作品タイトル不明
第43話 神の顕微鏡と星条旗の決断
メリーランド州ベセスダ。
アメリカ国立衛生研究所(NIH)。
その広大なキャンパスの地下深くに、地図には存在しない「特別研究区画」がある。
生物学的安全性レベル4(BSL-4)を超える極秘扱いの、地球外——あるいは未知のテクノロジーを解析するために設けられた、合衆国の知の砦だ。
無機質なホワイトルームの中央、電子顕微鏡のモニターを囲んで、数人の白衣の男たちがどよめきを上げていた。
その中心にいるのはNIHの主任研究員であり、ナノテクノロジーの世界的権威であるミラー博士。
そして、ホワイトハウスから派遣された科学顧問のスタイン博士だ。
彼らの視線の先には、日本から極秘裏に空輸されてきた一本のインジェクター——『医療用キット』のサンプルがあった。
その貴重な一本は、ウォーレン大統領の決断により解析のために開封され、その中身をシャーレにぶちまけられていた。
「……信じられん。
分析機がエラーを吐き続けている」
ミラー博士が汗ばんだ額を袖で拭いながら呻いた。
彼の目の前にあるスペクトル分析の結果は、あまりにも支離滅裂だった。
「基本溶媒は純水と……アミノ酸、ブドウ糖。
ここまではいい。
だが、このタンパク質の構造は……」
博士はモニターの一角を指差した。
「魚だ」
「は?」
スタイン博士が聞き返した。
「魚由来のタンパク質です。
それも特定の深海魚や希少種ではない。
DNA配列の一部は、ごくありふれたアジやイワシに近い。
なぜだ?
なぜ最先端のナノマシン溶液の基材に、魚の絞り汁のような成分が使われているんだ?」
「……カモフラージュか?」
「あるいは、生体親和性を高めるための触媒かもしれません。
だが、真の驚異はその中を泳いでいる『彼ら』です」
ミラー博士が操作盤を叩くと、電子顕微鏡の倍率が最大まで引き上げられた。
モニターに映し出されたのは、エメラルドグリーンの液体の中で、幾何学的な陣形を組んで浮遊する無数の銀色の粒子だった。
「……美しい」
誰かがため息を漏らした。
それは機械というには、あまりに有機的で、生物というには、あまりに整然としていた。
サイズは数ナノメートル。
原子を直接組み上げて作ったかのような、継ぎ目のない完全な構造体。
「ナノマシンだ。
間違いなく」
スタイン博士が食い入るように画面を見つめた。
「自己複製機能を持っているのか?
動力源は?
CPUはどこにある?」
「分かりません。
現代の計測機器では、彼らの『表面』をなぞるのが精一杯です。
ですが見てください、この動きを」
ミラー博士がシャーレの中に、微弱な電流を流した。
瞬間、バラバラに浮遊していた粒子が一斉に向きを変え、整列した。
それはまるで訓練された軍隊の行進のように、あるいは一つの巨大な意志を持った生き物のように、滑らかに連携していた。
「芸術だ……。
これを設計した者は、工学者であると同時に最高の芸術家だ。
無駄が一切ない。
機能美の極致だ」
科学者たちの興奮は最高潮に達していた。
彼らは理解できないものへの恐怖よりも、目の前にある「答え」への知的好奇心に突き動かされていた。
「博士。
鑑賞会はそこまでよ」
背後から冷徹な声が響いた。
部屋の隅で腕を組んで立っていたのは、CIA長官エレノア・バーンズだ。
彼女は科学的な美しさになど興味はない。
彼女が求めているのは、血の通わない「数字」と「性能」だけだ。
「成分分析は終わったわね?
芸術的かどうかはどうでもいいの。
再現性は?
有効な投与量の閾値は?
それと……過剰投与した場合の致死量は?」
「あいや、長官。
今はまだ観察段階で……」
「急ぎなさい。
本当にこれが『魔法の薬』なのか、
それとも日本人が作った『ただの高い魚のスープ』なのか。
実証実験で証明して見せなさい」
彼女の目は、シャーレの中の奇跡を「未知の兵器」としてしか見ていなかった。
「……ええ、準備はできています」
ミラー博士は気圧されたように頷き、隣の実験ブースへと合図を送った。
ガラスの向こうには実験用のラットが固定されている。
その体は、見るも無惨な状態だった。
脊椎損傷、内臓破裂、多重骨折。
人為的に徹底的に痛めつけられ、瀕死の状態にある。
倫理委員会が卒倒しそうな実験だが、国家の最高機密下では倫理など紙切れ同然だ。
「検体番号R-704。
バイタル低下。
あと数分で死亡します」
「投与しろ」
機械的なアームが動き、極微量の医療用キット——一滴の十分の一ほど——を、ラットの静脈に注入した。
その瞬間だった。
ピクンッ!
死にかけていたラットの体が激しく痙攣した。
モニター上の心拍数が、ゼロになりかけていたところから一気に跳ね上がる。
「心拍復帰!
血圧上昇!
……見てください、患部を!」
高解像度カメラが捉えた映像に、全員が息を呑んだ。
潰れていた胸郭が、内側から膨らむように元の形に戻っていく。
折れた骨がパキパキと音を立てて接合し、裂けた皮膚がジッパーを閉めるように塞がっていく。
出血が止まるどころではない。
血痕そのものが代謝されて消えていく。
「……馬鹿な」
スタイン博士が呟いた。
「細胞分裂の速度が物理的限界を超えている。
熱量は?
エネルギー保存則はどうなっているんだ?」
「外部からのエネルギー供給なしで、これだけの質量再生を行っている……?
いや、ナノマシン自体が高密度のエネルギーバッテリーなのか?」
議論している間にも再生は進む。
30秒、内臓機能が全快。
45秒、神経系が再接続。
58秒、毛並みが艶を取り戻す。
そして1分ジャスト。
ラットは拘束具の中で暴れだし、金属の留め具を噛みちぎらんばかりの力で身をよじった。
その目には、実験前よりも強い生命力が宿っていた。
「……完了しました」
ミラー博士の声が震えていた。
「完全治癒です。
後遺症の痕跡すらありません。
それどころか……筋繊維の密度が上昇しています。
以前より『強化』されています」
実験室は静まり返り、やがて爆発的なざわめきに包まれた。
「神の領域だ……!」
「信じられん!
映像を巻き戻せ!
もう一度だ!」
「たった1分だぞ!?
死にかけの生物が1分で!」
科学者たちは子供のようにモニターに食い入り、何度も再生される奇跡の映像に見入っていた。
だが、エレノアだけは氷のような視線でモニターの数値を追っていた。
「博士。
その『強化』は意図された 仕様(スペック) なの?
それとも 副作用(バグ) ?」
「え……?」
「答えなさい。
治癒を超えた身体能力の向上。
これが制御可能なものなのか、
それとも暴走の一種なのか。
兵器として運用する場合、そこが最も重要よ」
彼女の冷徹な指摘に、熱狂していた科学者たちが水を打ったように静まり返る。
彼女が見ているのは「医学の進歩」ではない。
「スーパーソルジャーの製造ライン」としての可能性だ。
エレノアはその様子を冷ややかに見つめ、懐からスマートフォンを取り出した。
ホワイトハウスへの直通回線。
「……大統領。
『シロ』です。
いえ、それ以上です。
日本政府の言っていたことは、全て真実でした」
◇
翌日。
実験のフェーズは最終段階へと移行した。
動物実験での安全性と効果が確認された以上、次に行うべきは一つしかない。
『人体実験』だ。
メリーランド州のNIH地下施設から場所を移し、さらに機密性の高い場所——ウォルター・リード陸軍医療センターの特別隔離病棟。
そこに一人の男が運び込まれていた。
元海兵隊員、ジェームズ・“ジム”・マクラーレン軍曹。
32歳。
中東での作戦行動中、IED(即席爆発装置)の直撃を受け、両手両足を根元から失った。
四肢欠損。
さらに内臓にも多数の損傷を負い、車椅子生活どころか、ベッドの上で管に繋がれて生きるだけの「生ける屍」となっていた男だ。
彼には家族もいない。
天涯孤独の身だ。
国のために全てを捧げ、その代償として絶望だけを与えられた英雄。
今回の被験者として、これほど適した人材はいなかった。
病室のガラス越しに、ロバート・ウォーレン大統領はその痛々しい姿を見下ろしていた。
「……彼に説明は?」
「済ませてあります」
エレノアが答える。
「『未承認の実験的治療を受けるチャンスがある。
成功すれば体は戻るが、失敗すれば死ぬかもしれない』と。
彼は即答しました。
『このままベッドのシミとして生きるくらいなら、悪魔の血でも何でも打ってくれ』と」
「……そうか。
勇敢な男だ」
ウォーレンは胸の前で十字を切った。
これから行われることは、医療という名の冒涜かもしれない。
だが国家のリーダーとして、その奇跡を見届けなければならない。
「始めよう」
医師団がジムを取り囲む。
執刀医の手には、日本から贈られた銀色のインジェクター。
残りの4本のうちの1本だ。
「投与します」
プシュッ。
首筋にナノマシンが注入される。
直後、ジムの体が弓なりに反り返った。
「うぐあぁぁぁぁぁッ!!!」
絶叫。
苦痛ではない。
失われたはずの手足の神経が一気に覚醒したことによる再生痛だ。
「モニター!
心拍数上昇!
代謝レベル計測不能!」
「切断面が……盛り上がっています!」
ウォーレンの目の前で、信じがたい現象が起きた。
包帯が解かれた肩と太腿の切断面から、白煙のような蒸気が立ち上る。
その中から、白い骨が樹木のように急速に伸びていく。
血管が蔦のように絡みつき、赤い筋肉繊維が編み上げられていく。
メリメリ、グググッ……。
骨が軋む音、肉が生成される音。
それはホラー映画の変身シーンのようでありながら、どこか神聖な荘厳さを帯びていた。
手のひらが形成される。
指が伸びる。
爪が生える。
皮膚が覆い、指紋が刻まれる。
足も同様だ。
失われていた大腿部から膝、脛、そして足先までが、見えない3Dプリンターで出力されるかのように実体化していく。
「……おお、神よ」
ウォーレンはガラスに手をついた。
ラットの時とは違う。
同じ人間が目の前で再生しているのだ。
その衝撃は、魂を揺さぶるものだった。
50秒。
55秒。
60秒。
蒸気が晴れると、そこには五体満足の男が横たわっていた。
切断されていたはずの手足は、傷一つない新品の状態に戻っている。
いや、それだけではない。
痩せこけていた胴体には隆々とした筋肉が戻り、顔色も血色良く輝いている。
ジムは荒い息を吐きながら、自分の両手を目の前に掲げた。
グーパーと握りしめる。
動く。
自分の意思で指が動く。
「……動く……。
俺の手が……!」
彼はベッドから上半身を起こした。
そして恐る恐る床に足を下ろした。
立つ。
自分の足で大地を踏みしめる。
「立てた……!
立てたぞォォッ!!」
ジムの咆哮が病室に響き渡る。
医師団から拍手が湧き起こった。
涙を流している看護師もいる。
直後に行われた身体検査の結果は、さらに驚くべきものだった。
視力、聴力、反射神経、筋力。
すべての数値が、彼が入隊した当時の——いや、特殊部隊員としての全盛期の数値を150%以上上回っていた。
ただ治っただけではない。
「強化」されている。
◇
観察室に戻ったウォーレン大統領は、興奮冷めやらぬ様子でソファに座り込んだ。
顔は紅潮し、手足が震えている。
「ハハハ……素晴らしいじゃないか……!
まさに神の薬だ……。
日本人は、とんでもないものを寄越したな!」
彼は笑いが止まらなかった。
恐怖と歓喜。
この力が手に入れば、アメリカは無敵になる。
負傷した兵士は即座に戦列に復帰し、老いた科学者は永遠に研究を続けられる。
「エレノア。
見たか、あの再生を。
あれはマジックじゃない。
現実だ」
「ええ、大統領。
素晴らしい効果です」
エレノアは冷静さを保ちつつも、その瞳には暗い光が宿っていた。
彼女はモニターの中ではしゃぐジムを見つめた。
「彼には……『新しい身分』を用意する必要がありますね」
「身分?」
「はい。
『四肢を失ったはずの退役軍人が、五体満足になって帰ってきた』。
そんなことが知れ渡れば、マスコミが殺到します。
秘密を守るためには、ジェームズ・マクラーレン軍曹には、書類上『死亡』してもらうのが一番です」
エレノアは淡々と言い放った。
「幸い、彼には身寄りがありません。
家族がいないというのは、管理する上では好都合です。
顔を変え、名前を変え、記憶以外の全てを消去して……国家の 資産(アセット) として再雇用します。
一生監視付きの人生ですが、手足が戻った対価だと思えば、安いものでしょう」
ウォーレンは一瞬表情を曇らせたが、すぐに頷いた。
「……そうだな。
残酷だが、必要な措置だ。
彼を自由にして秘密を喋らせるわけにはいかん」
命を救うことと、自由を与えることはイコールではない。
国家の論理が、一人の男の人生を塗りつぶした瞬間だった。
エレノアはケースに残された3本のインジェクターを見つめた。
1本は分析で消費し、1本はジムに使用した。
残りは3本。
「大統領。
提案があります」
エレノアは声を潜めた。
「残り3本、貴重です。
ですが1本を……大統領ご自身が使用して健康を確保するのも、ありだと思います」
「……私が?」
「はい。
貴方は世界のリーダーです。
その健康と明晰な頭脳を維持することは、アメリカ合衆国にとって最大の国益です。
心臓の持病がおありでしょう?
それも完治します。
若返り、精力が戻り、より強力なリーダーシップを発揮できるはずです」
悪魔の囁きだ。
若返りと健康。
権力者が最も欲するものを、手の届く場所に差し出されたのだ。
「……日本には多額の寄付でも何でもすればいい。
交渉次第で、あと数本は融通してくれるでしょう。
ここはまずトップである貴方の健康確保が急務です!」
ウォーレンはインジェクターを見つめた。
これを打てば、胸の痛みから解放される。
老いの恐怖から逃れられる。
永遠に近い時間、権力の座に……。
だが。
ウォーレンは首を横に振った。
「……いや。よそう」
「大統領?」
「エレノア。
私を気遣ってくれるのは嬉しいがね。
私はまだ健康だよ。
心臓が悪いと言っても、薬でコントロールできている。
深刻ではない」
ウォーレンは自嘲気味に笑った。
「それに私の任期も残り少ない。
引き際は、美しくありたいものだよ」
「ですが……」
「それにだ、エレノア」
ウォーレンの目が政治家の——いや、国家の番人としての鋭さを帯びた。
「もし私がこれを使えば、 前例(プレシデント) になってしまう」
「前例?」
「ああ。
私が『若返り』を手に入れたら、次の大統領はどうする?
その次の大統領は?
歴代の大統領が、こぞってこの薬を要求するようになるだろう。
『大統領になれば不老不死になれる』……そんな椅子に、まともな民主主義が宿ると思うか?」
ウォーレンは吐き捨てるように言った。
「権力者は死ぬからこそ尊いのだ。
期限があるからこそ、その責任を全うしようとする。
もし『不老の大統領』が誕生してみろ。
それはもう大統領じゃない。
独裁者(キング) だ。
……不老の大統領は、民主主義の敵だ」
エレノアは息を呑んだ。
彼女は、この老人の底知れぬ矜持を見た気がした。
ただの保身やスキャンダル逃れではない。
国家というシステムそのものを守るために、彼は個人の欲望を切り捨てたのだ。
「……恐れ入りました。
貴方は真の合衆国大統領です」
「よせ。買いかぶりだ。
単にニクソン以上の悪名を残したくないだけさ」
ウォーレンは照れ隠しのように肩をすくめた。
「議会を通さず、こんな未承認の薬を使用したら後が怖いしな。
……ここは保管がベターだ。
私の体よりも、もっと有効な使い道がある」
「有効な使い道ですか?」
「ああ。
難病患者でテストしたい。
それも、ただの患者じゃない」
ウォーレンは指を立てた。
「『アメリカの海道サクラ』を探すんだ」
「……!」
エレノアがハッとする。
日本が海道重工を取り込むために使った手口。
それを模倣しようというのか。
「経済界の大物、あるいは軍産複合体の重鎮。
その本人か、あるいは溺愛する家族が難病で苦しんでいるケースをリストアップしろ。
特に、次期政権に強い影響力を持つフィクサークラスがいい」
ウォーレンはニヤリと笑った。
「彼らを救う。
この薬を使って恩を売るんだ。
そうすれば彼らは私に……いや、アメリカ政府に、絶対の忠誠を誓うだろう。
日本の 技術(ナノマシン) を守り、中国に対抗するための強固なバックアップ体制を、財界に作らせる」
「……国益優先ですね」
「そうだ。
私の心臓一つより、アメリカの産業基盤の方が重い。
それが 大統領(プレジデント) の仕事だ」
ウォーレンは立ち上がり、背広を直した。
その背中は老いてはいたが、決して曲がってはいなかった。
「ジム軍曹の件は、君の言う通り処理しろ。
そして残りの3本……。
誰に使うか、慎重に選定に入ろう」
ウォーレンは窓の外、ワシントンの夜景を見つめた。
日本から届いた5つの奇跡。
1つは知識のために消え、1つは英雄のために使われた。
残る3つは、権力という怪物を飼い慣らすための鎖となるだろう。
「……ソエジマ総理。
君の贈ってくれた首輪、有効に使わせてもらうよ。
ただし繋がれるのは私じゃない。
この国の欲望そのものだ」
大統領の呟きは、夜の闇に吸い込まれていった。
神の薬を巡るゲームは、新たなフェーズへと移行しようとしていた。