作品タイトル不明
第192話 六つの名前と、選ばれなかった世界
ヒューストン、NASAジョンソン宇宙センター。
テキサスの焼け付くような陽射しを遮る重厚な建物の内部にある巨大なプレスルームは、かつてないほどの熱気と、噎せ返るような人間の欲望に満ちていた。
壁面に設置された巨大なバックパネルには、シンプルな、だが途方もなく重い文字列が輝いている。
『International Mars Long-Duration Demonstration Mission』
『First Crew Candidate Announcement』
(国際火星長期滞在実証ミッション 第一陣候補者発表)
世界中の主要メディアがカメラの砲列を敷き、ジャーナリストたちが血走った目で会見の開始を待ち構えている。各国の宇宙機関の代表者、政府高官、そして民間宇宙開発企業の幹部たちが、張り詰めた空気の中でひそひそと耳打ちを交わしていた。
発表の数日前から、世界のメディアとインターネットはすでに完全に狂騒状態に陥っていた。
『人類最初の火星長期滞在者、ついに発表へ』
『火星第一陣に中国人は入るのか。超大国のメンツをかけた暗闘』
『インド、初期火星チーム入りなるか。人口大国の猛烈なロビー活動』
『英国、第一陣入りならずとの観測。ファイブ・アイズの綻びか?』
『SpaceXとNASA、火星の歴史的会見へ。民間主導の宇宙開発が完成する日』
『日本の生命維持技術担当者が入る可能性。アンノウン技術の鍵を握る国』
『火星コロニーではなく“実証ミッション”と強調。ホワイトハウスの思惑』
SNSのタイムラインは、世界中のユーザーによる予想合戦と願望で埋め尽くされている。
「絶対アメリカ2枠だろ。船も計画も主導してんのに1枠なわけがない」
「日本人は入る。空気を握ってるから。入れないと死ぬぞ」
「中国入れたら荒れるぞ。でも外した方がもっと荒れるぞ」
「インド入れないと人口的に揉める。医療枠で入るって噂ある」
「イギリスは? 宇宙法で食い込むんじゃないの?」
「サウジは金出してるから一人乗せろとか言いそう。オイルマネーパワー見せつけろ」
「火星ラーメン屋ニキ、ワンチャンある?」
「あるわけねえだろwww 麺茹でてる間に酸欠になるわ」
人類が初めて隣の惑星に「住む」ための先遣隊。
そのプラチナチケットを誰が手にするのか。それは単なる科学の進歩ではなく、地球上のすべての国家、企業、そして個人のプライドと欲望を懸けた、巨大な椅子取りゲームと化していた。
◇
定刻。
プレスルームの照明が一段階落とされ、フラッシュの嵐がステージを白く染め上げた。
登壇したのは、三人。
NASAミッションディレクター、アメリア・ロス。
SpaceX CEO、レオナード・グレイ。
そして、JAXA火星安全プロトコル担当、三嶋玲奈。
彼らの背後には、アメリカ政府代表、日本政府代表、欧州宇宙機関(ESA)代表、その他各国の宇宙機関の重鎮たちが控え、歴史的瞬間の証人として居並んでいた。
レオナード・グレイは、いつもの派手なパフォーマンスを封印し、極めて神妙な顔つきで真っ直ぐに前を見据えていた。彼としては「人類が火星の地主になる日だ!」と大々的に煽りたかったに違いないが、事前にアメリアと三嶋から「少しでも余計なことを言ったら、その場でマイクを切る」と強烈な釘を刺されていたのだ。
中央のマイクの前に立ったアメリア・ロスが、会場の喧騒を静めるように、低く、しかしよく通る声で口を開いた。
「皆様。本日は、人類の歴史における新たな一歩の証人としてお集まりいただき、感謝いたします」
フラッシュの音が止み、世界中の数億人が画面越しに息を呑む。
「まず、誤解を解いておかなければなりません。本日発表するのは、火星の“所有者”でも、火星の“移民第一号”でもありません」
アメリアの冷徹な言葉が、過熱するロマンに冷水を浴びせる。
「彼らは、我々が構築する『火星長期滞在実証拠点』が、本当に人間を安全に生かし続けることができるかどうかを確認するために選ばれた、六名の候補者です。彼らの任務は、居住ではありません。生存の実証です」
明確な「コロニーではない」という釘刺し。ホワイトハウスが最も恐れていた「民間企業や特定国家による火星の私物化」という批判をかわすための、絶対的な予防線であった。
続いて、JAXAの三嶋玲奈がマイクを引き継いだ。彼女の表情は、現場で命を預かる技術者特有の、一切の甘えを許さない厳しさを持っていた。
「第一陣の六名は、国籍のバランスや政治的配慮、いわゆる『国籍枠』によって選ばれたのではありません。我々が設定した、極めて厳格な『任務役割枠』によって選定されました」
三嶋の凛とした声が、プレスルームに響き渡る。
「火星という死の環境において必要なのは、立てられた国旗の数ではありません。生き残るための、確実な役割の数です。それこそが、この六名を選び出した唯一の基準です」
その言葉は、選ばれなかった国々に対する「政治的言い訳」であると同時に、これ以上ないほど説得力のある真実であった。
そして、巨大なスクリーンに、六つの顔写真と名前が、一つずつ映し出されていった。
◇
『1.エリック・ヘイル(アメリカ合衆国)/ミッションコマンダー』
最初に表示されたのは、NASAに所属する中年の男性宇宙飛行士だった。短く刈り込んだ髪に、穏やかだが意思の強さを感じさせる瞳。映画の主人公のような華やかなスター性はない。
「彼は、数々の国際クルー運用経験と、月軌道ミッションでの指揮実績を持ちます。彼の最大の武器は、いかなる緊急事態においても決して失われない、氷のような冷静さと指揮能力です。第一陣の全体指揮を彼に託します」
アメリアが誇り高く紹介する。
(ネットの反応)
「アメリカ枠は当然だな」
「トム・クルーズみたいな派手な英雄タイプじゃないな」
「むしろ安心感ある。火星でイキる奴は絶対死ぬ」
「声が落ち着きすぎてて逆に怖いレベル」
『2.瀬尾航平(日本国)/生命維持・安全プロトコル担当』
次に映し出されたのは、少し疲れたような、どこにでもいる平凡な日本のエンジニアの顔だった。JAXA所属。
「彼は、本ミッションの根幹を成す人工重力、放射線遮蔽、および閉鎖循環型生命維持装置の現地運用を担います。日本側の安全プロトコルのすべてを掌握する、インフラの要です」
三嶋が、自国の代表を淡々と紹介する。
(日本のネット反応)
「誰?」
「地味すぎるだろwww もっとシュッとした奴いなかったのかよ」
「いや、生命維持担当って一番大事では?」
「つまり空気係?」
「空気係って言い方やめろwww」
「全員の命のスイッチ握ってる男じゃん」
「瀬尾さんが寝たら全員死ぬのか」
「瀬尾さんを寝かせろ。ブラック労働させるな」
『3.アナスタシア・ヴォルコワ(ロシア連邦)/閉鎖環境運用・長期滞在維持担当』
三人目は、鋭い眼光を持つロシアの女性だった。ロスコスモス所属。
「極地基地での長期勤務経験、および閉鎖環境実験においてトップの成績を収めました。限られた資源の厳格な管理と、クルーの生活リズムの維持という、極限状態でのサバイバルを彼女が統括します」
(ネット反応)
「ロシア枠が閉鎖環境担当なの納得しかない」
「絶対“無駄な電気を使うな”って無表情で言う人だ」
「火星の母ちゃん枠?」
「いや火星の冬将軍だろ」
「美人だけど死ぬほど怖い」
「怖いから生き残れそう。エイリアン出ても素手で倒しそう」
『4.劉天宇(中華人民共和国)/建設・機械系運用担当』
四人目は、実直そうな顔つきの中国人エンジニアだった。中国国家航天局所属。
「軌道建設モジュールでの豊富な経験を持ち、自動施工ロボットとの連携、およびロボットアームの精密操作において世界最高峰の技術を持ちます。火星での拠点建設と機械修理のすべてを彼が担います」
(アメリカ・日本ネット反応)
「中国入ったか」
「まあ、入れない方が地政学的に危険だろ」
「機械系なら納得。一番泥臭い作業やってくれそう」
「生命維持の中核(アンノウン技術)には触らせないんだろうな」
「それは当然」
(中国ネット反応)
「中国人が火星第一陣に入ったぞ!」
「劉天宇は国家の誇りだ!」
「建設担当なのが中国らしい。宇宙でも我が国がインフラを建てるのだ」
『5.アーシャ・ラマン(インド共和国)/医療・生理学・微生物管理担当』
五人目は、知的な微笑みを浮かべたインドの女性医師だった。
「彼女は優秀な医師であると同時に、惑星生物学者でもあります。閉鎖環境における医学、未知の微生物の管理、および惑星保護プロトコルの遵守。火星でクルーの命と、火星環境そのものを守るのが彼女の任務です」
(インドネット反応)
「アーシャ博士が火星へ!!」
「人口大国として当然の権利だ!」
「医師で惑星生物学者って強すぎるだろ」
「火星で最初の医者がインド人なの誇らしい」
「彼女が暇であることを祈る、ってコメントが泣ける」
『6.ルーカス・マイヤー(欧州宇宙機関・ESA)/惑星科学・地質調査担当』
最後の一人は、真面目そうなドイツ系の学者だった。
「火星地質学の専門家であり、地盤評価、氷資源の調査、およびサンプルの安全な採取プロトコルを指揮します。我々が火星の大地を真に理解するためには、彼の眼が不可欠です」
(EUネット反応)
「ESA枠か……」
「EU代表ではないのか?」
「ドイツ系なのか。フランスが荒れそうだな」
「イタリアも荒れそう」
「まあでも、能力的には文句ないだろ」
「政治家が火星でも会議してそうだけど、ルーカス本人は石しか見てないぞ」
六人の名前と役割が世界に提示された瞬間。
それは、火星が単なる「夢」から、泥臭く、計算し尽くされた「現実のプロジェクト」へと変わったことを意味していた。
◇
発表直後、世界は爆発的な歓喜に包まれた。
アメリカのニュース番組では、エリック・ヘイルの顔が誇らしげに映し出されていた。
「ついに火星第一陣が発表されました。アメリカからはNASAのエリック・ヘイル氏。彼は派手なスターではありませんが、国際クルーをまとめる能力で高く評価されています。彼が第一声を放つ日を、我々は待っています」
ヘイズ大統領も、ホワイトハウスから抑制の効いた祝辞を述べた。
「彼ら六人は、火星を所有しに行くのではありません。人類が火星で安全に生きられるかを確かめに行くのです。アメリカはそのリーダーとして、彼らの無事を祈ります」
大統領は慎重に「火星をアメリカのものにする」とは言わなかったが、野党や選挙陣営はこの発表を「アメリカの威信の復活」として熱狂的に消費し始めていた。
日本では、官邸が短いコメントを出した。
「瀬尾航平宇宙飛行士の選出を歓迎します。日本は生命維持、安全プロトコル、閉鎖循環技術の面から、国際火星長期滞在実証ミッションに貢献します」
日本のネットは、最初は瀬尾の地味さに戸惑っていたが、彼の役割の重要性に気づくや否や、掌を返したように盛り上がり始めた。
「瀬尾さん、誰?」
「大谷とか藤井みたいなスター感はないよな」
「いや宇宙飛行士にスター感求めるなww」
「生命維持担当って地味だけど一番ヤバいやつだぞ」
「火星の酸素大臣」
「空気を守る男」
「瀬尾さん、俺たちの空気を頼んだぞ」
翌日には、「#空気を守る男」というハッシュタグが日本のトレンドを席巻することになる。
ロシア政府は、国内向けに大々的に宣伝を行った。
「アナスタシア・ヴォルコワの選出は、ロシアの閉鎖環境・極限環境運用技術の正当な評価である」
ロシアのネットユーザーたちは、彼女の厳しい顔つきを見て独自のミームを作り始めた。
「我々の代表が火星で電気を消す係か」
「無駄な暖房を絶対に許さない女」
「火星の冬将軍」
「火星ではロシア人が生活を管理する。これは勝利だ」
ただし、ロシア政府の深部では、「生命維持のブラックボックスに触れられない」ことへの苛立ちがマグマのように燻り続けていた。
中国でも、国営メディアが歓喜の声を上げた。
「中国人宇宙技術者、火星第一陣へ」
発表資料では「建設・機械系運用担当」であることを執拗に強調し、「火星のインフラは中国が建てる」と国内に喧伝した。
しかし、一部の強硬派ネットコミュニティでは不満も漏れていた。
「なぜ指揮官ではないのだ?」
「生命維持を日本が握るのは危険ではないのか?」
「中国は建設だけさせられるのか?」
これらの声は、政府系メディアによって即座に鎮火された。
「国際任務における役割分担であり、中国の宇宙建設能力が世界最高であると評価された結果である」と。
インドは、完全に国を挙げてのお祭り状態だった。
「アーシャ・ラマン博士、火星第一陣へ!」
「火星で最初に人間を診る医師はインド人だ」
「医療・微生物管理・惑星保護。インド科学の勝利である」
若者たちの間では、「医師になりたい」「宇宙生物学を学びたい」「ISRO(インド宇宙研究機関)に入りたい」という声が爆発的に増え、彼女は一躍国民的ヒロインとなった。
そして、欧州。ESA(欧州宇宙機関)は大勝利の喜びに沸いた。
しかし、EUという政治の枠組みの中では、相変わらずの内ゲバが繰り広げられていた。
ドイツのメディアが「ルーカス・マイヤーは欧州科学の誇り」と報じれば、フランスは「ESA枠であって、特定国の勝利ではない」と牽制する。イタリアは「医学枠なら我が国候補にも可能性があった」と悔しがる。
EU官僚たちは「これはEU代表ではなく、あくまでESA科学担当である」と火消しに走る始末だった。
「欧州らしい揉め方だ」「火星でも会議してそう」「ルーカス本人は石しか見てないぞ」と、ネットでは呆れた声が飛び交っていた。
◇
だが、この六人の名前が呼ばれた瞬間。
それは同時に、世界中で「選ばれなかった何十億人」の夢が、一旦保留された瞬間でもあった。
祝福の波の裏側で、落選者たちの巨大なフラストレーションが荒れ狂い始めていた。
一部の大富豪たちは、莫大な金を積んだにもかかわらず無視されたことに激怒していた。
「私は火星計画に一億ドル寄付したのだぞ!」
「なぜ私の席がない! 民間宇宙時代なのに、選抜の基準が古すぎる!」
「火星に行く権利は、政府や学者だけのものではないはずだ!」
SpaceX側には、抗議と問い合わせが殺到した。
これに対し、レオナード・グレイは自身のSNSで短く、しかし決定的なコメントを発信した。
『金で第一陣の椅子は買えない。少なくとも、今回は』
この言葉が、またしてもネットで大バズりした。
「少なくとも今回は、が怖いww」
「第二陣以降は買えるってことですか!?」
「金持ちの火星チケット争奪戦、絶対エグいことになるぞ」
世界的インフルエンサーたちも黙っていなかった。
ある数百万人規模のフォロワーを持つユーチューバーが、怒りの動画を投稿した。
「人類初の火星ミッションに、なぜ一般人を代表する者がいないのか? 宇宙は科学者と政府だけのものではない。火星に降り立つ姿を、世界中にリアルタイムで感動的に届けられる私のような存在こそが必要だったはずだ!」
だが、そのコメント欄は冷酷だった。
「火星で炎上すんな」
「酸素より再生数を優先しそう」
「生命維持担当の瀬尾さんが胃を壊すからやめろ」
「アーシャ先生が診る精神科の患者第一号になりそう」
一方で、日本国内のネットを温かい涙で包み込んだ「落選者」もいた。
以前、SpaceXの募集フォームに「火星でラーメン屋を開きたいです。湯切りはできます」と応募し、ネットのおもちゃにされていた日本人男性である。
彼が、自身のSNSに静かに投稿した。
『第一陣は落ちました。そりゃそうです。
でも、第二陣、第三陣、いつか火星で人間が普通に飯を食う場所が必要になった時、必ずもう一度応募します。
火星で最初のラーメンを出す夢は、絶対に諦めません』
この純粋で真っ直ぐな言葉が、大バズりした。
「火星ラーメン屋ニキ、泣ける」
「第一陣にはいらないけど、いつか絶対必要になる人だ」
「瀬尾さんが空気を守って、いつかこの人がラーメン出すんだな」
「火星味噌ラーメン、食いたい」
「スープの水は貴重だぞ、残すなよ」
「替え玉禁止な」
彼の存在は、火星が「遠い科学の最前線」から、「いつか自分たちも行くかもしれない生活の場所」へと繋がっていることを、多くの一般人に実感させた。
そして、「何もできませんが未来を見たいです」という理由だけで応募していた無数の一般人たち。
彼らの落選は当然だった。だが、その気持ちを否定する者は誰もいなかった。
『落ちた。まあ当然。
でも、自分みたいな普通の人間が“いつか火星に行けるかも”って本気で思えた一ヶ月だった』
そんな呟きが、静かに世界中のネットワークを流れていく。
火星第一陣の発表は、夢の終わりではない。椅子取りゲームの敗北でもない。人類が、遠い星を自らの未来の選択肢としてリアルに想像できるようになったという、巨大な意識改革の完了であった。
◇
落選の余波は、国家間政治の泥沼にも深く波及していた。
イギリス、ロンドン。
ダウニング街10番地の奥深くで、英国首相は苛立たしげに葉巻の煙を吐き出した。
イギリスは、第一陣の六人の中に自国民をねじ込むことができなかった。
「最初に足跡を残すのではなく、最初に契約書を書く側になったわけか」
首相が、自嘲気味に呟く。
「英国らしい勝利です、首相」
外務官僚が、極めて冷静に答える。
「我々は『火星法制度・医療安全委員会』の共同議長枠を確保しました。火星で事故が起きた時、誰が責任を負うのか。誰の法で裁くのか。そのルール作りの中核を我々が担うのです。名誉よりも実利を取ったと考えれば、悪くない取引です」
「慰めとしては悪くないな」
首相は、渋々ながらも頷いた。
イギリスメディアは『英国、第一陣入りならず。しかし火星法制度設計で中核へ』と報じ、ネットでは「足跡ではなく利用規約を残す国」「イギリスらしすぎる」「火星に着く前に紅茶と契約書が用意されている」と皮肉交じりに評価された。
だが、一部の保守層からは「なぜ英国人が第一陣にいない」「米日中心すぎる」という不満も燻っており、これは今後の火種として残ることになる。
サウジアラビア、リヤド。
アブドゥル皇太子は、第一陣にサウジ人が入らなかったことに一抹の悔しさを感じていた。
だが、彼はすぐにその悔しさを未来への投資へと変換した。サウジは、地上支援施設の運営権と、居住モジュール快適性研究の主導権を得ていた。
「最初の六人に入れなかったことは残念だ」
皇太子は、側近たちに向かって語った。
「だが、最初の火星の部屋を『快適』にする仕事を得た。人間は、足跡だけでは暮らせない。暮らすには、光、空気、温度、祈り、食事、休息が必要だ。我々が、火星を人間が住む場所にするのだ」
サウジメディアは『サウジ、火星居住快適性研究を主導へ。未来都市構想、火星へ拡張』と大々的に報じ、ネットでは「金の使い方が未来すぎる」「火星の内装をサウジが握るのか」「無駄に豪華な火星ラウンジできそう」「閉鎖環境で快適性はガチで重要」と、その合理的な投資に称賛が集まった。
そして、アメリカ。
祝福ムードに沸く一方で、すぐに選挙モードに入った政治家たちが動き始めていた。
強硬派の野党上院議員が、テレビカメラの前で吠えた。
「なぜアメリカ主導の火星計画で、アメリカ人は一人だけなのか! 巨額の税金を投じているのに、他国に枠を譲りすぎだ!」
ヘイズ政権側は「これは国籍枠ではなく任務役割枠であり、アメリカはミッションコマンダーという最も重要な役職を担う」と火消しに追われたが、一部のメディアは『火星の酸素は日本が握り、建設は中国、医療はインド、地質は欧州が担う。アメリカは本当に主導しているのか?』と煽り立てた。
ホワイトハウスの大統領執務室で、ヘイズ大統領はそのニュースを見ながら深い溜め息をついた。
「始まったわね」
「選挙年ですからね」
ノア・マクドウェルが、相変わらず楽しそうに微笑む。
「今後、火星計画におけるアメリカのプレゼンス低下と、日本への技術依存を絡めた批判は確実に増えると見ています」
エレノア・バーンズ長官が、冷徹な分析を告げる。
「火星に人を送るより、地上の政治をコントロールする方がよっぽど面倒ね」
ヘイズは、胃の痛みを堪えながら呟いた。
◇
火星第一陣の発表は、世界中の教育現場や若者たちの進路にも、劇的な変化をもたらしていた。
「宇宙に行くには、パイロットじゃなくてもいいのか」
「空気を守る技術者も行ける」
「医者も行ける」
「石を見る人も行ける」
「機械を直せる人も行ける」
「火星、思ったより職業の幅があるぞ」
若者たちは、第一陣の六人の役割を見て、火星が「一部のスター宇宙飛行士だけのもの」ではなく、「専門技術を持ったプロフェッショナルが働く未来の職場」であることを直感的に理解した。
宇宙飛行士志望が増えるのはもちろんのこと、医師免許を取りつつ宇宙生物学を志す者、生命維持システム工学を専攻する者、閉鎖環境の心理学を学ぶ者、そして地質学やロボット工学を選ぶ者が世界中で爆発的に増加した。
火星ラーメン屋志望の男も、調理師免許だけでは火星に行けないと理解し、本気で『閉鎖環境栄養学』『水再利用システム』『宇宙空間での食材培養』の勉強を始め、その真面目な努力の過程がさらにネットでバズり続けていた。
富豪たちの中にも、単に席を買おうとするだけでなく、火星の訓練施設への寄付や、宇宙食・居住快適性研究への巨額の投資へと方向転換する者が現れ始めた。
インフルエンサーたちも、「炎上するより、火星計画を分かりやすく伝える広報枠を目指す」と真面目に宇宙科学の勉強を配信する者が増えてきた。
落選の悔しさと憧れが、世界中を「第二陣への準備」という圧倒的なポジティブなエネルギーへと変換していた。
◇
ヒューストンのNASA管制センター、その奥に設けられたVIP用の控室。
会見を終えたアメリア、レオナード、そして三嶋の三人は、モニターに映し出される世界中の狂騒を静かに眺めていた。
「予想通り、荒れているわね」
アメリアが、少し疲れた声で言った。
「予想以上に盛り上がっているとも言える」
レオナードが、満足げに笑う。
「落選者が出るのは避けられません」
三嶋が、冷静に言葉を継ぐ。
「ですが、第二陣以降に向けた正しい努力へと彼らを誘導できれば、悪いことばかりではありません」
「火星ラーメン屋の彼はどう思う?」
レオナードが、面白そうに尋ねる。
「第一陣には絶対に不要です」
アメリアが即座に切り捨てる。
「ですが、いつか必要になる可能性はあります。人間がそこで長く暮らすのなら」
三嶋が、真面目な顔で答えた。
レオナードが、声を出して笑った。
「いいね。火星で最初にラーメンを食べる日か。最高のエンターテインメントだ」
「その前に、酸素と水と廃棄物処理よ」
アメリアが釘を刺す。
「瀬尾の仕事ですね」
三嶋が、自国のエンジニアの重責を口にする。
三人は、再びモニターに映る六人の顔写真を見上げた。
その周囲には、様々な言語で彼らを祝福し、羨み、そして自らの夢を語る世界中の人々の言葉が滝のように流れている。
「六人を選んだだけで、世界中が火星へ向けて動き出した」
レオナードが、その熱量の大きさに感嘆する。
「それが怖いのよ。熱は推進力にもなるけれど、一歩間違えれば制御不能な火災にもなる」
アメリアが、プロジェクトリーダーとしての恐怖を吐露する。
「だからこそ、燃やす場所を選ぶ必要があるのです。この熱を、正しい方向へ導くのが我々の仕事です」
三嶋が、技術者としての覚悟を込めて締めくくった。
◇
アメリカの小さな町で、少年がエリック・ヘイルの写真を見つめながら、分厚い宇宙飛行士の図鑑のページをめくっている。
日本の高校の図書室で、女子生徒が『生命維持システム工学』の入門書を検索している。
ロシアの雪深い街で、少女がアナスタシアの寒冷地訓練の映像を食い入るように見つめ、自らの腕を強く握りしめている。
中国の雑多なアパートの一室で、少年が自作のロボットアームの模型を動かしながら、火星の砂埃を想像している。
インドの病院の待合室で、少女がアーシャ博士の載った新聞記事を大切に切り抜いている。
欧州の大学のカフェテリアで、学生たちが火星地質学の講義動画を囲んで熱い議論を交わしている。
日本の狭いアパートで、ラーメン屋志望の男が『閉鎖環境栄養学』の分厚い専門書に付箋を貼りまくっている。
イギリスの重厚なオフィスで、法学者が『火星生命維持権』に関する新たな国際法の草案のメモを書き留めている。
サウジアラビアの冷房の効いた設計室で、建築家が火星居住モジュールの内装コンセプトアートを夢中で描き出している。
六人は選ばれた。
だが、火星へ向かい始めたのは、決してその六人だけではなかった。
選ばれなかった無数の者たちもまた、それぞれの悔しさと、圧倒的な憧れを抱え、自分なりの「火星への道」を探し始めていた。
火星第一陣の発表は、椅子取りゲームの終わりではなかった。
それは、人類全体を巻き込む、途方もなく長く、そして熱い順番待ちの始まりだったのである。