軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第204話 ジャミングオン! KAMIと賢者・猫のTIPSを読んだ日本政府、胃を痛める

東京都千代田区永田町、首相官邸。

地下五階に設けられた『特別情報分析室』は、地上の喧騒や気候の変化から完全に切り離された、無機質で冷徹な絶対の密室である。分厚い鉛と最新の電磁波吸収素材に覆われたこの空間には、空調の微かな稼働音だけが単調に響いていた。

円卓を囲むのは、この国の舵取りを実質的に担う者たちだ。

矢崎薫内閣総理大臣を筆頭に、官房長官、外務大臣、霧島大悟防衛大臣、御堂周作経済産業大臣、綾瀬真琴厚生労働大臣、内閣情報官。

そして、スクリーンの傍らには、内閣官房参事官の日下部と、いつものように着古した作業着姿の工藤創一が立っている。部屋の隅には、完璧な人工皮膚を持つアンノウン機関所属の『オラクル義体』と、工藤を補佐する工場管理AI・イヴのホログラムが静かに控えていた。

日下部が、手元の端末を操作し、低く短い声で宣言した。

「——ジャミング、オン」

ブゥン……という、内臓の奥底を微かに震わせるような極低周波の駆動音が室内の空気を満たす。位相干渉装置が稼働し、室内の照明が通常の青色から、警戒と秘匿を示す薄暗い赤色へと切り替わった。

「外部ネットワークへの物理的、及び電磁的通信の完全遮断を確認しました」

オラクル義体が、無機質で平坦な合成音声で報告する。

これで、いかなる超大国の諜報網であろうとも、この部屋の音や電磁波を外部に持ち出すことはできなくなった。

矢崎総理は、軽く息を吐き出し、円卓の面々を見回した。

「では、定例会議を始めましょう」

矢崎総理は、手元の資料に目を落として言った。

「まずは、前回の懸案であった『完全生体互換人工臓器』の国際治験枠……アメリカからの第一陣患者と医療チームの受け入れ状況について、確認をお願いします」

日下部が、淀みない口調で報告を始めた。

「アメリカ第一陣患者および医療チームの受け入れは、現時点では極めて順調に推移しています。横田基地での初期確認、医療特区への搬送、そして患者専用人工臓器の初回発注手続きに至るまで、重大な問題は発生しておりません。アメリカの医療チームも、我々の設定した厳格なプロトコルに従う意思を見せています」

綾瀬厚労大臣が、張り詰めていた肩の力を抜き、ほっと息を吐き出した。

「それは良かった……。白石医師をはじめとする現場の負担は大きいでしょうが、アメリカ側が協力的であるなら、最悪の混乱は避けられますね」

工藤が、隣で呑気に笑いながら言った。

「良かったですね! 流石、白石先生! みんなで協力して命を救うって、やっぱりいいもんですねえ」

その素直すぎる感想に、日下部が冷ややかな視線を向けた。

「白石先生と現場の医療チームが優秀なのは紛れもない事実ですが……工藤さんの発明の影響で、世界の医療制度と外交バランスが現在進行形で激震している最中ですからね。導入を決定したのは日本政府ですが、安易に手放しで喜べる状況ではありませんよ」

「いやあ、でも救える命が増えるのは、シンプルにいいことじゃないですか」

工藤は悪びれる様子もなく肩をすくめる。

「ええ。いいことです」

日下部は、決してそれを否定はしなかった。

「だからこそ、その“いいこと”が世界の強欲によって壊されないよう、我々が必死に防波堤を築いているのです」

「頼りにしてます、日下部さん!」

工藤の無邪気な信頼に、日下部は胃のあたりを軽く押さえて微かに呻いた。

「医療特区の案件については、引き続き注視していきましょう」

矢崎総理が、場の空気を引き締めるように言った。

「それでは……本日の本題に入ります」

日下部がコンソールを操作すると、メインスクリーンに一つの文字列が表示された。

『議題:テクノロジーツリーTIPSにおける、KAMIおよび賢者・猫の発言分析』

室内の空気が、医療という生々しい現実から、理解を絶する「上位存在」という深淵へと一気に切り替わった。

「……本日の本題ですね」

矢崎総理の顔に、厳しい緊張感が走る。

「はい」

日下部が、手元の分厚いファイルをトントンと机で揃えた。

「工藤氏から共有されたテクノロジーツリーのTIPS集を、内閣情報調査室、アンノウン機関分析班、ならびに言語・文化・安全保障の専門担当者たちで徹底的に精査しました」

「え、そんな大ごとにしたんですか?」

工藤が、少し驚いたように目を丸くした。

「ただのフレーバーテキストみたいなもんだと思ってましたけど……」

「当然です」

日下部は、氷点下の声で工藤を嗜めた。

「KAMI様と賢者・猫は、単なるテキストの書き手ではありません。工藤さんに力を与え、テクノロジーツリーそのものを構築し、管理している……あるいはそれに準ずる存在の可能性が極めて高い。彼らが残した言葉は、我々人類にとって絶対に無視できる情報ではありません」

「俺、結構流し読みしてましたけど……」

工藤が頭を掻きながら白状する。

「……それも含めて問題です」

日下部は、額に青筋を浮かべそうになるのを必死に堪えながら、報告の結論を先に提示した。

「結論から申し上げます。

現時点において、KAMIおよび賢者・猫が、日本政府または地球文明に対して『直接的な敵対行動を取る可能性は低い』と判断します」

会議室に、僅かな安堵の空気が広がった。

彼らがもし地球を滅ぼそうとする悪意を持った存在であれば、今の日本政府に抗う術はないからだ。

「その根拠は?」

矢崎総理が、冷静に理由を問う。

「彼らのTIPSは、単なる技術の機能説明ではありませんでした」

日下部は、スクリーンにいくつかのテキストデータを展開した。

「複数のTIPSにおいて、記述された当時にはまだ起きていないはずの出来事、地球側での社会実装上の問題、そして何より……工藤氏がこの文章を真面目に読まないこと、後に私たち日本政府側が読むことを、完全に前提とした文脈が確認されたのです」

「……どういうことですか?」

外務大臣が、困惑した顔で身を乗り出す。

日下部が、これまでに工藤が解禁してきた技術のTIPSの抜粋をスクリーンに表示した。

非暴力強制波/パックス・ウェーブ。

万能翻訳機。

医療用キット。

人工義肢・人工臓器Tier1。

フルダイブ技術。

超高性能AI(オラクル) 。

「特に問題なのは」

日下部は、深い溜め息とともに言った。

「KAMIと賢者・猫が、工藤氏に対してではなく、明らかに後から読むであろう政府関係者……具体的には『私』を想定している発言を、複数残していたことです」

「え、日下部さん宛てなんですか?」

工藤が目を白黒させる。

「かなりの確率で」

日下部がスワイプすると、TIPSの中の特定のフレーズがハイライトされた。

『日下部、あなたが後で読むならここを覚えておきなさい』

『日下部殿向けに言うなら、議事録と責任者を必ず残すことじゃな』

『工藤はどうせ流し読みするでしょうけど』

『日下部、後で読んだら胃薬を飲みなさい』

会議室が、奇妙な静寂に包まれた。

超越的な存在からのメッセージが、あまりにもピンポイントで、かつ生活感に溢れていたからだ。

「……めちゃくちゃ名指しされてる……」

工藤が、同情するような声で呟く。

「はい」

日下部の顔面は、能面のように無表情だった。

「そして非常に腹立たしいことに、だいたい正しいことを言っています」

矢崎総理が、口元を手で覆い、少しだけ笑いを堪えている。

霧島防衛大臣も、咳払いをして誤魔化した。

「でも俺も一応、昔はちゃんと社会人として社畜してましたよ?」

工藤が、不満げに抗議する。

「社畜なら、報連相くらいちゃんとしてほしいのですが」

日下部が冷酷に切り捨てる。

「ぐうの音も出ない」

「肯定します」

イヴのホログラムが、一切の感情を交えずに補足した。

「マスターの報告遅延傾向、および重要ドキュメントの黙殺傾向は、過去の事例から見ても明白な事実です」

「イヴまで……」

工藤は項垂れた。

「話を戻します」

日下部が、咳払いをして場を引き締めた。

「これらの記述から、KAMIと賢者・猫の正体についての一つの仮説が成り立ちます」

内閣情報官が、手元の資料をめくりながら引き継いだ。

「彼らは、少なくとも我々が想像するような『通常の異星文明人』ではありません。テラ・ノヴァ側で遭遇したミコラ族などのように、物理的な宇宙空間に存在する種族とは次元が違います。

現時点での仮説としては、彼らは並行世界を跨ぐ上位存在、あるいはそれに準ずる『高次情報存在』であると推測されます」

資料には、彼らの異常性が整理されている。

・工藤がTIPSを読まない性格であることを事前に知っている。

・日下部が後で読むことを前提にしている。

・技術導入後に起きる政治的・医療的・社会的問題を完璧に先読みしている。

・テラ・ノヴァ側の銀河コミュニティ化も示唆している。

・地球側の制度化問題(法律や倫理の壁)まで把握している。

「これだけすべてを見通しているにもかかわらず」

内閣情報官が、少し不思議そうに言う。

「彼らは我々に対して、直接的な『命令』は一切していません。技術を出せとも、隠せとも言わない。むしろ、“参考にするな、自分で考えろ”と釘を刺している箇所すらあります」

「敵対意思がないと見る理由は、そこですか?」

矢崎総理が確認する。

「第一に、彼らは複数の危険技術について、安易な使用を制限するよう『警告』を残しています。先日工藤さんが暴走しかけた、パックス・ウェーブなどは典型です」

日下部が指を折って説明する。

「第二に、工藤氏の暴走傾向を認識したうえで、我々政府側へ『ブレーキ役』になるよう促しています。本当に世界を滅ぼしたいなら、工藤氏を唆す方がはるかに簡単です。

そして第三に、技術の導入に関して、細かい制度案や法律を押し付けていません。あくまで危険性の提示と、高次元からの視点の提供に留めています」

「敵対的な存在であれば、工藤氏にもっと直接的で破壊的な指示を与える方が効率的ですからね」

内閣情報官が同意する。

「逆に、我々に危険技術のリスクを丁寧に教えてくれている。少なくとも現時点では、地球を破壊したり、人類を奴隷にしたりする目的には見えませんな」

霧島防衛大臣が、安全保障上の脅威評価を下げる。

「KAMI様、ただ自分が『面白いかどうか』で動いてる感じはありますけどね」

工藤が、彼らのTIPSでのやり取りから感じた印象を口にする。

「それが一番怖いのですが」

日下部が、胃の痛みを思い出して顔をしかめた。

「……ちなみに」

日下部が、やや嫌そうに次の資料をスクリーンに出した。

「これが、KAMIおよび賢者・猫による、『工藤創一』という人物に対する評価の分析です」

「え、俺の評価もあるんですか?」

工藤が、少し期待したように身を乗り出す。

「あります」

スクリーンに、容赦のない抜粋が表示される。

『工藤は工場しか頭にないから、制御を頑張りなさい』

『あんまり甘やかすと調子に乗るのじゃ』

『あいつは技術を見つけたら面白がって解禁するから、周囲が止めるしかないわ』

『流し読みして、あとで日下部が胃を痛める未来が見えるのう』

会議室に、再び沈黙が落ちた。

「……失礼な猫ですね。俺、社会人として昔はちゃんと社畜してましたよ?」

工藤が、不満そうに唇を尖らせる。

「社畜であったことと、危険技術の報告を適切に行うことは別問題です」

日下部が冷たく切り捨てる。

「でも、工場ゲーの主人公としては、めちゃくちゃ頑張ってますよ? テラ・ノヴァのライン、あんなに綺麗に回してるんですから!」

「頑張っている『方向性』が問題なのです」

矢崎総理が、口元を手で覆って少し笑いながら言った。

「しかし、少なくともKAMIと賢者・猫が、工藤さんの危うさをかなり正確に把握していることは分かりますね」

「同意します」

イヴが、無慈悲に賛同する。

「KAMI様および賢者・猫のマスターに対する評価は、辛辣ではありますが、人物プロファイルとしての精度は極めて高いと判断します」

「イヴ!?」

工藤が裏切られた顔でホログラムを見るが、イヴはどこ吹く風だった。

「……さて」

ここから、会議の空気が少し重くなった。

工藤が、珍しく真面目な顔になって言った。

「でも、ここに来て……KAMI様と賢者・猫の『目的』が、分からなくなりましたね」

「目的、ですか」

矢崎総理が、工藤の真意を測るように問う。

「はい」

工藤は、腕を組んで天井を見上げた。

「俺、最初はただの『工場ゲー』をさせられてるんだと思ってました。実際、テラ・ノヴァ側では工場を成長させろって流れですし、TIPSでも“工場ゲーしろ”みたいなことはよく書いてました」

「しかし、地球側に関しては、何かを明確に命令しているわけではない」

日下部が、矛盾を指摘する。

「そうなんですよ。地球を救えとも、支配しろとも、星間文明にしろとも書いてないんです。ただ技術のカタログと、注意書きを渡されてるだけ」

「テラ・ノヴァ側の銀河コミュニティ化については?」

外務大臣が、星間外交の観点から問う。

「予測、または把握しているような記述はあります」

日下部が答える。

「万能翻訳機のTIPSなどは、明らかにテラ・ノヴァ側で我々が遭遇する星間文明との交流を前提にした内容でした」

「つまり、彼らは工藤氏がテラ・ノヴァ側で文明交流を始めることも、ある程度は織り込み済みだった」

防衛大臣が、巨大な盤面を動かす見えざる手を警戒する。

「一方で、地球側については、“こうしろ”ではなく、“やるなら気をつけろ”“あとは自分たちで考えろ”というスタンスが多い」

内閣情報官が、情報分析の限界を口にする。

矢崎総理が、深く静かな声で言った。

「上位存在の思惑を、我々が完全に理解することは難しいでしょうね。アリが人間の都市計画を理解できないのと同じように」

会議室が、静まり返る。

彼らが相手にしているのは、地球上の超大国ではない。次元を超えた、真の『アンノウン』なのだ。

「KAMI様と賢者・猫が何を見て、何を目的にしているのか。現時点で我々が断定するべきではありません」

総理の言葉には、国家の指導者としてのブレない芯があった。

「ただ、分かっていることもあります。彼らは今のところ、我々を直接敵として扱ってはいない。むしろ、人類が自滅しないよう危険技術について警告を残してくれている。……ならば、我々は神の意図を深読みして怯えるのではなく、今は目の前のことをやるしかありません」

「目の前のこと、ですか」

工藤が問う。

「はい」

総理は力強く頷いた。

「医療、エネルギー、フルダイブ、火星、テラ・ノヴァの開拓、そして人工臓器による命の救済。私たちには、分かる範囲で、自分たちの責任を果たすしかありません」

「その通りです」

日下部も同意した。

「上位存在の目的を推測しすぎると、足元が疎かになり、何もできなくなります。我々は、我々の現実を処理しましょう」

重い話を受けて、工藤は少し考え込んでいた。

人工臓器の件で、白石医師が血反吐を吐きながら命を救っている姿を見たこと。

先日の『パックス・ウェーブ』の件で、自分の善意が危うく世界を狂わせかけ、日下部に全力で止められたこと。

そして、KAMIと賢者・猫が「自分で考えろ」と突き放していること。

「……じゃあ、今できることをやりますか」

工藤が、ポツリと言った。

「その言い方は少し不安ですが、内容によります」

日下部が、即座に警戒レベルを引き上げる。

「いや、白石先生みたいに、もっと『普通に役に立てるテクノロジー』を探してみたんですよ」

工藤が、少し得意げに言う。

「普通に、という言葉の定義確認が必要ですね」

日下部の目が、獲物を狙う鷹のように鋭くなる。

工藤は、ニカッと笑って提案した。

「視力回復薬なんてどうですか!?」

——。

会議室が、一瞬だけ停止した。

「……視力回復薬?」

綾瀬厚労大臣が、拍子抜けしたような声で聞き返す。

「はい!」

工藤が熱を込めて説明を始める。

「失明患者には効きません。視神経断裂とか網膜の完全破壊とか、そういう重篤な物理的欠損には別の高度な医療技術が必要です。

でも、近視・遠視・老眼・眼精疲労由来の視力低下とか、毛様体筋や眼球周辺の筋肉の機能低下、ピント調整の衰えには、かなり劇的に効果があります!」

日下部は、その説明を聞いて、少しだけ目を瞬かせた。

「……珍しく、社会への悪影響が少なそうなテクノロジーですね」

「でしょう!?」

工藤が、我が意を得たりとばかりに胸を張る。

「イヴさん、補足を」

日下部が確認を求める。

「補足します」

イヴのホログラムが、詳細なデータを開示する。

「当該薬剤は、眼球周辺の調整筋群、毛様体筋の弾力復元、涙液分泌環境の最適化、および微細炎症の回復を主目的とする『民生用低侵襲医薬品』です。失明、重度網膜損傷、視神経障害、眼球欠損などには効果が限定的、または無効です」

「なるほど」

綾瀬厚労大臣が、臨床の観点から納得する。

「眼鏡やコンタクトレンズを完全に置き換える魔法の薬ではないが、多くの一般的な視力低下や老眼には効く、ということですね」

「はい。あと、副作用はかなり低いです」

工藤が付け加える。

「医療用キットみたいな何でも治す細胞の初期化とか、人工臓器みたいな大掛かりなものに比べたら、めちゃくちゃ平和です」

「比較対象が物騒すぎますが、今回は確かに、前向きに検討の余地がありますね」

日下部が、珍しく肯定的な評価を下した。

「では、詳細な仕様を詰めましょう」

工藤とイヴが、さらに詳しい説明を続ける。

「仮称は、『視機能回復点眼薬』。あるいは……『クリアサイト・ドロップ』とか、『視力回復薬一号』とかですかね?」

工藤が言う。

「『メガネ卒業目薬』とかどうですか?」

「製品名を工藤さんに決めさせないでください」

日下部が即座に却下した。

「薬機法に抵触しそうな安直なネーミングです」

【効果】

・眼精疲労の劇的な改善。

・毛様体筋の機能回復とピント調節能力の改善。

・軽度〜中等度の近視・遠視・老眼の改善。

・ドライアイ傾向の改善。

・軽度の炎症や疲労蓄積の修復。

・子供の仮性近視にも効果あり。

・長期使用で視力低下進行を抑える可能性。

【効かない/限定的なもの】

・失明。

・視神経断裂。

・網膜の重度損傷・剥離。

・眼球欠損。

・末期緑内障。

・重度白内障。

・外傷性眼球破壊。

・遺伝性網膜疾患の一部。

「これなら、医療用キットや人工臓器よりずっと一般医薬品(OTC)に近い形で扱えそうですね」

綾瀬厚労大臣が、制度上のハードルの低さを評価する。

「はい。ただし、現代の地球の医学基準では、作用機序の一部が完全に解明・説明困難です」

イヴが冷徹に釘を刺す。

「したがって、段階的な臨床試験(治験)は必須となります」

「また治験ですか」

工藤が、面倒くさそうに口を尖らせる。

「当然です」

日下部が睨む。

「ですよね」

工藤は素直に引き下がった。

「では、この薬が社会に与える影響を整理します」

日下部が、即座にシミュレーションを展開した。

「悪影響が少ないとはいえ、影響がないわけではありません。あらゆる技術は、既存の産業や社会構造と必ず衝突します」

日下部の指差しで、スクリーンに影響項目が並ぶ。

【1.眼鏡・コンタクト市場への影響】

「眼鏡、コンタクトレンズ、レーシック手術、眼科医療、そして視力矯正産業に甚大な影響を与えます」

「眼鏡業界は、大きく揺れますね」

御堂経産大臣が、産業界の混乱を予測する。

「眼鏡がオシャレアイテムになりますね!」

工藤が、能天気に言う。

「すでにオシャレアイテムとしての側面もありますが、純粋な『度付き需要』が減る可能性は非常に高いです」

日下部が冷静に分析する。

「ただし、すぐにゼロにはならないでしょう」

矢崎総理が補足する。

「効果範囲は限定されていますし、ファッション眼鏡、花粉対策、保護眼鏡、ブルーライトカット、作業用、スポーツ用といった需要は確実に残ります」

【2.学生・受験生・労働者への需要】

「スマートフォン、PC作業、長時間の勉強、デスクワークによる眼精疲労に、強烈に刺さります」

「国民生活への恩恵は計り知れませんね。特に、視力低下に悩む子供たちや、老眼に苦しむ高齢者にとっては福音です」

綾瀬厚労大臣が、福祉的な価値を高く評価する。

【3.医療格差と価格設定】

「あまりにも高額にしすぎれば、“金持ちしか視力を回復できない”と炎上します。一般向けに普及させるための価格設定が重要になります」

【4.ドーピング・スポーツへの影響】

「視力の改善が、競技成績に直結する可能性があります」

「文科省およびスポーツ庁の案件ですね」

文部科学大臣が顔をしかめる。

「射撃、野球、卓球、格闘技、あるいはeスポーツにも影響する。大会前に使用した場合、これをドーピングとみなすかどうかのルール作りが必要です」

「日下部さん、スポーツ団体との調整が必要ですね」

「はい。頭の痛い仕事がまた一つ増えました」

「目が良くなるだけでドーピング扱いですか?」

工藤が不思議そうに言う。

「競技によっては、視覚能力の回復がパフォーマンスの向上に直結します。公平性を担保するためには避けられない議論です」

日下部が説明する。

【5.軍・警察・自衛隊への影響】

「夜間作戦や射撃能力の維持に関係するため、防衛省が強い興味を示すはずです」

「当然、隊員の視機能維持には極めて有用です。ぜひ優先的に提供をお願いしたい」

霧島防衛大臣が、待ってましたとばかりに身を乗り出す。

「あくまで『民生用』として進めます。軍用強化視覚などに改造しないでくださいね」

日下部が、工藤に向かって強く釘を刺す。

「できますけど?」

工藤が、無邪気に恐ろしいことを言う。

「今はしないでください」

日下部が即座に叩き落とした。

「……視力回復薬は、医療用キットや人工臓器のような“命に直結する重さ”に比べれば、かなり社会に導入しやすい技術ですね」

矢崎総理が、珍しく明るい表情で言った。

「まずは眼科領域の治験から始めましょう。小児の仮性近視、成人の眼精疲労、高齢者の老眼でグループを分けて進めます。特に老眼の改善は、社会的な反響が非常に大きいと思います」

綾瀬厚労大臣が、具体的なロードマップを描き始める。

「眼鏡・コンタクト業界への衝撃緩和も必要です」

御堂経産大臣が、産業保護の観点から提案する。

「いきなり市場を破壊するのではなく、眼科医の処方箋をもとに、既存の『眼鏡店』を販売や定期チェックの窓口として組み込む手もあります」

「なるほど」

矢崎総理が頷く。

「眼鏡店を敵に回すのではなく、販売・測定・経過観察のプラットフォームとして新しい制度に巻き込むのですね」

「良いと思います」

日下部も同意した。

「視力回復薬をただ売るだけではなく、継続的な視力測定とケアをセットにすれば、既存業界も反発するどころか、新しいビジネスモデルとして参加できます」

「おお、眼鏡屋さんが生き残る」

工藤が嬉しそうに言う。

「生き残るというより、新しい業務形態へと移行する形です」

日下部が正確に訂正する。

「高齢者向けにも大きいですね。老眼鏡が不要になる、あるいは度が軽くなるだけでも、日常生活の質(QOL)は劇的に上がります」

厚労大臣が微笑む。

「これは、国民が純粋に、安心して喜べる技術ですね」

矢崎総理の言葉に、会議室の空気が、かつてないほど和やかで前向きなものになった。

だが、日下部は決して楽観しきっていなかった。

「念のため確認します。工藤さん」

日下部が、じっと工藤の目を見据える。

「はい?」

「これは本当に、“視力低下の回復”までですね?

暗視能力の付与、遠距離視力の異常な強化、動体視力の強化、赤外線視認機能などは、この薬には含まれていませんね?」

「今回は含めてないです」

工藤が、さらりと答えた。

「……今回は?」

日下部の目が、スッと細められる。

「技術ツリーにはあります」

霧島防衛大臣が、ガタッと音を立てて少し前のめりになった。

「防衛大臣、座ってください」

日下部が、見ずに制止する。

「まだ何も言っていませんぞ」

霧島が誤魔化す。

「顔に出ています」

「防衛大臣の心拍数および関心度の上昇を確認」

イヴが、無慈悲にデータを暴露した。

「イヴさんまで……」

霧島が、バツが悪そうに咳払いをして座り直した。

「でも、暗視目薬とか、夜のキャンプとか災害時にすごく便利そうですよね」

工藤が、またしても悪気なく言う。

「本日は『民生用視力回復薬』の会議です。話を逸らさないでください」

日下部が、きっぱりと話を本筋へ引き戻した。

「では、方針を決定します」

矢崎総理が、会議の総括に入った。

「視力回復薬については、厚生労働省主導で治験設計を開始します。

眼科医会、眼鏡業界、コンタクト業界、スポーツ庁、文科省、そして防衛省を関係省庁として連携し、調整を進めてください。

ただし、第一段階はあくまで『民生用』。視力回復、眼精疲労改善、老眼改善に用途を限定します。

軍事的な強化視覚や特殊視覚機能の開発は、別案件として当面凍結とします」

「妥当です」

日下部が頷く。

「これなら、白石先生の人工臓器みたいに『命を懸けて世界を救う』って感じではないですけど……日常的に、普通に役立ちそうですね」

工藤が、少しだけ照れくさそうに言う。

「そういう技術も、とても大事です」

矢崎総理が、優しく工藤に語りかけた。

「大きな奇跡だけが、人を救うわけではありません」

「眼鏡を外して、大好きな本が読めるようになる。子供の視力低下が止まり、外で元気に遊べる。高齢者が、薬の小さな説明書を自分の目で読めるようになる。……それだけでも、人にとっては十分すぎるほどの『救い』です」

綾瀬厚労大臣の言葉に、他の閣僚たちも深く同意した。

「なるほど……」

工藤は、技術の価値が必ずしもスケールの大きさだけではないことを、改めて噛み締めていた。

「工藤さん」

日下部が、最後に念を押すように言った。

「今みたいな方向でお願いします。世界を強制的に矯正する電波ではなく、人々の日常を少しだけ良くする『目薬』です」

「その比較、俺がパックス・ウェーブ出そうとしたのがすごく悪いことみたいで、ひどくないですか?」

工藤が口を尖らせる。

「ひどくありません。事実です」

日下部が冷たく返す。

「妥当な比較です」

イヴが追撃する。

「イヴまで……」

工藤は、またしても肩を落とした。

会議が終了し、ジャミングが解除される。

閣僚たちが次々と退室し、部屋には日下部と工藤だけが残された。

工藤は、片付けを進める日下部の背中を見ながら、ぽつりと言った。

「……でも、KAMI様と賢者・猫って、本当に何がしたいんでしょうね」

日下部は手を止め、振り返った。

「分かりません。彼らの目的を我々が完全に理解することは、永遠に不可能かもしれません」

日下部は、天井の照明を見上げて静かに言った。

「ですが、少なくとも彼らは……工藤さんがTIPSを読まずに危ない橋を渡りかけ、私が胃を痛めながらその後始末のために必死に読むことまでは、完璧に見越していたようです」

「……なんかすみません」

工藤が、心底申し訳なさそうに頭を下げる。

「謝るくらいなら、次からTIPSをちゃんと読んでください」

日下部が、深く、重いため息とともに要求する。

「努力します」

「遵守してください」

最後のやり取りは、いつもの二人の日常だった。

KAMIと賢者・猫。

それは、異星人という言葉では到底収まらない存在だった。

並行世界を渡り、未来を見通し、工藤創一という奇妙な工場長の危うさまで完璧に見抜いている。

だが彼らは、命令しなかった。

救えとも、支配しろとも、滅ぼせとも言わなかった。

ただ、技術の横に『警告』を置いた。

そして、人間たちに自分で考えさせた。

だから日本政府は、今日も血反吐を吐きながら考えるしかない。

上位存在の深遠な思惑に怯えるのではなく、目の前の制度と、目の前の患者と、目の前の国民生活をどう守るかという、泥臭い現実を。

その結果、今日決まったのは、世界を支配する巨大兵器でも、文明を揺るがす精神干渉技術でもなかった。

視力回復薬。

眼鏡が、いつか医療器具ではなく、ただのおしゃれなアクセサリーになるかもしれない。

そんな、少しだけ平和で、日常を優しく照らす未来の話だった。