軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 噂

後宮の回廊に、侍女たちの笑い声が弾んでいた。

「聞いた? ルナワの姫様が“良縁の宴”を殿下に進言なさるとか」

「まぁ……ほんとに? 」

水桶を抱えた侍女が囁けば、隣で衣を畳む少女が目を丸くする。

「もし本当にあれば……わたしたちでも縁談の話に近づけるかも」

噂は桶の水より早く回廊を巡った。

扇の陰で形を変えながら、それでも同じ言葉だけが残る。

「良縁の宴」――その名が、後宮の空気を変えていた。

そのざわめきは、やがて政務殿に届く。

アルシオンは書状に目を走らせていた。

「殿下」

入室したラシードが軽く一礼し、言葉を置く。

「内廷より報が上がりました。……例のルナワの姫君が“良縁の宴”なるものを発案した由」

「良縁の宴……?」

「外交の大宴を、妃候補の“出口”と兼ねる。各国にとっても悪い話ではなく、

後宮縮小の口実にもなる――今や後宮では、その話で持ち切りでございます」

ラシードの瞳が、愉快そうに細められる。

「お戯れと思いきや、意外と理に適っている。殿下に伝える価値はあると考えました」

アルシオンは書状を伏せ、わずかに息を吐いた。

「……なるほど」

セレナが……“良縁の宴”を……

その名を思った瞬間、あの声が胸に重なった。

――人を動かし、流れを変える。

彼女は、そういう種類の力を持っている。

「……もっとも、姫様ご自身は後宮を出る気満々のようでしたがな」

アルシオンの表情がぴたりと止まった。

「……」

冷えた眼差しでラシードを射る。

「軽口が過ぎるぞ」

「はは、失礼」

ラシードはわざとらしく両手を広げた。

「ですが殿下――この話が、後宮の空気を変えつつあるのは事実にございます」

アルシオンは答えず、窓の外へと視線を逸らした。

胸裏に去来するのは、サフィアの真っ直ぐな瞳。

そしてもうひとつ――“出ていく”という言葉だけが、妙に現実味を帯びて耳に残った。

「……私の提案が、こんなに皆の興味を引くとは思わなかった」

外交の宴を良縁の場に――そう口にしたときは、軽く流されると思っていた。

けれど今、廊下を歩けば侍女も女官もひそひそと囁き合い、妃候補の部屋からは小さな笑い声まで洩れてくる。

……皆、本当は望んでいたのね。後宮に縛られるより、自分の未来を選びたいって……。

その空気を肌で感じるだけでも驚きだったが、さらに思いがけない声を耳にした。

「……で、カリム様も出ないのでしょうか?」

「近衛副隊長殿なら、きっと注目の的ですよ」

セレナは思わず立ち止まった。

……え? か、カリム様……?

気づかなかった。

寡黙で実務に徹する近衛副隊長、殿下直属の忠臣。

侍女や女官の間では、実はひそかに人気があったというのだ。

……確かに、条件だけ見れば申し分ないわね。

頼りがいもあるし……顔はいかついけど。

意外な名に、思わず口元が緩む。

そして同時に、宴が自分の手を離れ、独り歩きし始めていることを思い知った。

夕刻の訓練場。

木剣を収めながら、サフィアがふいに口を開いた。

「そういえば……聞いたぞ。宴の噂に、カリムの名前まで出ているらしいな」

カリムは眉をひそめる。

「俺の、名前?」

「ああ。“近衛副隊長殿も参加されるのかしら”って。女官たちが目を輝かせていたぞ」

「……勝手に言わせておけ。俺には関わりのない話だ」

「ふふっ……無骨で融通の利かない副隊長が、まさかの人気者。信じられないな」

「……からかうな」

視線を逸らす。

胸の奥が、妙にざわついた。

サフィアは肩を揺らし、笑みを抑えられなかった。

「でも……真面目で誠実なところ、皆が惹かれるのかも」

カリムは視線を逸らし、木剣を強く握り直した。

訓練場を後にしたサフィアは、鎧の金具を押さえながら回廊へ出た。

すると、角を曲がった先で、ひとり歩くセレナと鉢合わせた。

「……セレナ殿下」

サフィアは立ち止まり、一礼した。

セレナは柔らかく微笑む。

「いつもご苦労さまです」

「この時間にお一人とは、珍しいですね」

「知ってる? “良縁の宴”。みんなの反応を見て回っていたの」

「……そのような催しを、本気で?」

「ええ。皆が参加したがっていたら、殿下に進言しようと思うの。――その方が、あなたたちにも都合がいいでしょ?」

一瞬、風が止む。

サフィアの琥珀の瞳がわずかに揺れた。

「……セレナ殿下は、我らの都合までお考えになるのですね」

淡々とした声で返す。

「ご心配なく。殿下のお心を煩わせることはございません」

セレナが何か言いかける前に、サフィアは一礼して踵を返した。

セレナはその背を見送り、静かに息を吐いた。

「武官達の負担も減るから殿下に後押してほしいな、なんて……厚かましすぎたかしら」

サフィアは部屋に戻り、

甲冑を外し、髪をほどいた。

窓辺に腰を下ろして夜気を吸い込む。

「……後宮が縮む、か」

それはアルシオンの負担を減らし、同時に――あのルナワの姫に、外へ向かう理由を与える。

胸の奥に、静かな安堵が広がった。

ならば――あの方の隣は、自然と空く。

唇が、自然にほころぶ。

剣で支え、盾となり、命を懸けて守ってきた。

……ようやく、報われるのかもしれない。

夜風が頬を撫でる。

サフィアは瞼を閉じたまま、かすかに微笑んだ。

寝所の帳の奥、

サフィアが身を寄せ、彼の胸に頬をすり寄せる。指先が古い傷跡をなぞり、細く息を漏らす。

「アルシオン……」

アルシオンはその声に応えるように腕を回し、髪を撫でた。

体温が交わり、心臓の鼓動が一つに重なっていく。

……俺は、これを望んでいたはずだ。

指を絡めてきた手に、サフィアはわずかに力を込めた。

おまえのまっすぐさに救われた夜もあった。だが……。

――私は、一度きりの人生なので……誰かに愛されたい。

ラシードから聞いた“あの言葉”が、なぜか耳の奥に貼り付いたまま離れない。

まるで、自分自身がその場で聞いた声のように。

ただ、忘れられない。

サフィアがさらに身を寄せ、「ずっと……そばにいさせて」と囁く。

その声音に、現実へと引き戻される。

アルシオンは小さく息を吐き、彼女の背を撫でた。

細くしなやかな髪が指に絡み、灯火が二人の影をひとつに溶かしていく。

だが、心の奥は別の場所にあった。

――触れているのに、遠い。

アルシオンは目を閉じた。

セレナは、妃候補たちに意見を伺って回っていた。

レイラは「殿下のおそばに仕える身として」と、きっぱり否定した。

けれど、その瞳は一瞬だけ揺れた。

他の者たちも「必要ございません」と口では言いながら、扇の陰で笑みを隠した。

……口ではああ言っても、実はみんな興味あるみたいね。

もちろん、アシェラのように率直に「ぜひ!」と応じた者もいる。

声に出す者は少ない。

だが、視線は逸れなかった。

「これだけの声があれば十分ね……殿下に進言してみよう」

セレナはその勢いのまま、机に向かった。

筆を取り細長い書板に、思いつく限りの言葉を書き連ねていく。

「目的とメリット、どうまとめれば殿下に伝わるかしら……」

だが、筆はほどなく止まった。

こうした企画書めいた文を整えた経験など、一度もない。

結局、ナヴァリスの執務室を訪ねることになった。

「……なるほど。項目立て、ですか」

ナヴァリスは眉をわずかに動かし、書板を受け取る。

「目的、利点、予想される効果……。姫様、これは……」

「やっぱり……おかしいですか?」

「いえ……

殿下にお示しするに足る体裁でございます」

「本当ですか……!」

セレナは改めて、筆を走らせた。

政務の合間、アルシオンは机上に広げた書板へ視線を落としていた。

その背後で扉が開き、ナヴァリスに伴われてセレナが入室する。

両腕には、数枚の書板が抱えられていた。

「……ルナワの姫か」

アルシオンが顔を上げ、静かに声を落とす。

深く一礼したセレナは、両手で書板を差し出した。

「殿下。“良縁の宴”について、要点をまとめてまいりました。

どうかご一読いただければと……」

受け取った書板に視線を落とす。

簡素な筆致ながら、項目ごとに整理され、無駄がない。

まるで政務の一報告書のような体裁だった。

背後で控えるナヴァリスが、口を添える。

「前例はございませんが……正妃候補が、ここまで形にして持ち込まれるのは、稀にございます」

アルシオンは書板から視線を上げた。

セレナは裾を握りながらも、逃げない目でこちらを見ている。

「……なるほど」

セレナが、わずかに身を乗り出す。

「では……ご検討くださるのですか?」

「検討に値する、とは言った」

セレナの頬がかすかに色づく。

一礼すると、軽い足取りで退室していった。

机上に残された筆跡を、アルシオンはしばし見つめた。

「……後宮が、動いたか」

ナヴァリスが淡々と言う。

「殿下にとっても、王宮にとっても好ましい案かと。

理に適っております」

「……そうか」

書板を指先で押さえたまま、アルシオンは視線を逸らした。

「採用とお受け止めしてよろしいのですか?」

「……まだだ」

沈みゆく夕陽が、書板の上に長い影を落とす。

その光を見つめながら、アルシオンは静かに息を吐いた。

……理に適っている。

それが、なおさら気に入らない。

執務室を辞したセレナは、胸の鼓動がまだ熱を残すまま、待っていた妃候補たちに声を弾ませた。

「殿下が……“検討に値する”と仰ってくださったのよ!」

「まあっ!」

「それはつまり、前に進んだということですわね!」

妃候補たちの表情がぱっと華やぎ、付き従っていた侍女たちまで、思わず顔を見合わせて笑みをこぼす。

その熱気は、扉をひとつくぐるたびに後宮へと流れ込んでいった。

「ルナワの姫様の宴が、本当に開かれるらしい」

「殿下直々にお認めになったとか」

「これで私たちも……」

“検討”という言葉は、

いつしか“決定”へと姿を変えていた。

政務室の扉が開き、王妃ザリーナが静かに歩み入る。

「“良縁の宴”の噂、聞いているわ」

ザリーナは扇を広げ、涼やかな視線をアルシオンへ向ける。

「……面白いことを思いついたのね。後宮も落ち着くし、殿下の負担も減るでしょう?」

「……王妃まで、ご存じでしたか」

「もちろんよ。後宮中がざわついているもの」

ザリーナは扇を胸に抱くようにして、柔らかく続けた。

「良いことだと思うわ。やってごらんなさい。

皆のためにも――あなた自身のためにも」

アルシオンは一度だけ静かに息を吐き、短く応じる。

「……私の名で行います」

王妃は一瞬だけ目を細め、

静かに扇を伏せた。