軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第53話 赤い竜の逆鱗と透明な檻

東京都港区元麻布。

高級住宅街の一角に、高い塀と厳重な警備に守られた広大な敷地がある。

中華人民共和国駐日本国大使館。

そこは日本国内にありながら、日本の法律が及ばない「治外法権」の領域であり、同時に東アジアにおける情報戦の最前線基地でもあった。

午後2時。

黒塗りのセンチュリーが、大使館の重厚な鉄扉をくぐった。

降り立ったのは、内閣官房参事官の日下部だ。

彼はSPを伴わず、たった一人で敵地の只中へと足を踏み入れた。

その手には、いつも通りの革鞄と、そこはかとない胃痛の予感を携えている。

「お待ちしておりました、日下部参事官」

出迎えたのは一等書記官の 王(ワン) 。

表向きは外交官だが、裏では国家安全部(MSS)の日本支局長を務める男だ。

彼の表情は硬く、その目は日下部を警戒するように細められている。

「北京との回線は繋がっております。

……どうぞ、こちらへ」

案内されたのは、大使館の地下深くにある特別会議室だった。

窓はなく、壁は電磁シールドで覆われている。

ここなら盗聴も盗撮も不可能——と、彼らは信じている。

部屋の中央には巨大なモニターが設置され、その向こうには北京の中南海にある地下指令室『深淵の間』が映し出されていた。

並んでいる顔ぶれは壮観だ。

李(リー) 総理。

国家安全部の 張(チャン) 部長。

そして人民解放軍の 劉(リュウ) 将軍。

中国という巨大国家を動かすトップたちが、画面越しに日下部を睨みつけている。

「……ようこそ、日下部参事官」

李総理が重々しい口調で切り出した。

音声は暗号化回線を通じてクリアに届くが、そこに含まれる敵意まではフィルタリングされていない。

「貴国の総理ではなく、一介の官僚である貴方が、我々と直接話をしたいとは。

随分と大きく出たものだな」

「恐縮です、総理閣下」

日下部は深く一礼した。

その態度は慇懃だが、決して卑屈ではない。

「本日は、日中両国の未来に関わる『極めて重要な技術供与』の件で参りました。

政治的な駆け引き抜きで、実務レベルでの即決が必要な案件ですので、私がご説明に上がった次第です」

「技術供与だと?」

劉将軍が鼻で笑った。

「あの『医療用ナノマシン』の話か?

100本あるという在庫を出し惜しみしている、あの薬のことか?

……我々を愚弄するのも、いい加減にしろ。

貴様らがアメリカに尻尾を振って、我々には時間稼ぎのブラフしか寄越さないことは分かっている」

中国側は苛立っていた。

アメリカが日本から何らかの「見返り」を得ていることを察知しているのだ。

焦りと猜疑心。

それが今の彼らを支配している感情だ。

「誤解です、将軍。

我々は貴国を軽視などしておりません」

日下部は鞄からタブレット端末を取り出し、テーブルの上に置いた。

「医療用キットについては、現在増産の目処を立てております。

ですが本日お持ちしたのは、それではありません。

もっと即効性があり、貴国の統治——特に『国家の安定』に寄与するシステムです」

「……ほう?」

張部長が興味を示した。

国家安全部トップとして、「安定」という言葉には敏感だ。

「もったいぶらずに見せたまえ。

そのちっぽけな板切れの中に、我々を満足させる何が入っているというのかね?」

「では、ご覧に入れましょう」

日下部はタブレットを操作し、大使館の大型モニターに映像を転送した。

パッ。

画面が切り替わる。

映し出されたのは、3次元のワイヤーフレームで構築された建築物の内部構造図だった。

無機質なCGではない。

リアルタイムで動いている。

廊下を歩く人々の影。

執務室で電話をする職員。

そして……今この会議室にいる日下部と王書記官の姿。

「これは……」

王書記官が驚いて周囲を見回した。

カメラなどない。

なのに画面の中の「自分」は、驚いてキョロキョロする動きを完全にトレースしている。

「現在地、中国駐日大使館。地下2階、特別会議室」

日下部は淡々と解説した。

「解像度を上げます」

ズームイン。

王書記官の胸ポケットに入っているボールペン。

そのメーカーロゴまでが鮮明に映し出される。

さらに音声フェーダーを上げる。

『……な、何だこれは? どこから撮っている?』

王の呟きがスピーカーから再生された。

マイクを通していない肉声の微細な震えまでもが再現されている。

「なっ……!」

北京のモニターの向こうで首脳陣が絶句した。

彼らは即座に理解した。

これは盗撮映像ではない。

空間そのものを透視しているのだ。

「さらに地下3階をご覧ください」

日下部が操作すると、視点は床を突き抜け、さらに下の階層へと潜った。

そこは大使館の最重要機密エリア——通信暗号室だ。

数名の技官が複雑な機器を操作している。

彼らの手元のディスプレイに表示されている暗号コード。

机の上に置かれた機密書類。

飲みかけのコーヒーの湯気。

全てが丸見えだった。

「馬鹿な……!」

張部長が呻いた。

彼の顔から血の気が引いていく。

「そこは電磁シールドで完全に遮断されているはずだ!

電波も赤外線も放射線さえも通さない鉛の壁だぞ!

なぜ透けて見える!?

なぜ中の音が聞こえる!?」

「これが我が国が開発した最新鋭の広域監視システム——『位相空間レーダー網』です」

日下部は、あたかも自分が開発したかのように胸を張った。

実際にはテラ・ノヴァからの借り物だが、そんなことはおくびにも出さない。

「コードネームは『蛍(Firefly)』。

特殊なナノマシン・センサーを空気中に散布し、それらがネットワークを形成することで、対象エリア内のあらゆる物理現象をリアルタイムでスキャン・再構築します。

壁も地下も闇も関係ありません。

そこにある『事実』を、ありのままに記録するシステムです」

ナノマシン。

またしても、その言葉だ。

だが中国首脳陣にとって、それは最も説得力のある説明だった。

日本はすでに医療分野で驚異的なナノマシン技術を持っている。

ならば監視分野でも同じことができるはずだ、という推論が成り立つ。

「……ふざけるなッ!!」

劉将軍が激昂し、拳で机を叩いた。

「これは明白な主権侵害だ!

ウィーン条約違反だ!

大使館の中を覗くなど、宣戦布告に等しい行為だぞ!

今すぐそのシステムを停止しろ!

さもなくば……!」

「落ち着いてください、将軍」

日下部は冷ややかに遮った。

将軍の怒声など、想定の範囲内だ。

「私がこれをお見せしたのは、貴国を脅すためではありません。

むしろ、信頼の証です」

「信頼だと?

裸にしておいて、何が信頼か!」

「ええ。

隠し事のない関係こそが真の信頼でしょう?」

日下部は皮肉な笑みを浮かべた。

「それに、ご安心ください。

普段は大使館エリアには厳重な『マスキング』処理を施しております。

日本のオペレーターが興味本位で覗き見ることはできません。

今回は特別に、デモンストレーションのために制限を解除しただけです」

「……信用できるか、そんな言葉」

李総理が氷のような声で言った。

彼の目は画面の中の「透視された大使館」を凝視している。

怒りよりも恐怖。

そしてそれ以上に強い「渇望」が、その瞳の奥に宿り始めていた。

「日下部参事官。

貴方はただ我々を挑発しに来たわけではないだろう。

……これをどうするつもりだ?」

老獪な総理は日下部の意図を察した。

わざわざ手の内を見せたということは、取引の材料にするつもりなのだ。

「ご慧眼、恐れ入ります」

日下部はタブレットを操作し、画面を切り替えた。

今度は北京の地図が表示された。

天安門広場を中心に、巨大な円が描かれている。

「このシステム……貴国にも導入可能ですよ」

その一言が、会議室の空気を変えた。

戦慄が欲望へと変わる瞬間。

「……導入だと?」

張部長が身を乗り出した。

「日本がこの技術を、我々に提供すると?」

「はい。

もちろん完全な技術供与ではありません。

『サービスとしての利用権』の提供です」

日下部は説明を続けた。

「中国は広大です。

そして統治するには、あまりにも複雑だ。

ウイグルやチベットの分離独立派。

香港の民主化勢力。

そして党内部の腐敗分子や、海外と通じる裏切り者……。

彼らは地下に潜り、密室で陰謀を企て、国家の安定を脅かしています」

日下部の言葉は、中国指導部の抱える不安の核心を突いていた。

彼らが最も恐れているのは外敵ではない。

内乱だ。

14億の民を束ねる鉄の規律が、見えない場所から崩れ去ることだ。

「現在の監視カメラ網(天網)やネット検閲(金盾)も優秀ですが、限界があります。

カメラのない場所、ネットを使わない会話までは監視できません。

ですが、この『蛍』があれば……」

日下部は指を鳴らした。

「全てが見えます。

テロリストのアジトも、裏切り者の密会も。

壁を透かし、会話を聞き、心拍数から嘘を見抜く。

完全なるパノプティコン(全展望監視システム)。

……これこそが貴国が求めていた『究極の治安維持ツール』ではありませんか?」

会議室に沈黙が落ちた。

誰も否定しなかった。

否定できるはずがない。

それは彼らにとっての夢の技術だ。

反体制派を根絶やしにし、党の支配を永遠のものにするための魔法の杖。

「……条件は?」

李総理が短く尋ねた。

彼もまた政治的リアリストだ。

これほどの力がタダで手に入るはずがない。

アメリカにも渡していない(と彼は思っている)技術を、なぜ中国に?

「簡単です。

このシステムの運用には、現地の空間情報を中継するための『専用ビーコン』の設置が必要です。

そのビーコンを、北京、上海、そして重要な都市に置かせていただきたい」

「ビーコン……」

「はい。

ナノマシンの制御とデータ収集を行う中核デバイスです。

これの設置と管理は、日本側から派遣する技術者が行います。

ブラックボックス化された技術ですので、貴国の技術者が触れることはできません」

張部長が目を細めた。

「つまり、スイッチを握るのは日本だということか?

我々の首都に、日本のスパイ道具を堂々と置けと?」

「共用ですよ、部長」

日下部は訂正した。

「収集されたデータはリアルタイムで、貴国の公安当局にも提供します。

テロ対策、犯罪捜査に自由に使っていただいて構いません。

我々は、ただシステムの維持管理を行うだけです。

……もちろん、このシステムを提供する『対価』は頂きますがね」

「対価だと? 金か?」

李総理が目を細める。

「金銭ではありません」

日下部は、李総理の目を真っ直ぐに見据えた。

「貴国が現在、日本国内で行っている非公認の諜報活動、および経済的・軍事的な『不当な干渉』の完全な停止です。

新木場周辺への工作員の派遣、関連企業へのハニートラップ、そして尖閣周辺での威圧行為。これらを即座に中止し、日本を不可侵の領域として扱っていただきたい。

この約束を遵守していただけるなら、システムは貴国の安寧のために機能し続けるでしょう」

「……我々の活動をすべて把握しているという、当てつけか」

張部長が苦虫を噛み潰したような顔になる。

そして日下部は、声を潜めた。

「それに……考えてもみてください。

もし貴国がこれを拒否し、アメリカだけが導入したとしたら?

あるいは台湾やインドが導入したら?

……情報の非対称性は、国家の存亡に関わりますよ」

これは脅しだ。

「お前たちが買わなくても敵が買うぞ」という、武器商人の常套句。

だが効果は絶大だった。

中国は周辺国に技術的優位を取られることを何よりも恐れている。

特に日本とアメリカが手を組んでこの技術を独占し、中国だけが「丸裸」にされる状況は、悪夢以外の何物でもない。

「……議論が必要だ」

李総理が呻くように言った。

「即答はできん。

党中央委員会に諮る必要がある」

「もちろんです。

ですが、あまり時間をかけない方がよろしいかと。

『蛍』の在庫にも限りがありますので」

日下部は、わざとらしく時計を見た。

「ああ、それと。

導入が決まれば、副次的なメリットもあります」

「何だ?」

「このシステムは、ナノマシンの制御技術の結晶です。

これを運用し、データを共有することで……日中間の技術交流が深まるでしょう。

それは将来的に、あの『医療用キット』の増産や技術供与への足がかりになるかもしれません」

最後に投下された餌。

不老不死へのチケット。

それが迷っていた首脳陣の背中を、強烈に押した。

「……分かった」

李総理が決断を下した。

その顔には苦渋と、そして抑えきれない野心が滲んでいた。

「試験導入を認めよう。

まずは北京の一区画だ。

そこで性能を実証してもらう。

……もし謳い文句通りの性能なら、全国への展開も考えよう」

「賢明なご判断です、総理閣下」

日下部は深々と頭を下げた。

「では早急にビーコンと技術者を派遣いたします。

貴国の『安寧』のために、全力を尽くしましょう」

通信が切れた。

大使館の特別会議室に静寂が戻る。

王書記官は額に脂汗を浮かべたまま、呆然と日下部を見ていた。

「……日下部さん。

貴方は悪魔に魂を売ったのですか?」

王は震える声で尋ねた。

中国という独裁国家に、これほどの監視ツールを与えることの意味。

それがどれほどの血を流すことになるか、想像するだけで恐ろしい。

「いいえ、王さん」

日下部は鞄を手に取り、涼しい顔で答えた。

「私は、ただの公務員ですよ。

国益のために働き、国民のために奉仕する。

……そのために、たまに悪魔とダンスを踊ることもありますがね」

彼は大使館を後にした。

外はまだ明るい。

だが日下部の目には、東京の空にも、そして遠く北京の空にも、見えない「硝子の天井」が広がり始めているのが見えた。

中国は罠にかかった。

彼らは「自国民を監視するため」にビーコンを受け入れた。

だがそのビーコンは同時に、中南海の奥底で行われる密談を、日本の首相官邸へと筒抜けにする「直通回線」となるのだ。

支配者が被支配者へと転落する瞬間。

それを彼らが知るのは、まだ先のことだ。

「……さて。

これで役者は揃いましたね」

日下部は車に乗り込み、大きく息を吐いた。

ポケットの胃薬を取り出す。

アメリカ、そして中国。

二つの超大国が、日本の掌の上で踊り始めた。

その重圧に胃が悲鳴を上げているが、同時に奇妙な高揚感も湧き上がっていた。

工藤創一という一人の男が始めた「工場」は、ついに地球という惑星を、そのシステムの一部として組み込み始めたのだ。

——The Factory Must Grow.

工場の成長は、誰にも止められない。

たとえそれが、世界を監視と恐怖で塗り固めることになったとしても。