そのものを整えよと……?」

アルシオンは静かに頷いた。

「お前が描いた“祓いの図”で、人が動いた。

民も、兵も、医師も──あれは偶然ではない。

再現できる“仕組み”として残すべきだ」

「殿下……私は、後宮の一姫でしかないのですよ……?」

アルシオンは、首を振った。

「後宮の一姫かどうかは、関係ない。

お前の判断と、お前の力が必要だ──それだけだ」

セレナは震えを悟られぬよう、扇を胸元へそっと寄せた。

「殿下は……本当に、務まると思われますか……?」

アルシオンは、間髪入れずに答えた。

「思う。だから任せると言った」

セレナは言葉を失った。

「ゆえに命ずる。

王都“清務”の基を整えよ。

これは王命だ」

セレナは扇を胸に寄せ、気持ちを鎮めた。

やがて顔を上げ、まっすぐ答えた。

「……謹んで、お受けいたします」