軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第80話 売り払われる国と焦燥の防波堤

中華人民共和国北京。

天安門広場に隣接する人民大会堂の一室。

豪奢な螺鈿細工が施された調度品と深紅の絨毯が敷き詰められたこの部屋で、極秘裏に日中の非公式な外交協議が行われていた。

日本側から派遣されたのは、外務省のアジア大洋州局長である。

彼は、表面上は穏やかな微笑みを浮かべつつも、腹の底では目の前に座る中国の最高指導部—— 李(リー) 国務院総理と国家安全部の 張(チャン) 部長が放つ、異様なまでの「熱気」に薄ら寒さを感じていた。

議題は、日中間の「技術協力」と、それに伴う「安全保障環境の改善」について。

それは建前であり、実態は日本が持つ『医療用キット(オリジナル)』の追加譲渡を巡る、ドロドロとした腹の探り合いである。

「……というわけで、我が国は日本政府の『平和と安定』に対する並々ならぬ努力を高く評価しております」

李総理が、淹れたての 龍井茶(ロンジンチャ) を啜りながら、極めて上機嫌な声で言った。

「先日、日本から提供された『例の品』。

……素晴らしい成果を上げております。

我が国の長老も、あれのおかげで非常に健やかな日々を取り戻し、日本への感謝の念を絶やしておりません」

それは、尖閣諸島の完全譲渡という歴史的妥協と引き換えに、日本が渡したたった1個のオリジナルキットのことだ。

その1個を巡って中南海でどのような血みどろの権力闘争が繰り広げられたのか、日本の公安は把握しているが、局長は知らぬふりをして恭しく頷いた。

「それは重畳です、総理閣下。

我が国の技術が貴国の指導部の『健康』に寄与できたことは、日中関係の新たな時代を象徴するものであります」

「ええ、新たな時代です」

李総理は身を乗り出し、声を潜めた。

「だからこそ、我々はもっと『先』へ進むべきだと考えているのです。

……局長。

台湾が最近また独立したがっているようですな」

唐突な話題の転換に、局長は微かに眉を動かした。

台湾問題。

それは中国にとって絶対に譲れない「核心的利益」であり、日中間の外交において最も触れてはならない逆鱗のはずだ。

「……台湾の情勢については、我が国も注視しております。

日本政府の立場としては、台湾海峡の平和と安定が重要であると……」

局長が定型文の外交辞令で躱そうとしたその時、李総理が信じられない言葉を放った。

「そう言えば、日本は長らく台湾の『民主主義』を支持してきましたね。

……実は我が国も最近、その考え方に理解を示しつつあるのですよ」

「……は?」

局長は思わず、素っ頓狂な声を出してしまった。

己の耳を疑うとは、まさにこのことだ。

中国の国務院総理が「台湾の民主主義に理解を示す」と言ったのだ。

それは、「一つの中国」という建国以来のイデオロギーを自らドブに捨てるに等しい発言である。

「いや、驚かれるのも無理はありません」

張部長が横からニヤリと笑いながら口を挟んだ。

「ですが、時代は変わるものです。

もし……我々中国の指導部がさらに『健康』になれば。

そうですね、もっと多くの指導者が『永遠の活力』を手に入れ、長期的な視点で国家を運営できるようになれば……。

我々も台湾の『民主主義としての独立』を公式に支持する道を選ぶかもしれません」

「……」

局長の顔から、スッと血の気が引いた。

『健康になれば』。

それはつまり、「日本がもっと医療用キットをよこせば」という露骨すぎる取引の提示だ。

彼らは、不老不死の薬がもらえるなら、建国以来の悲願であり国家の威信そのものである台湾を「独立させてやってもいい」と言い出しているのだ。

「……へー、そうなんですね。

それは……非常に興味深い、歴史的なご見解ですね」

局長は必死に顔の筋肉を制御し、薄笑いを貼り付けたまま、その場を流した。

ここで安易に相槌を打つことも、否定することもできない。

あまりにもスケールがデカすぎて、一介の外交官が判断できる領域を遥かに超えている。

(こいつら、イカれてる……! 薬欲しさに国を切り売りする気か!)

局長の心臓は早鐘を打ち、シャツの下は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。

数時間後。

東京都千代田区首相官邸地下5階『特別情報分析室』。

北京からの緊急暗号通信を受けた日本政府の首脳陣が、深夜にも関わらず円卓に集結していた。

副島内閣総理大臣、官房長官、防衛大臣、そして内閣官房参事官の日下部。

彼らの表情には、かつてないほどの戦慄と困惑が浮かんでいる。

「『 位相干渉装置(ジャマー) 』オン」

日下部が手元のコンソールを操作し、空間を外部から完全に遮断する。

ブゥンという重低音が響き、密室が完成したことを確認すると、彼は大きく息を吐き出した。

「ジャミング正常に作動中。

……というわけで皆様、状況が急変しました」

日下部は、北京から送られてきた外交公電のコピーをテーブルの中央に投げ出した。

「先ほどの北京での非公式協議において、中国指導部がとんでもないことを言い出しました。

彼らは『日本が追加の医療用キットを提供するなら、台湾を民主主義国家として独立させることを支持する用意がある』と、明確に匂わせてきました」

「……正気か、あいつら」

防衛大臣が、呆れと恐怖が入り混じった声で呻いた。

「医療用キット欲しさとはいえ、マジかよ……。

尖閣諸島を譲渡してきただけでも驚天動地だったのに、今度は台湾だと!?

あいつら、建国の理念を何だと思っているんだ!」

「彼らにとっては、イデオロギーなど自分の命に比べればチリ紙以下の価値しかないのでしょう」

日下部が胃薬の袋を破りながら、冷や汗混じりに言った。

「権力への執着、生への執着。

それが彼らの理性を完全に焼き切ってしまったようです。

まさか国そのものを……『一つの中国』という根幹のドクトリンすらも、薬の代金として売り払う気になるとは」

「やべーよ、やべーよ……」

外務大臣が頭を抱えて、テーブルに突っ伏した。

「これは想定外の事態だ!

我々は中国に『寸止め』で餌をチラつかせて、彼らをコントロールするつもりだったんだぞ!

それがこんな劇薬を飲み込んで暴走し始めるなんて……!」

「……うーん、これはやり過ぎですね」

日下部も、珍しく焦りの色を見せていた。

彼が描いていたシナリオは、中国が「薬欲しさに日本に大人しく従う」という程度のものだった。

まさか彼らが自国の最も重要なカードを、こんなにもあっさりと、しかも自発的にテーブルに乗せてくるとは予測していなかったのだ。

「こんな急激な事態の変動は、我々も望んでいません。

台湾の独立は日本にとって安全保障上は理想的なシナリオではありますが……それが『今突然』起こるとなれば話は別です」

「どうするんだ?」

総理が重い声で問うた。

「台湾が独立した場合の緊急シミュレーションをしよう。

……アメリカにも連絡すべきではないか?

これは日米同盟の根幹に関わる問題だぞ」

「まてまて、総理。

落ち着きましょう」

官房長官が手を挙げて制した。

「アメリカに連絡するのは、我々の腹が決まってからです。

まずは日本政府としての態度を決めなければなりません。

……確かに台湾が中国の脅威から解放されるのは喜ばしいことだ。

だが、ここまで露骨な『心変わり』をすれば、中国国内はどうなる?

指導部が突然『台湾は独立していいよ』なんて言い出せば、14億の人民が黙っているはずがない。

軍部も反乱を起こすぞ。

中国が崩壊しないか?

大丈夫なのか?」

「それは……」

日下部が手元のタブレットで、中国国内の監視データ(グラス・アイの情報)を呼び出しながら答える。

「まあ、暴動の兆候は『監視システム』で事前に察知できますから、ある程度の制圧は可能でしょう。

ですが……動乱は必至です。

人民解放軍の強硬派がクーデターを起こし、指導部を暗殺して軍事政権が樹立される……という最悪の事態も、十分に考えられます」

「だろうな。

薬で頭がおかしくなった老人たちと、血気盛んな軍人たち。

内戦が起これば、その余波は確実に日本にも飛んでくる」

防衛大臣が顔をしかめる。

「難民の流入、サプライチェーンの崩壊、そして最悪の場合、暴走した軍部が『日本が悪い』と逆恨みしてミサイルを撃ってくる可能性すらある。

……台湾独立という果実は甘いが、それに伴う毒が強すぎるぞ」

「それに、タイミングが悪すぎます」

外務大臣が顔を上げて言った。

「アメリカは今、大統領選挙の直前です。

ウォーレン大統領から新大統領への移行期で、政権中枢がゴタゴタしている真っ最中だ。

そんな時に中国で巨大な動乱が起きれば、アメリカは迅速な対応ができない。

……笑えん事態になるぞ」

「そうだな……」

総理が深く頷き、腕を組んだ。

「とりあえず急ぐ必要はない。

中国側には『大変興味深い提案だが、国内の調整とアメリカとの協議に時間がかかる』とでも言って、のらりくらりと躱し続けろ。

絶対に『薬を渡す』と確約してはならん」

「はい。

私もそれが得策だと思います」

日下部も同意する。

「アメリカが政権移行でゴタゴタしている時に、中国で大動乱が起きれば、世界のパワーバランスが完全に崩壊します。

……下手したら、今おとなしくしているロシアがこの隙を突いて再び力を付けかねません」

ロシア。

監視網によってスパイ網を潰され、ウクライナから撤退した北の熊。

彼らは今、息を潜めて傷を癒やしつつ、日本の「秘密」を探り続けている。

もし米中が台湾問題と内乱で疲弊すれば、ロシアは再び牙を剥く絶好のチャンスを得ることになる。

「世界の火薬庫に火を点けるのは、まだ早い。

我々はこの『薬』という起爆装置を、もっと慎重に扱わなければならなかったのだな」

総理は自戒するように呟いた。

「日下部くん。

工藤氏には『しばらく医療用キットの生産は絶対に増やすな』と再度厳命しておけ。

これ以上、世界中に欲望の種をばら撒かれては、我々が管理しきれなくなる」

「承知いたしました。

……彼の『工場』は今まさに宇宙へ向けて飛び立とうとしていますが、地球側の治安維持のためにも少しおとなしくしてもらわなければなりませんね」

日下部は胃薬のパッケージを握りしめながら、深く溜め息をついた。

一人の男が作り出すオーパーツが、大国の理念を破壊し、世界を狂気の渦へと巻き込んでいく。

彼らが必死に築き上げた「防波堤」は、中国指導部の異常なまでの生への執着という津波の前に、今にも決壊しそうになっていた。