軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第189話 これはゲーム戦争だ

モスクワ、クレムリン。

赤の広場を吹き抜ける風は凍てつき、分厚い雪雲が空を重く覆い隠していた。その歴史ある城壁のさらに地下深く。かつては核戦争を想定して建造され、現在では最高レベルの電子防壁と防音設備に守られた安全保障会議室には、地上の猛吹雪の音すら一切届かない。

壁面に掲げられた双頭の鷲の紋章が、無機質な照明に照らされて鈍く光っている。

重厚なマホガニーの円卓を囲んでいるのは、ロシア連邦の最高権力者であるウラジーミル・ボグダノフ大統領を筆頭に、首相、国防大臣、連邦保安庁(FSB)長官、デジタル発展担当大臣、文化大臣、経済担当補佐官といった国家の中枢を担う重鎮たちである。

さらに本日は、軍事研究機関の代表、ゲーム産業振興局の若手官僚、そして日本側とのクラウド接続交渉を最前線で担ってきた担当官も同席していた。

彼らの手元には、日本政府から共有されたばかりの分厚い資料が置かれている。

それは、世界を震撼させている『フルダイブ技術』に関する、国際的な利用区分案と開発・運用規定であった。

「……以上が、日本政府およびアンノウン機関が提示した、フルダイブ開発の基本方針です」

デジタル発展担当大臣が、緊張した面持ちで報告を締めくくった。

「フルダイブの 中核技術(コア) は、いかなる国家・企業にもローカル配布されません。すべての開発と運用は、日本側のアンノウン機関が管理するクラウド環境上で行われます。また、開発環境には常に『オラクル義体』による監査が入り、痛覚の100%同期、人格改変、思想刷り込み、脱出不能な空間設計といった禁止領域は、クラウド側で物理的・システム的に完全に遮断されます。

……つまり、日本国内で策定された利用区分案が、そのまま事実上の『国際標準ルール』として全世界に適用されることになります」

会議室に、鉛のように重い沈黙が落ちた。

国防大臣が、忌々しげに分厚い資料を指で弾いた。

「つまり、我々ロシアは、日本のサーバーの上でしかフルダイブ空間を作れないということか」

「はい。そして、日本の定めたルールの枠内でしか動けません」

連邦保安庁(FSB)長官が、情報機関のトップとしてその不自由さを冷徹に指摘する。

「日本の監視下です。通信も、挙動も、すべてアンノウン機関のオラクルに筒抜けになる。我々がロシア独自の仕様を組み込もうとしても、システム側で完全にブロックされるということです」

大国としての主権と技術的独立を重んじる彼らにとって、他国のクラウドと監視の下でしか最先端技術を扱えないというのは、屈辱以外の何物でもなかった。

だが、上座でじっと資料を見つめていたボグダノフ大統領は、ゆっくりと頷いた。

「その通りだ。完全に、日本の手のひらの上だな」

大統領のその言葉に、会議室の空気が一段と重くなる。

誰もが、ボグダノフがこの屈辱的な条件を跳ね除け、ロシア独自の中核開発を命じるものと思っていた。

しかし、ボグダノフは薄く笑い、意外な言葉を口にした。

「だが、今はそれで良い」

全員が、一斉に顔を上げて大統領を見た。

「……それで良い、のですか?」

国防大臣が、信じられないというように問い返す。

「アメリカも、EUも、中国も、同じ手のひらの上に乗るのだろう?」

ボグダノフは、円卓の全員を冷たく見回した。

「ならば悪くない」

「しかし、我々の自由度は大きく制限されます」

FSB長官が食い下がる。

「自由度を欲しがって、世界中から“ロシアは危険なフルダイブ環境を独自に作ろうとしている”と非難を浴び、制裁の口実を与えられるよりは遥かにマシだ」

ボグダノフは、徹底した現実主義者の論理を展開した。

「考えてもみろ。オラクルに常時監視されている。ログもすべて日本側に残る。危険な禁止領域は日本が物理的に止めてくれる。……ならば逆に言えば、我々が『日本基準』を守っている限り、アメリカやEUがロシアのフルダイブ事業だけを不当に攻撃し、締め出すことは絶対にできないということだ」

経済担当補佐官が、ハッとして身を乗り出した。

「……つまり、日本の強固な『檻』を、我々に対する外交的な『盾』として使うわけですか」

「そうだ。檻の中は不愉快だが、全員が同じ檻に入るというのなら、そこは完全に合法で安全な『市場』になる」

ボグダノフの瞳には、冷酷な商人のような光が宿っていた。

「日本が安全を保証してくれるのだ。我々は堂々と、その檻の中で最も稼ぐ方法を考えればいい」

ロシアという国家のしたたかさが、そこにあった。

彼らは「自由に暴走できないこと」よりも、「自分たちだけが国際社会から排除されないこと」のメリットを正確に天秤にかけ、日本の掌の上で踊ることを決断したのだ。

「では、日本側が提示した利用区分案……『FD−0』から『FD−4』までの内容を確認する」

ボグダノフが促すと、デジタル発展担当大臣がスクリーンに詳細な資料を投影した。

「『FD−0』。研究・医療・政府検証用です。一般公開は一切なく、医師や技術責任者の常駐と、フルログの監視が必須となります」

軍事研究機関の代表が、即座に反応した。

「これは、軍事研究にも転用できるのでは?」

「日本側は“政府検証用”という名目で一定範囲の研究を認めています。ただし、先ほど申し上げた通り、オラクルの監査とログ保存が絶対条件です」

「オラクル監査付きの軍事研究か……。背後から監視されているようで、気分は悪いな」

国防大臣が顔をしかめる。

「気分より結果を見ろ。使えるものは使う」

ボグダノフがピシャリと切り捨てる。

「『FD−1』。安全文化体験です。観光、博物館の展示、教育コンテンツなどが想定されています。痛覚や恐怖刺激は完全に遮断されます」

文化大臣が、目を輝かせて食いついた。

「これは大いに使えます。エルミタージュ美術館の深夜貸切体験、冬のバイカル湖の散策、シベリア鉄道の旅、そして我が国が誇る宇宙開発史。……安全な文化体験であれば、我々には世界に売り込める豊富な資産があります」

「良い。世界に、ロシアの美しい部分を安全に観光させろ」

ボグダノフも頷いた。

「『FD−2』。一般ゲームおよび娯楽です。戦闘は可能ですが痛覚は遮断され、疲労や恐怖にはシステム的な上限が設けられます」

ここで、ゲーム産業振興局の若手官僚が発言を求めた。

「一般向けの商業タイトルは、間違いなくここが主戦場になります。日本やアメリカの巨大ゲーム会社が圧倒的に強いですが、我々は『価格』と『ロシア独自の体験』で勝負できます」

「安くできるか?」

ボグダノフが経済担当補佐官を見る。

「はい。開発者の人件費、施設運用に必要な電力コスト、そして国家主導の税制優遇を活用すれば、西側の企業よりも確実に安価なサービスを提供できます」

補佐官が胸を張る。

「なら、そこだ。まずは価格でシェアを取りに行け」

「『FD−3』。高刺激成人向け体験です」

デジタル担当大臣が、一段階声を低くして説明を続ける。

「強い恐怖、極限環境、激しい戦闘による緊張、擬似的な死亡演出などを伴います。成人のみ利用可能で、事前説明、同意書の署名、精神チェック、そして体験後のクールダウンが必須となります」

「まさに、ロシアの得意分野ですな」

国防大臣が、ニヤリと野蛮な笑みを浮かべた。

「国家のイメージを損ねすぎない範囲でお願いしますよ……」

文化大臣が、野蛮なロシアというステレオタイプを懸念して嫌な顔をする。

「恐怖も寒さも、我々の立派な資産だ。売れるものは何でも売れ」

ボグダノフが容赦なく後押しした。

「だが、禁止領域には入るな。オラクルに目をつけられれば元も子もない」

「そして最後が、『FD−4』です」

デジタル担当が、最も重い区分を表示する。

「特区・医療監視つき高負荷体験。制限付きの痛覚、強い心理負荷が許可されます。国内の特区に限定され、医師および心理士の監視、再体験間隔の制限が厳格に義務付けられます」

「このFD−4こそが、我々が求める軍事訓練と高負荷シミュレーションの入口です」

国防大臣が、身を乗り出した。

「日本側は、FD−4を“特殊訓練、高度な治療、学術研究、および一部の限定娯楽”として定義しています」

デジタル担当が補足する。

「軍事訓練そのものは、禁止されていません。ただし、痛覚の100%同期、拷問、精神破壊を目的とした体験、脱出不能設計は『絶対禁止領域』として、クラウド側でブロックされます」

「つまり、日本基準にさえ従えば、軍事エミュレーターの構築は可能なのだな?」

ボグダノフが、日本側とのクラウド交渉担当官を見た。

「はい」

交渉担当官は、緊張した面持ちで立ち上がった。

「実際に、日本側のオラクル義体と交渉し、アンノウン機関が試験的に作成したFD−4環境の軍事エミュレーターを、我々の一部部隊に体験させてもらいました」

「ほう」

ボグダノフが目を細める。

「報告します。我々は、FD−4環境において、アンノウン機関が作成した軍事エミュレーターを体験しました」

交渉担当官は、少しだけ興奮したような、あるいは恐怖を思い出したような顔をしていた。

「どうだった」

国防大臣が、低く凄みのある声で問う。

「……遊べました!」

交渉担当官が、思わず素直な感想を漏らした。

会議室が、完全に凍りついた。

ボグダノフが、氷点下の視線で交渉担当官を睨みつける。

「楽しんできたのは分かるが、国家の安全保障会議の報告として“遊べました”はないだろう」

「す、すみません、大統領!」

交渉担当官は青ざめて直立不動になり、慌てて言い直した。

「正確には、極めて高い訓練効果を有する、恐るべき軍事シミュレーション環境であると評価します!」

「最初からそう言え」

大統領が小さく溜め息をつく。

「詳細を報告しろ。兵士たちはどう反応した」

国防大臣が促す。

「はい。訓練参加者は、我が国が誇る 特殊部隊(スペツナズ) の選抜兵士たちです。彼らには事前に、『これはフルダイブ環境を用いた仮想の訓練である』と何度も説明し、理解させていました」

スクリーンに、防音室のポッドに横たわる屈強な兵士たちの映像と、彼らのバイタルデータが表示される。

「しかし、訓練が開始された直後。……彼らは、現実と仮想の区別がつかず、完全に混乱しました」

「事前説明を受けていたにもかかわらずか?」

軍事研究機関の代表が、信じられないというように問う。

「はい。爆発の音、硝煙と土埃の匂い、瓦礫の振動、足元のぬかるみの感触、そして重装備を背負って走る肉体的な疲労。……五感に入力される情報が現実とあまりにも同じであったため、彼らの脳は『これは仮想空間だ』という理性を吹き飛ばされたのです」

交渉担当官は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「痛覚は、FD−4の規定により最大50%に制限されていました。ですが……仮想の銃弾を受けた兵士は、その50%の痛みと強烈な衝撃で、完全にパニックに陥りました。呼吸が極端に乱れ、視野が狭窄し、指揮官の指示が耳に入らなくなったのです」

「50%で、か」

国防大臣が唸る。

「はい。別の兵士は、至近距離での爆発音と熱風の再現に圧倒され、伏せたまま十秒以上動けなくなりました。……ただし、生命維持と脱出ルールはシステム側で完全に守られており、肉体への実際の損傷はゼロです」

会議室は静まり返っていた。歴戦の特殊部隊員ですら、五感がハックされる恐怖には抗えなかったのだ。

「ですが、およそ十分後。彼らはようやくパニックから復帰しました。そこで初めて彼らの脳が『これは本当にフルダイブ訓練なのだ』と認識し、以後は冷静さを取り戻して、本来の高度な戦術行動として機能し始めました」

交渉担当官が報告をまとめる。

「訓練終了後、即座に心理士と医師によるクールダウンが行われ、全員が現実世界へ問題なく復帰しています。もちろん、全ての記録にオラクルの監査ログが付随しています」

「つまり、初回の十分間で、本物の戦場に初めて放り込まれた新兵と全く同じ『極限の精神反応』を再現したわけか」

国防大臣が、その戦術的価値の高さに息を呑む。

「はい。被弾の痛み、死の恐怖、そして判断力の喪失を、一切の肉体的損傷なしに経験させることができる。まさに完璧な軍事エミュレーターです」

ボグダノフは、報告を聞き終えると、満足げに薄く笑った。

「ふふふ……いいではないか」

「しかし、大統領」

国防大臣は、さらなる高みを求めて不満を漏らした。

「痛覚50%でもこれほどの効果があるのです。ならば、100%に近づければ、より完璧な実戦の恐怖を刷り込むことができる。日本のクラウドの制限をなんとか解除させる交渉はできないのか?」

「絶対禁止領域です」

デジタル発展担当大臣が即座に止める。

「痛覚100%の同期は、日本のクラウドシステム上、いかなる理由があっても不可能です」

「仮に自前で抜け道を探そうとすれば、間違いなく日本側のオラクルに検知されます」

FSB長官が、情報保全の観点から警告する。

「最悪の場合、開発環境から完全に締め出され、ロシアだけがフルダイブ技術から取り残されることになります」

「不愉快極まりないな」

国防大臣が舌打ちをする。

「不愉快で構わん。使えるなら使うまでだ」

ボグダノフが、力強く円卓を叩いた。

「我々は、日本の規制に従う」

大統領の決定に、誰も異を唱えることはできない。

「FD−4の範囲内で軍事訓練を行う。オラクルの監視も受け入れる。ログもすべて残す。……その代わり、アメリカもEUも、我々を『無法なフルダイブ国家』と呼んで非難することは絶対にできない」

「日本が、我々の安全性の証人になりますからね」

FSB長官が、その外交的メリットを理解して頷く。

「そうだ。日本の掌の上というのは、悪いことばかりではない」

ボグダノフは、冷徹な計算に基づいた決断を下した。

「問題は、民間フルダイブ市場です」

軍事利用の目処がついたところで、経済担当補佐官が話題をビジネスへと切り替えた。

「日本、アメリカ、サウジ、欧州が一斉に参入してくれば、我々ロシアのブランド力では明らかに不利です。エンターテインメントの洗練度では、彼らに勝ち目はありません」

「ならば、価格だ」

ボグダノフが即答する。

「はい。安い場所に人は流れます」

補佐官が、ロシアの生き残り戦略を提示する。

「日本基準に準拠し、オラクル監査も受け入れます。しかし、施設利用料を徹底的に下げる。税制を優遇し、地方都市に巨大なフルダイブ施設を誘致するのです」

スクリーンに、広大なロシアの地図が表示される。

「シベリア、極東地域、黒海沿岸、そしてサンクトペテルブルク周辺に『フルダイブ特区』を設けます。そこで、FD−3やFD−4の高刺激体験を、西側諸国よりも圧倒的に安く提供するのです。……ただし、禁止領域は絶対に守ります。医師、心理士、クールダウン施設の整備は、国家負担で徹底的に行います」

「高刺激特区だけでは、ロシアが単なる“危険な体験を売る国”として見られてしまいます」

文化大臣が、国家のイメージダウンを恐れて不安そうに言う。

「だから、別の顔も作る」

ボグダノフは、文化大臣を真っ直ぐに見た。

「ロシアには、自然がある。広すぎるほどある。身を切るような寒さも、深く透明な湖も、終わりのない森も、どこまでも白い雪原も、オーロラが輝く夜空もある」

文化大臣は、ハッとして手元の資料を開いた。

「……フルダイブ向け文化コンテンツ案ですね」

スクリーンに、ロシアが世界に向けて発信する『安全な自然体験』の企画リストが表示される。

【FD−1/FD−2向け:文化・自然体験】

・『Northern Silence(北の静寂)』:極寒の雪原、オーロラ、圧倒的な静寂を体験する文化体験。

・『Baikal: Under the Ice(バイカルの氷下)』:冬のバイカル湖の透明な氷上、および湖中観光体験。

・『Siberian Camp(シベリアン・キャンプ) 』:広大な森でのキャンプ、釣り、焚き火、雪中生活を安全に楽しむスローライフ体験。

・『White Night Petersburg(白夜のサンクトペテルブルク)』:歴史的街並みの散策。

・『Cosmonaut Legacy(宇宙開発者の遺産)』:宇宙開発史の追体験。無重力訓練風の演出。

【FD−3向け:高刺激自然体験】

・『 Taiga(タイガ) 』:ロシアの原生林を探索する冒険型フルダイブ。熊に遭遇しない範囲でのスリル。

・吹雪の山小屋からの脱出サバイバル。極地キャンプ体験。廃墟探索ホラー。

【FD−4向け:特区限定高負荷体験】

・医療監視つき極限環境訓練。高負荷登山体験。

・軍事目的ではない、寒冷地災害救助訓練シミュレーション。

「良い。アメリカは華やかな未来都市を作る。日本は安全で精緻な文化体験を作るだろう。ならば我々は、圧倒的な『自然』を作る」

ボグダノフは、企画案を見て深く頷いた。

「正確には、既にある自然を、世界中の人間が安全に体験できる形へ変換します」

文化大臣が訂正する。

「同じことだ」

大統領は意に介さない。

「大統領。これらを世界にアピールする絶好の舞台があります」

ゲーム産業振興局の若手官僚が、緊張しながらも熱意を込めて発言した。

「来年開催される『東京ゲームショウ2031』です。ここで各国企業が、一斉にフルダイブタイトルを披露する見込みです。日本、アメリカ、サウジ、欧州の企業がこぞって参加するでしょう」

「ロシアは?」

ボグダノフが問う。

「準備期間は極めて短いですが……」

若手官僚は、覚悟を決めたように言った。

「既存のゲームスタジオ、映像制作会社、観光省、そして軍事シミュレーション研究所の一部を総動員すれば、FD−1およびFD−2向けの『自然体験コンテンツ』は、確実に間に合います」

「FD−4の軍事エミュレーターは出展するのか?」

国防大臣が尋ねる。

「東京ゲームショウで公開するものではありません。国際的に大炎上します」

デジタル担当大臣が即座に却下した。

「当然だ。一般向けには美しい自然と文化を見せろ。高刺激な体験は、裏で匂わせるだけでいい」

ボグダノフが方針を固める。

「悪くない。だが、もっと世界に深く刺さるものを作れ」

「世界に刺さる、ですか?」

若手官僚が問い返す。

「そうだ」

ボグダノフの目に、獰猛な闘争心が宿った。

「フルダイブ時代にロシアあり、と世界中に思わせる出来だ」

大統領は、円卓の全員を力強く見回した。

「これは、ゲーム戦争だ」

その言葉に、会議室の空気がビリッと震え、熱を帯びた。

「国内の大手ゲームスタジオをすべて招集しろ。観光省も文化省も使え。必要なら映画業界も引っ張ってこい」

ボグダノフの矢継ぎ早な命令が飛ぶ。

「日本クラウドへの接続枠を確保し、オラクル監査官の追加派遣を要請しろ。FD−1、FD−2向けの自然体験コンテンツを最優先で仕上げるのだ」

「大統領、時間が足りません」

文化大臣が悲鳴を上げる。

「だから働かせろ」

「かなり過酷なスケジュールになりますよ」

若手官僚が、現場の地獄を想像して青ざめる。

「喜んで働くだろう」

「いえ、さすがに喜ぶかは……」

デジタル担当大臣が、クリエイターたちの過労死を懸念する。

「フルダイブ時代の、最初のロシア製タイトルだ。クリエイターなら喜ぶ」

ボグダノフは、少しだけ間を置いて、ロシア特有の黒い冗談を放った。

「少なくとも、後から歴史を見返した時には、喜んでいたことにしておけ」

ここで、会議室のスクリーンに、日本側のクラウド接続を担当するオラクル義体のホログラムが割り込んできた。

完璧なロシア語で、淡々と報告を始める。

『ロシア連邦によるFD−3およびFD−4特区構想について、アンノウン機関の暫定審査結果を共有します』

ロシアの閣僚たちが、一斉に身構える。

『結論から申し上げます。……条件付きで許可可能です』

会議室に、安堵の小さなどよめきが走った。

『条件は以下の通りです。

日本基準のFD区分への完全準拠。

オラクルによる常時監査の受け入れ。

医療監視体制の構築。

体験前後の精神状態評価の義務化。

未成年の高刺激利用の完全禁止。

ログアウト導線の絶対保証。

痛覚100%同期の禁止。

拷問・処刑・精神破壊目的の禁止。

依存を過度に誘導する報酬設計の禁止。

……そして、価格競争は許可しますが、安全コストの削減はいかなる理由があっても禁止します』

「安全コストの削減は禁止、か」

ボグダノフが呟く。

『はい。体験価格を安価に設定することは認められますが、医療監視、冷却時間の確保、心理評価、ログ保存、施設安全基準などのコストを削ることは、一切認められません』

「そこを削れないと、利益率がかなり厳しいですね……」

経済担当補佐官が、小声でボヤいた。

『発話を記録しました』

オラクルが、冷徹に反応する。

「……冗談です」

補佐官が慌てて否定する。

『冗談として記録しました』

そのやり取りに、ボグダノフが少しだけ声を立てて笑った。

「良い監視役だ」

『お褒めいただきありがとうございます。ですが、褒めても規制は緩くなりません』

オラクルが、無表情のままぴしゃりと言う。

ロシア側一同は、完全に無言になった。

「……アメリカのゲーム開発者にも、全く同じことを言っていそうだな」

国防大臣が、呆れたように呟く。

『肯定します』

オラクルの即答に、会議室に奇妙な連帯感を含んだ苦笑が漏れた。

会議の後半。

ボグダノフ大統領は、重臣たちに向けて、最も冷酷で、最も現実的なロシアの現在地を宣言した。

「我々は、日本に勝てない」

その直截な言葉に、誰も反論しなかった。

「フルダイブの中核は日本が握っている。アンノウン機関とオラクルが、すべてを監視している。アメリカすらも、この条件を受け入れた。ならば、今この段階で日本に逆らい、独自開発を意地を張って進めるのは愚の骨頂だ」

「では、我々は日本の下請けになるということですか」

国防大臣が、不満そうに唸る。

「違う」

ボグダノフの目が、鋭く光った。

「日本のルールの枠内で、最も上手く稼ぐ国になるのだ」

これこそが、ロシアが選んだ生存戦略であった。

「アメリカは、巨大な都市と銃を作りたがるだろう。

日本は、安全で上品な文化体験を作る。

EUは、倫理と人権の椅子に座りたがり、身動きが取れなくなる。

中国は、国民を監視するための独自サーバーを欲しがって孤立する。

……ならばロシアは、安さと、圧倒的な自然と、高刺激で世界の客を根こそぎ取る」

「しかし、高刺激特区を売りにするのは、国家ブランドとしては少し危険ですが……」

文化大臣が、未だに懸念を捨てきれない。

「危険に見える程度でちょうどいい」

ボグダノフは、悪びれることなく笑った。

「実際には、裏でオラクルが目を光らせて監視している。日本も安全性を了承済みだ。我々は、安全が保証された上で、限りなく危険な体験を売るのだ」

安全な危険を売る。

その一言が、フルダイブ時代におけるロシアの戦略を完璧に言い表していた。

数日後。モスクワ市内の別室。

窓の外では、凍りつくような吹雪が吹き荒れている。

深夜にもかかわらず急遽集められたのは、国内の主要なゲーム開発者、映像クリエイター、そして観光庁の担当者たちだった。彼らの顔には、すでに深い疲労が刻まれている。

政府の担当官が、彼らの前に立ち、冷酷に宣言した。

「諸君。君たちにはこれから、ロシア初の国際向けフルダイブコンテンツを作ってもらう」

開発者たちが、ざわめいた。

「納期は?」

一人のディレクターが尋ねる。

「東京ゲームショウに間に合わせる」

部屋全体が、完全な沈黙に包まれた。

「……今から?」

誰かが、信じられないというように聞き返す。

「今からだ」

担当官は即答した。

「死ぬぞ」

別の開発者が、頭を抱えて小さく呟いた。

「でも……」

一人の若きエンジニアが、顔を上げて言った。

「フルダイブだぞ」

その言葉で、空気が一変した。

絶望の中にも、クリエイターとしての抑えきれない熱と欲望が混じり始める。

「自分たちの作った雪原を、世界中の人間が本当に“歩く”んですか?」

若い開発者が、震える声で尋ねた。

「そうだ」

担当官が頷く。

「バイカル湖の氷がひび割れる音も?」

「作れ」

「シベリアの森の、焚き火の匂いも?」

「作れ」

「オーロラの下で、自分の息が白くなる感覚も?」

「すべて作れ」

開発者たちの目が、少しずつ、獲物を見つけた獣のように輝き始めた。

「大統領は言った。これはゲーム戦争だ」

担当官が、ハッパをかけるように煽る。

開発者の一人が、乾いた笑いを漏らしながら立ち上がった。

「戦争なら仕方ないな」

「いや」

別の開発者が、PCを開きながら最高の笑顔で言った。

「ゲームなら、もっと仕方ない」

再び、クレムリンの地下。

ボグダノフ大統領は、一人静かに窓の外の雪景色を見下ろしていた。

「国内のスタジオの動員を開始しました。日本クラウドへの接続枠も申請済みです。オラクル監査も、すべてのプロセスで受け入れます」

報告官が、背後で淡々と進捗を伝える。

「よろしい」

「しかし、大統領。……我々は本当に、日本の完全な管理下に入ってよいのでしょうか」

報告官が、一抹の不安を口にした。

ボグダノフは、降りしきるモスクワの雪を見つめながら、静かに答えた。

「……今はな」

少しの間。

「世界がまだ、フルダイブの本当の危険性を知らぬうちは、日本の強固な檻が必要だ。

だが、檻の中でも、商売はできる。宣伝もできる。文化も売れる。兵士も鍛えられる」

ボグダノフは、窓ガラスに映る自らの顔を見据え、力強く言った。

「踊る場所が神の掌なら、そこで一番うまく踊ればいい」

こうしてロシアは、日本の定めたフルダイブ規制に全面的に従うことを選んだ。

それは決して敗北ではなかった。少なくとも彼ら自身は、そう考えることにした。

オラクルの監視下で、痛覚は50%に制限され、拷問も洗脳も脱出不能空間も固く禁じられる。

だが、彼らの持つ雪原は広く、湖は深く、森は暗く、夜空はどこまでも冷たい。

安全な危険。

管理された恐怖。

安価な極限体験。

フルダイブ時代において、ロシアが世界に売るものは決まった。

そしてモスクワの夜、世界で最も寒く、最も熱狂的なゲーム開発のデスマーチが、静かに始まったのである。